「夜の魚」一部

2005年03月19日

「夜の魚」一部 vol.1

 
       序
 
 
 
 
■ 本牧の外れの引込線から右に曲がるとその先は行き止まりだ。
 背の高いコンクリの壁をよじ登ると、黒く粘る海が見える。
 海とはいっても実感はない。薄い雨に雲が浮かんでいた。
 壁の横にぽつりぽつりと車が駐まり、車高を落とした白いセダンのボンネットの上に若い男が座っている。
 光るものを持っていて、近づくと、釣り竿を照らす電灯のようだ。
 伸びかかったパーマの頭を斜めに、バンパーに右足をのせ、考える格好で竿の先を照らしている。標識が半分取れかかっていて、「国際埠頭」と書いてある。
 海は見えない。
 音楽もきこえない。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.2

 
       一 ALL OF YOU.
 
 
 
 
■ 葉子という女を拾ったのは梅雨の切れ間の日曜の夜だった。
 私は仕事を終え、部屋に戻るところだった。車を停め、煙草を買おうと歩道を渡った。
 バスを待っているのか、若い女が緑色の看板にもたれている。
 とうにバスの時間は過ぎていた。廻りに人影はない。
 販売機の前で腰を屈めると、そのまま女の姿が崩れてゆくのがみえた。
 送ることになったのだけれど、びっしりと汗をかいている。
「ごめんなさい、よくあるの」
 バス停で倒れることを指すのか知らない。
 湿度のなかに青い匂いが混ざっている。
 常緑樹が花をつけている。
 彼女は私の部屋のベットに横になることになった。
「シーツをかえたのね」
 納得したでもなく、彼女は寝息を立てた。
 薄く体臭がする。足首が汚れている。何日か街を歩いていたかのようでもある。暫く眠っていなかったのだろう。
 私は白いベルモットを一杯嘗め、目覚ましを傍に置き、暫くぼんやりして壊れかけたソファに躯をまるめた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.3

 
 
 
 
 
■ 翌朝、事務所への出がけに眺めるとまだ眠っている。不思議な匂いがするので毛布を剥いでみると、腰のあたりに血が滲んでいる。私は紙幣を置き、鍵をポストに入れるようメモすると部屋を出た。
 夕方仕事を終え、部屋に戻るとシーツが干してあった。
「乾燥器のつかいかたがわからないのでヒモをはります」
「お金は借りてゆきます。葉子」
 鍵がないのだ。
 部屋の端から端にナイロンの紐が張られていた。シーツが垂れ下がっている。灰皿は洗ってあり、ベランダのアルミ缶がひとつの袋にまとめられている。私は小さなグラスでのろのろ酒を嘗め、まだ湿るシーツを眺めては眠ることにした。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.4

 
 
 
 
■ それから二週間程、何事もなく過ごした。
 途中、近くの事務所の社長から車を譲ると言われ、試乗することになった。彼は官能的な映像をつくる、ダブルのブレザーがそう気障にはみえない四十代の男で、何台かの車を持っている。
 私の仕事は広告の文案、コピーを考えることで、今の事務所に移ってから五年が経つ。彼からはこのところしばしば仕事の依頼があった。事務所を通すこともあり、そうでないこともあった。広告のコピーとはいっても、それだけが独立している訳ではなく、デザインや写真の領域との区別は曖昧である。事務所の若い者に指示するより自分でやった方が早いこともあるが、今の事務所の規模では、基本的に一人で済ませることも多かった。そうでなくては儲けにならないのである。
 
 彼の車の中に、小豆色に塗られたアルファのGTVがあって、背中の丸みが昔憧れたベレットに似ている。地下の駐車場で、彼の秘書だという光り物を幾つも身につけた若い女から鍵を受け取ると、私はエンジンをかけた。すこしバラつくものの、ウェーバーのポンプはカチカチ音をさせ、これなら一台で済ませることもできるかと薄い期待をした。
 ダウン・ドラフトの吸気音が響いている。通りを抜け、深夜の首都高速を一周する。右の後ろがすこし抜けているようだ。シンクロもセカンドが緩いだけで鳴る事はなかった。銀座裏の橋をくぐり、産業道路の上で国産のRに抜かれた。
 
 雨が降り始めた。回転式のレバーを廻し、窓を閉めた。
 室内に甘い匂いが漂っている。
 生きたものの匂いだ。
 芝で高速を降り、まだ明るいタワーの下で後ろを捜してみた。
 プラス2のシートの下、背もたれの背後に、むき出しの薔薇の花束があった。緑色のリボンで結ばれ、ダージリンのような色をしている。小さなカードが挟まっていた。花の息か、次第に窓が曇ってくる。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.5

 
 
 
 
■ 何日か過ぎた。
 私は自分の古い車で芝浦の桟橋にでかけた。
 出来ていないビルがあり、その前は浮き彫りの商標が描かれた平たい倉庫になっている。痩せた五十がらみのガードマンがいて、近づくと赤い電灯を彼は左右に振る。
「寒いね」
「そりゃ、雨だからね」
 階段を昇ると狭い海があって、向こう岸にはガラスのようなものが光っている。
 あの夜、薔薇の花はロシア大使館の前の制服に預けてきた。
「いやでしょうけど」
 というと、くすんだ笑いを浮かべ、私が何者なのか調べることもなかった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.6

 
 
 
 
■ 十日程過ぎただろうか。予定していた仕事が流れ、坂道を戻ってきた。
 青焼き段階まで進んだ連作ポスターで、突然のキャンセルだった。これまでの経費の払いをどうするか、雨の前の気分で夜の空を眺めた。
 雲があり、部分が鈍く光っている。朱色であって、なにものかの反射だということはわかっている。破格のアルファを断った際、ある程度予測はついたことだ。
〈心の友へ〉と、細い万年筆でカードには書かれていた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.7

 
 
 
 
■ 部屋に戻り、壊れたソファに横になった。暫く眠ったのか、遠くで虫が鳴いている。電話なのだ。受話器を一度落とし、もう一度拾うと、どこか覚えのある声がする。葉子だ。そう名乗っている。海岸通りにいて雨が降っているという。
 私はポロシャツに着替え、車に急いだ。天現寺まで廻り首都高速に乗った。
 蒼白い塔が左手にみえている。近づいてゆくと、夢をみているような錯覚に陥る。夏のタワーだ。ちらりと海がみえ、高速一号線に入る。
 鈴が森で事故があった。赤い発煙灯が何本も落ちている。白い煙が低く広がっている。遠くまで見通せない。そう思うと雨に入った。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.8

 
 
 
 
■ 横羽は路面が荒れている。ダン、ダンと繋ぎ目で車が揺れる。煙草を吸っていないことに気付いた。どのへんだろう、黒い雲の後ろでちらちら炎がみえた。
 横浜駅を過ぎると高速コーナーが続く。ステアリングを傾け、減ってきたタイアがいつ流れるか神経を払っている。トンネルに下ってゆく。夜の中にまっすぐな光があって、なんなのか理解できない。前をゆく新型がブレーキを踏み、かわそうとすると後ろが流れた。車は横になって壁面が近づく。
 光は海沿いの公園からの夜を照らすスポットだと気付いている。
 
 
 

2005年03月20日

「夜の魚」一部 vol.9

 
        二 夏のはじめ
 
 
 
 
■ 葉子はニュウ・グランドホテルの回転ドアの前に立っていた。
 雨ではあるが、その上にはテントがあり、ところどころ切れた細かい電球が垂れ下がっている。平日の深夜、海岸通りにはほとんど人影がなかった。
 ドアの前で私は車から降りなかった。手を振って軽やかに立つことができたら、などと煙草を捜しながらすこし思った。
「かわらないわね」
 葉子はそう言って助手席に脚を揃える。
「こりないわね」
 と、呟いているようにきこえる。
 
 本牧の外れ、埠頭の引込線を越え、破れた鉄条網を足で踏むと堤防にでられる。
 昼の熱を保ち、粘るような海があって、運河を広くしただけのようにもみえている。
 向こうには時折炎が見え隠れし、その脇を通ったのかと思った。
「メンソールじゃないのね」
 私の煙草を一本くわえ、葉子は唇の端で火をつけた。
「妊娠してると、欲しくないんだよな」
 少年が呟いているようにきこえた。爪先を眺めると新しいヒールである。
 葉子は膝を肩よりもひらき、右手を海へ突き出した。
 手首を左手でつかんで胸の上まで持ち上げ、片目をつぶっている。
 狙いは、対岸の炎のようでもある。
 まだ撃たない。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.10

 
 
 
 
■ ニュウ・グランドのロースト・ビーフはそのものの色をしている。
 ほとんど味はなく、こうなのだと言われれば納得をしてしまう。
 内側が古くなった桃色で、一番端の部分は紫にも似ている。胡椒なのか、つぶつぶがみえている。
 運河沿いのホテルに私達は入ることができた。
 すり切れた絨毯が引いてある。昔は色がついていたのだろう。フロントで前金を払うと、広くて鈍いエレベーターに乗った。
「こっちは下士官のホテルなのよね」
 進駐軍がいた頃の話だ。
 一本運河を越えるとめっぽう格が落ちた。
 連れ込んだ女もそうだったのかはわからない。
 誰に聞いたのか、そんなことをよく知っているなと私は思った。
 
 雨の多い夏が過ぎてゆく。
 部屋は湿っていて、色の褪せた厚いカーテンが掛かっている。
 机のようなテレビがあって、チャンネルはダイアルを廻すようになっていた。上には埃と造花がある。
「ねようか」
 私は葉子の足首を眺めた。糞かき棒のようではなかった。いつかとは別人のようだ。
「いつも、おんなの人の前でおしっこをするの」
 堤防からする小便は片方で光っている。
 音がきこえるのだが、遠すぎて風のようでもある。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.11

 
 
 
 
■ 二日目になった。
 金がなくなった。葉子が何枚かの紙幣とカードを渡してきた。私は眠り、そのあいだウィスキーと乾いたパンを葉子は持ち込んだ。
「ちがってる」
 と、薄い涙を浮かべている。
 途中、なにかひっかかるようなものがあって、それを越すとすこし広い空間に辿りつく。硬いものがあって、その先はいくつかに割れている。割れたものどうしが触れ合っていると、どうしたらいいのかわからない。
 痛みのようだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.12

 
 
 
 
■ うたたねを過ぎると、私は自宅の留守番電話をきいてみた。
「残念だね、君ならわかるとおもったんだが」
 社長の声が吹き込まれている。
「食事だけのつもりだったんだがね」
 嘗めるような映像の秘密はおそらくそういうことで、決して諦めない白いシャツの襟のかたちに似ている。私はむせるような薔薇の匂いを思いだした。
 
「車の鍵を貸してよ」
 夕方が過ぎ、葉子がそう言う。
「下着も買ってくるわね」
 私は車を出し、伊勢崎町の角で運転を替わった。
 シートを前に出し、黒いゴムで髪を束ねている。ヒールを脱ぎ、助手席の下に放り投げた。カセットを眺め、サンボーンじゃ間が抜けているわね、と言う。私は言い訳をしかかった。
「先に帰ってて」
 言い放すと、いきなり車線に割り込んだ。後ろのタクシーが怒る暇さえなかった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.13

 
 
 
 
■ 蛍光燈を四隅に張り付けたようなビルが右手に立っている。
 私は車に上着を忘れたことに気付いた。仕方なく目の前にある牛丼屋に入ることにした。シルダク、と叫んでいる若い男がいる。波を打った大味な牛肉を半分だけ食べ、私は店を出た。
 ブルーノートのジャケットが何枚か飾ってある階段をみつけた。
 重苦しい音なんだろう、と階段を降りドアを開けた。客はいなく、使い込まれた音が流れている。チョッキを着た白髪の店主がグラスを拭いている。私はジン・ライムを頼んだ。すこしだけ甘く、高校生になったような気分だった。真空管、多分マランツだろう、アイク・ケベックのボサノバが流れ、そういえば夏も終わるのだな、と同じものを二杯飲んだ。
 歩いてホテルの部屋に戻り、風呂に入った。
 
 どうしてここにいるのだろう。私は何をしているんだろう。そういえば事務所に連絡をしていない。この部屋にはベットがふたつあって、そのひとつだけを使った。暫く前まで抉るようなかたちで重なっていたことを思いだし、不思議な気持になった。
 十二時を廻ったが葉子は戻らない。
 備えてある厚いグラスで、私は持ち込んだウィスキーを嘗めた。グラスには紙が被さっていて、紙には細かな皺が寄っている。
 カーテンを開けても外はみえない。みえるのはコンクリの橋桁で、部分的に青い照明があたっている。雲の反射なのか、その上の空は鈍い灰白色をしている。
 枕の上に長い髪の毛が一本落ちていた。拾ってみる。暫く指先で遊んでから捨てることにした。煙草を消して横になった。そのまま曖昧になってゆく。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.14

 
 
 
 
■ 葉子は戻らなかった。
 昼近くになった。のろのろチェックアウトを済ませることにする。
 フロントにゆくと車の鍵を出された。いぶかると、今朝がた預けられたのだという。
「荷物はトランクだそうです」
 開けると、宅急便の紙袋がある。持とうとするが、不思議に重い。
 私は車を出し、路地の方角に曲がろうとする。通りは汗ばんで、曇ってはいるがそう混んでもいない。ブロックの前に車を置き、大桟橋の横の路地から埠頭の奥へ歩くことにした。
 埠頭は鉄と濁った暴力の後味が匂っている。
 煙草を吸ってみようと思うのだが、何故だか思いとどまった。一台のユンボの脇を通り抜け、明るい通りに出ると警官が立っている。
 水上警察だ。軽く会釈して看板を眺めると、「行方不明の人を捜す月間」と書いてある。看板にはビニールがかかっていて画鋲でとめてある。
 紙袋の中には弾倉を別にしたトカレフがあった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.15

 
       三 九月
 
 
 
 
■ 私は日常に戻った。
 夏はゆるゆると過ぎ、短い女と別れた。エアコンのフィルターが汚れている。冷蔵庫の扉に磁石があって、間に紙が挟んである。燃えないゴミは木曜なのだ。
 九月になった。取材にゆくひとを送りに空港まで出た。
 長い橋桁を渡ると、見通せる食堂がある。夜なので、蒼い光が繋がっている。
「でね、こんどはさ」
 彼も彼女も、とりあえずのコンセプトということを語っている。皿は奇麗だが、輸入された牛の内蔵を混ぜ合わせたハンバーグを食べている。
 部屋に戻り、ソファの上で紙袋を開いた。袋はビニールコーティングしてあり、中にはハンド・タオルに包まれた拳銃がある。
 弾倉を開くと、二発使われていた。思ったよりも硬いスプリングを親指
で押しのけ、銃弾のひとつを取り出してみた。先は鈍い鉛になっている。弾を指先で暫く廻してから、唇に挟んでみた。案外に重い。舌を尖らせると曇った味がする。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.16

 
 
 
 
■ 私は街に出ることにした。
 足りるかどうか、あるだけの現金を持ち、麻のズボンを履いて車を拾った。
 波止場にて、粗いシャツを着ていたマーロン・ブランドは頬に脱脂綿をつめ、家族の愛について眼の下に隈を入れた。
 ニューヨークの歌姫と呼ばれたヘレン・メリルはそれから太り、ママ・コルシオーネと呼ばれることになる。
 表には出ないけれども、民族という境界というのは確かにある。
 盛り場に行って、立っている看板の文字を眺めてみると良い。近くには眼光の鋭い若い男が立っていて、スーツのズボンでは入ることが出来ない。乱れた英語を使い、すくめるような視線に耐え、私は店に入る。
 強い香水の匂いが漂い、それは半ば黒い肌の色を隠すもののようにも思われた。
 有線が入っているのだろう。ダイナ・ワシントンが澄んだ声で歌っている。
 安いスカーフを腰に巻いた女が傍による。
 私は色のないテキーラを頼むことにした。
 男達の視線がすこしだけ他に逸れる。フロアの中では、靴クリームのような肌色をした男と女が手を振り腰を揺らしている。
 新宿。その外れの街で、私は弾を買うことはできなかった。
 そもそも、何の為に買おうとするのかわからなかった。
 
 
 

2005年03月21日

「夜の魚」一部 vol.17

 
       四 天国
 
 
 
 
■ 月が高くなった。上着を手に持つことがなくなった。
 週の半ば、私は自室でクライアントの社内報の代筆をしていた。ディスプレイの横に置いた飲みかけの缶ビールが温くなった頃、部屋のチャイムが鳴った。
 出てみると葉子である。
「部屋の鍵をかえしにきたの」
 そう言って立っている。怒ったような瞳をしている。
「即物的な話だな」
「髪を切ったのよ」
 背中まであった髪が肩までになっていた。葉子を部屋に入れ、コーヒーを沸かそうと台所に立ったが紙がなかった。棚からエスプレッソ用の器具を捜した。古く、粉を吹いている。
「で、どうしたっていうんだ」
 私は苛立っていた。片方では抑えようともしている。葉子は答えない。
「若い女の思わせぶりにはウンザリだな」
「気持はわかるわ、でも」
「でも、なんだ」
「巻き込みたくなかったのよ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.18

 
 
 
 
■ その夜、私は葉子からいくつかの話を聞いた。
 歳は二十三の終わりで、実家は藤沢と鎌倉の間にある。神奈川県の丘陵にある四年制の女子大に籍があるという。家族については言葉を濁していた。私も聞かなかった。
 トカレフについて尋ねることはしなかった。どうしてか、今はその方が良いと思ったのだ。曖昧なかたちのまま夜は過ぎてゆく。
 シーツに、何かきらきらしたものが残っている。銀色の鱗のようだ。葉子は私のパジャマの上だけを羽織っている。
 
「従軍慰安婦って、知ってる」
「ああ」
「そうした問題を扱うサークルに入ってたの」
「ボランティアか」
「そう馬鹿にしないで。裕福だから考える余裕もあるんだわ」
 葉子は週末まで部屋にいた。乾燥機の使い方は覚えたようだ。私は仕事にでかけたが、サイズの違う靴を履いているような気分だった。すこしづつ部屋は整理される。布団も干されている。機械の廻りと机の上はそのままになっている。
「電話があったのよ」
「でるとね、あなた誰、と聞かれるの」
 葉子はピル・ケースを開けている。台所でわからないように後ろを向いている。なんなのだ、と尋ねると、
「アップジョン。眠るためなの」
 と、答えた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.19

 
 
 
 
■ 日曜の夜なかば、葉子を送るため、第三京浜に乗った。
 雲は斑であり、風が吹いている。
 フロントフォークを伸ばしたハーレーが、芯のないマフラーで隣に並んだ。高圧縮の新しいエンジンだ。国産のゴーグルに旧ナチのヘルメットを被っている。
 昔、透明なチューブの中に麻薬をつめ、キャプテン・アメリカは南部へ向かった。撲殺された弁護士をニコルソンが演じた。
 架空の好況の後、暴力の気配が街に戻っている。
 終点のパーキングでジャガイモのようなものを食べ、缶コーヒーを飲んだ。葉子と運転を替わる。トンネルを幾つか越えた。道は比較的空いている。
「これ、ツェッペリンでしょ」
 ジミー・ペイジのギターは、まだ静かだ。
 その時、車が前につんのめった。
 振り向くと、ライトを消した山のような影がガラスの後ろにあった。メッキされたアニマル・バンパーがみえる。
 ランクルだ。
 葉子は加速した。
 ハイビームにし、ハザードを入れた。フロントにぶら下げたシビエのスポットをつける。なんでスイッチがわかるんだ。一度乗っている。
 降りてゆく坂道である。速度が乗る。一泊六千八百円とかかれた赤いネオンを過ぎた。振り向くと、四角い眼のランクルが車の屋根を照らしている。引きずる音は、外れたバンパーがアスファルトに擦れているのだろう。
 前に丸いテールランプのセダンがふさがる。
 ガツンとブレーキを踏み、セダンを避けた。そのままゆけるかと思ったがランクルも脚が硬い。ついてくる。前は黒い。
「窓を開けて」
「後ろの袋に銃を入れたでしょ」
 そうだ、捨てようと思い銃を入れた袋を持ってきたのだ。
「弾倉は」
「脇のレバーを引いて」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.20

 
 
 
 
■ 私は吉田健一氏の本が好きだった。履歴書の欄に書いたこともある。受けが良いのではないかと思ったからだ。彼の父親がつくった坂道で私は銃を持っている。
「撃つのよ」
「え、どうやって」
「いいから、映画でみたことあるでしょっ」
 窓から頭を出し、両手でトカレフを持ち、眼をつぶって引き金を引いた。目蓋の裏が白くなる。窓枠に頭をぶつけた。続けて絞ると後頭部が寒かった。頭をひっこめ、そこで眼を開けると赤い火花がみえた。
 ランクルのライトの片方が消え、小さなテールランプが黒いコンクリの壁面に放物線を描いている。横転してゆくらしい。
 葉子はスイッチに触り窓を閉めた。
「あたったのか」
「撃ったのは、壁と空よ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.21

 
 
 
 
■ 坂の終点で料金を払い、暫く走って葉山の海岸に車を入れた。
 海自体は静かであり、軽い鉛のようにもみえた。葉子は煙草を欲しがった。二口ほど吸って溜息をつく。
「触ってみて」
 胸元から手を入れると油を塗ったように湿っている。
「いったいどうなってんだ」
 私たちは車を降りた。雲の影から月が出ていた。折れたのは安っぽいバンパーではなく、突き出したマフラーだった。くの字に曲がって垂れ下がっている。
「CPPっていうのがあるのよ」
「なんだって」
 フィリピン共産党を名乗る武装集団がある。
 もともとは一九三○年に創立されたフィリピン共産党、PKPに端を発する。PKP自体は非合法とされながらも当時の米軍ないしは日本軍に対し、ゲリラ活動で抵抗を続けていた。
 しかし、戦後のCIAによる弾圧の中で、PKP自体は旧ソ連にならい、マルコスとも手を繋ぎ国民の支持を失ってゆく。一九六八年、シソンを中心として新しいフィリピン共産党、CPPが再建される。毛沢東の誕生日、十二月二十六日のことだった。
 葉子はそこまでを一気に話した。
「習ったのか」
「調べたのよ」
「それがなんでランクルなんだ」
「CPPは日本にも入ってきてるの。CPPの武装組織がニュー・ピープルズ・アーミー、NPAというのよ」
「さっきのランクルがそうだっていうのか」
「そう、CPPは毛沢東思想に固まった暴力革命を至上とする組織なの」
「革命だって」
「そうよ」
 月が隠れ、私には葉子が遅れてきた紅衛兵のようにみえた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.22

 
 
 
 
■ 私達は口をきかなかった。
 そんな理不尽なことで狙われるのはまっぴらだった。
 細い道をいくつか越え、小さな駅の前に出た。不動産の看板が目立っている。
「ここでいいわ」
 葉子が車を降りた。泣いた後のような眼をしている。唇を噛んでいる。泣いた訳でもない。私は言われるまま葉子を降ろし、ガラガラ鳴る車をだらしなく東の方角にむけた。
 途中、自動販売機で短い缶を買い、一気に飲んだ。車に戻ってから思い出し、タオルでトカレフを拭い、丸く口をあけたプラスチックのゴミ箱に捨てようとしてとどまった。
 手首が痺れ、親指の付け根の皮が剥けている。
 私は部屋に戻って眠れなかった。
 単気筒の音がして、新聞がくる。カーテンが白くなって、床の埃が目立つ。葉子がかじっていた薬がその時は本当に欲しくなった。
 私は怯えているのだと思った。
 
 
 

2005年03月22日

「夜の魚」一部 vol.23

 
       五 あやとり
 
 
 
 
■ 午後になって事務所を抜け出し、近くの図書館にいった。
 調べようにもとりとめがなく、どう繋がっているのかわからない。
 六本木の放送局、報道にいる友人に電話をした。
「革命だって、なに寝ぼけてんだよ」
 奴は千葉に家を持っている。新しいドイツ車で駅まで女房に送らせる。
 昔、万年筆の宣伝で名をはせた眼鏡の男が、暫く前迄レギュラー番組を持っていた。
 有名人が沢山出てきて、大人の漫画も放映されている。
 ゴルバチョフが監禁された旧ソ連のクーデターの際、モスクワにいた駐在員がくたびれたワイシャツに同じネクタイで報告をしていた。
 眼鏡の男がそれを揶揄する。
 テレビマンとしては失格だと番組の中で言う。
 若い駐在員は、明らかに不満な顔をしながら黙っていたことを思いだした。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.24

 
 
 
 
■ 夜になった。
 私は通信社に勤めている女の友人を待っていた。
 女も三十を過ぎると、ショールを肩に巻くようなことはしない。
 表通りから一本奥に入ったホテルの十五階まで昇り、ほの暗いボックスに座った。
 グラスに軽く口をつけ、彼女はいきなり言う。
「あなた、何に巻き込まれたか知ってるの」
「狙われたんだ」
「バカね、殺されるかもしれないのよ」
 確かにそうだった。
「CCPの幹部、エドゥアルト・キトリアーノがね、この間逮捕されたの。そこで、JRA、〈日本赤軍派〉と関係があることをフィリピン国軍は公表したわ」
「あの、〈赤軍〉か」
「そうよ。そこでね、重信房子と連絡を取り合っていること、九○年スイスで発覚した総額百六十万ドルの偽金づくりに関与したこと、八七年、香港を拠点に〈一般基金〉という資金づくりプロジェクトに参加したことなんかがフィリピン国軍の手によって公表された訳」
 彼女はそこまでを一息に言うと、探るようにこちらをみた。私は黙っていた。何を言って良いのか判断がつかないのだ。
 
「みなさいよ」
 彼女は一枚のコピーを渡す。
「タイのバンコク・ポスト。オランダ政府の対外援助金がフィリピンの労組を通じてCCPに流れた訳。オランダでは国会で問題になったわ。CPPのシソン議長はオランダに逃亡しているのよ」
「日本にもいるのか」
「あなた、鈍いところはちっとも変わらないわね。第一、その葉子って娘の口からでてるじゃない。CCPの今の資金獲得の対象は日本とオーストラリアなの」
 わかったような気がしたが、何処かで霞がかかっている。
「じゃ、なんでボランティアにかかわるんだ」
 彼女は呆れた顔で私をみた。
 中心には黒い瞳がある。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.25

 
 
 
 
■ 九年前、私はいつもそのような眼で彼女にみられていた。
 コンタクトを装着していると、泣いたような黒い瞳だ。
 半年程彼女と暮らしたが、私は別の女のところに入り浸り、次第に帰らなくなった。私達は別れ、二年ほど経つと彼女は年の離れた男と結婚をした。それも二年ほど続いたのだろうか。離婚をし、元の仕事を続けている。
「それが糸口なの」
 カチリと音をさせ、細いライターで煙草に火をつけた。
「ともかく、その葉子って娘が危ないわ」
 彼女はバックから鍵を出し、テーブルの上に置いた。
「部屋はふたつあるから」
 私はトカレフのことは言わなかった。葉子と寝たことも、拾った時に流産らしき按配だったことも。
 彼女は私をみつめ、
「彼女を愛しているんでしょ」
 と、言って笑った。名を晃子という。
 笑うと大きな眼の傍にくっきりした皺が入る。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.26

 
 
 
 
■ 部屋に戻ると机の上に鍵をおいた。
 いくつもの迷いがある。
「ミントのアル・ヘイグ」と呼ばれる名盤が先程復刻された。彼はB級スタンダードを、独特の物言いで一定の水準にまで高めるのが旨かった。
 ドライブがかかる。アカルガナシイ音色で先を続ける。
 私は晃子から渡されたコピーの束をぱらぱらと捲った。
 社内のデーター・ベースから引っ張ってきたものが主で、晃子はサーチャーのようなことをやったのだろう。
 従軍慰安婦の問題は広範囲に及んでいて、打ち出された関連文献のリストだけでも相当な数になっていた。新聞では、韓国やフィリピンの抗議団体が、「民間募金ではなく政府の責任で」と主張していることが報じられている。非政府組織、民間基金などを使って補償をすることは戦争責任の回避に繋がるということらしい。
 抗議団体はいくつもある。そのどこがCPPと関係しているのか、どのような手口なのか、一読判断はつかなかった。そもそもCPPとは何なのか。
 私には関係がないと思おうとしたが、割り切れないものが残った。
 
 トカレフは私のところにあって弾倉は空だ。
 始めて銃を撃った。撃てるものだなと思う。
 横浜新道のランクルはまだ記事になっていなかった。単なる事故として扱われたのだろうか。唇を噛んでいた葉子の横顔が思い出される。
 煙草を何本も吸っている。
 舌がざらざらしている。棚の酒瓶に眼がゆくのだが、飲むべきか迷っていた。
 ベットの下に置いてある古いファックスが鳴いている。
 音を絞ってあるので遠くから聞こえてくる。
 カタカタと暫く揺れては静かになった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.27

 
 
 
 
■ 次の日の夜、私は感熱紙の指定に従い東銀座の地下道を歩いていた。
 この先どうなるのか、確かめてみようという気分になっている。
 昨夜受信したファックスには、時間と場所だけが活字で書かれていた。
 プラスチックの広告版に挟まれ、家のない男達が横になっている。ペットボトルを傍らに何本か置き、積み上げた週刊誌を真剣に読んでいる者もいた。
 五つ目の柱の角、段ボールを尻の下に敷き、口を開け天井を眺めている男がいる。いくつもの紙袋を廻りに置き、黒い帽子からはみ出た髪は見事に横を向いている。男の眼は大きい。
「あんただよ」
 呼ばれて傍によった。男は指を顔の前で動かしている。紫色の毛糸が太い指に絡んでいる。あやとりをしているのだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.28

 
 
 
 
■「ひとりで遊ぶってのも楽しいもんだぜ」
 男は顔を不器用に歪め、背中に手を廻すと畳まれたモロゾフの紙袋を私に差し出した。
「弾と鍵だ。車は西銀座の駐車場にある」
 痩せていないのが不思議だった。歯も白い。
「どういうことだよ」
「訳がわからないことって、まだあるんだぜ」
 そう言って男は黒い毛糸の帽子を目深にかぶった。それでも笑っているらしい。
 電光掲示板に、消費税率を上げる法案が衆院を通過したと流れていた。
 暫定、と続けて書かれている。この国が、生きているだけで税金のかかる仕組みになって随分になる。
 私は時計台の前、四丁目の交差点を渡り人混みを越えた。警官が立っている。階段を降り、黄色い電球の地下にもぐった。
 指定されたブロックを捜す。一番奥まった一角に車があった。
 
 クリーム色の、丸目のカマロだ。
 なんだか溜め息がでる。これでどうしろっていうんだ。
 重いドアを開け、それは案の定下がっていたが、エンジンをかけた。馬鹿みたいにでかい音がした。ハンドルは小さく、黄色い目玉、「ムーン」のホーンリングがついている。
 ボンネットの上にバルジがあり、蓋がしてある。ガラスの汚れから車自体は暫くここに置いてあったようだ。オイルが廻るまでの間、ウォッシャーでガラスを洗った。
 右手のシートの上に皮の鞄があった。外側のポケットに簡単な地図とメモ、携帯電話が入っている。中には充電器もあるようだ。
「東金に葉子はいる。アルピーヌもあるのだが貸してやらない。銃はそろそろ分解しろ」
 メモにはそうあった。こういうメモを残す男の年齢を当てるのは簡単である。あの頃の残りなのだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.29

 
 
 
 
■ 外は雨になっていた。駐車料金を二万もとられたことに腹を立てた。
 どうもZ28のようだ。信号で少しアクセルを踏むとそれだけで尻が流れている。
 品川埠頭の外れから湾岸線に乗る。キックダウンしないようゆるゆると車を走らせた。途中、人気のない駐車場で小便をし、何をしているのか自問した。手は洗わなかった。
 東金で高速を降り細い道をいくつか抜けた。
「ホルモン」という黄色い看板のある店で塩ラーメンを食べ、海の傍まで出た。玄関のタイルがいくつか剥がれたマンションが建っている。
 見上げると、ほとんど灯りはない。駐車場には銀色のセダンが一台駐まっていた。
 埃っぽいエレベーターに乗り、十二階までゆくとチャイムを押した。三度鳴らしノックをして名乗った。
 チェーンが開けられる。葉子はそこにいた。
 
 
 

2005年03月23日

「夜の魚」一部 vol.30

 
        六 目線なし
 
 
 
 
■ 葉子は髪を切っていた。
 肩までのものを更に短く、ほとんど私と変わるところがなかった。驚いた様子もなく私を部屋に入れる。
「毎日、海をみていたわ」
 何もない部屋だ。サイドボードだけは大きく、古いウィスキーが何本か置いてある。
「冷蔵庫の氷だけど、飲むでしょ」
 一杯だけ貰うことにした。バカラのグラスは重い。鉛が入っているからだ。
「さてと、説明してくれよ」
「あなたはいつも女に説明を求めるの」
 葉子はきいた風な口をきいた。
 私は鞄から雑誌を取り出し机の上に置いた。
 カマロのシートにあった皮の鞄には、メモと一緒に一冊の雑誌とビデオが入っていた。高速の駐車場で中を開けたのだ。誰でもが買える雑誌で、投稿された写真が載っている。男が数人ひとりの女に絡んでいる。去年のものだが、御丁寧にその部分は折ってあった。目線もなく、髪の長い葉子だった。
 私はその部分を開いた。
 葉子は横を向いた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.31

 
 
 
 
■ 女は人のために泣くことはない。
 泣きながらそれがどういう効果を持つか知らずに計算をする。
 葉子は膝を折り、手で顔を隠している。
 声の調子が波のように変わる。窓を開けると波の音か、空気がざわついている。暫く眺めていると葉子は泣きやんでいた。葉子は煙草を吸う。唇をまるめて煙を吐き出す。
「おととし、アメリカとイギリスに留学したの。そこで薬と男を覚えたわ。戻ってきて、ボランティアの活動に入ったの。今の生活がイヤだったのね」
 
 何処かで嘘があると思った。
 女の嘘は躯から入る。
「この写真は二十一の時よ。ビデオだってそうだわ」
 声の調子が変わる。
「そう、なんでもした。一晩で五人と続けたこともあったし、黒人は最高だったわ。中国のひとは硬いの、あなたよりずっとね」
 目線のない葉子の写真には陰毛がなかった。
 野外と風呂場で、腹の出た男達の下に膝まづいていた。
 葉子の眼が座っている。笑いだし、グラスに酒をついで冷たい紅茶のように飲んでいる。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.32

 
 
 
 
■ 私は殴ることもせず、それを眺めていた。
 胸の底に溜まっている残忍さに私は気付いている。
 氷を足すよう葉子に言った。グラスに二杯目を注ぐ。
「昔、福島の原発をみにいったことがある。外れたところに飯場があって、そこに沢山の男や女が居た。その時、居酒屋で酒を注いでくれた男にこのあいだ会ったんだ」
「都庁の後ろにある公園だった。写真をとるので夕方までいると、箱を抱えて制服に追い立てられている。奴はまだ若いんだ。フィリピンの女と結婚していた」
「それで」
「それで、間に入った訳だ」
「女とは別れていた。奴は炉芯部の作業をしていた」
「じゃ、浴びる訳ね」
「そうだよ、躯がきかなくなってくるんだ」
「あなたは何をしにいったの」
「女を買いにさ」
 私は葉子にいう。
「窓を開けろよ」
 波の音がする。他には音がない。リゾート用に作られたこのビルは、コンクリの底から冷えている。
「どうするの」
「脱げよ」
 下からだ、と私は言った。
 ベランダに出るように。そこでしゃがむように。
 細いタオルで手首を後ろから縛り、もうひとつ目隠しを葉子にする。
「同じことをしようじゃないか」
 みるみる鳥肌が立ってくる。寒いというが、聞こえない。
 浴室に連れてゆき小便をした。頭からお湯をかけた。
 Tシャツが濡れている。葉子は息ができない。
 口をあけ、訴えるような顔で上を向いている。
 叫ぶようになってゆく。その声は多分海岸まで届いた。
 底のない水のようで、それからは一定の段階が続いている。
 屋上のコンクリの上に葉子は立っている。立ちながら、泣いているのがわかった。五分したら戻るように。
 
 
 

2005年03月25日

「夜の魚」一部 vol.33

 
       七 スープ
 
 
 
 
■ 机に置いてある雑誌をもう一度眺めた。
 その時、確かに葉子はよろこんでいるかのようにみえる。葉子は何色なのか。色が混ざるのだとして、男だけの色ではないような気がした。
 
 葉子がドアの前に立っている。ぺたぺた裸足で階段を降りてきたのだ。
 唇が震えている。浴室につれてゆき、バスタブにお湯を張り葉子の躯を洗った。窓の外は風が吹いている。曖昧な気持のままそれを聴いている。
 タオルを使っていると、鞄の中で携帯電話が鳴った。アンテナを伸ばすと雑音が激しい。
「楽しんでいるか、そこは二三日大丈夫だろう」
 東銀座の男だった。
「おい、ありがたいオマケまでつけてくれたな」
「ビデオはもっと凄いぜ」
「おまえ、誰なんだ」
「ちょっとかして」
 横から葉子が電話を取った。
「吉川、父は何処にいるの」
 強い声で問いただしている。
「そう、そうなの」
 葉子は電話のスイッチを切った。
「どういうことなんだ」
「まって、ゆっくり話すわ」
 電話を低い椅子の上に置き、葉子はドライヤーを使った。背中を向け、指だけで短い髪を流している。
 いつもこうだ。まって、と言われ、待ってみると機会を失う。
 隣の部屋にベットがあった。薄い毛布がかかっていて、葉子はそこで寝ていたのだろう。私は横になった。ぬるいものに吸い込まれ、すぐに眠りに落ちた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.34

 
 
 
 
■ 明け方、薄い夢をいくつかみたがよく覚えていない。
 環状線の街灯が全て消え、その中をカーキー色の装甲車が走っている。その後ろには武装した兵士が大勢トラックに乗っていて、銃を肩に私の車を眺めている。
 気がつくと午後の半ば近かった。
「イビキが煩かったわよ」
「じゃ、味噌汁は」
 浅蜊の味噌汁とコーヒーを二杯づつ飲んだ。
「眠っている間に、買い物にいったんだ」
 葉子は薄い化粧をしている。明るい光の中で眺めると脚が伸びている。洗面所に立って使い捨ての剃刀を使った。どちらが夢か。鏡の中の顔に隈が出来ていた。
 
 
 

2005年03月26日

「夜の魚」一部 vol.35

 
 
 
 
■ すぐに暗くなった。
 私は事務所に電話を入れ、母親が危篤で戻っていると言った。男と暮らし始めた事務の娘が声を出さずに笑った。思いつき、自宅の留守番電話を聞いてみる。床を拭くモップ交換のお知らせと電話料金の催促、そして晃子からの伝言が入っていた。ここ数年、自宅に電話などはなかった。
「つけられているようだわ、怖いのよ」
 時刻は午前一時過ぎ。多分昨夜だろう。私は東京に戻ることにした。その前に葉子に聞かねばならない。
「あの吉川という男は何なんだ」
「どうしたのそんな怖い顔をして」
「知ってる女が危ないんだ」
「恋人なの」
 私は答えなかった。黙って葉子をみていた。葉子が口を開く。
「吉川はね、羽田闘争の時に捕まったの。それを父が助けたのよ」
「羽田闘争だって」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.36

 
 
 
 
■ その頃、私はまだ半ズボンを履いていた。
 一九六七年十月八日、当時の首相による東南アジア訪問が企図された。
 そこには焦土作戦が展開されていたベトナムをも含んでいる。それに抗議していわゆる新左翼系学生が羽田に集結し、機動隊と衝突したのだった。多くの逮捕者を出し、ひとりの学生が死んだのだという。
 風化しつつあるが半ば伝説のようになっているその事件は、長ずるにつれ私も何度か耳にしたことがあった。
 
「そう、その時捕まった人達は普通に進学したり就職できなかったらしいの。父には義理を感じているようで、わたしが高校の頃、家にきて酔いながらそのことをくどいくらい話していたわ」
「君の親父さんは何をしているんだ」
「小さな会社をやってるわ」
「吉川は」
「赤坂にある大きな商社にいるのよ」
 
 亡霊に追いかけられているような気もする。その亡霊には実体があって、忘れた頃にかたちを変え執拗に甦ってくる。私は鞄を持ち、部屋を出ようとした。
「場所は何処なの」
「下北沢」
「カマロじゃ無理だわ」
 確かにそうだ。曲がりきれない。葉子は私に車の鍵を渡した。
「銃はダッシュボードじゃなくシートの下に置いて」
 下まで降りると銀色のBMWがあった。ふたつ前の型で、放射線状のホイルを履いている。
「カマロは親父さんのものか」
「すこしイジってあるみたい」
「馬鹿げてるよな」
「そうね」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.37

 
 
 
 
■ 馬鹿げているのは車だけではない。
 私はBMWを出した。高速の黒い二車線で四速、一八○まで出た。
 エンブレムは外されているが三二三だ。
 矢絣のラインも注意深く消されている。アルピナだろう。
 マルニイの後、BMWは四つ目になった。比較的マイルドなハンドリングに変わり一部のマニアを失望させた。
 首を傾けるだけでコーナーを過ぎるような神経質さは薄れたが、その分売り上げを伸ばした。八十年代の半ばから、チューンするメーカーが現れた。元々はプライベートでレースをする物好きのためのチューナーで、大振りなオーバー・フェンダーをつけ、スパ辺りでアルファと競っていた。
 この脚はビルシュではない。
 イタリアの赤いダンパーで、私も二十代の頃スカイラインにつけ遊んでいた記憶がある。収まりが硬くないのだ。
 湾岸から箱崎を過ぎた。とたんに空気の密度が濃くなる。
 二速に落とし、きついコーナーを曲がった。
 流れてはいるが一度にはゆかない。
 カムが変わっているのか、赤い部分から更に廻ろうとする。
「葉子の親父ってのは、何者なんだろう」
 元々は前後にある羽を外し、十数年前の車をこれだけに保っている。
 
 
 

2005年03月28日

「夜の魚」一部 vol.38

 
 
 
 
■ 細い路地を抜け踏切を越えた。下北沢の劇場の地下に車を入れた。
 ネオンが並んでいる。その前に若い男女が座り込んでいる。自転車のサドルの上で口を吸っている。
 すこし歩く。駅から五分ばかりという。確かここだ。
 マンションの下にある公衆電話で晃子の部屋にかけてみる。
 応答はない。三度繰り返した。不思議な予感がする。不安が這いのぼってくる。
 エレベーターに乗った。鍵を持っていることを思いだした。チャイムを鳴らし二分程待った。返事がなく、鍵を開けてみる。玄関のつきあたりから右に曲がった小さな部屋に彼女はうずくまっていた。
 ふりむく。
 年齢より五歳年をとってみえた。尋ねても答えない。
 のろのろと立ち上がり、小さなソファに座ると、
「あなたって、大事な時にはいつもいなかったわね」
 と、低い声で言った。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.39

 
 
 
 
■「今日の朝、警察の者だといって、男と女がきたのよ。帳面をひらひらさせるからドアを開けると、そのまま入ってきたわ」
「女の方は二十七位、色が白いから中国系にもみえたけど、顎の線の綺麗ななかなかの美人だった」
「男は三十代後半、傍によるとそれがわかったの」
 黒い筈の瞳が蒼くみえる。髪は乱れたままだ。
「男は細いナイフを出して、わたしを裸にしたわ」
 晃子は立ち上がり、ガウンの胸をはだけた。
 
 首の下から乳房のまるみを過ぎた辺りまで、二本の赤い筋がついている。胸の真ん中でそれは交差している。血痕はほとんどなく、そう深いものではない。
 後ろをむく。同じものが背中にもあった。こんどは背骨に平行に走っている。
「葉子は何処にいるんだ、と聞きながらゆっくりナイフでなぞってゆくのよ」
「女はそれをみていた」
 背中には肉がつきはじめていた。記憶の中に疼くようなものがあった。
「男は北沢と名乗っていた」
「またくる、と言ってそのまま帰ったわ。御丁寧に女が煙草の吸い殻まで持ち帰ってね」 ソファに座っている晃子の脚がぶらりと揺れた。長くヒールを履き続けた小指の爪が潰れている。
「コーヒーでも飲もうか」
「そこにあるわ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.40

 
 
 
 
■ 私は台所に立ってお湯を沸かした。
 沸くまでの間、どうすべきかを考えた。コーヒーを入れると、私は東金の葉子に電話をした。吉川に連絡を取りたいのだと告げ、番号を聞いた。部屋を出ないよう葉子に言う。
 教えられた番号にかけてみる。七回ほど鳴って、割れたような声で吉川が電話に出た。名乗る。
「ちょっときてくれ、内ゲバなんだ」
「なに、ぞくぞくするじゃないか」
 吉川とは、マンションからすこし離れたビリヤード屋の二階で待ち合わせることにした。
 
 晃子が言う。
「わたしにいうことはないの」
「ある」
「なによ」
「手当したのか」
「シャワーも浴びてないわよ」
 ここを出ることにした。晃子は身仕度をする。ぱさりとガウンを降ろすと背中を向けて風呂場へ入った。傷を避けて流すのは難しいだろう。
 女の支度は時間がかかる。棚と冷蔵庫を開き、私は簡単な料理をつくることにした。タマネギのスープだ。
 隣の部屋で髪を乾かす音がする。車輪のついたスーツケースを持って、晃子がでてくる。
「あなたが持つのよ」
 私がうなづくと、晃子は濁ったスープをすすった。
 
 
 

2005年03月29日

「夜の魚」一部 vol.41

 
       八 スィング
 
 
 
 
■ 劇場の地下に車をとりにゆき、マンションまで引き返して晃子を乗せた。荷物は横にしてトランクに入れた。
 細い路地を曲がってビリヤード屋の傍に車を停める。晃子には暫く車の中にいてもらうことにした。
 二階にあがると吉川は既に来ていた。赤い玉を右手にもち、太い指先で廻そうとしている。彼は黒いスーツに蝶ネクタイをしていた。腹をつき出し、全てがわかっているといった様子を見せた。
「もうひとり連れて来た」
 壁の傍の古い椅子に、灰色のスーツを着た三十代の男が座っていた。私よりすこし年下のように思えた。髪をきちんと分け、度の強そうな銀色の眼鏡をかけている。
「拳銃と格闘技、それから哲学に詳しい」
「よろしく、奥山です」
 近づいて挨拶をする。どう判断するべきか暫く迷った。迷っている段階ではないことも知っている。
「俺は運転できないしな」
 吉川はその腹を無意識に撫でている。店に他の客はいない。一時のブームは去ったのだろう。台が三組あって、その上には真鍮の傘のスタンドがぶら下がっている。一階には髪をポマードで撫でつけた、その世代からすると背の高い店主がいて、いつもラジオを聴いていた。テレビでないのをいぶかると、あんな下品なもの見られますか、と笑われたことがある。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.43

 
 
 
 
■ 千葉へ続く背の高い橋がみえている。
 港は狭くなり、その脇にはクロームと模造大理石が貼られたビルが幾つも並んでいる。
 この辺りにビルができ始めたのはここ数年だ。中程はいつも空いている。夜になっても蛍光燈がつかない。倉庫はその一角にあった。隣接する比較的広い駐車場に車を駐め、四階までの階段を私達は昇った。吉川が晃子の荷物を持った。
「エレベーターの電気がないんだ」
 吉川が振り向きながら言う。中に入ると段ボールが無数に詰まれている。
「売れ残った羽毛布団だ。ここなら匂いもない」
 廊下のようなものを進み、一番奥の部屋の鍵を開けると、そこは整備された個室になっていた。見たところ、普段泊まるビジネスホテルよりまともかも知れない。簡単なソファとカーテンで仕切られた奥にベットがある。
「まあ、ここに居るしかない訳ね」
 晃子は黒いビニールのソファに座り脚を組んだ。もういいんだ、という顔をして窓を眺めた。芝の方角、タワーからはだいぶある。
「さっきの女は残留二世でね、北京の大学を出ている。結婚もしていたようだが、別れてこちらにきているんだ」
 吉川が説明する。スタンドの女のことを言っているのだろう。
「暫く前まで銀座でホステスをしていたが、今はそうした二世の連絡係のようなことをやっている」
「吉川さん、だいぶ通いましたね」
「うるせえんだよ」
 私は奥山のがっしりした腰のあたりを眺めていた。とりあえず、こいつに任せておけば良いだろうという気になった。
「それはそれとして、なんで銃の弾を持っているんだ」
「そんなものは幾らでも手に入る」
 吉川はうそぶいた。
「昔、俺はあの辺りで捕まったんだ」
 吉川は窓から細い運河のようなものを指さしている。誰もきいていない。もういいんだよ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.44

 
 
 
 
■ 私たちは紙コップで薄いコーヒーを飲んでいた。
 奥山が一度外に出て、幾つかのものと一緒に持ち込んだのである。
「わたしが資料室の端末を操作したことが知られたのね。アクセスの記録が残ることを忘れていたんだわ」
 晃子が言う。
「うちの社にもシンパはいる。裏で組織へ情報を流したり援助を行っているんだ。金が絡んでいる。フィリピンや中国ってのは、今じゃ共栄圏のひとつだからな」
 吉川が言うと、どうしてかもっともらしい。
 CPPは直接表面に出ないが、様々なかたちで日本の企業・団体に接近を謀っていると晃子が説明した。どのような形かは定かでない。公安も一定部分では掌握していて、慰安婦に関係する特定の団体が抗議行動をする場合、機動隊の車両が待機していることもあるという。背後に過激な組織が関与していることを薄々掴んでいるからだろうか。
 
 何本煙草を吸っても一定のところからはみえなかった。
 私は何を聞くべきかを忘れていた。吉川が箱を壊し、羽毛布団を取り出してきた。ドアの向こうで眠るという。
「大丈夫ですよ、あのひとは。見掛けよりも純情なんです」
 奥山が言う。なんだかそんな気もする。携帯電話を晃子に渡し、私は東金に戻ろうと思った。後のことを頼んで階段を降り、BMWに戻ることにした。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.45

 
 
 
 
■ 橋の上から海がみえた。
 それは囲まれていて、何処に続くのかわからなかった。続いているのさえ俄には信じがたい。
 五速に入れっぱなしだとコーナーでふらつく。
 雑誌のこと、銃のこと、葉子との関係のこと。吉川に尋ねることはいくつもあった。何処かでそんなことをしても無駄だと思っている。
 私は晃子の胸の傷を思いだした。
 残るかもしれない、と彼女はひとことも言わなかった。
 どのような姿勢をとらされたのか、部屋には痕跡がなかった。
 晃子が省いた言葉のいくつかもあるのだろう。
 黒い道が続いている。次第に疲労が濃くなる。
 横浜のホテルに葉子は戻ってこなかった。弾は二発使われている。
 細かな雨になった。ワイパーが音を立てる。
 古くなった潮の匂いがして、葉子のいるビルに近づいた。
 
 
 

2005年03月30日

「夜の魚」一部 vol.46

 
        九 鳥の声
 
 
 
 
■ 小さなスタンドをつけ葉子は床にしゃがんでいる。
 片方の膝を抱えている。スタンドを眺めているようだ。私は低いソファに横になった。
 私たちは口をきかなかった。説明するのが億劫だった。
 こんな風に人生をあやまるんだ、といつものように考えた。
 スープをすすり、ひとりで夜を過ごしたい。傍に居る女を眺め、本気でそう思っていることに気付いている。
 いつの間にか私は眠っていた。
 ソファの上で朝を迎えた。薄い毛布がかかっている。髭がじゃりじゃりし、顔は粉を吹いている。そう若くもないのだ。
 
 昼が過ぎ、でよう、と言って外にでた。
 葉子がカマロを運転した。低い排気音が室内に篭る。
 県境の国道を過ぎ、低い屋根の続く工場地帯を抜ける。
 右に曲がって十分程ゆくと海の傍に小さな展望台があった。
 夏以外、誰も昇ることはないのだろう。手すりが白く錆びている。その先は平たい堤防になっていて、テトラポットが囲んでいる。空は黒くなりかかり波の音が大きい。
 空き缶を探したが近くにはなかった。
 私はトカレフを取り出した。コンクリの外れ、そのひび割れたところに照準をあわせる。十メートルない距離で八発撃って七発が外れた。
 銃声は乾いた板を踏み抜いたような音がした。
 こんどは掌が痺れることはなかった。
 黒くなった空の低いところを、スポットを点滅した飛行機が離陸してゆく。向こうが空港なのだろう。一体何ワットあるのか。空に二本の筋ができ、海の方角に向かっている。堤防の外れは葦なのか、背の高い枯草が生えていて風が吹くと忙しく揺れた。
「北沢って男はなんなんだ」
 葉子は答えない。
「横浜で何処にいった」
 葉子の髪が逆立っている。風は海からくる。
「北沢の子を孕んだんだろう」
 葉子が上を向いた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.47

 
 
 
 
■ 私はカマロのエンジンをかけた。アクセルを深く踏む。
 途中、ひとつ前のベンツを直線で抜き、そのまま尻が流れ、ハイビームのまま信号を無視した。羽をつけた四駆のセダンが並んだので幅寄せをした。
 奴はビビり、それ以後追ってこなかった。私は夜の峠をセカンド・レンジで走っていた。どうでもいいのだ。胸の底に、次第に凶暴な気配が溜まってくるのに気付いている。今までは一定の枠の中にいたのだ。
 小高い山をひとつ越えると空港の灯りがみえた。
 国を離れたいと願う男女は、このアジアにどれくらいいるだろう。
 私は芝浦のスタンドにいた髪を束ねた女のことを思い出していた。彼女はどうして日本にきたのだろう。国籍や国境とは何なのだろう。
 差別というのは何処の国にもある。
「ひとは生きてゆくために、海峡を渡る権利があるのだ」
 そんなことを誰だかが言っていた。
 半世紀前の戦争の時、大陸に残された日本人の数は数十万人だと言われる。
 彼等は難民ではないが、国策に則った移民だった。棄民という呼び方すらある。
 
 スタンドでガソリンを入れ、小便をし、カマロを国道沿いのモーテルに入れた。
 昔、国際線のスチュワーデスを成田まで迎えにいったことがある。空港の脇のホテルで食事をし、高速に乗らずにモーテルに入った。
「冗談でしょ、うちの運賃はパンナムより高いのよ」
 と、彼女は真剣に言う。一年半して彼女は成田の寮をでた。三田線の沿線に部屋を借り、自分で料理をつくろうと決めた。
「ねえ、自炊ってさ、どんなもの食べるのかしら」
 そんな電話が偶にかかる。フライトの後、時間はまちまちだ。
 
 モーテルのシャッターは半分しか閉まらなかった。
 カマロは丸い尻を出している。ここで眠り、明日は芝浦にゆこう。私はカツ丼を取った。葉子もそれに倣った。
 別々に風呂に入り、それからビールを抜いた。葉子は有線のチャンネルを廻している。
 ドアーズがかかった。次はディランだ。次第にうんざりした気分が濃くなってくる。
「そろそろ話して貰おうか」
 葉子は黙っている。表情がない。二分経った。煙草を消した。
 葉子の傍へゆき頬を叩いた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.48

 
 
 
 
■「北沢という男に昔の女が襲われた」
「細いナイフを使い、二ミリ程の深さで、胸と背中に長い印をつけながら楽しむんだ。その筋の者にしちゃ随分出来がいいじゃないか。女に始末までさせている」
 葉子は眼を開いた。女という言葉に反応したのだ。
「北沢の今の女のひとりなんだろう。よく仕込んである」
 そこで言葉を区切った。ビールをちびりと飲む。
 葉子は煙草に火をつけた。顔色は落とした照明に透けてみえる。
「昨夜は薬を飲んだのか」
 頷いた。
「いつから飲んでいるんだ」
「追われる頃から」
 葉子の声が別のものになった。低い部分が表にでている。
 
「抜けたのは四月。その時妊娠したのよ」
「銃は」
「いくつもあったわ」
「始めは知らなかった。横浜にもいくつか市民運動のようなものがあって、サークルはそこと連絡を取りあっていた。あなたは笑うでしょうけど、サークルはフェミニズムを研究するものなの。そこで従軍慰安婦のことが取り上げられていたのよ」
 私は薄く笑った。お嬢様のお遊びもいいかげんにして貰いたい。
「その運動をやっている人たちの中に、CPPと関係のある人がいたの。CPPは募金を横流ししていた。私達が集めてきたお金を何処かに持ってゆこうとした」
 懐かしい思い出を語るように葉子は言葉を並べていた。それからビールを一口飲み、グラスを置くと、
「あなたは晃子さんを愛しているの」
 と、唐突に尋ねた。丸い瞳をしている。私は答えなかった。
「その事務所は何処にあったんだ」
「今はもうないとおもう。横浜の税関の傍のビルだけど」
「トカレフは何処にあった」
「一度だけ金庫の中を覗いたら、四角い箱に入っていたわ。わたしが持ってきたのは北沢のサーブのトランクから」
 サーブに中国女か。なかなか良い趣味をしている。
「北沢ってのは背広を着るのか」
 不思議そうな顔で葉子はこちらをみる。
「そうね、一度だけみたことがあるわ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.49

 
 
 
 
■ 私はウィスキーが飲みたかった。
 この頃量が増えている。飲みながら胃薬を噛んだりしている。矛盾しているがそんなものだ。
 フロントに電話をし、リザーブの小さな瓶を注文することにした。国産しかないというのだ。葉子が取りにゆく。
 私はベットに座り、小さなショーツの上からジーンズを履こうとする葉子の後姿を眺めていた。脇のホックのようなものを掴み、腰を二三度振っている。
 有線からマイルスが流れている。「昨日、夢をみたよ」という曲だ。ガーランドのピアノが淡々と響く。
 わかったような気もするが、だからどうしたとも思っている。
 何処かで都合が良すぎるような気がした。
 出来すぎたことにはほとんどの場合嘘が混じっている。しかも、それはもっとも本質的な部分についてである。
 私は、自分の仕事がどう旨く嘘をつくかで評価されるところがあることを思い出した。
 肝心なことを伝えないのは嘘をついたことにはならない、そうした言い方をする同業者もいた。
 トカレフは私の傍にあって葉子は追われている。
 横浜新道のランクルは記事にならなかった。
 調査を頼んだ晃子は襲われ、羽布団の倉庫で眠っている。
 吉川とは何物なのだ。葉子の父も。
 銀色の眼鏡をかけた奥山。あのセドリックは誰のものか。スタンドにいた残留二世の女はどうして鍵を持っていたのだ。
 暴力革命だって。ともかくよして貰いたい。
 私は何かに巻き込まれ、それが何なのかわからないことに苛立っていた。
 その苛立ちには奇妙な静けさが含まれている。
 眠っているだろう晃子のことがすこしだけ気になった。
 
 私たちは寝なかった。
 広く丸いベットの上で始めは離れ、それから背を向けて躯を斜めにした。
 葉子は錠剤を噛み、暫くして私にもたれてくる。
「それを飲むと眠れるのか」
「うん」
「随分、眠れるのか」
「うん。普通のひとが飲むと、お昼過ぎまでぼんやりしているんだって」
 葉子の横顔は幼女のようにみえた。
 ベットの下に敷いてあるビニールが擦れて音を立てる。
 隣なのか、時折女の細い声が聞こえてくる。
 遠くからだと、夜を渡る鳥の声のようにも思えた。
 葉子の寝息を確かめると、私は煙草を消し考えることをやめた。
 
 
 

2005年04月05日

「夜の魚」一部 vol.50

 
       十 新しい石鹸
 
 
 
 
■ 昼過ぎにモーテルを出た。
 昨夜買ったリザーブは三倍の値段がした。そういうものだろう。持って帰ることにした。途中、沿線のレストランで、トマトのスープとサンドイッチを食べた。
 首都高速を天現寺で降りるといくつかの坂を昇る。
 歩道に半分乗り上げてカマロを停め、自分の部屋に一旦戻ることにした。
 風呂の壁に薄いカビがはえている。
 浴槽の水を入れ替え、コーヒーを沸かし、留守番電話と郵便を整理して暫くぼんやりした。
「なんでこんなに汚い訳」
 葉子が掃除を始めている。台詞まで同じだ。
 携帯電話を呼び出すと、暫く鳴ってから晃子がでた。
「退屈で死にそうよ」
 風呂に入ってからでかけることにする。下着を取り替えた。
 芝浦の倉庫に着くと、葉子は部屋に入るのをためらった。構わずに入る。
「ドライヤーを忘れたのよ」
 晃子は髪を縛っていた。口紅の色が新しい。昨夜も吉川がきて、ドアの外に眠っていたという。晃子が指さすと、「社に顔を出してきます」と書かれたメモがあった。字は旨い。
「あの人、昼間は普通のネクタイなのよ」
 夜までは戻るまい。税関の傍のビルを確かめようと思っている。
 ビルの名を葉子に尋ね、晃子を連れて外に出た。葉子は部屋に残った。
「二日ぶりに外にでたわ」
「風呂に入ったか」
「ええ、奥山さんが石鹸を持って来てくれたでしょ」
 晃子はなんだか楽しそうだ。
「元町によってね。服をみるから」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.51

 
 
 
 
■ 夜はまだ浅く、横羽線もとりあえず流れている。
 横浜スタジアムの手前で高速を降り、税関のある方角に曲がった。
 ビルは税関からすこし入った脇道にあった。五階建、二十年は経っているだろう。外側に細い階段がある。法律事務所と会計事務所、「公洋貿易」と書かれた会社の横浜支店がある。いくつかのプレートは空白になっていた。最上階を除くと灯りはついていない。階段を昇ろうとしたが、カメラがあることに気付いた。ダミーかも知れないがわからない。葉子が関係したという市民団体はどの階にあったのか。他の事務所と共同だったのかも知れない。
 
 税関を離れ海岸通りに近づくと、運河沿いのホテルがみえた。夏の始め、そこで葉子を待っていたことを思いだした。
 港のみえる丘の公園へ昇ってゆく急な坂道がある。その先は陸橋になっていて、片側に車を駐める場所があった。多摩ナンバーのホンダの後ろにカマロを駐め、晃子と元町を歩くことにした。
 
 街は変わっていたが薄い匂いは同じだ。あれから十年が経っている。
「あそこにあるコート、これが終わったら買いなさいね」
 晃子がショー・ウィンドーを指さす。紫の混じった伊製のウールだ。晃子には似合うだろう。
「バーゲンまで待ってくれよな」
「ふふ」
 そういえばそんな笑い方はしなかった。
 若さはいつも切実で、知らずに相手を追いつめていた。自分だけが夢をみていると思い上がっていたのだ。
 輸入雑貨屋でワインを買った。これは旨いのだと晃子は主張する。コーヒーの豆も挽いて貰った。晃子は下着と化粧品を買い、私は煙草を吸いながら店の外の歩道で漠然と立っていた。荷物を渡されて持つ。
 中華街の外れの店で、排骨炒飯と数品を頼んだ。
 晃子は鳥肉が苦手だったことを思いだした。
「ねえ、あなた、昔はビールなんかついでくれなかったわよ」
 晃子は笑っている。しかもよく食う。
 カマロに戻り、すこし遠回りをすることにした。埠頭のひとつに入り車を停めた。ラジオが古い曲を流している。けれども、向こう岸はみえない。
 
「どうして別れたんだ」
「逆の理由。わたしが浮気をしたの」
 産毛を風が撫でてゆくような気持だ。
「昔は金がなかった」
「今だって、そうじゃない」
 すこし歩いた。コンテナの傍で唇をみたが、近づくとすこし怖かった。
「傷を嘗めて」
 晃子が言う。ブラウスのボタンを外し、唇を胸に近づける。
 塩だ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.52

 
       十一 別の夢
 
 
 
 
■ 私たちは芝浦の倉庫に戻った。吉川がきていた。葉子は横を向いている。
 前に晃子がコピーしたものの中にNPAの革命歌があった。

 山岳地帯で生まれた一団がやってきた
 私達の目的は ハポンを一掃すること
 私達は新人民軍 皆さんの奉仕者

 ここで言う、「ハポン」とは日本軍のことではない。マルコス、ないしはアキノに率いられた政府軍のことである。今日ではウエストポイントを卒業したラモスをも指しているのだろう。
 アジア特有の大土地所有制度に対抗することを主たる目的として結成されたフクバラハップは、大戦の際抗日戦線を張った。戦後、親米政権に反乱を起こし、一時は二万五千の兵力を誇っている。しかし、六十年代に入り凋落を続け、わずか数百人にまでその数は減ってゆく。
 当時、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れ始めていた。
 文革とは、「造反有理」という名コピーを生み出した一大政治社会運動である。正しくは、「造反有理・破旧立新」というらしい。毛沢東の夫人、チァン・チン女史ら文革小組が若く過激な学生・労働者を組織し、当時の実権派を追放しようとした陰惨な権力闘争だった。
 その頃、フィリピン共産党の内部では旧来の親ソ派と若い知識人や学生運動家からなる親中派が争っていた。
 親中派の指導者が、ホセ・マリア・シソンである。シソンは国立フィリピン大学の出身で、マルコスと同じイコロス地方の裕福な地主の家柄に生まれた。
 母校で政治学を教えるかたわら、詩人・ジャーナリストとしても次第に名を馳せるようになってゆく。
 一九六七年八月、シソンは学生・ジャーナリスト訪中団の一員として北京を訪れた。そこで彼の毛沢東思想への傾斜が深まってゆく。それが翌年、毛沢東七五回目の誕生日になされたCPPの再建に繋がっていったとされている。
 四ヶ月後、NPA、新人民軍が発足した。建軍された六九年だけでも政府軍との間に八十回の戦闘があったと記録にはある。
 
 〈鉄砲から政権が生まれる〉
 そのように信じていた沢山の若者が日本にもいた。二十数年前のことだ。
「俺だって、すこしはそう思ったんだ」
 吉川が言う。彼の目蓋は重そうに垂れている。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.53

 
 
 
 
■ 晃子と葉子は管理人室に眠った。
 何を話しているのか知らない。
 私と吉川は倉庫の外側にある階段に座り、煙草を吸いながら東京湾を眺めていた。小さなステンレスのカップにスコッチを垂らす。吉川が持ち込んだのだ。
「混ぜ物ばかりだ、酒も女も」
 吉川が言う。
「馬場の学生の頃、俺は時々集会に出ていた。ヘルメットも被った」
「三度目に捕まった時、起訴されそうになったんだ。起訴されれば大学も終わりだ。まともに勤めることなんかできっこない」
 私は黙って聞いていた。口に含んだ酒の味は、幾つものものが混ざりあっている。
「羽田の時、俺はまだ高校生だった。付属だからな、政治的な自覚が高かったんだな。その時もそうだがこんどは起訴されるって時に、葉子の親父さんが助けてくれた。紹介状を書いて貰い今の会社に入った」
 どうしてそんなことを話すのか、いぶかしい気持が浮かんだが黙っていた。軽口には飽きていたし、誰にでもそんな夜はあるのだ。
「わかってやっていた訳じゃない。そういう時代だったんだ。大学にゆかなかった仲間は沖縄にいった。ドルが三百六十円だぜ。そこで女を買ったんだそうだ。なんだか羨ましくてな」
 レインボー・ブリッジがみえる。風は重く湿っている。
 文革の頃、千葉に橋が掛かるなんて誰が想像しただろう。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.54

 
 
 
 
■「俺には娘がいるんだ」
 吉川がぶっきらぼうに言った。私は吉川の横顔をみた。
「横浜の私立に通わせている。いい学校なんだぜ。片親だと入れなくてな、それまで籍は抜かなかった」
 クリスマスの飾り付けのような細かな電球をつけた船が黒い海を横切る。中には畳が引いてあって、カラオケのセットがある。海の上で歌うのだ。私は吉川の娘のことをすこし思った。彼女も下校の時にはパールの入らないピンクの口紅を塗るのだろうか。
「おまえ、結婚したいと思ったことはないのか」
 唇をすこし曲げ、吉川がこちらをみる。
「あったよ」
「俺達の頃はすぐに結婚をした。やるとすぐだ。仲間だけで実行委員会ってのをつくってな、会費制で歌をうたうんだ」
 
 私は別のことを考えていた。長いこと、あらかじめ答えが出ているような気がしていた。余熱のようなものは根強くあったが、そこから先に進むことはなかった。吉川の言う、「まともに勤める」という言葉からすれば、私も随分逸れていることになるのだろう。それは時代のせいばかりじゃない。
「なんでおまえ、コピーなんか書いているんだ。ただ消費されるばかりだろう」
 吉川が私に尋ねた。今まで同じようなことを何度も尋ねられた覚えがある。相手は違っていて、私の答もその時によって違うものになった。
「匿名ってのが好きなんだよ。信じてないんだ」
「何を」
「なんだろうな」
 理解できない、という顔をして吉川は私の顔をみた。思想とか正義とか、そういった言葉に私はうんざりしていた。簡単には騙されまいと何処かで決めようとしているのかも知れない。
 
「あの晃子さんな」
 吉川が唐突に言う。
「おまえの女だったのか」
「いや、古い友達だ」
 私は嘘をついた。
「そうか。ものは相談だが」
 吉川が私のカップに酒をつぐ。言い淀んでいる。彼は僅かに首を振り海の方角をみた。
「俺は惚れたみたいなんだ」
 吉川は暫く黙っている。私もそれに倣った。
「似てるんだ」
「誰に」
「別れた時の、前の女房だよ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.55

 
 
 
 
■ 吉川の声がまた変わった。
「俺は馬鹿になって仕事をした。あんなものは夢だったんだ、俺はもう大人なんだ、と思ってな。マニラにもいったぜ。資本主義の尖兵としてな」
 そこまでを一気に話した。
「戻ってくるとな、判を押せというんだ。わたしには別の夢があるんだといいやがる」
「太っていたか」
「いや、なんだか奇麗になっていた」
 
 男と別れる前の女は例外なく奇麗になる。張り詰めた想いが内側から滲んでくるのだという。
 そうだろうか。次の男のための準備かも知れない。
 黒い海を船が横切ってゆく。オレンジ色の細かな電球がゆっくりと動いている。横浜から戻る車の中で、晃子がラジオを消してくれと言った。窓を閉め、カマロは流れに沿ってゆっくりと走っていた。シートにもたれ、晃子が古い歌を小さな声で歌っていた。晃子の声は低い。なんて歌なんだ、と尋ねると、水色のワルツっていうのよ、と答えた。私にはブルースのように思えた。
 
 その時、遠くでタイアの割れる音がした。
 あたりの空気が収縮し、密度ある水のようになった。
 脇をみると吉川が横腹を押さえている。
 押さえた掌から赤黒い色が広がっている。
 血だ。
 雨になった。
 
 
 

2005年04月06日

「夜の魚」一部 vol.56

 
       十二 狐眼
 
 
 
 
■ ドアの内側に転がった。
 すこし離れたビルの非常階段に、つば広の帽子を被った細い人影がある。
 更に撃ってくる。外れた。人影は消える。
 吉川の背広の襟をつかみ、なんて重いんだと唸った。廊下へ引きずりこんだ。
 私は管理人室へ走った。銃をつかんでいる。倉庫の内側の階段を降りた。
 目眩がする。走るのはイヤだ。
 駐車場に出ると、向かい側の赤いテールに人影が走るのがみえた。
 女のようだ。
 カマロのドアを開けようとする。葉子がそこにいた。助手席に葉子は転がる。
 私はアクセルを踏んだ。すこし濡れた路面でカマロが斜めになった。
 大きく首を振り、滅んでいった巨大な恐竜のようにあえいでいる。
 黒いサーブだった。離されてゆく。
 加速した。
 全ての信号を無視し、直線では一四○でた。しかも飲酒だ。
 羽田から川崎に入った。
 焼肉屋の赤い看板を過ぎた。
 左に曲がり、工場地帯の広い通りに入ってゆく。製油所だろうか、パイプラインが内蔵のように絡み合っている。
 カマロのガラスに白い罅が入る。
 女が撃ってきている。
 雨が酷くなってきた。前がみえない。
 陸橋を越えた。サーブは白い水煙を高くあげている。
 路面に大きなワダチがあった。
 ゆるい右カーブだ。
 サーブの内側に入った。
 窓を開け、釣り上がった眼の女が銃口を向けている。紐で止めているのか、風圧で帽子はひしゃげていた。
 後ろに下がった。
 先はT字路だ。
 サーブの横腹が僅かにみえたような気がする。
 私はカマロのアクセルを床まで踏んだ。
 僅かなタイムラグの後、ボンネットの蓋が開いた。
 吠えながら全身が震えた。
 鈍い震動があって、ハンドルが軽くなった。
 サーブの下腹がみえた。シャフトのない、のっぺりした腹だった。
 回転するタイアが黒く光っている。奇麗だと思う。
 ハンドルを左右に切り、踏み潰すように両足でブレーキをかける。ロックした。
 カマロは尻から壁面のブロックにぶつかり、暫くすると止まった。
 サーブは横になって太いコンクリの橋桁に頭を突っ込んでいた。
 エンジンが車体に潜りこんでいる。
 傍によってみる。男がハンドルに顔を押し付けていた。褐色の肌だ。
 両手できちんとハンドルを持っているのが奇妙だ。
 腰から下は潰れているのだろう。血はみえない。
 その時、脇腹が攣ったような気がした。
 振り向くと、女が光るものを持っている。細いナイフだ。
 髪がほどけ、眼が赤くなっている。
 女は脚を開き腰を屈め、片手を後ろに隠すと声を出さずに一度笑った。
 私は動けなかった。
 硬水のような恐怖があった。
 次は頬か喉だろう。
 背後で短い音がした。
 二回続く。
 ゆっくり女が倒れる。
 葉子が背中から撃ったのだと気付いた。
 私の腰のベルトが二つに切れていた。
 自分の血というのは暖かい。
「どうして女がでてくるんだ」
「あんなの、中国の狐みたいなものよ」
 葉子の肩を借り、車に戻った。
 脚がぬるくなってゆく。雨と混ざる。
 黒い箱のような工場から守衛が出てくるのがみえた。
 ライトを消し、葉子はカマロを出した。
 どうせ灯かないんだ。
 
 
 

2005年04月07日

「夜の魚」一部 vol.57

 
       十三 十二月
 
 
 
 
■ ブラウスの胸元から白い谷間がみえている。
 晃子が何かいいながらバスタオルで腹の上を押さえている。
 このまま死ぬ訳はないとおもっていた。
 寒気がする。顎の下が震える。
 晃子が頬を叩いている。
 なんて気丈な女なんだ。まるでオフクロみたいだ。
 腹の中が熱い。
 娘は泣くだろうか、奴と一緒に笑うのだろうか。
 奴。そういえば中野のアパートに見舞いにきてくれたことがあった。チェックのスカートを履いて、女子大ってのは何処か野暮ったい。
 その野暮ったさが良かったんだから、俺もプチブルだ。
 あれは冬の始めだった。旨くゆかなかったけれど、奴が初めてだったせいだ。 多分初めてだったんだろう。次からは旨くいった。
 俺をクンづけで呼びやがった。卒業するまでそうだった。
 俺は何をしてたんだろう。今はなんだ。撃たれたのは始めてだ。
 痛いのか寒いのかどっちかにして貰いたい。
 眼をつぶっていることにする。
 俺は三十女の柔らかい胸が好きなんだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.58

 
 
 
 
■ 十二月になった。
 地下鉄の階段を降りると、眼の黒い外国人がふたり昇ってきた。黒いナイロンのジャンパーを着ている。楽しそうでもない。
 私は坂道を脚を引きずりながら歩いていた。
 車のライトがぼやけてみえる。霧が出ている。一歩踏み出す毎に脇腹がひきつる。糸は抜いたが、まだ皮が薄いのだ。
 私は神奈川の丘陵の上に立つ病院に入っていた。
 そこは新・新宗教の団体が持っているもので、ぼんやり隠れているには都合が良かった。傷を整形するかと聞かれたが、更に期間が延びるので断った。
 吉川はまだ入っている。
 弾は脇腹から入り、肋骨を折って背中に抜けたのだ。至近距離ではなかったことと、二十二口径だったので軽く済んだ。
 手配は全て奥山が行った。病院を選んだのも彼だ。
 晃子が携帯電話で奥山を呼ぶと、セドリックのシートに炭酸カルシウムの袋を何枚も敷き、アンプルと錠剤を持って背広で現れた。
 私は車の中で、奥山に渡された錠剤を薄いコーヒーで飲んだ。そこからの記憶がない。
 吉川の重い躯をどのように運んだのか、今でもそれがすこし不思議だ。
 気付くと傍には看護婦がいた。白衣ではなく薄い桃色の制服を着ていた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.59

 
 
 
 
■ 自分の部屋に戻ってコートを脱いだ。
 白いコートは汚れやすい。それが良いのだとも思う。
 病院の中で、吉川と話すことはなかった。
 喫煙室に彼はこなかったし、その時はまだ起きられなかったのだろう。
 私も吉川も、そう広くはない個室に入れられた。他が満員だったという訳でもない。払いをどうするんだと思ったが、どういう訳か保険で足りた。
 葉子と晃子が時々見舞いにきた。病室で、持ち込んだコーヒーの豆を入れて飲んだ。電気の器具があったのだ。
 看護婦は薄桃色の制服を着ている。ラインが二本入っている。
 向こうにみえている巨大な練がここでは本体で、そこは有料の老人ホームになっている。湯沢にあるリゾート・マンションを平たくしたようにもみえる。全財産を献金すると最後まで面倒をみてくれる仕組みになっているらしい。信者が中心であると言う。
「君もそうなのか」
 と、尋ねると、
「仕事だから」
 と若い看護婦は笑った。
 すこし安心するが、それがどうしてなのかはわからない。
 
 
 

2005年04月12日

「夜の魚」一部 vol.60

 
       十四 冬の動物園
 
 
 
 
■ 屋上の手前、病練の最上階に喫煙室があって、そこはガラス張りになっている。
 夜になると、遠くランドマークタワーの灯りがみえている。
 点滅している一本の帯は高速だろうか。何本かある。
 ガウンを着て煙草を吸っていると晃子が昇ってきた。
「お酒飲めなくてさみしいでしょ」
 私たちはビニールの椅子に座って汚れたガラスを眺めた。
 離れたところに老人が座っている。老人のようにもみえるが、実のところいくつなのだかわからない。病院の中で、そうした男や女を何人もみかけた。生気なく、口の中でなにかを呟きながら廊下をゆききしている。
 晃子は紫のスカートを履いていた。
 
「何十年かしたら、こうしてガラス越しに外を眺めているのかな」
「そんなに生きるつもりなの」
「どっちでもいいんだが」
 水の溜まった灰皿に煙草を捨て、晃子が笑う。
「でもねえ、あなた、どうしてこんなことに巻き込まれたの」
 外は風が強いようだ。ガラスに圧力がかかっている。
 私にもわからなかった。葉子という女を拾い、横浜で再会し、その時に寝た。トランクにトカレフがある。
 弾を買いにいったのは夏と秋のあいだで、新宿の外れの路地は油汗に香水を振りかけた匂いがした。肌色の違う女は髪を長くし、張り付いたスカートを履いて傍に立っていた。ボディ・スーツをつけなくても、僅かな肉の弛みしかない。
「悪い夢だったのかな」
「まだ、醒めていないようね」
 晃子の口調はすこしも変わらない。
 
「傷はふさがったのか」
「みる?」
「そのうちな、ぜひ」
 薄い桃色の制服を着た看護婦が昇ってきた。消灯だという。髪を上にあげピンでとめ、同じ色の帽子を被っている。
「あなた、ああゆうの好みでしょ」
 パジャマを着ていると、どうも言われやすいようだ。
 私は脇腹を撫でてみた。ガーゼの下で熱を持っている。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.61

 
 
 
 
■ 病室で眠れない夜が多かった。
 どうしてなのか、わかれば眠れるのだろうと思った。
 午前二時に看護婦が廻ってくる。夜勤だけの担当がいるのだろうか、二日に一度は同じ顔をみる。
 東北の生まれだという看護婦とすこし話した。紅葉が奇麗な土地だ。ここの他に時々バイトをしているのだという。
「そこでも制服を着るんですよ」
 何処の店かを聞くのはやめた。
「いわゆる社交場だね」
「面白い言い方ですね」
 病院の待合室に絵本があった。トイレの帰りに一冊借りてきた。お徳用になっているようで、消防車の絵と動物の絵が書いてある。
「トラック、スポーツカー、タンクローリー、パトカー」
 それぞれに簡単な解説が載っていて、このような文を専門に書くひとがいるのだろう。
「めがねとかげ、カンガルー、ありくい」
 動物の絵も載っていて、そこにも説明がある。
 
「夜おきていてながい鼻で地面をさがし、舌をのばしてありを食べます。長い毛が生えています」
 「ありくい」が鼻の長い犬のように描かれている。ふりがなの振ってある説明文を読んでいると次第に不安な気持になってゆく。それは生理的なもので、長い毛と、舌の上で動いている無数の蟻のことを考えた。例えば山の中で死ぬということは、小さな虫などに食われてゆくことなのだと思った。
 サーブの中で男が死んでいた。私がカマロで脇腹に突っ込んだからだ。
 葉子が撃った女は中国女で、多分北沢の女のひとりだろう。晃子が襲われた時、傍でみていた女だ。私はその女に脇腹を裂かれた。
 葉子は人を撃った訳だ。
 当たり前のように人が死んでゆく。
 それに対してほとんど嘆くような感情が起きない。
〈殺さなければ殺される〉というようなことを映画などでよく聞く。果たしてそうだったのかも覚えていない。吉川に義理があった訳でもない。
 
 葉子の横顔は硬い意志に満ちていた。顎の線が蒼ざめ、いつか映画でみたポーランドの若者のようだった。彼等はファシストと戦った訳だが、こんどは何なのだろう。薬を飲んでいた葉子と銃を持った葉子が一本の線で結ばれない。そういえばカマロはどうしたんだろう。
 私は夜の動物園にゆきたいと思った。
 闇の中で、猛獣が叫んでいる声が聞けるのかもしれない。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.62

 
       十五 薔薇の原価
 
 
 
 
■ 次の夜、葉子が尋ねてきた。短いスカートを履いている。
 肌の色が違ってみえた。一枚、靄のようなものがかかっている。
「吉川さんはどうしてた」
「なんだか痛い痛いと困らせていたわ」
 私は吉川をさんづけで呼んでいた。撃たれたのだから、仕方ないだろうと思った。葉子に会うと大事なことがどうでもよくなる。葉子が話さなければそれでいいのだ、という気分が支配的になる。どうせわからないのだという投げやりな姿勢が引き出されてくる。問い詰めるには一定のエネルギーが必要だった。動機さえも。
「カマロはどうした」
「修理に出したわ」
 修理して大丈夫なのだろうか。塗装の破片から車を割り出すことは簡単にできる。
「ううん、平気なの」
 警察はどう処理したのか。死人が二人でている。いぶかしいことは他にもあった。輪郭が滲んでくるには先に進むしかないのだろうか。そんなことを漠然と思った。
 看護婦が覗きにきて不思議に笑い、ドアを閉めた。
 葉子が傍によった。自分の短い髪を手で撫でている。
 
「風呂に入っていないぜ」
「あなたの血が胸についたわ」
 靄はやはり白く、それは男達のもので、その中に赤いものが疎らに混ざっている。
 混ざるものは一定の重さを持ち、ゆっくりと曖昧になってゆく。
 葉子は跪いた。
 毛布が外される。私は自分も同じではないかと思いながら近づいてくる舌先を待っていた。
 それから絵本のことを思いだした。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.63

 
 
 
 
■ 退院して仕事に戻った。
「用があったらいつでも呼んでね」
 葉子はそう言い残した。ポケベルを持ったローレン・バコールなんているものか。
 入院費を払う時、奥山がきたかと尋ねたが、真ん中から分けた髪の長い会計担当は曖昧な笑顔でごまかした。
 部屋に戻り、郵便と電話を整理し、次の日から事務所に出た。
 入院は車の事故ということにしてある。
 
 相も変わらずどうでもいいような仕事ばかりが溜まっている。ひところに比べればそれでも廻るようにはなっているが、それでも単価は切り詰められ、手持ちのコピーの引出しだけで充分だと思われた。勝負に出るような雰囲気が何処にもないのである。
 私はキー・ボードの掃除を始めた。画面もそうだが、指に触れるところが汚れていることが気になることもある。
「やる気になったんですね」
 事務の娘が言う。紫の混じった口紅を塗っている。
 この娘もそろそろかな、と思いながら五つばかりを仕上げ、パソコンのファイルに落とした。あらかじめ形のあるところに事務的に入れる。写真も手持ちで済ませた。あまり凝ったものは近頃遡及力がない。
 
 MOを事務の娘に渡し、夕方過ぎに外に出た。芝にある図書館に寄ることにする。
 何を調べていいのかはっきりしている訳ではなかった。
 適当に本棚を歩き、思い付くものを借りては隣のホテルまで歩いた。
 そこから見上げるタワーは、成程こんなに大きいのだなと思える。地下で中華を食べ、一階のテラスでコーヒーを飲みながら、入り口に飾られている薔薇の種類についてすこし考えた。あちこちに掛かっている布に緑が多いのはクリスマスが近いからなのだろう。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.64

 
 
 
 
■ 図書館ではビデオも貸していた。ふと思い出してそれを借りてきていた。一九八二年に作られたSF映画で、確かオランダの俳優が人造人間の役をしている。
 いつだか葉子が、レプリカントって知ってる、と尋ねたことを覚えている。
 知らないというと、その映画を観るよう強く言うのだ。
「わたしってね、ボーダーなんだって」
 薬の出所の医師か、カウンセリングを受けたことがあるのだろう。ユングやロジャースの単一な流れでなく、複合的な立場の見解だとは後で知ることになる。
 
「境界」という言葉のつく本を二冊程借りた。
 ひとつは、「周辺性」についての文学や哲学者の考察だった。目次を眺めると、「文明と異化」という小項目があって読むのをやめた。
 後はナチズムについての古い新書版で、若い頃読んだ覚えがある。
 旧ドイツの指導者達は、いわゆるゲルマン民族の周辺に位置するところから生まれていて、社会的にも文化的にも、「周辺人」であったと定義するものである。ドイツオリンピックの記録映画については、この仕事に入った頃ひとつの手本として先輩に教わった。広告の古典的な見本でもあるのだ。今にして思えばグロテスクな程に肉体を賛美しているのだが、その背後には薄い不安が滲んでいるようにも思える。
 
 朱色の照明がガラス越しに入ってくる。「マージナル・マン」とその本の中では振り仮名があった。
 三本煙草を吸い、外に出た。公園の傍の街路樹はプラタナスだ。幾つかは既に粉になっている。土に帰ることもなく、踏みしだかれ音を立てる。私は部屋に戻って白いベルモットを嘗めた。そう旨いものでもない。ソファを動かしてビデオを眺めることにした。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.65

 
 
 
 
■ 途中までみた。
 眼の大きな女に質問を加えてゆく場面があった。瞳孔の開き方で、彼女が人間ではないことがわかる。秘書ならそれで、慰安用ならまたそれ、目的に応じたアンドロイドが造られてゆく。戦闘用のもいる。
 思いついて医局にいる友人に電話することにした。
「どうしたんだこんな時間に」
 という声を古い馴染みで騙し、必用な文献をファックスで送って貰うことにした。
「近頃、内部だってアクセス料とられるんだぜ」
「わかったよ、銀座の黒い薔薇でも奢る」
「なんだそれ」
「社交場だ」
「わかんねえな、外にいる人のいうことは」
 暫くするとその一部が送られてくる。専門用語はわからないが、「境界性人格障害」と題目にはある。
「後は明日だ」
 下手な文字が見えたところで紙が止まった。
 
 銀座の裏通りにゆくとタイル張りの低いビルがある。
「発明・形状記憶発毛」と書かれた看板の下に薔薇の種類があって、「ここは皆さんの社交場です。貴男の故郷の娘を呼んで話をしてください」と手書きで書かれている。
 セットが幾らだったろう。油で汚れた調理場のドアの横にガラスのケースがあり、中にはボール紙で作られた日本地図が貼られていた。そこに沢山の虫ピンが刺さっている。
 近づくと、出身県ごとに女の名前が区分してある。源氏名なのだが、ほんとうだろうかと疑う気分が起きる。ひらがなが多い。
 反面、まだ舗装されていない頃の中学校のグランドが思い出される。
 いつかは入ってみたいと思っていた。初恋を覚えている訳でもないのだが。
 
 
 

2005年04月19日

「夜の魚」一部 vol.66

 
       十六 造花
 
 
 
 
■ 友人から送られた文献のリストは、そう多いものではない。
 カーンバーグとかマスターソンとか、ついこの間と言っても良い位概念としては新しいものなのだそうだ。東京駅の傍の本屋で大抵は手に入る。
 宗教関係のところにすこし、それから角の棚にすこし、定価を眺めては領収書は出ないだろうと諦めた。
 夜になって八重洲の地下街で食事をし、それからボタンダウンのシャツを一枚買った。昨年のものらしいのだが半値になっている。近頃、腕にアームをしている。シャツがそのように造られている。階段のところに座り込んでいる袋を持った男達をちらりと眺め、外に出た。
 部屋に戻りヒーターのスイッチを入れ本を捲った。
 定義からしてよくわからない。
 
「突然裏返しになる」という記述があった。
「予定した路線にはすぐに乗るのだが、そこで喜んでいるとその下にある不安定なものが露呈されてくる」
「安定した対人関係が結びにくい」
「半分鬼であり、半分人間でもある」
「神経症と分裂病の境界に属する人格のありかた」
 
 なんのことやらわからない。
 私は、地下街の花屋で造花を一本買ってきた。背の高いグラスに差し、水を入れるべきかどうか迷った。水は入れず机の上に置いてみる。
 壁に反射した光の中で、すこしくすんだ赤色の薔薇は静かに息をしているようにみえる。だが造り物なのだ。指で触れると乾いた音がする。
 考えるのをやめてぼんやりしていた。小さなグラスに酒を垂らした。
 ウィスキーは生で飲む。
 その方が旨いからだ。嘗めていると水が欲しくなる。
 黙っているとチェイサーをよこさない店が多いが、それがもともとの作法なのだろうか。
 水の味も酒を左右する。私はフードのついたトレーナーを着ていた。
 足が冷たいが、靴下を履くのははばかられる。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.67

 
 
 
 
■ 電話が鳴った。昔すこし遊んだ女からで、今、恵比須の坂道で飲んでいるのだという。
「ブルー・マルガリータを四杯」
 知らない酒だ。
「男かえたんじゃなかったのか」
「そうなの、切れ間ってところね」
 何年か前のイブの頃、どう時間を合わせるのかで揉めたことがある。
 パーティに出ようというのだが、私は仕事が詰まっていた。そのパーティで知り合った男と暫く付き合っていたようである。
 ホテルの部屋を借りて集まることが、十年程前から暫くのあいだ流行った。
 自室が狭いから、そうするのだろう。
 坂道の途中にあるホテルは、二階のツインを全てそうした部屋に変えた。
 飲んだり食事をしたりする訳である。充分宿泊できるだけの料金で、アール・デコ調の椅子に座っているのは豪華なような気もした。
 その後、電車に乗らなくても良い場合ではあるが。
 
「今、どんなひととつきあっているのよ」
「四杯じゃないだろう」
 随分酔っているようだ。知っている頃は髪を長くし、時々はモデルのような顔をしてピアノを弾いていた。才能だけでは入れない、名の知れた私立の音大を出ている。
 私はぼんやりと話を聞いていた。ビデオのスイッチを入れ、音を消して眺めている。画面はいつも雨が降っているように思えた。
「代々木のツリーが変わったな」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.68

 
 
 
 
■「きいてないでしょ」
 成程そうなのか、と胸の中で細い針が微かに動いた。
 
 昔寝たことのある女が平気な声で電話をしてくる。私は平気な顔で答えている。彼女は男が変わる度に夜中に電話をしてきた。半ば決まった心を確かめるかのように、いくつかの些細な不安を並べた。ひとの心に興味があった頃、私は距離を置いて相づちを打っていた。
「まあ、この辺にしておこうぜ。七味を入れ過ぎると食えなくなる」
「あなたのそういうところがキライだったのよ」
 
 私は七味になることを承知していた。反面、昔の女と話していることで、現在に刺激を加えていることも自覚している。必要な時はそれで良かったのだろう。どういう訳かそうした構造が透けるようにみえた。普段そうした感覚が商品とコピーのあいだに薄い距離を置き、今のところ広告主から新鮮だと思われている部分のあることを思い出した。
 電話に付き合っているのに疲れてくる。向こう岸の言い足りない勢いを押さえ、電話を切った。
 二分経つと電話が鳴る。葉子だった。
「ポケベル、鳴らないわ」
「ああ」
 
 
 

2005年04月21日

「夜の魚」一部 vol.69

 
       十七 低い月
 
 
 
 
■「今度の土曜はなにしてるの」
「年賀状の宛名書きだよ」
「日曜は」
「できなかった分を書くんだよ」
 今年は土曜日がイブだ。私はメンソールの煙草を吸った。近頃、部屋に置いておき、思い出しては吸うことがある。
「食事にゆこうよ」
「東金はごめんだ」
「いいじゃない、髪もだいぶ伸びたし」
「東金がか」
「そうじゃなくてね」
 葉子は私を誘っている。私は半身になっている。
 この数年、クリスマスについては随分静かになっていたのだけれども、今年は街の様子が違っている。眼の色を変えたかのように宝石売り場にシャツを出した若者達が並んでいた。耳に穴を開けるのだそうだ。耳だけでいいのか。
「予約したのよ」
 そこで腹が立った。冗談じゃない、昔からクリスマスには餃子とビールで一杯やることになっている。部屋に帰ってから、小さなケーキをひとつ食うのだ。そう言うと、葉子は電話に溜め息をついた。
「だから、餃子を予約したの」
 私はすこし酔っていた。いい年をして、ロウソクの炎に揺れる女の顔を眺めていても仕方ないと思っている。油の浮いた壁の前で、蛍光燈の光に青ざめた毛穴を茫然と眺めているのが好きだ。
 葉子がBMWで迎えにくることになった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.70

 
 
 
 
■ 電話を切って、すこしだけぼんやりとした。
 夢であり、ここにこうしていることが偶然の産物なのだということをその時は信じた。
 雨の中、オランダの俳優が死んでゆくシーンがあった。
 電池が尽きるように、アンドロイドは短い寿命を終える。
 チップに人為的なバグを混ぜているのかも知れない。バグはどの機械にもあって、有機的な筈の私たちも例外ではない。
 
「ビタミン・サラダ・カルシウム・弁当」
という冗談を事務所で誰かが言っていた。新製品のネーミングにどうだろうか、ということなのだろう。
 
 有効成分を、単体で採ることが日常的になっている。
 地方の医学生は、コンビニで買ったコロッケをつまみ、カルシウムの錠剤を噛みながらジャズ喫茶のカウンターで猫の腹を撫でていた。
 彼女は瞳の大きな肌の荒れた美人で、薬に溺れた頃のアート・ペッパーが好きだと言っていた。時々男を替え、寂しいからと八階建てのマンションで暮らしていた。今は眼科医になって港の傍の病院に勤めている。
 私はビデオを止め、酒を嘗めた。内側に篭る気配が濃くなってきている。
 そういえば、トカレフはどうしたのだろう。
 あの時、流れる自分の血のぬるさに新鮮な驚きを覚えた。
 赤い血は暫くすると黒く固まり、シャツを脱がされる時、かさぶたが剥がれて痛んだ。 
 
 

「夜の魚」一部 vol.71

 
 
 
 
■ 土曜日になった。
 私は地下鉄を乗り継ぎ、表参道に出た。
 明るい通りからとって返し、ガラス張りの店を何軒か越した。注意深く眺めていると店の名前が随分変わっている。
 いつだったかこの辺りで高いシャツを買ったことがある。
 モデルをしていたと思われる眉毛の濃い男が胸元をはだけ、ツータックのパンツで説明をしてくれた。
 金を払い、むかし雑誌でみたことがある、というと露骨に嫌な顔をした。
 稚児が古くなると店に廻されるのだと聞いた。
 古いと言っても二十代半ばでしかない。
 
 坂をまっすぐ降ることはせず、左に曲がり青山墓地の手前の陸橋に向かった。
 タクシーの後ろに見覚えのあるBMWが停まっている。
 エンジンを切ってスモールを灯けている。
 
 葉子は陸橋の橋桁にもたれていた。
 下はキラー通りだ。黒い皮のコートを着て、短いブーツを履いている。
 その下はスカートなのか、灰色のようにも思える。
 私は脚を引きずっていることに気付いた。片方が硬直し、踵だけが擦り減るような気持がする。
 
「よお」
 と挨拶すると、葉子が指をさした。
 まだ低いところに赤と茶色の月があった。
 大きくて斑な模様がはっきりとしている。
 上の方が欠け、ビルの間から昇ってきている。
「この世の終わりみたいだね」
 葉子がそんなことを言う。
 横を向くとタワーが立っている。
 一番上のところだけがみえなくて、晴れてはいるがガスが出ているのだとわかった。
 空の上も風がないのだろう。
 
 
 

2005年04月28日

「夜の魚」一部 vol.72

 
       十八 渇く
 
 
 
 
■「松明のごと、なれの身より火花の飛び散るとき」
 葉子がベットの上で低い声を出した。
「なれ知らずや、わが身をこがしつつ自由の身となれるを
持てるものは失われるべき定めにあるを」
 
 どこかに記憶がある。埃を払うと鈍い金属版が覗ける。
「銀座で映画をやっててね、観たのよ」
「灰とダイヤモンドか」
「ワイダってひとが書いたのかとおもってたわ。本を読んだら難しくて最後まで読めなかった」
「でも、はじめのところだけは覚えたの」
 アンジェイェフスキだったと思う。小説の扉に、ノルビックの書いた詩が引用されている。
「灰の底ふかく、燦然と輝くダイヤモンドの残らんことを」
 私は、「自由」という言葉につまづいている。葉子が口にすると、何か意味があるかのように思えた。
「自由になりたいのか」
 私は葉子に尋ねた。
「ずっと、そう思っていたような気もするけど」
 空調の音が低くしている。
 部屋は乾き、窓からは隣にあるビルの灯りがみえている。葉子が予約したのは、恵比須にある人工的な街のホテルだった。
 駅から続く水平のエスカレーターがあり、それはいつも警告の声を流している。
 少しだけ開いた土の中に痩せた樹木が埋まっていて、そこには小さな電球が無数に纏わりついている。
 照明を浴びた建物の前で、若い男女が写真を撮っている。座り込んでいる若者もいる。
 人工的な街の中にあるデパートで酒とグラスを買い、部屋に潜り込むことにしたのだ。
「でも、自由って何かしらね」
 私は葉子が撃った中国女のことを考えていた。
 火花はトカレフの銃口から短い間、白く出ていた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.73

 
 
 
 
■ 葉子は髪が伸びていた。私はグラスを持っている。
 触る気持が起きるのを待っていた。
「わたしってね、たいていのことは旨くゆくんだけど、肝心なことがわからないのよ」
 葉子が言った。
「こうすればこの人はこう動く、ってこともすぐにわかってね、相手に応じて器用に使いわけることもできるの」
「誰でもそうじゃないか」
「でもね、そうしていると自分がなにをしたいのか、段々わからなくなってくるの」
 
 私は持ち込んだワインで餃子を食べていた。新築のホテルの部屋でポリ容器に醤油を垂らし、上品な餃子をつまんでいるのは不思議だ。味はいまひとつ。
 壁が薄いのだろう。建物全体が合金の上に薄い石を張ったような造りだった。沢山のひとの声が微かに響いている。
「よく予約できたな」
「父に頼んだの」
「親父さんは何処にいるんだ」
「上海」
「上海で何をしているんだ」
「ビールを売っているのよ」
 また訳がわからない。
「卒業したら上海にゆくわ」
 葉子はそう言う。
 私たちは赤いワインを飲んだ。ぬるくなってきている。葉子は短いショーツ一枚になっていた。その上に備え付けのバスローブを羽織っている。
 そう大きくはない胸がみえる。
 まだ芯が残り、強く掴むとはじめのうちは痛がった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.74

 
 
 
 
■「撃った時、どんな気分がした」
 私は尋ねた。葉子の眼が光り、フンと鼻が上をむく。耳が隠れる程伸びた髪が一度開き、躯を起こしてこちらを向いた。
 悲しんでいる訳でもない。怖がってもいない。葉子の姿はとりとめがない。
 私の座っている椅子の傍により、葉子は猫のように跪いた。
 私のバスローブを開く。スイッチが切り替わったのだとわかった。
 葉子が私を誘ったのはなんのせいか。
 話したのは何処までが本当か。自分がわからなくなるという。ノルビックの詩を覚えたのは私が喜ぶとおもったのか。
 女の敵は女だという。
 目線で、あるいは隠された口紅の下で、若い女は毎日何人かの同性を殺している。
 しかし、本当に銃を打つ訳ではない。そのように訓練されたひとがいることを私は知っている。撃たなければならない国に住んでいるひとも。中国の狐のような女は、北沢の女のひとりだった。葉子は北沢の子を孕んでいた。
 
 空調の音が微かにする。
 舌先が太股の内側を遊んでいる。
 髪が触れる。
 まだ一度にはゆかない。私は葉子を押しのけた。
「倉庫で晃子と何を話していたんだ」
 口紅がとれている。鼻の廻りに細かい皺がよって唇を丸めた。不満なのだ。
「晃子さんは、あの女に会ったら殺してやるといっていたわ」
「それだけじゃないだろう」
「ええ、あなたのことを聞かれたのよ。…あなただって共犯じゃない。銃を使わなかっただけよ」
「そうだ」
 後に続く言葉を捜したが、簡単ではなかった。
 腹の底でなにか冷たいものが動くのがわかった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.75

 
 
 
 
■ 外に出ることにした。葉子はそれ程飲んでいない。
 葉子は皮のコートを羽織った。口紅が赤い。地下の駐車場にゆきBMWを出した。葉子に運転をさせる。山手通りに曲がってゆく。
 私は鞄からカセットを出し機械に入れた。
「なに」
「フルベンというじいさんが指揮するオペラだよ」
「芝浦にゆこう」
 イブの夜の山手通りは混んでいた。千葉や多摩ナンバーが並び、渋谷からの坂を下るのに一時間かかった。
 拍手の音が入っている。バス・バリトンの声が低く響いている。彼は悪役で、幽閉された囚人を謀殺することを命ずる。
「訳がわからないわね」
 葉子は薄い不満を口にした。しかし、ボリュウムを絞ることはない。
 私は何か別のことを考えていた。酔いは鈍いものに変わった。
 
 私は葉子に心を読みとる能力があるのではないかと思っている。
 今、ワイダをもってくるのは何故か。
 葉子を眺めていると、切断された鮮やかな断片が印象に残る。そうしたシーンはいくつも思い出すことができる。しかし、それらは分断されていてひとつのものとして統合されることがない。
 借りてきたビデオの中に鑑別診断をする場面があって、それは人間かそうでないのかを曖昧に区別する技術だった。友人から送られた文献のリストには、いくつもの質問形式が例文として載っていた。「ボーダーライン・スケール」と呼ばれるもので、該当するものが多い程疑わしいということになる。
 
「私は周囲の人や物事からいつも見放されているかんじがする」
「最初にあった時はその人はとても立派にみえるが、やがてガッカリすることが多い」
「他人は私を物のように扱う」
「残酷な考えが浮かんできて苦しむことがある」
「私の内面は空虚だとおもう」
 
 確か、そのような質問が五十程度並んでいた。試みにテストしてみれば、恐らく私も該当の範囲だろう。
 ポーランドには沢山の強制収容所があって、そこでは何十万というユダヤ人やジプシーが殺された。
 人種、民族という曖昧な境界であったが、線を引き、ひとつの民族を地球上から根絶しようとする思想は何処から出てきたのだろう。
 ベートーベンの、「フィデリオ」は難解で一般受けしないと言われる。
 確かにロマンチックでもないし、誇張されてもいない。
 暗く、聴いていると辛くなるかのようだ。
 車が流れ出した。
 葉子がセカンドで引っ張った。
 舌先を伸ばしていた時の表情は微塵もない。葉子は自分を物のように扱っているのだと気付いた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.76

 
 
 
 
■ 桟橋の中に入った。
 鍵をかけ忘れた柵があって、横に動かして車を入れた。
 人影はない。
「この曲、聴いたことがあるわ」
 オーケストラの演奏でクライマックスに近づいていた。曇った音は録音が古いせいだけでもない。音をすこし大きくした。黙って聴いている。
「なんだか、自由への渇望って感じの演奏ね」
 葉子は人の心を読む。こちらが気付いていない偶然の出来事の意味を探る。カセットを持ってきたのはフトした弾みで、棚の端にあるものを選んでみた。それがフルベンだったのだ。演奏は一九五○年くらいのもので、当時のヨーロッパは大戦の痕が生々しく残っていた。ドイツはふたつに割れ、戦争の危険すら濃厚にあったという。
 
「わたしね、ローラって本を読んだことがあるのよ」
「フライパンで母親に焼かれた女の子の話」
「口も耳も、みんな不自由なの」
「ボランティアを始めた頃、読んだの」
 幾分かは嘘が混じるのだろう。
 しかし、別の意味を考えることにした。自分も焼かれているのだと示唆しているのかも知れない。半ば嘘が混じり、半ば切実で、その間を葉子は忙しく揺れている。揺れに耐えられなくなると、自分を物として扱おうとするのかも知れない。
「君は、マゾか」
「え」
「マゾッ気が強いだろう」
「うん」
「安心するのか」
「わからないけど、そうかも知れない」
 サディスティックな部分も強いことはわかっている。並の男以上に冷静・確実に車や銃を扱うこともできる。頭の中には残酷な思い付きが浮かぶことも度々あるに違いない。
「じゃ、寝ようか」
 ひとくぎりついたような気がした。
 
 
 

2005年05月12日

「夜の魚」一部 vol.77

 
       十九 対岸
 
 
 
 
■ 私たちはホテルに戻った。
 イブの東京湾は思いの他静かだった。軽くシャワーを浴び、酔いを醒ます。石鹸で頭を洗うと、キシキシして何本も毛が抜けた。
「どうするの」
 葉子はシーツを被っている。
「まあ、いいんじゃないか」
 私は煙草を吸った。決まりみたいなものだ。
 寝よう、と直裁に言ってあれこれ理屈をつける女を私は信用しない。
 若い女ならともかく、一定の経験を積んだ女性がもったいぶる姿をみると、上着を抱え取ってかえすことにしている。かといって、すべてを解放してゆくのもいかがなもので、性の底には明らかな暗さも怖さもある。避ける訳にはゆかない。その上で自分と相手の欲望を認め、素直に受け入れる姿勢を示す女性を好ましいと思っている。葉子は直裁に反応した。
 わかったわ、何処、と芝浦で答えた。ホテルに戻ることにしたのだ。
「マゾっ気があることはわかった。今日は普通にゆこう」
 私はシーツに潜り込んだ。半ば眼が醒めたような姿勢のまま、形の上では外側に終わることにした。葉子は唇を使わなかった。そうしようという気配を押しとどめた。背中を抱いている。葉子は足首を絡めている。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.78

 
 
 
 
■「ねえ、わたしが中国人だったらどうする」
 葉子が唐突に尋ねた。
「じゃ、韓国籍だったら、寝れる」
「どうしてそんなことをきくんだ」
「あのね、若い男が寄ってくると、韓国籍だと言って追い払うのよ」
 私は手を伸ばして灰皿を探した。正直言って、考えたこともなかった。
「若い男はどうするんだ」
「急におとなしくなって、そのまま帰るわ」
「そうだろうな」
 と、答えてから自分の言葉に驚いている。
「川向こう、っていうんだってね」
「あなたなら、どう」
「多分、最後のところでためらうだろう。…きちんとできないような気もする。自信はないよ」
「正直なひとね。でも、遊びならできるのよ」
 葉子が起き上がった。煙草を一本抜き取り、安いライターで火をつけた。
「セックスって、やっぱり政治的なものだわ」
「七十年代の文化人みたいなことをいうんだな」
「そうじゃないのよ、慰安婦問題だってね、相手がもし欧米人主体だったならすぐに謝っている筈じゃない」
 第一、白人を慰安婦にする発想はない、と答えようとした。当たっているので黙っていた。水平に動くエスカレーターのある街で、そこにそびえている新しいホテルの中で、およそクリスマスには相応しくないことを話題にしている。しかも裸だ。
 葉子の背中はくびれていた。手足は長く伸び、顎の線は鋭角で無駄なものがなかった。切れ長の瞳は、手入れをしていないと見せた眉毛の下で、大陸系であるかとも思われる。肌のきめは細かい。
 
 いつぞや、周辺性について調べていると面白い記述があった。マージナル・マンと定義されていたナチスの指導者達を、旧ドイツの財界人は、「川向こうの奴等」と呼んでいたのだという。旨く利用するつもりだったのだろう。
 私は葉子について考えた。子供のような横顔を見せたかと思うと、簡単には答えられない質問をしてくる。それは本質を抉っているかのようにも思える。
 北沢と寝たのはそのせいか、と尋ねようとしたが思いとどまった。
 暫くぼんやりし、眠ることにした。
「先に寝てて」
 葉子はそう言う。何かを考えているようでもある。
 葉子の肩口に毛布を掛け、背中を向けたところで隣のベットに移った。いつの間にか眠りに入る。
 
 
 

2005年05月16日

「夜の魚」一部 vol.79

 
       二〇 一月
 
 
 
■ 一月は乾いた空と時折の雨で始まった。
 入院していたせいで仕事が溜まっている。私は誰もいない事務所で二つのディスプレイを眺めていた。灰皿がいくつか山になった。通りが静かになって夜が過ぎ、気付かないまま新年になっていた。
 雨は思いだしたように降り、すこし経つとすぐにあがった。空気は乾いたままだ。
 連休の前日、私は同じように深夜まで画面を眺めていた。
 すこし歩き、車を拾って部屋に戻った。あれ以来、自分の車にはほとんど乗らなくなった。ヒーターがうなるのを待ち、薄いコーヒーを入れようとした時、電話が鳴った。
「あら、いたのね」
 晃子だった。
「去年のイブの夜ね、北沢から電話があったわ」
 微かに躯がこわばるのがわかった。
「近いうちにまた顔をみせてくれ、って言うの」
 北沢は生きていた。サーブは北沢のものだが、運転していた男の肌は褐色だった。
「声を覚えているのか」
「そりゃね」
「彼女、葉子さんは今どこにいるの」
「今は実家だろう、住所まで聞いた訳じゃないが」
「どうしてあなたって誰にでも一定の距離をとろうとするの」
 晃子はすこし苛立っている。時計をみると午前三時に近い。
「眠れないのか」
「そう。また無言電話があったのよ」
 私は冷たいベットに腰掛け、晃子の話を一時間程きいた。
 イブの夜は、退院した吉川が銀座の外れで食事を奢ったのだという。吉川はまだ酒が飲めず、晃子がなにやら高いワインを一本飲み干した。
「送らせて欲しい、って真面目な顔して言うのよ」
 ドアの前の情景が目に浮かぶ。帰る姿も。
「部屋に戻って着替えていたら電話が鳴ったの」
 それが北沢だったのだ。
「わかったよ、午後になったらゆくから」
 そう言うと、上着だけを脱いで眠りに落ちた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.80

 
 
 
 
■ 晃子の部屋の玄関には小さな額縁が飾ってあった。
 幾何学的な模様が灰色の下地に何本も重なっている。
 私は部屋に入った。ソファの上に鈍い赤色の布が被さっている。全体をくるむように、その色は三十を過ぎた女の部屋には強すぎる印のようにみえた。
 晃子の唇が動いた。
「この上だったのよ」
 冷ややかに見下ろしている。
「わたしは眼を開けてソファの模様を見ていた。ナイフでなぞられるまではね」
 おそらく、そういう姿勢を取らされたのだろう。晃子の下唇には二本の深い筋がついている。決して小さいとは言えないが感情のこもったかたちをしている。
 
「買いかえるのもシャクだから、布を被せたの」
 それが赤い布であるところがしたたかさというものだろう。
 私たちはコーヒーを飲んだ。向かい合っていると懐かしい気配もしたが、それが錯覚であることはわかっている。
「すこし整理をしようか」
 私はその時、晃子も同じ次元にいるのだと考えていた。何か知らないものに巻き込まれているのだと思っている。
「あの葉子って娘は、どんな子なの」
 珍しく晃子が直裁に聞いてきた。
「寝てるから恋人って訳でもないだろう」
「ライターの癖にツマラナイことを言うのね」
 晃子はまだ苛立っている。
 私は医局の友人から送られた文献の話をした。見事に切断されたいくつもの断片があって、それを目まぐるしく替えてゆく。
 どうしたらその場に一番適応できるのか、現状を認識する能力は基本的に高い。けれども、そうできるのは内部が見事に空白だからであって、本人はその空白に何処かで気付いている。であるから、長期的には適応も底の浅いものになってしまう。揺れながら異性や薬物に依存することもある。
 旨くは説明できなかった。
「でも、それってわたしたちだって同じじゃない。ひとをモノや部分のように扱うことはあるわ」
 私は、そもそもどれが本当の姿なのか掴み難いのだと言った。
「そこが魅力なのね」
 晃子はコーヒーを飲む。大きな黒い瞳である。
「そうかも知れない。なんだか理詰めで考えても無駄のような気がするんだ」
「歳をとったのよ」
 晃子が小さなステレオに手を伸ばした。スイッチを入れるとほんの僅かに音のずれたピアノが小さく聴こえた。
 
「エバンスは甘いわね」
 外が暗くなった。自分のことを言われたのかと思った。
 
 
 

2005年05月21日

「夜の魚」一部 vol.81

 
 
 
 
■「すこし飲みましょうか」
 晃子が棚から背の高いグラスを取り出した。
 バカラではなく、国産の最も硬質な種類のグラスだった。脚に色がついていないところが晃子らしい。
 麻のコースターを引きその上にグラスを置いた。
 手際よくコルクを抜き、白いワインを注いだ。
「あなたはウィスキーの方がいいのよね」
 小さなグラスを取り出してその横に置く。後は自分でやれというのだ。
「このコースター、自分で作ったのよ。接着剤で張り付けたの」
 女ってのは面白いもんだな、と私は思っていた。どれが本当の姿なのか簡単でもない。
「倉庫に寝てた時ね、彼女がいたでしょ。話してみると案外素直なのよ」
 吉川が撃たれた夜のことだ。
 晃子と葉子はビジネスホテルのような倉庫の管理人室で眠ることになった。
「どういう関係なんです、って聞かれたから正直に答えたわ。遠い昔の男、って言ったの」
「遠い、ね」
「十年も前のことだわ」
「するとね、今でも好きなんですか、とこっちを向いて言うの。その眼がね、挑戦的という訳でもないのよ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.82

 
 
 
 
■ 女ふたり、男のことを話す以外に何がある。
 あのとき私は吉川と倉庫の階段に腰掛けていた。
 小さなステンレスのカップでウィスキーを飲み、吉川の話を聞いていた。はじめ、葉子は晃子に会うことを嫌がった。
「彼女は他人の心が読めるようだわ」
 晃子が三杯目を注いだ。
「どうして別れたんだ」
「だから、わたしが浮気をしたのよ」
「シャクだから傍にいた男と寝たの」
 
 シャク、という言葉を今日はよく聞く。
 便利な言葉のような気もする。恨みがある訳でも流しているのでもない、その合間を縫ってサラリと言う。
「気持よかったか」
「すこしね」
 晃子の前の夫は真面目な勤め人だった。
 杉並に部屋を買い、週に一度は夫の実家に戻って食事をするのが習いだった。
「べつにね、マザコンって訳でもないの。大事にしてくれたしね」
 小さな灰皿を机の脇に置き、晃子が細い煙草を吸った。
「寝室があってね、そりゃ新婚だから。彼が念入りに手を洗っているの、済んだ後でね」 
 
 

「夜の魚」一部 vol.83

 
 
 
 
■ 手くらい洗うだろう、と思ったが黙っていた。
「白いセダンを買ったわ、あなたの嫌いな小さなベンツ。それで買い物にゆくのよ」
 
 今のように世の中が変わりそれに馴れてしまう前、私たちは何か夢のようなものが目の前にあるのだと思っていた。
 それは小奇麗なマンションだったり、女子大を出た妻であったり、イタリアのダブルのスーツであったりした。
 様々なものが膨らみ、私の仕事もそのお零れに預かっていたのだ。
 膨らみきった後、内蔵のようなものがはみ出し始めている。
「ある時ね、高いスーパーの喫茶店でお茶を飲んでいたのよ。隣に同じ歳くらいの奥さんが何人かいて、話しているのが聞こえたわ」
 霜降りの牛肉は旨い。
 遠くから外車に乗ってその店に買い物にゆくのが結婚に成功した女の証のように思われていた時がすこし前まであった。
 駐車場には守衛がいて、車を値踏みしながら丁寧にお辞儀した。
「帰りに車をぶつけて、二週間入院したわ。退院してから、隣の病室に入っていた若い営業マンに誘われたという訳」
 
 
 

2005年05月30日

「夜の魚」一部 vol.84

 
       二一 湿度ある沼
 
 
 
 
■ 晃子はワインを半分以上あけていた。次第に酔いが廻ってくるのがわかる。結局、まともなことはなにひとつ話さなかった。
 葉子のこと、奥山のこと、フィリピン共産党の武装集団、遠く連なっている赤軍やそれと結びついている様々なボランティア組織のこと。北沢とは何者なのか。ひとつひとつは別々なのだが、それらは細い糸で繋がっている。
「泊まってく」
 晃子が唐突に尋ねた。時計をみると十二時に近い。
 寝ましょうか、と聞かれているのかと思った。
「ベット、ひとつしかないんだろう」
「どうかしら」
 すこしだけ心が乱れた。振幅が顔に出たかも知れない。
「やめとくよ」
「彼女に悪いから」
 そうじゃない。別に悪いとも思わない。その気がない訳でもない。ただ、なんだかモラルに反するような気がするのだ。そんなことを口にするのが嫌なので、黙っていた。
 
 その時、電話が鳴った。晃子が椅子から立ち上がり受話器を取る。
 晃子の顔色が変わる。カーテンを開けて外を見ようとする。
「北沢がきてるわ」
 黒い瞳が大きく見開かれている。
 私は受話器を晃子から受け取った。耳にあてると低い声が笑った。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.85

 
 
 
 
■「はじめまして。いつぞやは連れが大変失礼しました」
 北沢の声だ。
 テロリストと話したことは一度もない。
 声には知性が出ると、ある写真家が言っていたことを覚えている。
 北沢の声にはある程度の教養が滲んでいるかのようにも思える。
 錯覚だ。
 一度に酔いが醒めてゆく。
 カーテンの影から下を覗こうとした。
 通りの向こう側、僅かに離れたところにスモールを付けた車が一台停まっている。
「そう、車の中からなんですよ。あなたとは始めてですねえ。これからそこに泊まるんですか、いや、彼女はいい女ですよ」
 何を言っているのか、女のことだ。
「それで、何の用だ」
「いや別に、唯の挨拶ですよ。ああ、そうそう、葉子が大変お世話になったそうで、これから連れて帰りますから」
「なんだって」
「わたしの元に戻りたいというものですからね、今傍にいるんですよ」
 北沢の声は低い。ゆっくりと、そして深い。
 その深さの中に濁ったものが混ざっている。
「ところで、明日お時間ありますか。あなたの持っているフロッピーを持ってきてくださいよ。葉子の顔が薬で溶けてしまったのをみるのはあなたも嫌でしょう。場所はまた電話します」
 そこでプツリと電話が切れた。
 窓を開けベランダに出るとハイビームにした車が加速するのが見えた。
 奴はその中にいたのだ。
 恐らく葉子がさらわれた。
 藤沢の外れの実家には母親だけがいると葉子は言っていた。
 その番号は手元に無い。フロッピーだって。なんのことかわからない。
 私は椅子に座り、ウィスキーをグラスに注いだ。
 窓から風が入り、髪を乱した晃子が立っていた。
 
 
 

2005年05月31日

「夜の魚」一部 vol.86

 
 
 
 
■ ロシア革命の時のテロリストは、逡巡しながら人を殺したのだという。
 詩人の魂とテロリズムが両立できた時代もあったのだ。
 ポーランドにあった工業的人種廃絶の強制収容所に、カポと呼ばれる囚人頭がいたことを私はふと思いだした。
 彼等は仲間を統制するために選ばれ、時には本当の看守よりも残忍な手腕で同じ国の人々を進んで殺していった。そうでなければ自分の身が危うくなったのだ。
 北沢がカポであると思っていた訳ではない。
 溶剤を使い、顔もわからなくする方法があることを何処かで聞いたことがある。残った骨は粉砕器にかけるとただの粉になるのだそうだ。そうした方法が実際に可能かどうか、私にはわからなかった。けれども、拉致されて国外に連れ去られればそれで事は済んでしまう。
 北沢はそういって脅す。
 日常的なもの言いになっているところが不気味だった。
 奴は生っ粋のサディストなのだろうか。どうでもいいことだ。
 恐らく葉子は拉致された。フロッピーには何が入っている。
 二杯目を注ごうとした時、晃子が遮った。
 座っている私の傍に立ち、腕を廻して頭を抱いた。
 私は柔らかいセーターの胸に顔を埋め、声を出さずに言葉を発した。
 誰が何を試そうというのだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.87

 
 
 
 
■ そこからの自分の行動を私は旨く説明することができない。
 椅子から立ち上がり浴室に入った。
 するすると下着を脱ぎ捨てると、熱いシャワーを長いこと浴びた。
 ポンプ式のシャンプーで頭から躯を洗った。
 垢すりのタオルが柔らかすぎる。ドアを開け、上着のポケットから煙草を取り出した。風呂の椅子に座って漠然と吸っている。
 晃子が覗いた。
 何も言わないで眺めている。浴室から出ると、新しい下着があった。
 晃子のベットの脇に布団を敷いてもらう。
 髪は濡れているが、乾くのを待つ訳でもない。
 恐らく、今夜は北沢からの連絡はない。葉子の実家に電話をしてもほとんど意味もないだろう。さらわれた葉子がどのように扱われるのか、北沢の声で判断がつく。それに対抗する手段がほとんどないこともわかっている。
 酒のグラスと灰皿を傍によせ、布団の上にあぐらをかいた。
 
「ともかく、寝よう」
 暫くして晃子が寝室に入った。灯りが消される。
 胸とその下の下腹に指を滑らせ、くぼんだものをかき分けた。
 あらかじめ湿度ある沼のような重さが指に伝わる。
 緩いものの中に入ってゆき、ただ動いた。まわすこともせず。
 押さえた声が高くなる。脇の下から薄い匂いが昇っている。
 懐かしいのかどうかわからず、暫くして眠りについた。
 悪い夢をいくつかみた。
 
 若い時の自分が、同じような過ちを繰り返している。
 その傍に今の自分が立っている。
 夢が醒めるとまた夢に入った。
 それが夢なのだということはわかっている。
 眠っている自分の布団から長い髪の毛が細くはい出してきて、かけてある毛布を持ち上げてゆく。
 それを鋏で切ってゆくおかっぱ頭の女の子がいる。
 その子の眼はあいているが見えず、赤い着物を着ていた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.88

 
 
 
 
■ 眼が醒めると早い時間でないことがわかった。
 ドアの向こうで音がする。暫くうなってから起き上がる。晃子がコーヒーを入れている。
「なんだかうなされていたわよ。その後イビキ」
 口紅をしていない。
「呑み込まれる夢をみたんだ」
「あら、そう」
 シャワーを浴び髭を剃った。剃刀が錆びている。すこし顎を切った。
 私は何をしているんだろう。これから何をするんだ。
 晃子に、吉川と連絡をとるように言った。奥山の力も借りるように。
「あなたはどうするの」
「わからない」
 溜め息をついている。
 
「ちっとも変わらないわね。昨日、わたし危険日だったのよ」
「うん」
「銃は持ってるの」
「いや」
 後ろの頭が薄く痛かった。晃子は生理が重く、中の一日はほとんど寝てばかりいたことを覚えている。コーヒーで薬を飲んだ。
「懐かしいって訳でもないわね」
「そんなに緩かったかな」
「なによ、下手な癖に」
 私は上着を着て外に出た。
 冬の空は明るく、すこし目眩がした。
 上着のポケットからサングラスを出し、階段を降りた。
 低い屋根が続いている。
 十年前と同じ眺めだ。交差点で車を待っていると、ふたつ向こうの路地に晃子が住んでいたモルタルのアパートがあったことを思いだした。
 
 
 

2005年06月06日

「夜の魚」一部 vol.89

 
       二二 圧縮
 
 
 
 
■ 私は自分の部屋に戻った。薄い埃の匂いがした。
 ベットの下のファックスがなにかを掃き出していた。
「今晩九時、本牧C突堤」
 夜のうちに北沢が入れたのだろう。ご丁寧にゴシック体である。
 おかしな予感があり階段を降りた。郵便受けの中を捜してみる。手でかき回すと、上の部分にガムテープが貼ってある。鍵とメモがあった。鍵はロッカーのもののようだ。
 メモの指示に従い、大手新聞社のパソコンネットにアクセスをする。
 私あてにメールが来ている。葉子からだ。
 日付は大晦日になっている。葉子が何故私のIDを知っているのか不思議だった。いつぞや、メールで原稿を送っているのを記憶していたのだろうか。メールは圧縮されていた。展開して読む。
 暫くの間、誰かにつけられていることを葉子は自覚していた。
 北沢に拉致されるのも時間の問題だと思っていたようだ。
 
「言わなければならないことがあります」
 それに続く内容はある意味で予感していたことでもあった。
 CPPの武装組織、NPAと呼ばれる新人民軍に所属する特定の小集団が、国際的なテロリスト集団のいくつかと連携し、日本に覚醒剤の密輸を行なっていた。
 武器の調達資金獲得のためである。都市部において要人暗殺などのテロ行為に関わってきた、「スパロー・ユニット(スズメ部隊)」と呼ばれる小部隊のひとつが母胎となり、近年弱体化しているといわれる本部の指揮下を離れ、密かに独自行動に移っているという。南米などにおいて、ゲリラの一部が、覚醒剤によって豊富な資金を得ていることに倣うつもりらしい。
 その覚醒剤のほとんどは中国とロシア製で、通称「ブラック・スター」と呼ばれる中国製トカレフの搬入はそれに付随した仕事にすぎない。
 国内での密売の元締めは北沢とされた。背後には組織がある。彼は香港を拠点にいくつかのテロリスト集団と連絡を取りながら活動を続けていた。
 
「わたしは北沢の女のひとりとして、その仕事を手伝っていました。その時のデーターをフロッピーに落として持ってきたのです」
 追われる理由はそれだったのだ。
「始めて横浜に泊まった時、車を借りて朝比奈峠にゆきました。北沢と会ったのです。撃とうと思ったけれど、駄目だった」
 私は煙草を何本も吸った。
 飴を嘗めている場合でもない。三本目で胃が痛くなった。
 胃の薬を捜し、台所の水でそれを飲んだ。古くなった鉄の味がする。
 メールの最後に書いてある言葉が気になる。
 五行程空白があり、「ありがとう」とある。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.90

 
 
 
 
■ すぐに暗くなった。
 私は指定された駅のロッカーから防磁ケースに入ったフロッピーを一枚持って部屋に戻った。
 金属のロッカーに小さなケースがひとつだけという眺めは空虚である。
 拳銃があるかとも思ったが処分したのだろう。
 機械に入れ中身をみようとする。ただの数字の羅列でしかない。
 標準形式のデーターであることは確かだが、意味のあるものにするには、何等かのプログラムを一度通す必要があるのだろう。
 複写する。同じものを二枚作った。一枚を封筒に入れ晃子宛とした。
 警察にも、と考えたが余計なことだと思い直した。
 それから押し入れを捜し、古い皮のジャンパーを取り出した。ナイロンのザックにいくつかのものを詰め、外に出た。
 
 坂道を下り細い路地に入る。車の入らない舗装されていない一角があって、突き当たりには二匹の石の狐が細い眼でこちらを向いている。鳥居の跡だ。
 その横に廃屋があって、そこは何年か前地上げされたまま放置されている。その一階を私は借りていた。
 南京錠の番号を廻し、引き戸を開けて中に入る。
 シートを剥がし一台の単車を引き出した。
 車検は切れているが、月に一度ここへきてエンジンに火を入れている。
 六九年式のカワサキのW1Sを改造したものだ。
 通称ダブワンというバイクである。タンクを古いTシャツで磨いた。ヘルメットをハンドルに掛け、路地を押してゆく。
 既にして冬の夜になっている。コンクリの壁、オーバーパスになっているところまでゆくと、サイド・スタンドをかけキャブレターの脇についているティクラーを何度か押した。ガソリンがキャブの下にあるホースから流れ出す。冷えている時はオーバーフローさせねばかからないのだ。
 
 流れるガソリンをみていると思い付くことがあった。すこし歩き、酒屋の脇に積んであるビールの瓶を二本盗んだ。ザックに入れる。
 キーを捻る。バッテリーは生きている。大振りのハンドル、スロットルの脇についているチョーク・レバーを一杯に引き、W1Sにまたがった。
 左脚に重心をかけ、右足でキック・ペダルを探る。一、二度感触を確かめてからピストンの位置を調節した。
 右足に体重をかけ、一気に踏み降ろす。
 
 マックス・ローチのドラムのような音がして、六五○CC直立二気筒エンジンに火が入った。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.91

 
 
 
 
■ W1SはホンダのCBがでるまで国内最大の単車だった。
 イギリスのBSAを手本にしたと言われるエンジンはOHVで、つまりカムシャフトがクランクのすぐ上にあり、プッシュ・ロッドを介してバルブを操作していた。五三馬力、最高速度一八五キロであるという。
 実際はそれ程でもなく、一六○で一時間も走れば必ずと言っていい程焼き付きをおこした。こいつも一度ピストンを焦がしている。その時にロッドを細いものに替え、カムを削り直し、圧縮をあげてやった。バルブも磨く。
 オイル・クーラーをつけ、貧弱なドラム・ブレーキはヤマハの古いレーサー、TZのドラムを移植した。リアのショックは七十年代のカワサキの四気筒、ザッパーと呼ばれた六五○のものがピタリと収まった。
 どうした訳か、オイルはカストロールの相性が良く、五○○キロで交換してやると、タコ・メーターの針は赤い部分を嬉しそうに揺れていた。
 実測で二○○は出ただろう。首都高速の内廻りでBMWのK一○○とバトルして負けはしなかった。
 私はスロットを捻った。二本のキャプトン・マフラーから出る排気音は、ハーレーのそれよりもメリハリがあり、くぐもっている。
 スロットの下にあるネジを捻り、開度を一定に保つ。流れたガソリンはすでに蒸発していた。煙草を吸いながら、ザックをスプリングのシートに括り付け、ナンバーにガムテープを張った。
 
 
 

2005年06月09日

「夜の魚」一部 vol.92

 
       二三 突堤
 
 
 
 
■ W1Sは右足がギアになっている。慣れないうちは誰しもが戸惑う。
 私はメイン・スタンドを外していた。ただでさえバンクが浅く、思い切り倒すとアスファルトに触れすぐに火花が散った。
 加速する。八○まで引っ張ってブレーキをかけた。
 振れもせず、このままゆけるようだ。
 天現寺の傍のスタンドで有鉛のガソリンを入れた。空気を確認し、ワイアーにCRCを吹き付ける。スタンドの若い者が遠巻きに眺めている。
 タワーの前を曲がり、新橋の釣り具屋にいった。ジャケットとオイルライターをふたつ買う。その脇のペンキ屋でつや消しの黒いスプレーを求めた。
 産業道路に廻り牛丼屋に入る。
 特盛を頼み、卵を入れ五分で食った。
 サービスの券を貰ったが隣にいた白人にやった。彼はなまりのある英語で礼を言う。英会話学校の講師のようだ。
 大井から高速に乗り横羽線に入った。多摩川を渡ってすぐのパーキングに一度停め、黄色のジャケットに黒いスプレーを吹き掛けた。乾くのを待ち、皮のジャンパーの上に羽織ってジッパーをあげる。
 橋の上から遠い東京がみえる。
 川向こうだ。
 いくつもの点滅する灯りがあり手前には空港がある。風も強い。
 海は何処なのか、と思うのだが、入り組んでいて定かではない。
 人気のないことを確かめ、W1Sのティクラーを押し、ガソリンをビール瓶に詰めた。ガムテープで蓋をする。ライターを縛り付けた。
 メッキに黒のタンクは、これで相当軽くなった。
 晃子に電話し、C突堤にゆくのだと言った。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.93

 
 
 
 
■ 生麦を過ぎた。製鉄所の煙突からガスの炎がでている。
 車で通る時は気付かないが、はっきりと匂いがする。
 車体の内側に躯を倒す形でコーナーを廻る。頬が引きつった。ガラスのゴーグルをしていても、風が直接当たるのだ。
 S三○のZが先を走っている。
 ワタナベのホイルに太いタイアを履き、マフラーも太い。
 二八○○CCにはなっているだろう。懐かしいL型だ。
 加速して並んだ。
 一五○まで出した。
 横浜駅の上で奴はシフト・ダウンする。
 野太い排気音を巻き散らし、トンネルに下ってゆく。
 いけるじゃないか。
 私はなんとなく納得をしていた。これが最後になるのだ。
 橋の方角に曲がらず、スタジアムで降りた。
 中華街の自動販売機で缶を買い、ふたくち飲んだ。
 倉庫の脇を過ぎ、本牧の港に近づく。
 数年前まで埠頭には自由に入ることができた。
 鉄の柵ができ、その前には守衛がいて夜になると閉鎖されてしまう。
 
 私はB突堤から眺める夜の港が好きだった。
 コンテナの上によじ登り、別れた女のことを考えたこともある。
 朝になると、エンジンの塊のようなトレーラーが集まる。
 奴等は直角のコーナーを僅かに逆ハンを切って曲がってくる。一万CCのディーゼルエンジンの加速は、並みのセダンではかなわなかった。
 排気ブレーキを思い切り踏むと、女の背丈程あるタイアから白い煙が出ていた。
 朝になると小さなトラックが来ていて、トレーラーのドライバー相手に朝飯を売っていた。その横に混ぜてもらいウドンをすすったこともある。
 橋が出来る前だ。千葉から横浜が遠かった頃だ。
 
 若い頃、私はただの馬鹿だった。
 捨てきれないものが澱のように残っていて、それが何なのかよくわからない。
 W1Sもそうだ。
 程度の良いものを見つけ、あり金を叩いて数年前に買った。
 十代の頃乗っていたからなのだが、私の肩にはまだ金属が入っている。六ヶ月病室の白い天井を眺めて過ごした。その後大学をやめた。
 ゆっくりと単車を走らせる。
 短い排気音が響いている。
 C埠頭の重い鉄の柵は鍵が外れていた。車が入れるだけの隙間がある。
 一度止まり、ザックから瓶を取り出してジャケットのポケットに入れた。
 廻りを見渡し、埠頭の中に入った。
 
 
 

2005年06月13日

「夜の魚」一部 vol.94

 
       二四 速度
 
 
 
 
■ 背の高い水銀灯がコンクリを照らしている。
 触ればそのまま張り付くかのようなコンテナの鉄のことを思った。
 その脇をゆっくりと走らせる。
 すぐ脇に橋が見える。蒼白く空を遮っている。船の影はない。人影も、事務所の灯りも。
 水路には反射した水が重さあるもののように腹をみせている。
 ビルの高さ程もある自走式のクレーンの下を通った。
 部屋ほどの広さのあるコンテナを釣り上げて貨物船に乗せるため、埋めこまれたクレーン用の浅い線路がコンクリを横切っている。
 埠頭の中程を過ぎた。
 突堤の外れ、車が停まっているのがみえた。
 背の低い、屋根の丸い車だ。
 二度、ライトが短くつく。
 北沢だ。
 はじめはゆっくり、それから思い付いたように車は加速した。
 こちらに向かってくる。
 ポルシェだ。
 乾いたドライ・サンプの排気音が横切る。
 銀色のようにも、青が混ざっているようにもみえる。
 多分カレラ2だろう。北沢が4に乗るとも思えない。
 サードでひっぱっている。シューンという音が遠ざかる。
 私はブレーキをかけ、シフトダウンした。左足を軸に、単車の車体を寝かせアクセルを捻った。その場で小さくUターンする。脇腹の傷跡が伸びる。頭を低くして、回転を上げた。
 小さなテールを追い、埠頭の入り口へ向かう。
 片側三車線程ある埠頭の幅全てを使い、カレラは真横を向いた。
 ポルシェでブレーキ・ターンをするところを私は見たことがなかった。乾いた路面でそれができるのだとは俄に信じがたい。重い尻が奇麗に流れている。
 頭を二度振り、立て直し、こちらに向かって加速してくる。
 短くクラクションを鳴らし、そうだ、奴は遊んでいるのだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.95

 
 
 
 
■ 丸いライトがボディに埋め込まれる直前のカレラだった。
 チューンしたとはいえ三十年近く前の単車がかなう訳もない。
 そんなことは始めからわかっている。
 私は銃を持たず、剥き出しの単車でここにきた。傷を負わせるつもりなら、幅寄せすれば簡単に出来るだろう。
 速度というのはいつも幻想の部分を含んでいる。かといってそれを否定してしまうことは、割り切れない幾つものものを無かったことにしてしまう。
 私はゆっくりとUターンした。
 セカンドとサードで加速し、二気筒の排気音を楽しんだ。
 突堤の一番端にポルシェは停まっている。後ろは黒い海だ。
 声の届くところ、顔が辛うじて見えるところで止まりW1Sのスタンドを掛けた。エンジンを切る。
 ポルシェのドアが開かれ、男が降りた。
 背の高い、肩幅の広い男が北沢だ。
「よお」
 声にならない笑いをどちらも浮かべている。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.96

 
 
 
 
■「寒い夜ですね」
 北沢が言う。
「ああ」
「オートバイとは御苦労なこと。それも懐かしいカワサキのW1じゃないですか。わたしもマッハとかZ1とか乗ってましてね」
「泣かせるだろ」
「まあね」
「ストーンズかなんか、かけろよ」
「泣くほどの馬鹿って訳ですね」
 彼は唇を斜めに笑った。薄い唇から出る笑い声は成程そういうものであるのかと思われた。北沢と私とは同世代だ。同じような空気を吸い、同じような音楽を聴き、同じような化粧に喋り方をする女と付き合い、寝た。十代の頃は多分髪を伸ばしていただろう。何処でどう食い違うのか、果たして何処まで違っているのか。そもそも、そんなことを考えること自体理屈には合わない。
「フロッピー持って来ましたか」
「葉子は」
 北沢が横を向いた。助手席のドアがゆっくり開き葉子が車から降りた。
 顔色がみえない。トレンチのコートを羽織っている。
「暫く乗らないうちに、車も女も随分味が変わるもんですね。本牧の港みたいだ」
 北沢は上着の胸に手を入れ、煙草を取り出して火をつける。
 片手には黒い銃があった。
 
 
 

2005年06月15日

「夜の魚」一部 vol.97

 
       二五 縄目
 
 
 
 
■ 銃はトカレフではなかった。
 艶消しの塗装で、サブノート型パソコンのような色をしている。
「そう、あんなもの自分では使わないんですよ。これはグロックという銃です」
「麻薬の密売ってのは儲かるんだな」
「ええ、人並みにね」
 この男が新人民軍の窓口であるとはとても思えなかった。
 淡い色合いの軽そうな上着を着ている。カシミアだろう。北沢は注意深く、開けられたドアの後ろに立っている。ロブの靴だ。
「革命の手助けをしているつもりなのか」
「ふん、もうじき世紀末ですよ。田舎の革命なんてどうでもいいでしょう」
「JRAはどうした」
「ええ、重信さんとは何度かお会いしました。日本赤軍の名前は便利でしてね、あちこちのマフィアも一目置いてくれるんですよ」
「NPA、スパロー・ユニットは仲間じゃないのか」
「彼らはテロリズムだけの職人です。なんでもそうでしょう、手段それ自体が目的になってゆきます。私は彼らの技術を買っているだけでね、仲間だと思っている訳ではない。この仕事には金を出す日本の閣僚もいるんですよ」
「そのデーターが入っていると」
「そう、だから漏れると困るんです」
 
 北沢は退屈そうな表情で比較的長く話している。NPAもJRAも、北沢には直接の関係がない。彼にとっては、利用できるただの取引相手であり、出入りの業者のようなものなのだ。
 閣僚というのは何のことだろう。だとすればフロッピーの回収だけで済む筈がない。北沢は確実に私たちを殺す気でいる。
 私は葉子をみた。口を聞かず、車の横に立っていた。死んだ魚のような顔色をしている。薬を使われたのだろう。
 
「随分仕込んだもんですね。以前は後ろも使えたのに」
 そこで頭が白くなった。
 ジャケットからビール瓶を取り出した。貼ってあるライターに火をつける。
 ポルシェのドアにむかって放り投げた。
 銃声がした。
 瓶は手前で割れ、ガソリンに引火した。
 炎が背丈ほどになる。北沢の顔が歪んでみえた。
 単車にまたがり、エンジンをかける。
「走れ」
 私は叫んだ。
 ローで引っ張ると、短い銃声が頬の横を横切った。
 右肩にもそれは弾け、肉が削げたのがわかった。
 痛みはまだない。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.98

 
 
 
 
■ 葉子をみた。
 裸足で走っている。コートの裾が翻って、白い肌に綿のロープが念入りに巻き付いている。縄の下は裸だった。
 炎の中を突っ切った。熱くはない。
 ポルシェのドアに前輪をぶつけた。
 挟まれた北沢がよろめく。
 そのまま左に逸れ、コンテナの影まで加速した。
 追い付いた葉子を拾う。
 W1Sの小さなシートに、縄を食い込ませた葉子がまたがった。倉庫の裏側、B突堤が見える広い船着き場を加速してゆく。
 前が塞がった。
 後ろにコンテナを積んだ大型のトレーラーが、動く壁となってゆっくりバックしてくる。仲間がいたのだ。
 赤く塗られたコンテナには、「公洋貿易C&C」とある。
 いつだったか晃子が言っていた。
 毛沢東思想はいくつもの形をとって日本に残った。あからさまな例が、親中共派系の過激派集団だったが、重信率いるJRAに関しては、発足当時の、「連合赤軍」とは明らかな断層があると言われている。親中共系の団体のいくつかは合法的な会社を作った。今となってはそのほとんどがただ利潤を追うだけのものになっている。税関の傍にあったこの会社も、いくつかの企業の窓口になって莫大な利鞘を稼いでいるのだろう。
 
 大きく車体を傾け、私は逃げ道を捜した。浅いバンク角にキャプトン・マフラーが火花を散らした。
 北沢のポルシェが近づいてくる。右肩が熱を持っている。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.99

 
      二六 空
 
 
 
 
■ 左手でもう一本の瓶を取り出した。
 葉子に握らせる。
 オイルライターに着火し、運転席に投げるよう大きな声を出した。
 葉子が投げる。届かない。
 ダブルタイアの辺りが燃えた。トレーラーは止まらない。
 その時、列車が停まる時のような音がした。
 コンテナの真上に貨物船の錨のようなものが落ちて揺れた。
 ビル程の高さの、オレンジ色に塗られたクレーンが動いている。
 歩くような速度で近づいている。
 錨と思ったのは伸びている重い滑車だ。
 滑車はゆっくり揺れ、トレーラーの窓を叩き割った。
 ガラスが飛び散る。避けなければ即死だろう。トレーラーはそこで止まった。
 自走式クレーンの運転席は比較的低い部分についていた。中程、ちらりと人影が見えた。
 吉川だ。
 白いトレンチを着込んだ吉川が歯をむき出して笑っている。
 北沢のポルシェと交差した。奴は額から薄い血を流している。
 ライトの中で大きく口を開け、何事かを叫んでいる。聞いてはいられない。
 北沢のポルシェと並んだ。
 セカンドで六千まで引っ張った。サードに入れ右手を持ち換えた。
 震動が酷い。分解しそうな音をさせながら、古い直立二気筒は回転を上げる。葉子が腹を掴んでいる。太股がはだけている。鈍い加速だ。
 レンチを左手で掴んだ。古い単車にはシート・ベルトがあって、その脇に挟んであったのだ。
 ポルシェがすぐ脇にきている。丸いフェンダーをレンチで叩こうとした。
 外れた。ミラーが飛んだ。
 北沢のポルシェがあっさりと抜く。
 金属の擦れ合う音をさせ、みるみる遠ざかった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.100

 
 
 
 
■ 視界に赤い光が入った。いくつもある。
 警察車両だ。包囲するように、突堤の一番先をめざしている。
 サイレンを鳴らしている筈だが、風と古いエンジンの騒音で耳に入らない。
 ポルシェを追う。
 突堤の外れが近づく。
 角のところ、点滅する岸壁のマーカーのあたりに北沢は向かっている。
 まっすぐだ。そのままゆくと海だ。
 奴は落ちるつもりか。
 距離が縮まった。
 ポルシェの丸い尻がみえる。
 カレラ、と書かれたエンブレムすら読めそうだ。
 北沢がブレーキをかけている。また横になるつもりか。
 ハンドルは切らない。
 ポルシェのブレーキは信じられないくらい効く。助手席の者が鞭打ちになるくらいだ。
 ガクン、と速度が落ちて突堤の外れで止まった。
 葉子が何かを叫んでいる。
 間に合わない。
 そうだ、前は海なのだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.101

 
 
 
 
■ シフト・ダウンしながらブレーキを握った。
 後輪がロックして車体が振れた。
 メーターは八○から下がらない。
 丸い尻が眼の前にある。
 脇はコンクリのブロックだ。
「飛ぶのよ」
 葉子が耳もとで叫ぶ。
 アクセルを開いた。
 鈍いショックがあった。
 ポルシェのなだらかなテールに乗り上げた。
 そこで立ち上がり、ハンドルを手前に引いた。
 軽くなる。
 空だ。
 ベイ・ブリッジが低いところにみえた気がした。
 何台もの車のライトを浴びている。
 W1Sは大恐慌の時、エンパイア・ステートビルによじ登った愚かな猿のように吠えていた。
 落下した。
 
 
 

2005年06月16日

「夜の魚」一部 vol.102

 
       二七 魚
 
 
 
 
■ 頭から入ったのか、よく覚えていない。
 尖った水が染み込んでくる。冬の海は案外明るい。
 すこし上のところに大きく開かれた葉子の脚がみえた。
 コートが脱げている。黒い部分とそうでないところとが奇麗だった。
 葉子は夜の魚のようにゆっくりと泳いでいる。
 左手でヘルメットを取った。
 葉子の胸で見事に交差している縄を掴んだ。
 皮ジャンの上に着た救命ジャケットの紐をひっぱり、空気を充填した。
 浮かんでゆく。水が白くなってゆく。
 顔を出した。
 息をする。
 葉子が傍にいた。
 口を開けている。
 空は黒い。細かな破片のようなものが降ってくる。
 雪だ。
 私と葉子は真冬の横浜港に浮かんでいた。
 冷えると思ったら雪になっている。
 振り返ると、C突堤のマーカーが見えた。
 岸壁は並んだ警察車両のライトで一杯だった。赤い筋が交差している。
 後ろから一本の光が近づいた。
 浮き輪が投げられ、私たちは引き揚げられた。
「水上警察です」
 と、奥山が言った。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.103

 
       二八 エピローグ
 
 
 
 
■ 秋がきた。
 空が高くなり、上着を手に持つことがなくなった。
 私は煙草を軽いものに変えた。すこしだけ髪を伸ばし、古くて安いフランスの車を買った。煩くてドアもよく閉まらない。暫くはそれでも良いのだと思っている。
 あの後、私と葉子は警察病院に運ばれた。
 私は大部屋だったが、葉子だけは個室だった。
 真冬の横浜港に見事な亀甲縛りのまま裸で飛び込んだのだから、熱を出しても不思議ではない。葉子は軽い肺炎になったのだ。
 水上警察の船の上ですぐに毛布を被ったが、縄を解くのに時間がかかった。乗組員が遠慮したのか、結び目を捜して手間どったのだという。縄は股の間にも廻されていたのだ。
 私は踵と肋骨にヒビが入っていた。肩甲骨の上が割れ、止めてある金属が歪んだ。銃弾はそこで向きを変えたらしい。金属を取り替えたが、肉が盛り上がるにはまだ暫くかかる。
 葉子は薬を抜くために特別の治療を受けていた。
 治療自体どんなものかは知らないが、薄い耐性が出来ていたのだという。覚醒剤も含まれているのだろう。
 奥山が見舞いにきた。
「黙っていて、申し訳ありません」
 
 彼は厚生省管轄の麻薬取締捜査官だったのだ。神奈川分室に属している。
 桟橋近く、水上警察署の四階にある小さな部屋で私は何度か事情聴取を受けた。
 組織は別だが捜査は合同でなされたらしい。警視庁と神奈川県警との仲がそうであるように、厚生省と警察庁が協同で事件の解決を図ろうとすることは、通常ほとんどあり得ない。
 役人特有の縄張り意識のおかげで、各種の広域捜査の場合には円滑にゆくことの方が珍しいと言われている。今回のようなことは極めて異例であり、背後に何か別の力が働いていたのかも知れない。
 覚醒剤に関しては、コントロールド・デリバリー、いわゆる、「泳がせ捜査」ということが特例として認められている。私は囮として使われていた訳だが、不思議に腹も立たなかった。
 松葉杖をつきながら入り口の階段を昇る時、彼は眼鏡のツルを何度も持ち上げて眺めていた。決して手を貸そうとはせず、それが流儀なのだろう。
 窓に格子のある部屋で私は何度かカツ丼を食べた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.104

 
 
 
 
■ 北沢は捕まらなかった。
 ポルシェの中には上着だけがあり奴の姿はなかった。
 夜の海を泳いだのだろう。
 葉子が持ち出したフロッピーには、人名と販売経路の一部が残されていた。
 北沢が口を滑らせたように、現役の閣僚に連なる名前もあった。勿論、捜査はその段階まで及ばなかった。北沢を捕らえることができない以上、情況証拠だけでは無理なのだ。
 中国本土とロシアの辺境から香港を通る麻薬ルートは、その一部が休眠状態となっただけで今も健在である。
「公洋貿易」という会社は一年も前に登記が抹消されていた。
 事務所も空であり、机と外された電話だけが残っていた。
 現在、日本に残るCPPのメンバーは宗教団体の非課税の部分に眼をつけているという。背後に仕掛人がいるのだろう。科学や超心理などの名目をつけ、終末論と来世の繁栄をうたう幾つかの新・新宗教は人間の受動性の部分を巧妙にくすぐっている。本部の指導を離れ、一層過激となったスパロー・ユニットの一部はまだ日本に潜伏したままである。 
 ともあれ、何かが終わったとも思えない。
 始まったという訳でもない。
 吉川は相変わらず晃子を口説いてはフラれている。
 怒られることを楽しんでいるようでもある。
「とうとう官憲の手におちたな」
 と、警察病院のベットに寝ている私を見下ろしていた。
「俺は自由な個人として協力しているまでだ」
 奴が奥山を連れてきたのだが、何処まで知っていたのか今となってはどうでもいいのだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.105

 
 
 
 
■ ラジオからパット・メセニーの曲が流れている。
 車は今にも分解しそうな音をさせ、一四〇で走っている。
 この小さな車ではこの辺りが限界だ。
 高速の繋ぎ目を乗り越える時の収まりが、フランスの味を残している。
 空港に向かう道は空いていた。空が赤くなってゆく。
 葉子は上海にいった。
 先日、何枚もの写真が送られてきたのだ。
 大きな川に沿っている公園で、沢山の人が沈む太陽を眺めていた。
 街の中心部には建設中のビルがいくつもあり、竹を組んで職人がその上を歩いていた。
 葉子は伸びた髪を上でまとめ、中国服を着て脚を組んでいる。
 随分大人びてみえる。
 私は事務所をやめた。
 入院していたことと、何かがはっきりしたような気がしたからだ。
 葉子の父は、「上海貿易公司」という会社をやっている。
 どんな男なのか知ってみたいという気分がある。
 彼の紹介で向こうの代理店に嘱託として暫く席を置くことにした。いつまでになるのかはわからない。主にドイツの企業相手の仕事になるのだと聞いている。細かい打ち合わせもあって、一度向こうに渡ることにしたのだ。
 自由化政策の影響で、上海は往年の活気を取り戻している。
 狭い部屋に大家族が住んでいて、早朝の公園は子供と老人達で一杯になるという。若夫婦のために、朝の時間を空けるのだ。
 
 私は車の速度をゆるめ、途中のパーキングに入った。
 自動販売機で煙草を買い、腰を屈めた。
 思いだしたこともあったが、かたちにならなかった。
 
 
「夜の魚」 完
 

「夜の魚」一部 vol.106

 
 
 
 
 主要参考文献
▼「新フィリピン事情 崩壊と再生」 西田令一著 日中出版 1989
 
▼「フィリピン新人民軍従軍記」 野村進著 晩聲社 1981
 
▼「日本赤軍派 その社会学的物語」 パトリシア・スタインホフ著 木村由美子訳 河出書房新社 1991
 
▼「対談 革命的左翼運動の総括 いま語っておくべきこと」 川島豪・塩見孝也著 新泉社 1990
 
▼「灰とダイアモンド」 イェジイ・アンジェイェフスキ著 川上洸訳 旺文社文庫 1978
 
▼「青年期境界例」成田義弘著 金剛出版 1989
 
▼「ボーダーラインの心の病理ー不確実性に悩む人々ー」 町沢静夫著 創元社 1990