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列島いにしえ探訪 Poster Top
興福寺
青瓶 2463

「列島いにしえ探訪」
- 街道にて -



■ JRの駅前で、小型の車を借りることになっていた。
 すこし時間があったので、裏通りを歩いてみる。
 東京で言えば浅草、あるいは鎌倉の繁華街にも似た、坂のある商店街が続く。
 町の外れ、軒先に燕が巣をつくっていた。レンズを向けていると、自転車に乗った小学生が数人、こちらを眺めている。



■ ごく当たり前のことだけれども、普段暮らしているところ以外へゆけば、そこでは「余所者」である。
 亀井勝一郎は、昭和十二年の秋、はじめて奈良を訪れる。
 氏は、ほとんど人影のない道を歩いた。道筋には民家が散在し、破れた築地のあいだから、秋の熟した柿の色が目に入る。あたりは松の疎林。樹海を通して広々とした田畑が連なる。
 向こうに見えているのは、薬師寺の三重の塔である。

「古寺の風光のなかでも、とりわけ私が愛するのは塔の遠望である。奈良から法隆寺行きのバスが出ていたころは、いつもそれに乗って出かけることにしていた。豊かな大和平原をゆられながら、次々とあらわれてくる塔を望見するのが、この上もなく楽しかったからである」
(「大和古寺風物誌」新潮文庫版:135頁)

 これは昭和十七年に奈良を訪れたときに記されたものとされる。
 亀井氏は、ほぼ毎年奈良を訪れながら、そこに棲み、定住することはなかった。三十歳の時に転居した武蔵野市吉祥寺から、五十九歳で亡くなるまで、かの地を動いたという記録は、少なくとも年譜には載っていない。



■ 1950年代に撮られた入江泰吉の作品を眺めていると、ほぼ亀井氏が辿ったであろう道筋、光景が視覚化されている。入江氏にとっては最も力の溢れた年代で、モノクロームの印画紙の向こうに、かつてそうだったのと同じ、暮らしの匂いと静かな信仰のようなものが視えてくる。
 カラーの時代に入って、入江氏は積極的にその技法を取り入れた。
 だが、かつての定番のアングルはビニール・ハウスで覆われ、コンクリと露悪な看板が視界をさえぎってゆく。それはこの国が敗戦の痛手から立ち直り、新しい時代に否応なく呑みこまれてゆく過程でもあった。
 入江氏は靄や薄暮などを使い、かつての「倭うるわし」のイメージを追おうとする。モンタージュに似た手法で、痛ましいまでに自らの原風景を表現しようとした作品も残っている。

 私は小型車に機材を詰め、奈良の駅から吉野方面へと南下した。
 三輪山だろうか、姿の良い山並みが見え、いくつかの塔も古墳もある。
 だが、広角や標準に近いレンズでは、まずそれを撮ることはできないことに気づいた。塔の脇に、ローン会社の看板を入れ、作品とすることはできないのである。
 半ば憤る。だが、自分はそれを言える立場ではないことも、断続的に続く渋滞の中で分かってくる。
 これが暮らしのかたちであるし、エアコンを効かせた車の中から、どう撮っても露出的にはほぼ間違いはないだろうというカメラで、旅人の好む風景を見つけることはおこがましい。
 同時に、では原風景とは何かということも考えていた。



2002_10_28
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