緑坂 2

2004年11月04日

「緑色の坂の道」vol.3463

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■パーソナルアドカード 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
Distributed by コニカミノルタ

2005年08月12日

「緑色の坂の道」vol.3255

 
       それよりすこし寒くなった。
 
 
 
 
■「夜の魚」二部 外灘(バンド)の再掲が終わった。
 なんにせよ、長い時間がかかった。
 今は最低の、昼間の厄介以外のことはしたくない気分でいる。
 暫くEタイプの画像を一番上にしておくが、それも時期がくれば移動させるつもりでいる。
 
 
 
■「夜の魚」に出てくる「葉子」には不思議なファンが多い。
 彼女はいい女だという。
 登場したときの葉子は、バス停の隣に落ちていて、主人公を厄介な事件に巻き込んでゆく。性格は「境界例」そのままで、極端から極端へ揺れ動き、性に対しても貪欲というかタブーがない。
「境界例」的な人格のあり方というのは、私はネット時代のひとつの底流にあるものだと考えているが、さておき。
 これは小説であるから何処かに救いを持たせるよう心がけた。
 一部、二部と読み進めると、葉子が次第に変容してゆく様がみてとれる。
 ラストで、上海の路地裏にある集合住宅で、化粧気もなく大きな口を開けて笑う姿に、葉子の成長というか次の段階を仮託している。
 物語のなかで、ひとは変わる訳である。
 
 
 
■ 古くからの読者が、「これは漱石の坊ちゃんそっくりの終わり方だ」とか言っていたことがあった。「坊ちゃん」のラストは、よくできたハードボイルド小説そのままだが、試しに今再読してみると、文章を追うに結構骨が折れる。それだけこちらの読む力なり集中する力が変化してきているのかも知れない。
 ここから、縦書きの媒体と、ネットのように横書きの媒体とでの文書作法に話が流れていってもいいが、野暮なのでやめておく。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3256

 
       それよりすこし寒くなった 2.
 
 
 
 
■ 谷崎潤一郎に、上海の水路、つまりはクリークに浮かぶ美女をモチーフにした作品がある。例えば「西湖の月」という作品は、上海界隈に網の目のように張り巡らされた水路に、ぽっかりと白い顔の女が浮かんで流れる様を描いていた。
 上海は何処か、水の都でもあった。
 
 
 
■ 今にして思えば、「冴」という元人妻で野鶏が、本作品の水路であったような気もする。主人公は夫に裏切られた野鶏を買い、同じように人生の根元を背骨から折られたかのような元紅衛兵の「走羽」と、夢のような市街戦に突入してゆく。
 それは、女を通しての奇妙な友情である。
 絵空事といえばその通りなのだが、今これを書いているとガラスに雨のしずくが数本走った。
 
 
 

2005年08月13日

「緑色の坂の道」vol.3257

 
       遠雷。
 
 
 
 
■ 夏の去る音。
 
 
 

2005年08月14日

「緑色の坂の道」vol.3258

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「緑色の坂の道」vol.3259

 
       夏の終わりの作品再掲。
 
 
 
 
■ を、じたじた試みることにした。
 これは99年、読売新聞社主催 yominet、その文芸フォーラムに掲載したものである。
 当時私は、フォーラムの執筆・運営を業務委託され、四苦八苦していた覚えがある。
 元はA4サイズのPDF。クリックするとダウンロードするようHTMLを書いていた。
 
 
 
■ ま、それがですね、yominetが特殊な環境だったものだから、市販のオーサリングソフトはほとんど使えない。全て手書きである。
 勉強になったとも言えるのだが、それはそれで苦労した。
 ただ、YahooなどのEC(ネットショップ)の構築を仕事で頼まれることがままあって、その場合の解析に、yominet時代の技が応用できている。
 基本原理に相通じるところがあったからだろう。
 
 
 
■ この作品に記しているクレジット部分は、皆当時のものである。
 jpg画像ではそれほど明晰ではないが、PDFの場合には読み取れるということもあり、混乱を避けるためPDFの掲載は控える。正直言えば、メンドウだよな、という部分も大きい。
 これらは皆「緑色の坂の道」として発表している。
 つまり、緑坂とは、テキストであったり、コピーのついた一枚のポスターだったりした。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3260

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「緑色の坂の道」vol.3261

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2005年08月15日

「緑色の坂の道」vol.3262

 
       夢の日。
 
 
 
 
■ 暫く東京を留守にするのだが、今回は車で移動しない。
 あわただしくトンボ帰りになりそうである。
 
 
 
■「雪原を遠く離れて」
 という劇画が70年代始めの頃にあった。
 宮谷和彦さんの作である。
「性蝕記」「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」など、同時代性溢れる密度ある青春漫画を描き、絶大な人気を博した。画力も相当なもので、氏の描く車などはもしかすると誰よりも情念に満ちていたかも知れない。
 そう「情念」とか「造反有理」などという言葉が、一般教養として使われていた時代である。
 
 
 
■ あまりに時代に淫すると、それ以降は急速に失速する。
 確か三島由紀夫だろう人物が出てくる「肉弾時代」は、観念の空回りになってしまい、最後まで読むのは、暗黒舞踏の舞台を二日連続で眺めるのと同じくらい疲れた。
 同じく絵柄も、ややバランスの崩れたものになってゆく。
 あるときネットで、宮谷さん本人だろう書き込みをみかけたことがある。
 今は描かれていないのかも知れない。
 そんなことを思い出したのは、私がその初版をまだ大事に取ってあるからで、十代の頃に背伸びした世界というのは、抜けがたい。
 そんなことを思い出すのも、今がお盆だからである。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3263

 
       夢の日 2.
 
 
 
 
■ 何故、昔の画像というかそのようなものを再掲しているかというと、ここらで一回簡単に作品をまとめておこうか、という気が薄くではあるが、していたからである。
 あくまで薄くであり、本格的にとは考えていない。
 
 
 
■ 昨年に引き続き、コニカミノルタのサイトで、私は「甘く苦い島」を掲載・販売することになっている。
 そのためのテンプレート・デザインはほぼ原型が完成していた。
 その次。というか、作品群としてどう見せるかという課題があって、それにはかつて読売に掲載していた「甘く苦い島」を再構築する必要も出てくる。
 その前提として、古いHDDの中を眺めている、というようなところなのだろうか。
 
 
 
■ このところ掲載しているjpgの元のPDFを見直すと、これはDTPソフトで作ったものだということがわかる。
 当時、ネットの環境はようやくISDNになろうかというようなところで、重さが最も重視された。不思議なことなのだが、一般にポスターなどを作る時に使うソフトからPDFにすると、KBが一気に増えたのである。であるからDTP用ソフトを使ったという経緯もあった。DTPソフトであるから、極めて厳密に文字の位置などが指定できないでもいた。当時はリュウミンなども使えなかった。
 今見直すと、とても不十分なものである。
 デザインも写真も、またその処理なども未成熟で、いわば恥ずかしい過去のひとつなのかも知れない。
 だが、それはそれでいいだろうという気もしている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3264

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「緑色の坂の道」vol.3265

  
     乾くのは、底が濡れているからだ。
 
 
 
 
■ 緑坂PDFの第一作目である。
 記念すべきかどうかは知らない。
「Give A Whistle」という全体の名称、キャッチはここで初めて使った。
 
 
 
■ なんということもない、海沿いの雪原である。
 そのままでは、グレーに近くなってしまうので、何故なら白い雪を撮るにちょうど良い露出補正などをする暇がなかったからだが、画像処理で薄紫を被せた。
 これは確か98年の頃作成したのだが、PDFが4.0になった頃に作り直している。
 
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3266

 
     乾くのは、底が濡れているからだ 2.
 
 
 
 
■ この何処がコピーであるのか、とか、これは何を意味しているのか、ということを尋ねられても困る。
 写真には、こうしたコピーなり言葉が付与され、いわば相乗効果で世界が広がるものと、そうではないものとがあって、一般に写真家は単独で完結する後者を評価する。
 おかげで、伝統的な写真の世界からは、私は随分とムゴーイ目にあった。
 当時は、ポジのスリーブの世界で完結することが正しいとされていたのである。
 デジタルの黎明期と言えばいいのだろうか。
 そればかりでもないのだが。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3267

 
     乾くのは、底が濡れているからだ 3.
 
 
 
 
■ 今であれば、大型のハスキー(ええと三脚です)などを立て、16から22程に絞ってPLを使い、あるいは中判などで撮るだろうか。
 あるいは一眼デジカメのRAWなどで、同じカットを縦横に抑えるはずである。
 日中ストロボも試して面白いかも知れない。
 つまり、この写真を眺め、へたくそだなあと自分でも思うからだが、使っていたフィルムスキャナの特性によることも一面では事実である。
 
 
 
■ ただ、自ら撮った写真とコピー。それを入れるデザインの雛形という考え方はここでかたちになった。何度も繰り返すが、今の眼からはいささか密度が不足しているとしてでもである。
 
 その後、このシリーズはEPSONの広告に転用され、一年近くの連載になる。
 また、PDF、つまりネットから雑誌広告・紙の媒体へと移行してゆく。
 それらはおいおい紹介するとして、ひとりが写真家でありコピーライターであり、またデザイナでもあるという、旧来の価値観からは中途半端だと批判されやすいスタイルは、この辺りから発生している。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3268

 
     乾くのは、底が濡れているからだ 4.
 
 
 
 
■ ハードボイルド小説を、若い頃にいたしかたなく読み耽った方々には、このコピーの持つ意味はお分かりになるだろう。
 つまり、中身は感傷的でジメジメしていて、それをごまかすために硬い殻を被るという、青年後期の課題のようなものである。
 
 
 
■ 青年期を過ぎてどうなるかというと、何時までも何処か青いことを言っている心の綺麗な中年になったりする。
 経験者はお分かりだろうが、彼と不倫するとなかなか大変である。
 あるいは、するすると妙齢のベットに潜り込み、パンツを履かずに直にズボンを身に付けた「チャイナタウン」のニコルソンのような男にもなる。
 が、ポランスキーの「チャイナタウン」では、最後にヒロインがあっけなく死に、ニコルソンは口を開けて嘆く。
 ニコルソンが自らプロデュースした続編は、確か「黄昏のチャイナタウン」という題名だったが、大戦を経てやや成功した探偵の前に、過去の記憶を内包した事件が舞い込む。
 つまり、何度も幻滅する男の物語であった。
 幻滅の前には、何が必要かというと、つまりはこのコピーになる。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3269

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「緑色の坂の道」vol.3270

 
       すこし濡れた散歩。
 
 
 
 
■ 緑坂やそこから派生したポスターには、いわゆるハードなものしかないのかというとそうでもなく。
 半ズボンを履いた少年が呟いているような一群もあったりした。
 
 
 
■ これは確か日光奥地の晩秋である。
 何故雨ばかり降っているときに写真を撮るのか不思議だが、だって紅葉の盛りの頃、撮影にゆくなんて恥ずかしいじゃないか、という気分が強い。
  
 
 

「緑色の坂の道」vol.3271

 
       havana.
 
 
 
 
■ 読者の方から、緑坂 3258 とか3260 の画像は何処で撮ったものかと尋ねられた。
 NYなんですか。
 などという。
 
 
 
■ そんなことはなくて、何処にでもある港町の倉庫である。
 引込み線があったかも知れない。錆びた貨物列車が停まっていた。
 元はネガなのだが、ソフトによる暗室処理で、周辺部を落としている(money.緑坂 3258)。
 一方、カラカラ回転するペットボトルは、白金台のプラチナ通りで撮った。
 正式には外苑西通りである。
 結婚式も可能だというクラブというかなんというかがあり、それらを横目で眺めながら、けっ、とかいう按配で夜の散歩をしていたのだ。
 歩けるところまで歩き、疲れたらラーメンを食べてタクシーで戻るという、大和の片道特攻みたいな遊びである。
 カメラを持っていて、よく職質されなかったものだと今は思っている。
 havana というキャッチは、その時よくボサノバを聴いていたからで、つまりは夏前だったのだ。
 
 
 

2005年08月22日

「緑色の坂の道」vol.3272

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「緑色の坂の道」vol.3274

 
       西瓜。
 
 
 
 
■ その赤色が神経に障る、といった彼がいた。
 後で聞くと退院したばかりだという。
 彼の弾くピアノは、バランスが取れ玄人受けをするのだが、さて誰だったかというと答えられない。
 
 
 

2005年08月23日

「緑色の坂の道」vol.3275

 
     オール・ザ・シングス・ユゥ・アー。
 
 
 
 
■ 若い頃、シナトラの歌を私は馬鹿にしていた。
 満ちてはいない月があり、その廻りに雲もあり、一人で郊外を走っているとする。
 設定は26度ほどで、外気温は27度だともいう。
 せんだって、港の傍の煙草屋で、オレンジ色の echo を買った。
 その残りを吸ってみたりする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3276

 
     愛は、新しい虫。
 
 
 
 
■ なんでキャベツなんだ、と何度か聞かれた。
 この作品も、セイコーエプソンの連作広告で用いられた。
 担当は髭を生やした彼であって、その頃彼は本社のある長野にいた。
 
 
 
■ 私は夏の終わりか秋の半ば、女のマンションを出てすこし走った。
 道端にキャベツの畑がある。普段見ているものよりも色が濃いそれである。
 愛というのは、身体の中に虫を飼うことのようで、それが蠢いたり悪さをしたりもする。
 
 
 
■ 本作はプロのカメラマンや30代、40代の男性に評判が悪かった。
 こんなもの、という声を知人から直接貰ったこともある。
 ところがその配偶者が、ひときわ高い声で騒いでいたりする。
 そうなのよ、虫なのよ。
 彼女は暫くして子供を産んだ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3277

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「緑色の坂の道」vol.3278

 
        いい女とはなんだ。
 
 
 
 
■ と、いう命題が古今東西にある。
 この答えは、その男性のタテヨコ立居地に関わってきていて、なかなかに興味深い。
 ここで私は自説を開陳するほどのお人よしではないのだから、概ねゆるやかに言いますと、毛はぼうぼうでもいいが、尾てい骨が伸びているのはどうもなあ、という気分でいる。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3279

 
        理論的な骨。
 
 
 
 
■ 文字コードに含まれていないということから、漢字が使えないでいる。
 びていこつ、と平仮名で書いてニュアンスが伝わるだろうか。
 かなり広いだろうと思われるものの中に指が入っていって、そうでもないことに気付き、かといってそれを口にせず、浮かんでくる汗の密度を確かめる。
 声だけは一人前の場合、君は手入れをしていない。
 終わった後に文学とか人生の話をしたりする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3280

 
        わたしはうまれてゆくだろう。
 
 
 
 
■ 砂漠の地で女というのは泉にも似ていたが、力だけでどうにでもなったのだという。
 そのオアシスを確保しなければ、部族全体が死に絶えてしまったからだ。
 だが後からの知恵かも知れず、砂に月経の血をまぶしても、砂は砂だという哲学者が東欧にいたという。
 東欧というのが嘘くさくは思えるが、わかりはしない。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3281

 
        ランドセルは新しい。
 
 
 
 
■ 緑坂 3277 の下半分余白のところ。
 商品と会社のロゴ、それでいて担当事業所の所在地と連絡先などを付与する。
 そんな風にしてある種広告ができてゆく。
 これも、EPSON の連作で使用した作品であった。
 
 
 
■ 撮影のエピソードは沢山あるのだが、全てを書くわけにもゆかない。
 今、小学校のグラウンドに入ることや、そこでカメラを構えること自体、なかなか許されることではないからだ。
 私は少年の顔も数枚撮っている。それは公開はせず、この後グラウンドに居た体操服姿の女性教員にとりあえずの説明をした。
 彼女は40に近い髪の短いひとで、もうすこし若い男性教員と共に放課後のグラウンドを管理していた。
 私は教頭に会い、名刺を渡し、それから校長室に招かれて口の広い湯飲みでお茶をいただいた。
 勿論出来上がった作品は、校長先生宛にお送りしている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3282

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2005年08月24日

「緑色の坂の道」vol.3283

 
       魔法をかけてちょうだい。
 
 
 
 
■ 遠くから雷が近づいてゆっくりと去った。
 水銀灯のスポットの中を、雨の筋が走る。
 誰かにそんなことを言われた覚えもあるが、それは自分の中のもうひとりの言葉だった。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3284

 
       魔法をかけてちょうだい 2.
 
 
 
 
■ この作品は、緑坂的というか、私らしいものかも知れない。
 witchcraft というのは、確かドリス・ディのナンバーで、秋口になるとよく聴いていた。「魅せられて」と訳されていたように覚えている。
 
 
 
■ 本作品もEPSONの連作広告のひとつである。
 対案はいくつかあったが、これが選ばれ、担当者もなかなかだったなと思い出す。
 どこか地方へとまではゆかず、その辺りで撮った月の画像である。
 三脚は立てず、手持ちでいっている。
 夏であったのか、本当に秋だったのかは忘れた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3285

 
       暖簾について。
 
 
 
 
■ 誰にでも、お世話になったという方々はいて、勿論私も例外ではない。
 指折り数えると、どうしようもない。
 随分旧聞になるのだが、読売新聞社主催、yominet の責任者であった槲氏(仮名)もその一人である。
 いきさつは様々にあるが、大体のところ、一回は喧嘩をする。
 あのクソジジィとか言って、ことある毎に突っかっていた。
 
 
 
■ あるとき、私のIDがネット上で受け付けないことがあった。
 過激なことを書いていたから、とうとうIDを削除されてしまったのかとビビッた。
「けっ、キンタマの陰干しでもしていた方がマシだよなあ」
 とか、数日前に書いていたからである。
 屋上か何処かで、皺の各部分を日光にあててやるという風情か。
 だが、IDを削除されるのはなんとなく困る。
 致し方なく、数日悩んだ末、読売新聞社の当該部署に電話をかけた。
 
 
 
■ いつもお世話になっております。
 問題発言があったものですからIDがハクダツされてしまったのですか。
 おずおずと尋ねる。
 電話口で槲氏は声をあげて笑い、いやいや、そんなことをする訳はないですよ。
 でもですね、こーいちさん、陰干しはその通りですが、公の場ではいかがなものか。
 誠にごもっともなお話で、私は汗をかきながら電話口に向かって頭を上下していた。
 当時、私は、こーいちさんと呼ばれていたのだ。
 平仮名で。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3286

 
       虹の楽園。
 
 
 
 
■ ある世代の、ある階層の、その中の余所者の方にはお分かりだろう。
 ジョー・サンプルの定番である。
 
 
 
■ 暫く前に緑坂に書いた医者の友人が、サンプルのファンだった。
 知性的な黒色という、JAZZの世界には面白い階層分化があり、白くなりたがる黒色や、白いものよりも明晰な彼らがいた。
 その反面、白くて中産階級であることを恥じた彼らは、路地裏の文化に溺れてゆく。
 それはコミューンであったり、その先のドラッグであったりもした。
 ここで思い出すのが、ヘンリー・フォンダの娘と息子なのだが、果たして彼らは父を超えられたのだろうか。
 分かりはしないが、つまらないことに今の大統領もそれに似ていた。
 それでいて、帰依するものが原理主義だったりもする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3287

 
       上着を肩に。
 
 
 
 
■ この夏に買った服といえば、なんとかNYというところのプルオーバーがひとつ。
 セールだったからで、半額以下になっていた。
 腕をまくって着る。それでMTGにいったりもする。
 残りは出先で買った綿のパンツとシャツ数枚。
 なんとなく、服はどうでもいいような気がして長い。
 
 
 
■ あることで友人に礼を贈らねばならず、銀座、並木通りにあるブランドショップにいった。昔から男達の定番とか言われているところである。
 そこのライターは「死刑台のエレベーター」の中で使われていた。
 こう書くと、緑坂読者の中で映画好きな数割の方には理解されるだろうか。
 奴は煙草も酒もやらない男なので、好きだろう車の小物ということにした。
 銀のキーホルダーである。普段私が使っているものの、8倍程の価格がする。
 銀のアクセサリーというのは、使わないと黒くなってくるものだが、掌に入れておくものだからそうでもないだろうと考えた。
 
 
 
■ 男同士の場合、自分が使っていいだろうというものを贈ることにしている。
 グラスであったり、ライターや机の上の小物。
 あってもなくてもいい品物で、そのジャンルの中ではそこそこの質をしているものを選ぶ。あまりやりすぎると野暮になるし、自分では冷静な判断から、決して買わないだろうということもその基準にはなる。つまりは無駄だということだ。
 そういえば、まだ私が若造の頃、この通りにある店で綿のシャツを一枚作った。
 丸がひとつ多いくらいの価格だったが、十年程着て、襟と袖口が透けて見えるようになって捨てた覚えがある。決して太ったからではない。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3288

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「緑色の坂の道」vol.3289

 
       PARTAGAS.
 
 
 
 
■ 並木通りを出てから、中央通りにある煙草専門の店に入る。
 普段使っているライターがそろそろ寿命だからで、同じものを買いにいったのである。「同じものでいいんですか」
「いいんです」
 などと言い合い、ついでに五本入りのシガリロを求めた。
 
 
 
■ 5本と書くか、5とするか、上のように五と記載するかは結構厄介な問題で、どういうことかというと縦書きにする場合、全てを直さなければならないからである。DTP時代の癖なのだが、最近はあまりこうしたことに拘らない風潮でもあるようだ。
 
 
 
■ やや細い、ハバナ産の葉巻なのだが、セロファンに入っているので多くのミニシガリロのように乾いてしまうことはない。
 乾いた葉巻は、例えば蝉がアスファルトの上で粉になるのを見るようで、触ると脆くも崩れてゆく。
 と、こう書いていて、こうした感性というのはどうにかならないものかと考える。
 いずれにしても、普段持ち歩いているカメラバックに入れ、汐留方面へと曲がった。
 
 
 

2005年08月25日

「緑色の坂の道」vol.3290

 
       どうすればそれがかなうの。
 
 
 
 
■ 緑坂は影があって、それに向き合うのが怖い。
 という趣旨のことを、ある妙齢が言っていたと、人を通じて暫く前に聞いた。
 確かに私の画像もコピーも、一定のトーンがあって、それは作風というか個性なのだが、作風のないデザイナも作家もいないものである。
 
 
 
■ 冬の魚じゃね、さなか、埼玉に向かう国道を走っていた。
 女の友人と一緒で、そうなると妙齢本格派であるが、向こう側に工事中の建物が見える。都心とは異なり、周囲を念入りに囲っていないものだから、その構造が透けていた。
 私はトランクから三脚を取り出し、多分それは中くらいのジッツォだと思うが、200ミリで狙った。
 女の友人、本格派は車の中で煙草を吸っている。
 99年の作であるから、既に6年も前のことになる。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3291

 
       どうすればそれがかなうの 2.
 
 
 
 
■ このコピーは、例えばディズニーのミュージカルの中にあってもおかしくはない。
 もしかするとあるのかも知れないが、ミュージカルや童話というのは、仔細に見てゆくと少しばかり残酷なところもある。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3292

 
       どうすればそれがかなうの 3.
 
 
 
 
■ 世の中が騒がしいときに、それについて語ることは簡単だと思っている。
 この状態を面白いと言ってしまうと、その次にくるものの重さが実は拡散してしまうのではないかという気もしている。
 
 
 
■ ネットの世界で、ある種論客と呼ばれている人たちのサイトを覗くと、成程このように煽ってゆくのだなと感じることが多い。
 それらは過剰に良心的であったり、ワルぶっていたり、あるいは世を憂いていたりもする。つまり言葉が半オクターブ程高い訳だが、この高さは、満員の新幹線の自由席で、ノートPCを取り出してメールを打っている30代の男の横顔にも似ていた。
 
 
 
■ そのことで思い出すのが、吉行さんの「街の底で」という小説である。
 週刊誌に連載されたいた、いわゆる中間小説というものだから、無駄な部分が多く、風俗にも流れ、世評はそれほど高くもない。
 主人公の文案屋(コピーライター)は、半ば街を放浪するかのように、女のところに入り浸り、ムゴーイ目に会い、そこから逃れるように路地裏をほっつき歩く。
 ただその視線は当時の大学卒、つまりは相対的に少数の側にいる者の、例外としての立場である。半分余所者。
 市民社会とそうでないもの、という二極構造がはっきりしていた頃の作品であるから、今の時代にそのまま通じるものでもない。
 文庫版解説のところに、確か奥野さんだったと思うが、この作品には60年安保のアの字も出てこない。それでいて、安保以後の背骨が折れたような知識人の心情をこれほど滲ませている作品も少ない、という趣旨のことを書かれていた。
 石坂洋二郎原作の日活文芸路線でも、例えば裕次郎が国会へデモにゆくシーンがあって、ほぼあらゆる作品に安保が登場する頃合である。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3293

 
       どうすればそれがかなうの 4.
 
 
 
 
■ 90年代後半、私はこのままゆくと社会は相当なことになるだろうか、という予感を抱いていた。漠然とした閉塞感と、足元が壊れるかのような構造的な崩壊。
 徹夜明けで〆切を送る宅急便を出しにゆくと、坂道には船井総研の本が山済みになっていて、都の収集を待っている。
 この辺りの誰かが一心に勉強したのだと分かった。
 
 
 
■ ある種、第二の敗戦なのだというひともいた。
 確かにそれはそれで、戦後と等しく、声の大きな人たちが、次はこれが流行るのだと言い始めてもいた。
 ITの世界では、これを知らないとモグリだとか囁かれ、各種のセミナーには知った顔が並び、いつの間にか取締役に就任して二年後には辞めていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3294

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       麻雀放浪記 青春編。
 
 
 
 
■ 昭和二十年一月一日の、「読売報知」の一面には、御前会議の写真が掲載されていた。
「B29に必中弾」「天皇陛下 最高戦争指導会議に親臨」「一億特攻・戦局進展のこの一年」
 紙面の中ほどには郵政省、「弾丸切手」の広告がある。
「我らの弾丸切手 いま凶敵を撃滅中」
 その裏手、二面をめくると以下のようになっている。
「神風まさに吹かん(八木技術院総裁)異常な決意、科学技術陣」
「美し皇土・断じて護持」「今年の食生活 島田農商相に聴く 手は打つ腹一杯」
 
 
 
■ 神風は吹かず、腹一杯にもならず、八月十五日をむかえる。
 
 もはやお忘れであろう。或いは、ごくありきたりの常識としてしかご存知ない方も多かろうが、試みに東京の舗装道路を、どこといわず掘ってみれば、確実に、ドス黒い焼土がすぐさま現れてくる筈である。
 つい二十年あまり前、東京が見渡す限りの焼野原と化したことがあった。当時、上野の山に立って東を見ると、国際劇場がありありと見えたし、南を見れば都心のビル街の外殻が手にとるように望めた。つまり、その間にはほとんど建物がなかったのだ。
 人々は、地面と同じように丸裸だった。食う物も着る物も、住むところもない。にもかかわらず、ぎらぎらと照りつける太陽の下を、誰彼なしに実によく歩いた(略)。
 毎日、どこかの路上には行き倒れが転がっていた。
 そうして人々は、その姿にもまったく無感動で、石ころを眺めるように通りすぎていった。
 昭和二十年十月――。

(阿佐田哲也著:「麻雀放浪記 青春編」:角川文庫版:5~6頁)
 
 
 
■「麻雀放浪記」は、言うまでもなく、掛け値なしの名作である。
 角川文庫版の解説は、畑正憲さんが書かれている。この解説も、背後にある色々を考えると随分と重い。この重さは、近い世代の作家の方々とも繋がっていて、例えば大藪晴彦さんの膨大な山脈を理解できるかの試金石にもなっている。五木寛之さんの、「青春の門」で描かれなかったある部分とも。
 畑さんは、満州から引き揚げてこられた。向こうの小学校時代の同級生は誰一人生き延びていないという。同胞の手によって処分されたと、せんだってある雑誌のインタビューに答えていた。
 時折、激しい鬱になる。
 阿佐田さんと等しく、畑さんもそのように言われていた。
 自分はなんのために生きているのか。
 
 
 
■ 師走も押しつまったある日、私は本棚の中に手を突っ込み、この文庫をみつけた。新聞を眺めると、三船敏郎さんが亡くなっている。
 暗くなってから外に出ると、携帯電話を頬に当てた若者が自転車で信号無視をしていった。くわえ煙草で歩いてくる若い女とすれ違う。女に緊張感などない。
 何も考えず、坂道を降りる。
 戦局はこの秋に決定した。
 何物も持たないところに戻らざるを得ない時が、そう遠くない明るい午後にやってくるようにも思う。
 はじめてで。
 こわくても。
 
 
 「でも、早くそうして」
 「何?――」
 「わたしを犬か豚のようにって、そういったじゃないの」
 (前掲:60~61頁)
 
▼註・画像は昭和二十二年一月一日の読売新聞一面。そこに文字をコラージュ。
 
―――――――――――――――――――――――――――

○昔坂
 初出は読売新聞社 yominet 文芸フォーラム「緑色の坂の道」
 97年12月26日。
 
 

「緑色の坂の道」vol.3295


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        女衒の達。
 
 
 
 
■ 画像がやや重いのでそのまま使うことにする。
 加工もメンドウである。キャッシュに入れば、続けて読むのに楽かも知れない。
 今表示されている画像の裏、昭和二十二年一月一日の「読売新聞」朝刊の二面にはこのようにある。
 
「近代文学を語る」(対談:正宗白鳥・宇野浩二・青野季吉)
 梅原龍三郎画伯の「裸婦デッサン」
「ことしを飾る花々―
「アメリカ映画でこれこそ1947年の第一線スタァと目されている三つ星―
 エヴェリン・ローズ
 ドロシー・マグワイヤー
 ジューン・アリソン」
 
 妖艶な美人が三人、モノクロで並んでいる。
 なかなか雰囲気があって、大変に宜しい。既にしてこの時分、こうした写真と話題は人々の強く求めるものだったようだ。
 その下には、「愛の宣言」という東宝映画の広告がある。イラストも善いのだが、その文案を引用してみる。
 
「新年おめでとう御座居ます あなたの新しき門出の為に真紅に燃える三つの青春をささげます」
「かつてない上原謙の美しさ。彼をめぐって命をかける清純、官能、愛欲の三人の女性の恋愛合戦」
 
 なかなか凄そうなものだけれども、実をいうと、ここまでくるのにたった二年しか経っていない。「神風まさに吹かん」「手は打つ腹一杯」からである。
 ここは文芸であるから、当時の代表的作家、坂口安吾、織田作之助などのことにも触れるべきだろうが、今回は見送る。
 話を戻す。「麻雀放浪記 青春編」にである。
 
―――――――――――――――――――――――――――
 
 
■ この作品については、既に多くの方が文章を書かれている。
 熱烈なファンであった和田勉さんの監督で映画にもなった。
 加賀マリコさんが、オックスクラブのママ役をやる。
 ママは、旧制の中学を出たばかりの主人公、「坊や」が、一人前の男として独り立ちしてゆく過程で出会う、重要なキャラクターのひとりである。続編にも登場する彼女は、男にとっての定点観測のような存在でもあった。
 麻雀放浪記には、一体に記憶に残る台詞が多い。
 それは、書こうと思って書けるものでもなく、蓄積された生活と気持の密度から滲むものが、ある条件下で水滴となって滴るさまに似ている。
 
 
「僕は、所属するのは好かないな」
「そうね、あンたはそうらしわ。あンたはきっと、誰とでも五分に対しなければならないと思っているんでしょう。あンたは小さくても独立国でいたいのね。そうなりたくて、博打なんかに興味を持ったんでしょ。つまり、悪いけど、子供っぽいのよ」
「――――」
「でもこの世界の人間関係には、ボスと、奴隷と、敵と、この三つしかないのよ」
(阿佐田哲也著:「麻雀放浪記 青春編」:角川文庫版:54頁)
 
 
 この憎々しさを画面で表現できるのは、昭和がまだ半ば過ぎの頃、六本木の「野獣会」などで鳴らした加賀さん以外にはないだろう。
「子供っぽいのよ」
 と、忘れずに付け加えるところに、阿佐田さんの大人の目を感じる。今も随分の無頼小説はあるけれども、今一つ読み応えなく感じてしまうのは、こうした苦い視線に欠けるところがあるからかも知れない。
 麻雀放浪記の面白さは、生命力が原始的なかたちで顕れているところである。
 勝負のこと。男と女の関係。市民社会とそうでないものとの対比などが、これほどくっきり描かれた時代も小説もない。
 麻雀のことは一切わからなくても、そこにあるドラマを読み進めるに従って、自分がどこかに忘れてきた牙や喪失感のようなものを思い出す。
 しぶとく生き延びるための本能的な何ものかを、読者は、「博打打ち」という悪漢の世界に身を置くことによってかりそめに会得しようとする。
 
 
 
■ ところで、私は、どうしてこの年末の押しつまった時にこのようなものを書いているのか。
 薄々は分かっているのだが、それを無理矢理言葉にしてみる。
 1998年という年は、今進んでいる世の中の構造的な変化が、随分と加速するような気がしてならない。
 それがはっきりしたのは、97年の秋頃だと思う。何処かで無意識に頼っていた航空母艦が沈んだ。時代の臓物が誰の目にもはっきりしつつある。
「麻雀放浪記」にはこんな台詞がある。
 ドサ健が博打に負ける。自分の女を売り飛ばそうとクダを巻く。居酒屋の親父に毒づく場面である。
 
「手前っちは、家つき食つき保険つきの一生を人生だと思っていやがるんだろうが、その保険のおかげで、この世が手前のものか他人のものか、この女が自分の女か他人の女か、すべてはっきりしなくなってるんだろう。手前等にできることは長生きだけだ。ざまァみやがれ、この生まれぞこない野郎」
 (前掲:298頁)
 
 今、本質的な保険などというものはない。
 
 
▼註・画像は昭和二十二年一月一日の読売新聞一面。文字をコラージュ。
 
―――――――――――――――――――――――――――

○昔坂
 初出は読売新聞社 yominet 文芸フォーラム「緑色の坂の道」
 97年12月27日。
 
 

「緑色の坂の道」vol.3296

 
       あばよ、こんなものさ。
 
 
 
 
■ 当時、文芸の助手をしていた甘木君は、この緑坂を読み電話をかけてきた。
 だ、だいじょぶなんスか、こんなの掲げて。
 そんときはそんときだ。
 それにしても、こーいちさん、無茶しますね。
 ともいえるな。
 
 
 
■ つまり、新聞紙面をそのままスキャンするという荒業だったからだろう。
 マッカーサーの顔というところが怖ろしい。
 文字をコラージュして二次著作物としたとしても、まあなあ。
 文芸フォーラムが読売の内部にあったから黙認されたもので、叱られたらシュンとして謝るつもりでもいた。
 幸いというかなんというか、そのような声は届かず、当時の担当責任者に後日酒をご馳走になった際、よく捜してきましたね、と麻雀の話に移った。
 その寿司屋は日本橋にあるのだが、酢の按配が独特である。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3297

 
       浮浪者の溜まり場。
 
 
 
 
■ という歌が、確かディランだったかバンドにあって、当時私は、そのような資料を暇があれば集めていた。
 多分「夜の魚」の三部に、浮浪者が出てきたからだろう。
 今、ここで公開しているのは二部までだが、実は未完になっている三部・南春 という作品があって、こんどはバイクに乗った少年のような女子高校生が出てくる。
 彼女は川崎の工場地帯に一人暮らしをしていて、主人公の零細コピーライターのドアを叩くのだ。
 
 
 
■ さておき、前の緑坂でいう97年の秋というものが今は思い出せないでいる。
 その時に何があったのか、当時の緑坂や、青瓶を捜せば出てくるのだろうか。
 そんなことはあるまい。
 つまり、社会が決定的に二極分化し、中産階級はぼろぼろと崩れてゆく。
 その中であがきながら、次の道を模索しようとする姿勢が、ここで「麻雀放浪記」を取り上げさせたのだと言えば教科書的である。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3298

 
       犬のように。
 
 
 
 
■ 誰もいない、放課後の小学校の校庭を歩く。
 落ちているボール。
 手袋。
 水道の蛇口。
 
 
 
■ 阿佐田哲也さんが棲んでいた高輪のマンションを眺めにいったことがあった。
 今の事務所、白金台に越そうかと考えている頃で、当時私は伊皿子の辺りにいたから、なるべく近い方がいいと思ったのである。
 高輪は東京に長いひとは知っているものの、全国的にはそう知られた地名ではない。
 味のある名前がついた坂道がいくつもあって、蛇坂というのも近辺にある。
 阿佐田さんのいただろうそのビルは、当時はモダンだった風情が残り、駐車場には形の古い派手目な外車が並んでいた。
 
 
 
■ 犬のように女を扱うのは、ある意味で正しいことであるかと思われる。
 どうせ最後は、その犬がものを言い、飼い主を支配し、それから好きなようにしてゆくからである。ドサ健も、女衒の達も、それから坊や哲にしたって、ゆくゆくは腹が出て眼がかすみ、案外に孫の子守をしていたりする。
 それが悪いのかというとそうではなく、本当は犬に飼われるのも捨てたものではないと、梅毒で死んだ西洋の哲学者が書いていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3299

 
       手は打つ腹一杯。
 
 
 
 
■ 簡単に言うと、それほど沢山の女を知らず、薄ら笑いを浮かべ、今の現状をどこかで正当化したい男がいたとして、彼は空論に走る。
 女は逃げてゆくのだが、逃げたという意識も持たず、自分の中にある更年期手前の揺れ戻しに忠実であろうとする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3300

 
       渚にて。
 
 
 
 
■ 79年のジョー・サンプルのアルバムである。
 だからどうしたということはないが、これを妙齢に贈った彼がいたとして、それは恐らく旨く結実しなかっただろう。
 抑えるという概念が、こちらとは異なっている。
 
 
 
■ 私は、雨の湾岸を海の方角に走った。
 浦安があり、幕張もあり、その度に具体的な横顔や住んでいた部屋の玄関などが浮かんでくる。停めていた駐車場の看板なども。
 彼女の下腹は思ったより広大で、谷に続く道では樹木が渦巻いていた。
 青森から先の、冬の昆布漁のようである。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3301

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「緑色の坂の道」vol.3302

 
       blue sorrow.
 
 
 
 
■ 台風が近づく。
 私は昼間の厄介で、無精髭である。
 深緑に変わった庭を見下ろしていると、次にくるものがなんなのか、漠然とみえてくるような錯覚に陥る。
 ここは吹き抜けになっているので、風の音が煩い。
 
 
 
■ こうして97年や99年の作品を再掲していると、何少しも変わっていないじゃないかという気がしてうんざりした。
 デザインの原型も、またその言葉もである。
 山本夏彦さんに「命ながければ恥多し」というコラムがある。
 そこではどんな人間でも盛りは五年であるという。負けて十年。
 芸術家は長いと言われるが、処女作を超えられない。
 全盛期があればあとは欠けるばかりである。
 そこで山本さんは、全盛期を作るなと別のコラムで書いている。
 壇の上で手をぐるぐるさせて話すのは、もっての他ということになろうか。
 ひとつひとつ胸に刺さる言葉ではあるが、一方、阿佐田哲也さんこと色川武大さんは、セオリーを持てとも言う。
 勝負事で、この型にはまれば強いという、少なくても六割の確立で有利に立てるスタイルを作ってしまうことが肝であるとも書かれていた。
 いわば寝技のようなものだが、これは切れ味というよりも別のものに近い。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3303

 
       blue sorrow 2.
 
 
 
 
■ 今であれば、フォントの種類とサイズを微細に変えるだろう。
 元はPDFであるから、DTPソフトで作っている。緑坂 3301.
 考えてみれば無謀である。
 
 
 
■ さてこの辺りから「甘く苦い島」のいくつかへ移行する。
 その前に、台風でもあるし、海鳴りの画像を。
 そこは流れで。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3304

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2005年08月26日

「緑色の坂の道」vol.3305

 
       風のあと。
 
 
 
 
■ 昨夜、おかしな熱が出て矩形のスペースにつっぷしていた。
 気圧が変わるためだ、とは分かっている。
 いくつか夢を視て、それはあまり楽しいものではない。
 シャツがびっしり濡れていた。
 私はランドリーにゆき、横開きの洗濯機にそれを入れ、ガスの乾燥機を廻した。
 カラカラと音がしている。
 ライターでも入れ忘れたか。
 ディスカウントで買った時々火のでない奴だ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3306

 
       風のあと 2.
 
 
 
 
■ 大体何かを作っているときというのは、不機嫌になる。
 世界と自分との関係にうんざりしているからだが、これが昼間の厄介の一部、あまり本質的に考えなくていい仕事だとまた違う場合もある。
 どの辺りに着地するかという、編集あるいはマーケティング的な考えが強い。
 これはこれで、かなり胡散臭いものなのだが。
 
 
 

2005年08月27日

「緑色の坂の道」vol.3307

 
       風のあと 3.
 
 
 
 
■ 冷房を強くする。
 昨日まではなんだったのだと思い出す。
 ひともその空も。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3308

 
       きみの足もと。
 
 
 
 
■ はじめると膨大に作業があって、いいかげんにしろよなと思った。
 酒を嘗めはじめる。
 ここでクロスリンクが出ることはないだろう。出るんだが。
 これからというときに、時間がきて放り出されるラブホのようである。
 まだ履いてないよ。
 あたふた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3309

 
       キタザワ反応。
 
 
 
 
■ 古くからの読者に、そういうものがあるのだと指摘された。
 それはナンダと尋ねても、なかなか教えてはくれない。
 つまり、世の中が曲がり角にさしかかるだろうすこし手前、私は機嫌が悪くなり、薄い欝になり、それからおもむろに野蛮になってゆく様を指すのだという。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3310

 
       ブラック日課。
 
 
 
 
■ スコッチがなくなったので、そういうものにする。
 妙齢の読者はご存知ないかも知れないが、ジンやウィスキには度数というものがあって、39や40度と、例えば47度とでは酒の味も酔い方も違う。
 ジンというのは、茶色の紙袋に入れてそのまま飲むのが粋とされているが、そういうことを赤坂陸橋の下でやりたい訳ではない。
 
 
 
■ 虎ノ門にあるホテルのバーでは、葉巻用のシングルモルトがある。
 どこにでもあるのだが、例えばである。
 かつて緑坂にシングルモルトを薦めるバーは二流であると私は書いて、世の数人から非難を浴びた。
 普段嘗める酒にはくれぐれもご用心。
 これは「配偶者と酒」というテーマにも通じるが、選挙戦の間でもあるので自粛する。 
 
 

2005年08月28日

「緑色の坂の道」vol.3311

 
       IT社長ブログ。
 
 
 
 
■ カメラマンが良いのだろうが、実物よりも数段上にみえる。
 マイバッハなどの後部座席でMTGなどをしていたりする。
 かといって仕事で銭屋などイタリヤ系を着る訳にもゆかず、ではドーメルなのかというと肩の線が微細に違う。
 つまりこれは、アウディTTの世界であって、形から入る先端なのだろう。
 実態は伴わない。全てはバーチャルなイメージである。
 
 
 
■ その意味で、ネットを語るには「出会い系」という底辺を眺めていないと私は難しいのではないかという気がしている。
 サクラと呼ばれるメール・レディは、その半分以上が男達で、ツボを掴んだ誘い文句を短い時間に連射してくる。付随した画像は、広告の世界で言えばイメージ写真である。
 画像は売買され、また画像処理ソフトによって合成・修正され、マクロを組んで配信される。男達の願望の脊髄的な反射であるともいえる。
 では、他人からの紹介がないと入れないというソーシャルネットワークなどはどうかというと、これも女性に優しい広義の出会い系に近いという印象を私は持っている。
 が、これら全てが悪いかというと、この評価は難しく、例えば60年代後半にはデモで仲良くなったりもした。10.21の後にカップルがいくつもできたりもしていたのだ。
 
 
 
■ 街に祭が乏しくなった現在、ひとは自分の居場所をどこにつくるのだろう。
 いつだったか南の島から立候補した候補の応援で、選挙ボランティアの若者がこういっていた。場所は赤坂のホテルの壇上である。
「居場所をつくってくれてありがとう」
 候補は音楽を鳴らし、街角で若者とともに踊り、それから当選を果たした。
 
 
 

2005年08月30日

「緑色の坂の道」vol.3312

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「緑色の坂の道」vol.3313

 
       長い旅を続けていると、何処なのかを忘れる。
       夢も古びてくる。
 
 
 
 
■ 緑坂3311を撮影したのは、夏のオスロだった。
 というのは嘘で、ナンバーが日本のものである。
 青山か外苑近くか、西通り辺りではなかったか。
 どうでもいいことだが。
 
 
 
■ 青瓶でも使ったこのコピーは、元々
 
「長い旅のようなものを続けていると、何処なのかを忘れる。夢も古びてくる」
 
 というものであった。
 どちらがいいのかと言えば、文芸的には入っていた方がいい。
 自分のしていることを「旅」と言い切ってしまう感性は、一般的かもしれないが、ある意味で恥ずかしいことだからである。
 逆説的に、それがコピーだとするならば、そうした自意識のやりとりを省くことも出てくる。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3314

 
       長い旅を続けていると、何処なのかを忘れる。
       夢も古びてくる 2.
 
 
 
 
■ この車はボルボのP1800である。
 ネオクラシックともいうべき、2+2のクーペだが、エンジンは達磨のような4気筒で、アマゾンなどと基本的には同一だった。
 テールフィンが立っているのは、アメリカ向けに開発されたものだったからだろう。
 この後期、ボディの背後を伸ばし、ガラスハッチを付けたワゴンが出された。
 ボッシュの燃料噴射が付けられ、そこそこの馬力も出ていたが、ギアは前後屈伸運動を強いられるボルボ特有のものであった。つまりストロークが長い。
 
 
 
■ 私は30近い頃、このワゴンを捜していたことがあった。
 相当に高価だったので泣く泣く諦めた覚えがある。男の60回ローンなどという荒業を使う発想はなかった。今も原則としてない。
 というよりも、マニュアルしかなかったのが、既に都市部の夜を這いずり回っていた自分のスタイルに合わなくなっていたからかも知れない。根性がなかったのだ。
 
 
 
■ この車を始めて知ったのは、実は前にも書いた宮谷一彦さんの劇画からである。
 宮谷さんは当時、車や単車を描かせたら相当なものだった。
 80年代バブル期の「西風」さんなどの空白の絵柄とはまた違い、車自体に重さと、すこし血の匂いの混ざった湿り気があった。
 大藪春彦さん、一時期の五木寛之さん、そしてCGのエディターであった小林彰太郎さん。
 一見脈絡がなさそうに思えるのだが、彼らにとって車とは、ただ移動する手段だけのものでもなく、自らの精神の一部を仮託する道具であったようにも思える。
 それは、全てをブランド性だけで計る最近のなにものかでもなく、一方でMGBのキャブのジェットの番号をバーのカウンターで語り合う、スノビッシュなお遊びでもなく、多分精神が、その車とその向こうの世界を欲して乾いていたのではないかという気がしている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3315

 
       長い旅を続けていると、何処なのかを忘れる。
       夢も古びてくる 3.
 
 
 
 
■ 車や単車のことを書くと止まらなくなる、とか昔からの緑坂読者には言われる。
 ま、携帯電話の型番にこだわるよりは、ややましだろうという気もしているが、本質的には変わりがない。
 これを幼児性とみるか、仕事の糧とみるか、立場によって様々だが、例えば吉行さんも二台目がフォルクスワーゲン、その後がBMWの2002である。
 当時の02といったらああた、なかなかのものなのだが、吉行さんは夜の厄介を複数こなすために車が必需品であった。人工水晶体を入れた辺りから運転をやめられている。
 
 
 
■ と、このように書いているのは、私自身、身体の何処かが乾いていることを自覚しているからだろう。
 酒でもなく女でもなく。かといって、これをすれば儲かるとか名が出るとか、そういった昼間の厄介その他でもなく、なんとなく飢える(かつえる、と読む)ような状態があちこちにあって、それを飼いならすのに苦労している。
 思えば、そんなことばかりだ。
 
 
 

2005年08月31日

「緑色の坂の道」vol.3316

 
       プラネット。
 
 
 
 
■ 昨夜、意味なく首都高速を流していた。
 何度か下に降りる。
 横浜「国際埠頭」には鉄のフェンスがつき、中に入ることはできなくなっていた。
 炎上した車が放置されていたりしたのだから、当たり前かも知れない。
「夜の魚 一部」で葉子が対岸の炎を撃つ真似をしたところである。
 それは変わるさ、と思いながら図体のでかい車をターンさせる。
 
 
 
■ あなたはうろつくのが仕事でしょう。
 と、言われたことがある。
 果たしてそうなのか。MTGやPCの前に座っている時間の方が圧倒的に長いのだが。
 昨夜、シャッターは一度も押さなかった。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3317


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        プラネット 2.
 
 
 
 
■ 自分のスタイルをつくるのに、大体10年はかかる。
 その間、潰れなければである。
 支払ってきた代償は、というと、指折り数えて外で虫が鳴いている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3318

 
        プラネット 3.
 
 
 
 
■ クルセーダースのテープを聴きながら、狩場線の辺りから乗る。
 最近の車はMDがついているのだが、私の豚セダンはカセットとCDである。車自体そろそろ換え時かとも思うのだが、これでいいではないかという気もしてならない。
 多分、本当に欲しいものが見当たらず、こう見えて廻りのことも考えているからだろうか。
 今いるマンションの地下には、不思議に英国車の棲息率が高く、XJが数台XJRも一台、隣は一つ前のポルシェである。911君はまだ若い彼が乗っている。最近まっすぐに停めているところをみると、慣れたのかも知れない。
 フィルムを貼ったEの500やA6は当たり前として、水色のロールスも外国ナンバーのトヨタの隣にいたりする。そのひとはたまに犬を連れている。
 一台、W124のツインカムのクーペがいて、これは大変にマニアな車種である。
 CGの小林彰太郎さんがかつて手放しで誉めてもいた。恐らくは新車から、10数年棲息しているものに違いない。
 
 
 
■ いきつけの美容院のチーフとは20年近い付き合いであるが、彼もW124を買って時々店に乗り付ける。彼は大阪、南の方の出身で、S30や130のZの時代を知っていた。
 シーマとかをローダウン(シャコタンともいう)してどうやろなあ、と髪を切りながら話す時代が数年続いた後の快挙である。
 何故124かというと、やっぱバブルの頃に憧れたじゃないですか、という。
 確かにあの後部絶壁の装甲車みたいな車体には、とうてい手が届かないものだとこちらは2リッターで意地になっていた。
 高輪界隈にある美容院には面白い客もきて、元アイドル事務所に所属していたという彼も髪を切っていた。声が大きいのですぐに分かる。今は何をしているのか、周辺部にいるのかも知れない。ホストになるには、やや背が足りないだろうか。三の線という手もある。
 
 
 
■ 首都高速の側壁をちらりと眺める。
 号線によって風情が微妙に違うのだが、これは東京という都市の成り立ちと今に関係しているのだろう。
 霞ヶ関トンネルの合流、例えばここを120でいったからといって、それは車の性能だろう。目の前にヘルを被ったPCがいて、それはマニュアルのセドの3リッターだが、ふたつギアを落として加速した。60の制限のところ、瞬間的に倍は出ていた。私は流してゆくと、いつものことだがフイルムを貼ったメルセデスが捕まっていた。
 覆面でなく、交機にパクられるのはダサくねえか。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3319

 
        プラネット 4.
 
 
 
 
■ 私は97年の6月にこんな緑坂を書いている。
「プラネット」という題である。
 
―――――――――――――――――――――――――
 
 
■ 夜が近づいてくるような気がする。
 もういちど、深い闇のなかに入ってゆく予感がある。
 それは空っぽの空洞とも違う、焼跡や廃虚の街とも異なる、人間が人間としてばらばらに解体された新しい世界である。
 かつて、大人も子どもも、互いに隣に居ることすら気づかないまま地平に立ち尽くしている姿を想像したことがあった。
 地平の向こうには新しいビルが建ち、視界の隅の方からゆっくりと暗闇がひろがってゆく。
 
 
 
■ 曲がり角の水銀灯のあたりで低い声がする。
 それは長く続き、外は小雨になった。
 じゃあね、という声だけがはっきりしている。
 携帯電話をしまい部屋に戻ってゆく。
 
 
 

2005年09月01日

「緑色の坂の道」vol.3320

 
        九月。
 
 
 
 
■ 明日のMTGのためDVDを焼きながらこれを書いている。
 薄い頭痛がするので、酒はまだ嘗めていない。
 つまり、97年の「プラネット」という緑坂は、社会の二極分化の果てにくる風景を暗視したものだったのだろうと今は思う。
 ひととひとが繋がる機会が、性と暴力でしかないという傾向は、表現の世界では暫く前から主流に近くなり、例えばヒットしているという劇画には。繰り返し児童虐待の記憶が出てくる。
 これはつげ義春さんがその短編で描いた、生活の底辺にある者達への諧謔に満ちた視線とは異なってもいて、自分を捜すそのスタートラインが、既に虐待の記憶であるという帯のような悲劇に近い。
 ある一定の層へは決してのぼることができないという諦念に満ちた苛立ちは、どこへ向かうのか。
 それを煽る者たちもいる。
 
 
 

2005年09月02日

「緑色の坂の道」vol.3321

 
        インタラクチブ舌かんで。
 
 
 
 
■ 「甘く苦い島」などのコンテンツを再構築するため、じたばたしている。
 このところ、試みにブログ内部に画像を付与しているのはご存知の通り。
 微細なクレジットなどが今のものとは違う、yominet 時代のものである。
 当時のjpgをそのまま掲載している訳だが、それが大きすぎるという声をいくつかいただいた。15インチのモニターで眺めると、確かに大きい。ノートPCなどでもそうである。 かといって、それを小さくするということはしない。性格なもので。
 
 
 
■ 何度も書くが、当時はネットスケープが主流であった。IEにはバグが多く、とうてい使い物にならない。イントラはNNを基礎として設計され、今ならば数千億程度のインフラはその10数倍の価格がした。
 だからどうした、ということではないのだけれども。
 コンテンツの見せ方を、ブログ、つまりMTに特化してゆくのは現実問題として難しいだろうという印象を私は持っている。
 とりわけ、画像などの各種作品を見せてゆくにMTは不向きであろうか。
 
 
 
■ 昨年の今頃か、盛んにアクセシビリティとかいう単語が一人歩きした。
 SEOの次はこれか、という按配である。
 かつて、「インタラクチブ舌かんで」と青瓶で書いたことがあったが、インタラクティブという言葉も、その意味が定かでないまま姿を消した。
 つまりは流行ということなのだが、ネットにおける先行者利益というのは、既に幻想ではないかという気がしている。
 ブログも怪しい。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3322

 
        九月チンボツ。
 
 
 
 
■ 昨日、若いもんと電話で話していた。無論、酒を嘗めながらである。
 空が白みかかってくる頃、私は椅子からずり落ちる。
 あらまあ、こんなに飲んだのね、という按配で、ずり落ちたままにしていた。
 なすがままというのは、案外に気持がいい。
 
 
 
■ 車で赤坂へゆく。
 目指すは首相官邸傍のビルである。
 地下二階から車を出すとき、どうもアクセルの踏み方が75歳であるかのように大げさであるなと自覚した。
 車線をまたいで右折するのも大胆である。
 成程、これが酒が残っているという状態でアルノカ。
 おかげで、打ち合わせはやや投げやりかつ攻勢的に終わることができた。
 反省は、夕方になってからしている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3323

 
        ひねた勤め人。
 
 
 
 
■ ここだけの話であるが、私は屈折した勤め人と仕事をするのが苦手である。
 ○○風、という言葉があるが、社の看板を背負って出入りの業者をいじめる。
 ま、いじめてもいいんですけどね。
 ドーナッテモシラナイヨ、と私は思ったりしているのだ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3324

 
        外のベンチで。
 
 
 
 
■ MTGが終わって髪を切りにいった。
 暫くの後、とりあえずまともに見られなければならない時があるからだ。
 高輪の美容院は一丁前に予約制で、それを忘れていった私は暫く待たされた。
 高松宮様のパーティで何度かお会いしたことのあるようなご婦人が髪をセットされている。いや、いったことはないのだけれども。そこは流れで。
 
 
 
■ 普段だとまたくるといって、別の用事を済ませるのだが、私はまだ酒が残っていた。 メンドウなので、外のベンチで煙草を吸っていることにする。
 チーフの彼が、灰皿を持ってきてくれる。
 私は自販機でペットボトルを買い、漠然としていた。
 高校生が前を通り過ぎる。ちらちらと私を眺めている。
 こうなってはおしまいだという顔をしたら、ガンを飛ばすつもりでもいたが、その私立高校にはそういう根性のある奴は乏しい。
 見知らぬおばさんに挨拶される。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3325

 
        沖縄の彼。
 
 
 
 
■ 二日酔いとはつらいものだが、後遺症のない酒も女もいない。
 私は暫く高校生を観察していた。
 近くに団子屋があり、しまいにひとつ買ってきてやろうかという気になった頃、ようやく店が空く。
 ここは必ずしも出勤前のプロの方々が集うところではなく、どちらかといえば近辺にお住まいのご婦人やお嬢さんがこられるところなのだろう。
 半分眠りながら、私は髪を切ってもらった。
 
 
 
■ 肩をもむサービスがあって、この店で何度か筋を違えたが、本日の彼はゆるやかである。彼は沖縄の出身で、こんど美容師の試験があるのだという。
 通信だと三年で取れるんです。
 筆記があるんです。
 誰でもとれんだよ、筆記は。と、チーフが声をかける。
 でもさ、原付だって落ちるじゃんか、と私。
 あ、オレ落ちた、とチーフ。
 沖縄の彼は、この夏休みがなかったと言った。
 友人二人と住んでいるのだという。
 ガッコは大井町で、可愛い子いるのかと尋ねると、まあまあですと答えた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3326

 
        怖いよ怖くないよ。
 
 
 
 
■ 昔「タイフーン」という雑誌があって、特集がハードボイルドである。
 監修が矢作俊彦さん。矢作さんがまだ20代終わりくらいの頃だ。
 チャンドラーからハメットまで、あるいはライアルの辺りまでを、若さにまかせて薀蓄し、画像をコラージュしていた。
 今も書棚の何処かにしまってある。
 
 
 
■ 中に、ボガートがよれよれのスーツを着て、38口径のリボルバーを持っている写真がある。珍しくボガートが脅えたような顔をしている。
 映画自体何なのか、俄かに判断できないが、ほぼクライマックスのシーンであることは明白だった。
 大体、この手の小説や映画というものは主人公がボロボロになるもので、普通だったら止めておいた方が妥当だろうと思われる状況で傾いてゆく。
 つまり、負けを知るというところから始まるんだよ、というのがひとつのセオリーになっている。
 怖いよオカーチャン、と言いたいのを堪えて男の子は立つ。
 半ズボンに二挺拳銃をぶらさげてだ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3327

 
        怖いよ怖くないよ 2.
 
 
 
 
■ ということはだ。
 もうダメかも知れないと自覚するところから、様々な物語は生まれてくるということであって、ある種の脅えを通過したものでなければ匍匐前進は難しいということにも繋がる。
 これは口で言うのは簡単なのだが、現実にはとても惨めであり報わない過程である。
 その途中、これだけやっているのだと廻りに言いたくもなるのだが、そうしたものは今はブログというか日記サイトに溢れている。
 仲間を作りたくもなるのだが、果たしてどうだろう。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3328

 
        バンド。
 
 
 
 
■ 緑坂 3317 に使った画像は、横浜バンド・ホテルのエントランスである。
 今から10年近く前、96年や7年に撮影した。
 当時私は「夜の魚 一部」を、映像とテキストで作品にしたく、慣れないカメラを持ちあれこれ試行錯誤を繰り返していた。
 使っていたカメラは、シャッターが鳴いているA-1で、一台を潰し、秋葉原にあった中古カメラ屋で同じボディを3万で買った。F-1で撮るようになったのは暫くしてからである。露出までマニュアルだと、当時の私にはネガしか無理だったからだ。
 
 
 
■ 繰り返し商用に使われている「甘く苦い島」も、実はA-1とF-1で撮っている。
 その話はまた別にするとして、横浜、バンド・ホテルというのは、若造だった頃、女を連れ何度か潜り込んでいる。
 決して埃っぽいという訳でもない。
 昭和30年代から40年代にかけての調度品がいいように古び、机のようなカラーテレビで地方局を眺めた。
 当時、女はボディ・コンシャスで、脚だけ出していればそれで問題は乏しかった。
 脱いだ後の違いに驚いたのは、一度目か二度目の界隈である。
 E36のBMWでないことに不平を言う女は、二年経ってからミッキーマウスの飾りのついた結婚式の案内を送ってよこした。
 
 
 
■ 私は茶色の薔薇と梅干の詰め合わせを贈ったのだが、こういう分かりにくい性格はなんとかした方がいいわよ、と言われ続けて40代も後半に入る。
 バンド・ホテルは随分前から、深夜営業のディスカウントに代わった。
 元町にいた猫も、子をなしたのか、時折いっても見かけることはなくなっている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3329

 
       それについて。
 
 
 
 
■ ぜんぜん話は変わるが、この処、昔の文庫などをぱらぱらと読み返していた。
 中で、何度読んでもすごいというか、酷いというか、ついつい鉛筆で線を引きたくなるような部分があったので引いてみた。ついでに書き写してみる。
 吉行淳之介と金子光春の対談で。
 
------------------------------
 
● 吉行 わたしは常々金子光春に感心しておりますのは、あらゆる人間を同じ平面でごらんになることができるでしょう。これは大変にむつかしいことで、水平に見ようとする意識を持つことはできますけれど、ただ実際にスッと見れちゃうってことは、これはなかなかできないと思うんです。そこんとこの具合をひとつ。(略)
 
● 金子 はぇ。
 
● 金子 若いときは色々あったけど、今はないんですよ。こっちが最低になったかもしれねぇんだ。
(略。このあとレプラかなんかの話をして、そのうちよく分からなくなる)
 
● 金子 いや、そりゃあ、一般には見てますよ。一般には見てますけどね。あの部分の横のほうの壁がツルツルになる奴がありましょう。なぜああなるのか。普段はヒダヒダなのに。それからお水の出る穴があるてぇますが、それも見てみたいしね、どんな具合に出てきやがるのか。
それにツブツブのある奴が出たり引っ込んだりするでしょう。ゲンコみたいなのが奥からウニューと出てくる奴もありましょう。先に蝶々がとまったようなものもありましょう、そういうカラクリをね。まあ微細に見てみたいと、目が悪くならないうちにね、ということです。今まではやることばっかり考えていた。不覚です。
(面白半分・四十九・四月号より)
(某社の文庫にも収録)
 
------------------------------
 
 
■ なんと申しましょうか。詩人というのは、すごいものである。
(以下、やや具体的記述が続くが、自粛)

 そういうものが、さまざまな形をしたものが、微妙にうごめいていて、時とともに状態を変える。
 あのね。これは、ひとりの男にとっては、かなり深刻な、重大なモンダイなんである。それをどのように眺めるかによって、その男の成熟度や人生に対する基本的な姿勢が分かってしまう。
 そこの処を曖昧にしたまま例えば結婚したりすると、奥さんと一緒に呼吸法をならったり、胎児をビデオに録画したりする。
 まあ、それはいいんだが、よく飲みにゆくと、いるでしょう、奥さんの写真を酒場の女性に見せたり、連れてきたり、幸せをまるだしにしているような男が。そういうひとたちは、なにを考えて生きているのか。
 幸せとは何なのか。
 
 
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「
 
 
○昔坂 vol.3 ほぼ93年
 
 

「緑色の坂の道」vol.3330

 
       泡。
 
 
 
 
■ 唐突に、緑坂の極めて初期の頃のものを再掲した。
 吉行さんと金子さんの対談は「面白半分」の編集室で行われ、お二方ともほぼ絶好調であったと言われる。
 つまり、先輩と後輩の仲のようなものだったのだろう。
 
 
 
■ それにしても、金子さんの描写には恐れ入る。
 さすが、タンジョンのほとりでしょぼりしょぼり、の詩人なのだが、そういった蝶々やゲンコみたいなものというのは、普段我々が目にしているところでもあった。
 周辺部は黒く焼畑農業なのだが、内奥はその通りであるという。
 なにもしなくても泡立つのは、君は蟹か。
 そうかもしれない。
 
 
 
■ 私は時々、人生の出入り口ということを考える。
 男というのは、つまらない生き物だなあということも付随する。
 例えば妙齢で、シガー・バーにいって葉巻を吹かしてるいるキャリアがいたとすれば、そんなのいねえが、段々渋くなる奴をくれ、妙齢本格派みたいな奴、と言ってにやりと笑うソムリエは大体が男であった。
 私は酔っ払い、トイレにいって置かれている小さなタオルを一枚ポケットに入れて戻ったりする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3331

 
       水平くん。
 
 
 
 
■ 緑坂 3329 にある吉行さんの発言には、肝になっている部分がひとつある。
 あらゆる人間を水平に見る。
 ということであるが、もういちど読み返すと、意識を持つことは簡単だが実際にスッと見ることはなかなかできない、とも言われている。
 微細なことであるが、この意識の往復運動がいわゆる吉行さんの文学の根にあるものであろうか。
 
 
 
■ 例えば平等と口にすることは簡単だが、現実にはそうもゆかない。
 上海のXJと港区や足立区のそれはやや違って見える(註:XJとはジャガーのセダン)。 もっと過激なことを言えば、同じ仕事をしていても肩書きが正社員と派遣では現実の社会では随分と違った扱いを受けてもいる。
 これらはつまるところ政治的な問題なのだが、それを批判する側自体にそういう視点があって、内部で細かな階層を作ってもいたりもした。
 文学とか文芸のいいところは、そういったしがらみが少ない、というところだと先輩に聞いたことがある。
 才能のある人間はいずれ表に出る。こともある。
 出方は様々で、またそのジャンルも違うのだけれども。
 
 
 
■ 息をする度にゲンコと蝶々が出たり入ったりする。
 ちょっと止めてみ。
 とかいって、酒をショットで嘗める。
 彼女は美人なのだが、中が広い。
 しかし中のことまでは責任が持てないともいう。
 こちらは入り口がメラニンなのだが、伸ばすとどれくらいいくのかと試した。
 音楽室にあったアコーディオンを思い出したりした。
 それでいて、月が出ていたりするのである。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3332

 
       緑坂の憂鬱。
 
 
 
 
■ 古くからの読者から、キレテますね、という声が届いた。
 そうか、私は生きているのがつまらないのだ。
 と、答えようとして恥ずかしかった。
 
 
 
■ しかしまあ、何が言いたいかというと、ネットの黎明期から比較してこれだけ大衆化したというのに、その構造はほとんど変わりがない。
 MMやブログを含め、単独で密かに読もうかという大人の楽しみが少ない。
 何故かというと、すぐにMKとかいうからである。
 下心が透けて見えるのである。
 マーケティングは私の仕事の一部だが、膨大な資料の後にくるものはその本人の世界観である。自分は、世の中をどう眺めているかという視点が問われる。
 
 
 
■ 理想の女は。
 と聞かれたことがあった。
 それは何度もあるだろうが、その返答で覚えているものとして、私は「気立てのいいまんこ」と答えたことがあった。
 するとある妙齢から「可愛げのあるかわ」と言われ、ここは漢字でなくて良かったなと思った。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3333

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「緑色の坂の道」vol.3334

 
       春雷。
 
 
 
 
■ 風が吹いたり止んだりした。
 こころは揺れているが、それでいいという声もする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3335

 
       春雷 2.
 
 
 
 
■ 緑坂 3333 は、99年の作である。
 当時の読売の担当責任者の方が、これが一番好きだと言っていた。
 実は私も気に入っていて、別の機会にA3で作成し、EPSONさんに出力してもらった覚えがある。その時は、文章は省いた(3334のもの)。
 
 
 
■ この辺りから私の和風なデザインが始まっているのだが、これは後に「列島いにしえ探訪」などのシリーズに繋がってゆく。
 本作では、緑坂のロゴとその横にある朱色がポイントになっている。
 ここを違う色にすると全く印象が異なる。
 
 
 
■ 遠くにあるのは、海に落ちる雷。
 実は春ではなく、今ぐらいの季節に撮っている。
 
 
 

2005年09月03日

「緑色の坂の道」vol.3336

 
       春雷 3.
 
 
 
 
■ 壁紙にするにはやや大きいわね、という声をいただいた。
 大きいね、元がA4だからね。
 かといって、サイズを小さくしようという気は乏しい。
 
 
 
■ ウェイト・ティル・ユゥ・シー・ハー
 という言葉が浮かんでくるのだが、これは誰の曲だったか。
 昨夜、六本木トンネルを歩いていて、蝉の雄が落ちていた。
 彼は粉になるのを待つ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3337

 
       夏すぎて。
 
 
 
 
■ わたしは別のものになれるとおもった。
 彼のことも忘れたつもりだった。
 海に雨がふる。
 下腹は鈍く重い。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3338

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「緑色の坂の道」vol.3339

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「緑色の坂の道」vol.3340

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「緑色の坂の道」vol.3341

 
       過ぎた薔薇の日。
 
 
 
 
■ これも5年前の緑坂である。3340.
 メルセデスのSL。
 水銀灯の下では、こんな色に写る。
 
 
 

2005年09月04日

「緑色の坂の道」vol.3342

 
       過ぎた薔薇の日 2.
 
 
 
 
■ 一定の大人には、解説の要らないコピーだろうとおもう。
 
 
 
■ 恋に似たもの。
 という緑坂を昔、書いたことがあった。
 過ぎてしまえば、どんな味かを忘れる。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3343

 
       濾過の程度。
 
 
 
 
■ HDDの中を捜していると、実に多くの緑坂が出てくる。
 今掲載している画像もそうだ。
 全てをキャプチャーしていた訳ではないので、PDFのままだったり、サイズがA4ではなくA3だったりもした。B0サイズというのもあった。
 JAZZピアニストの大石学さんとセッションで、JAZZの音源のついた緑坂や「甘く苦い島」が出てきたりもした。
 さて、これらをどうするべきか。
 
 
 
■ いずれ作品をまとめるとして、一本のMTだけでは難しいのだろう。
 MTを分岐させる必要もあろうか。ただ、ブログだけでまとめるのは、現実的ではなさそうである。はいはい、Webデザイナでした、当方は。
 
 
 
■ 古くからの読者が前にこんなことを言っていた。
 緑坂というのは、始めは訳がわからない。
 暫く眺めていて、ひとつのフレーズがひっかかることがある。
 これは自分のことを言っているのではないかと疑う。
 そうすると、遡って読み始める。意味がほどけてくる。
 そんな読み方をするひとが昔からいた。
 作品というのは、濾過の程度である。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3344

 
       混ざる。
 
 
 
 
■ もっとあるかもしれないとおもう。
 近いところでいつも知りあう。
 
 
 

2005年09月05日

「緑色の坂の道」vol.3345

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       無頼という。
 
 
 
 
■ 戦後、無頼派というブンガク上の流れがあって、青春の一時期、大抵はそれにかぶれた。
 オダサクが、駐車じゃね、注射しながら講演をしたとか、安吾がアドルムを飲んで税務署と喧嘩したとか。
 ラモーという犬がいて、死んだ時、安吾はオイオイ泣いたと言う。
 
 
 
■ 世の中に文学青年は山ほどいるが、ほんとうに読みごたえのあるものを続けて書けるひとというのは少ない。
 一太郎が使えるようになったことが、それ程スバラシイことなのだろうか。私は思うのだが、ネットを作るということは、もしかしたら恥ずかしいことではないだろうか。
 自意識だけが膨張すると、困ったことにはならないか。
 
 
 
■ 彼等は無頼でもない。
 無頼とは、自分が受け入れられないことを薄く知っていて、その悲しみに耐えているひとのことを言うのだと思う。
 
―――――――――――――――――――――――――
 
○昔坂 vol.900 94年5月
 
 

「緑色の坂の道」vol.3346

 
       All of you.
 
 
 
 
■ この画像は「夜の魚 一部」のために撮ったものである。
 横浜、水上警察付近の路地だったと思う。
 夜遅く、カメラを持ってうろついていて、さてそれでどうなる。
 どうもなりはしないが、当時金もないのにそんなことばかりをしていた。
 小説に写真をつけようとしても、そしてデザインを施そうとしても、だからどうなる。 
 
 
■ 実は、どうにかなるのであるが、それはまた姿を変えての話である。
 作品というのは無駄であって、このポジ一本と現像代で、上ロースが喰えるのだがなあと思いながら日々すれすれ。
「夜の魚」では、この右半分にAll of you と赤く入る。
 文字を入れるために、画像を焼いていることになる。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3347

 
       All of you 2.
 
 
 
 
■ 10年経っていても、物事の本質はあまり変わりがないように思えることがある。
 例えば「無頼について」の緑坂で、ネットの部分をブログなりSNSに置き換えてしまえば、今も起きていることは同じだ。
 ただそれが、拡散し、社会の表に出てきて恥じない。
 というだけのことである。
「ミットモナイからおよしなさい もっとでっかいこと何故デキヌ」
 という昭和の格言もあった。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3348

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「緑色の坂の道」vol.3349

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「緑色の坂の道」vol.3350

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「緑色の坂の道」vol.3351

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「緑色の坂の道」vol.3352

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「緑色の坂の道」vol.3353

 
       ill wind.
 
 
 
 
■ ある通信社の編集委員の方が尋ねてきて、近くにあるホテルで暫く話す。
 内容は他愛もないことなのだが、つまりは「これから、どこへゆこう」という個人的な按配である。
 ネットの言論の世界は目まぐるしく移り変わっていて、半年前に言っていたことと今書いていることがまるきり違うことが、ままある。
 それは風俗のようなもので、言論それ自体も消費されてゆくからである。
 それに乗ろうとするひと。
 離れるひと。
 
 
 
■ 吉行さんに「流行」という短編があると前に書いたことがある。
 繰り返さないが、戦後その時その時に流行っているものを懸命に追いかけるある女性を定点観測した作品である。
 あるいは文芸春秋の池島さんが「雑誌記者」の中で同じようなことを書いている。
 昨日まで八紘一宇と叫んでいた人間が、一夜明けて赤旗を振る。
 池島さんはその姿に生理的な拒絶反応を示す。池島さんは坂口安吾と妙に息があっていたが、安吾の口を借りてその思いを伝えていたのかも知れない。
 思想はひとつの意匠になっていく。
 確か小林秀雄も似たようなことを言っていたと記憶しているが、確かめるのはやめておこう。
 
 
 
■ のしあがる手段のひとつとしてネットを使うひとがいる。
 それは広義の広告、セルフ・ブランディングのひとつなのだが、この言葉にも手垢がつき始めた。
 新自由主義には闇があって、自分の内側を眺めていては先にゆけない。
 なにかを欠落させたまま、俺が俺がと声を出してゆく。
 それが悪い訳ではないが、それによって喪うものもあることを未だ知らないのである。
 こうした人間像というのは今に始まったことではなく、昭和40年代の大岡昇平さんの恋愛小説にも遠景として散見する。
 当時は新興大学の助教授だったりTV局の社員だったりした。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3354

 
       主さん恋し。
 
 
 
 
■ いくつかややDEEPな緑坂の画像が続いたが、これは00年の作。
 yominet では発表していないものだったと思う。
 コピーに暗いものがあるのは、多分妙齢にフラレタからではなかろうか。
 
 
 
■ お台場の観覧車の前を男が歩いている。
 ちらりとそれを眺め、カメラを取り出してシャッターを押すのだが、それが何故なのかということは分からないでいる。
 被写体がこちらを呼ぶような時があるのだ。
 こうした場合、AFよりもマニュアルの方が使いやすく、露出もまたマニュアルで行った。ややアンダーが出ている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3355

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2005年09月06日

「緑色の坂の道」vol.3356

 
       ふなのりの自転車。
 
 
 
 
■ なんというか、漠然としている。
 明日の準備もあるのだが、どうも二日酔いのようだ。
 画像の大きさも、ま、こんなもんでいいんじゃないかという声もあり、このサイズでゆくことにする。実際のA4よりはやや縮小している。
 緑坂にはこういうどうでもいいような写真や短文がある。
 
 
 
■ 猫が二匹、むこうをむいている。
「なんだろな」
 なんだかな、いってみようか、そうしよか。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3357

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「緑色の坂の道」vol.3358

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「緑色の坂の道」vol.3359

 
        カーディガン。
 
 
 
 
■ これは滝の写真である。緑坂 3358.
 滝の傍までゆくことがあるのか、と問われると、まれにある、と答えることにしている。
 私が動くのは大抵夜にかけてだが、こうした場合には明るいうちにうろつく。
 コダクローム64Pro の色目はある種独特だった。
 画像中央に、Jpgだと読めないかもしれないが、
「s e p a r a t i o n」と書いてある。
 今元になっているPDFを拡大してみた。
 
 
 

2005年09月10日

「緑色の坂の道」vol.3360

 
        甘く苦い島、再掲。
 
 
 
 
■ 別のMTに、「甘く苦い島」のオリジナルを掲載している。
 オリジナルとは、A4サイズのPDFで作成されたもので、全てにコピーがついたものを指す。
 初出は99年の読売新聞社、yominet.
 take1 と記載したものが、後に某プリンターメーカーから作品集としてまとめられたものを指している。全部で40数枚ほどになるだろうか。
 もちろん、編集を通過しているので、実際の枚数はもう少し多い。作品集としてまとめるに枚数制限があったためである。
 
 
 
■「甘く苦い島」は、このオリジナルを原型として、様々な形態に発展していった。
 JAZZミュージシャン、大石学トリオの演奏をバックに、Quick time 形式で画像と音楽とか融合したコンテンツもあった。これらは技術評論社のAcrobat 4.0の解説書籍に各社プラグインとともに同梱された。
 企業が主催する写真を展示するギャラリーや、もしくはIPPFなど各種展示場で、A3やB全にリサイズされたものが貼り出されもした。
 各種雑誌広告に使用されたものもいくつかある。
 詳しい経緯はおいおい書いてゆこうと思っている。
 
 
 
■ MTという形態がこうした作品をWeb上で展示するにふさわしいものかどうかは知らない。恐らくは不具合もあるだろう。
 商業版であるから、かつてはスライスをかけ四分割などして簡単に壁紙などにはできないようにしていたが、昨今、WebのページそのものをPDFにするなど、キャプチャーの技術が一般化しているため、その作業は省いた。
 かといって、著作権や使用権等を放棄している訳ではないのでご注意のほど。
 東京地裁の喫煙室に出かけるのはカンベンである。下の食堂もさびしい。
 こういうものも、英文で書かないと駄目なのかも知れないが。
 
 いずれにせよ、オリジナルを楽しんでいただければ幸いである。
 私はへろへろになりながら、タウリンも1000では効かねーよという按配で、作品の編集を続けている。
 それにしても、昨夜飲んだ発泡酒の黒い奴は不味かった。
 
●⇒ 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara」 Blog
 
 

2005年09月11日

「緑色の坂の道」vol.3361

 
        地裁のパンチパーマ。
 
 
 
 
■ 先の緑坂 3360 で、地裁で会いましょうというようなことを書いている。
 緑坂の読者は大抵が大人であるから、その意味も黒く分かってもらえるものだと考えているが、すこしばかりキツイものであったかも知れない。
 まだまだ日本の社会というのは、訴訟その他が仕事のシステムその中に組み入れられている訳ではない。
 かつて中央公論社から「訴訟社会アメリカ」という新書が出ていた。
 これは名著であるのだが、そこで語られていることは、あらゆるものが訴訟の対象になる米国の法律制度というものが果たして我が国で根付くだろうか、という問いである。
 
 
 
■ あるとき、私は東京地裁へゆくことがあった。
 妙齢関係の厄介ではないかと勘ぐるのは、ある意味で理由もあるのだが、そうではなく、つまり被告の立場ではないことを申し沿える。
 ま、東京で長いこと仕事をしていれば、そういう機会も出てきます。
 久しぶりに出かけた東京地裁の風情は、私が歳を重ねたからだろうか、駐車場の守衛が自分よりもまだ若く、そしてすこしの訛りがあることに気づくことから始まる。
 ここは午前九時に並んでください。九時半になるともう満員ですよ。
 グレーのサングラス(プラダ)をかけ、よたよたと綿のシャツを着ている私に告げる。 ありがとうございます。そうします。
 霞ヶ関の界隈は、青いチョッキを着た警邏の警官で溢れている。
 小さな日の丸を車に貼っていればそれで通るかというと、そうでもないんだな。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3362

 
        地裁のパンチパーマ 2.
 
 
 
 
■ 時間があったので地下へ降りてゆく。
 まだ、人気の乏しい地下界隈に床屋があり、そこに貼ってある見本がアイパーであり、もうすこし言えばいわゆるパンチパーマであることに気が付いた。
 思わず小型のデジタルカメラを取り出そうと思ってやめにした。
 ここでパンチをかける人がいるのである。
 
 
 
■ それから喫煙室に入って漠然としていると、つまりここが社会学的にどういう場所であるのかということを認識する。
 なになにさん、来ていますか。
 と呼ばれるのは、明るいとこで見てはいけない、金ラメの文字の入ったブランド物のTシャツを着ている遥かかなたのお姐さんであった。
 昔、鶯谷でみかけたような気もした。
 彼女はどうしてこんなに色が黒いのか不思議である。
 その横には上から下までエルメスの人がいて、顔だけが平坦なのだが、かつての日活映画そのままに犬歯で長い煙草を咥えている。洋モクだ。
 歳の頃は、夜であれば25歳、実際はそれに10を加える。
 背の低い、青い背広を着た弁護士だろう方と共に喫煙室を出てゆく。
 
 
 
■ 苛々とニコチンを補給している男や女たちをサングラス(プラダ)越しに眺めている。
 これは何処かで見た光景なのだが、確か運転免許の講習や、あるいは免停の手続きの時の風情にも似ている。
 あるいは、外科で入った病院の、松葉杖をついて集まる喫煙室の空気だろうか。
 モータの廻る喫煙用機材の手前に、黒いシャツを着た四十代の男がいた。
 ちらちらと私を見るのだが、見ているのは私ではなく、自分の置かれた状態に対する確認であって、たまたま傍に私が立っていただけであった。
 彼の肌は黒い。かつてパンチだっただろう髪はすこし白髪で、忙しく眺める腕時計はプラスチックの液晶の黄色である。老眼が始まると使えないものだ。
 彼は一本を三回吸い、痰壷のような灰皿に投げ込んでは繰り返している。
 その日は台風が近く、ガラス越しに眺めると白い雲が、官庁街の隙間を忙しく盛り上がったり縮んだりしていた。
 
 
 

2005年09月12日

「緑色の坂の道」vol.3364

       THE WAY
       PDF
       ADVERTISING
       LOOKS.
 
       「緑色の坂の道」-甘く苦い島-.
 
 
 
■ この作品集の標題は、パウル・クレーの1938年の作品から拝借引用している。
「甘く苦い島」(Insula Dulcamara)という言葉自体は、ラテン語の「Dulcis」(甘い)と「Amarus」(苦い)という単語からの造語になる。
 二極分離したもの、その概念の衝突。
 この頃のクレーが、義理の娘に書いた手紙から引用してみる。
 
「世の中は簡単に消化できる事柄だけでなりたっているのではないということにがっかりしてはいけない。重苦しさも結局は他の力とうまく平衡がとれるのだという希望を捨ててはならない。
 そして私達はそれぞれの好みによって、甘いものと苦いものを二つのお椀から取って味わうべきなのだ。注意深さと知性があれば、だれも大きな幻想に屈することはないだろう」
(「klee」Susanna Partsch著:80頁:ベネディクト・タッシェン出版)
 
 
 
■「大きな幻想」というのが、ドイツ第三帝国の野望であったことは言を待たない。が、そうした時代背景を抜きにしても、クレーの言葉にはある種普遍性が含まれている。
 近年好景気に沸くアメリカ。その近代化の過程や、現在と未来のある意味で集約的磁場であるNY・マンハッタン島をひとことで顕すのなら、なんという言葉がふさわしいのだろう。
 甘く、しかも苦い島。
 マンハッタン島というのは、外側を微かになぞっただけの人間にとっても、そこに住んでいる多様な肌と階層の人々にとっても、錯綜する概念と現実、その衝突と調整の場所のように思える。
 そして、私たちの住んでいるこの土地というものも、その色濃さや密度・構造は別として、甘く苦い島であるのだと私は思う。
 
 
 
○初稿:1999年12月。本作品集のあとがきより。
全41枚を眺めるにはこちら

2005年09月13日

「緑色の坂の道」vol.3365

 
       アフター・ザ・ブラック・マンディ。
       履歴書をグロスで書いた。
 
 
 
 
■ テキストの文字列を検索するソフトで、HDDの中を眺めてみる。
「甘く苦い島」という単語が出てくるのは、「夜の魚 三部 南春」の辺りからであった。 97年の頃合である。
 ものはついでで、書き写してみる。
 
 
       十四 甘く苦い島
 
 
 
■ 二週間が過ぎた。
 通りはクリスマスの飾りつけで溢れてはいた。けれども、年々過剰になる豆電球の数とは裏腹に、町にそれ程の活気はなかった。ライトアップされた表参道のけやき並木を眺めるための渋滞がテレビ画面に映る。
 十二時を廻ると目立った人影がない。若者も意味なくぶらついてはいなかった。
 主要な駅前には客待ちのタクシーがアイドリングしながら目をしばたたせている。昨日までプログラムを設計していたような三十前の運転手が室内灯を点け、憮然たる顔つきでパソコン雑誌を捲っていた。
 
 
―――――――――――――――――――――――――
 
 とまあ、7年前というのはまだ何処か牧歌的である。
 続けて97年4月の青瓶から。
 
 
■「甘く苦い島」というのは、クレーの絵の題名であった。
 困ったときのクレー頼みというのが緑坂にはあって、夜魚 3、二部の出だしはそのようになる。
 アメリカで移民を制限する法律が出来たそうで、かなり波紋を呼んでいるのだけれども、そのアメリカでは1992年に大きな暴動があった。
 その暴動の主体は黒人ではなく、スパニッシュやコリアン、チャイニーズという多国籍多文化の移民達が主体であったとされている。
 大まかに言って、日本という国も急速にアメリカの跡を追っているようなところがある。周辺諸国からの移民や難民の話題が、ここ数年紙面をにぎわすようになっている。ものの本によると、人口流動化というのが地球的規模になっているんだという。
 
 
 
■ 終身雇用制度が実質的に崩壊し、年俸制や契約制が急速に普及する背後には、ゆきずまりがはっきりしてきた社会構造を、雇用の流動化によって乗り切ろうという思惑があるのかないのか。
 国内においてはそのような流動化を促進する必要があり、国外からは大勢の外国人労働者が流れ込む。
 そうした時代の変化を背景として、ベトナム人との四分の一混血の少女が物語に登場している。
 ぼんやりしながら、どう絡ませるか考えているんです。
 
 
 
○全41枚はこちら
 

「緑色の坂の道」vol.3366

 
       アフター・ザ・ブラック・マンディ。
       履歴書をグロスで書いた 2.
 
 
 
 
■ 元IBMのアメリカ本社にいたという40代の男性が、タクシーの中でインターネットラジオから録音したJAZZのテープを聴いていた。
 と、いう緑坂を随分前に書いたことがあったが、そんなことで驚いていたのも、もしかするとひとつの時代だったのかも知れない。
 97年の頃合、世の中はまだ牧歌的だった。
 あの頃、牛丼はいくらだっただろう。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3367

 
       アフター・ザ・ブラック・マンディ。
       履歴書をグロスで書いた 3.
 
 
 
 
■ 部落、じゃね、「ブラック・マンディ」とは何だったのか。
 分からなければ自分で調べてください、というのが緑坂および青瓶の原則的な姿勢である。
 とかく批判を浴びるものだが、先日もコニカミノルタの担当者にそのように言われた。
「北澤さん、コール・ポーターなんて誰も知りませんよ」
 
 
 
■ そう言いながらである。
「震えて眠れ」
 ってのは63年の映画にありましたね、とか彼は言う。
 え、そだったっけ。そうだったかもしれない。
 覚えてないんですか。
 んん(ごまかす)、あなた相当マニアですね。
 
 
 
■ コール・ポーターを知らないひとがいても良いのだと思う。
 ヘミングウェイの名前だけは知っていても、フィッツジェラルドとその妻ゼルダの顔は誰も知らないように。
 西新宿にはいくつもの名前の通った会社が入っているが、その地下駐車場というのはさびしい。
 3000円を買うと一時間だけ駐車代が無料になる。
 が、それを適用している店が次第に少なくなって、ほぼ有名無実になってしまってもいる。
 私は1800円を払った。
 条例でアイドリングは禁止されているが、一台のセダンがエアコンをかけっぱなしにして、ずっとそこで眠っていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3368

 
       アフター・ザ・ブラック・マンディ。
       履歴書をグロスで書いた 4.
 
 
 
 
■ つまり金融恐慌である。
 その後、アメリカがどのようにしたのかには異説あるが、いずれにしろ不祥事の責任者はほとんど処分されたという。
 それが原動力だったのかどうか、99年当時、アメリカはIT関係の好景気で半ば得意の絶頂にあった。
 
 
 

■「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」vol.26

 この画像は、NY、グランド・セントラル駅構内である。
 MoMaの展示作のようなモダン・アートの壁面の前に、男が二人立ってぼそぼそと話している。画面を暗く焼いているが、一人は黒人である。アフリカ系アメリカ人、と呼ぶべきだという主張もある。
 彼らは、仕立てのいいスーツを着ていた。
 
 
 
■ 私はエスカレーターを降りてくるところだった。
 なにか呼ぶようなものがあり、手に持っているMFのカメラで一枚を押す。
 露出もピントも実はマニュアルであって、下がってくる通路の上から反射的にシャッターを切った。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3369

 
       pride.
 
 
 

■「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」vol.28

 は、ある意味で最も緑坂的な作品である。
 読売新聞社 yominet に掲載した際、かなりの評判をとった。
 評判とはつまり、この作品がいいという声が思わぬところから聞こえてきた、という意味である。
 かつて、アゴスト「アート&デザイン」という質の高いデザイン誌があった。
 その012号に「甘く苦い島」は特集されている。本作はその中でもやや大きく使われていた。
 表紙が横尾忠則さん。その次が松永真さん。
 その暫く後だったから、今考えるともっと喜んでいい話で、どうもその辺り私は鈍いところがあるようだった。
 
 
 
■ HDDの中から、かつて書いた青瓶の一部を転載してみる。
 
 昨夜遅く、若いものから電話がかかってきた。
 PDFを見たという。私はくたばって最後の一杯を嘗めるべきか逡巡していたところだった。
「どうしてこれが、pride なんですか」
「どうしてって言われても、そういうことなんだよ」
 NYの、これはどこだったろうか。地名を忘れている。
 向こうからひとりの熟年が歩いてきて、彼は帽子を被っていた。
 私はほとんどノーファインダーでたった一枚だけを撮った。
 この時はFD28ミリだったと思う。結果的に壁そのものにピントが合っている。
(青瓶 2213 99年)
 
 
 
■ 向こう側に若い男の顔がある。洋服のモデルだろうか。
 手前を歩く老人は、ややうつむきながら歩いている。
 彼を撮るとき、車道に飛びのいて撮ったことを覚えている。クラクションを鳴らされた。
 私は、どんな風に年を取るのか。
 
 
 

2005年09月15日

「緑色の坂の道」vol.3370

 
       from.
 
 
 
 
■ コニカミノルタの仕事のため、画像を選択している。
 頭をからっぽにしなければならず、それがなかなかできないでいた。
 ある地方自治体の担当者から、相談のメールがくる。
 困ったもんだよなあ、コンサルというのは対価がかかるのだが、それを理解してもらうのは難しい。
 
 
 
■ レンタルブログで何かご高説を書いているひとたちを、ぼかあ信用しない。
 と、甘木君が言っていたことがある。
 自腹を切りなさい、ということで、それは真にもっともな話だろう。
 利用規約をよく読むと、著作権から使用権までがそのサーバーを運営する会社に移行するというようなことが書いてある。あたかも、出会い系サイトの注意書きのような小ささでである。
 それを知ってか知らずか、裁判になれば問題がない、そういう条項は無効だと社の法務の人間に言われたから大丈夫、という方もいたが、それは眉唾である。
 彼に対してあまり親身になってくれなかったのではないか、という気もしているが、それを口にする訳にはゆかない。
 
 
 
■ といってここに書いているのだからドットハライ。
 気分が乗らないので、酒を嘗め始める。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3371

 
       月の影。
 
 
 
 
■ ガラス越しに空をみている。
 雲が流れるともなく。
 屋上に庭園があって、見事に手入れされているが、人影はない。
 灯りがひとつ消えた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3372

 
       まだこの坂をのぼらなければならない。
 
 
 
 
■ 歯医者に行った。
 遅れると、
「どうして電話しないのよ」
 と言われる。
 女医さんである。
 
 
 
■「磨いてなーい。煙草すう。しかも治療を途中でやめた形跡がある」
「はあ」
「噛むとこなくて、困るでしょ。どうするの」
「ま、どうとでもしてください」
「ところで、貴方、結婚してるの」
 聞いてない。
 
 
○昔坂 93年10月
 
 

「緑色の坂の道」vol.3373

 
       まだこの坂をのぼらなければならない 2.
 
 
 
 
■ おおむねクーダラナイ緑坂であるが、あのとき私は若かった。
 93年であるから、ドウシタラヨカロ。
 このコピーはその後何度か使った。
 
 
 
■ ま、どうでもいいのだが、薄っすらと機嫌が悪い。
 こういうときはふらりと出かけ「海を見ていたジョニー」ごっこをしてくるか。
「風に吹かれて えみりの育毛」
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3374

 
       まだこの坂をのぼらなければならない 3.
 
 
 
 
■ おおむね、次の段階に移行する手前というのは空気が粘る。
 平行線を暫く続け、数をこなすことによって質的な変化が起きるのを待つ。
 簡単に言えば、しくじったネガとポジの本数によって写真の腕が変わるようなものだが、数をこなせばいいというものでもないのは、男女の間柄にも似ていた。
 
 
 
■ 昔、開高健さんと吉行さんの対談で、開高さんが中南米の男たちの話をする。
 まだ若いのに、経験が三桁を超えているということに驚く。
 吉行さんは軽くいなし「足踏みをしない訳だね」という。
 つまりはひとりの相手のところで、イチニと足踏みをしていることも大人の厄介には大事なことなんだという指摘である。
 開高さん驚く。ナルホドなあ。
 オイチニの薬屋さん、というのが戦前にはあって、大体は退役軍人が軍服を着て訪問販売をしていたという話もあるが、それとは関係のないお話。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3375

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まだこの坂を昇らねばならない。

2005年09月16日

「緑色の坂の道」vol.3376

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海鳥が横切った。痛いのは何故だ。

「緑色の坂の道」vol.3377

 
       ひじき煮る。
 
 
 
 
■ 時々、台所に立つ。
 先日思い立ってヒジキを煮てみた。
 そういうものが食べたかったからである。
 すこし多く戻したので、ヒジキ汁というものにもする。
 
 
 
■ 無精髭を生やしながら、不機嫌な顔でひじきを煮ている。
 対外的に見るとそういうことになるのだが、誰も見ていないからいいとする。
 それからシガリロが欲しくなって、近くのホテルのBARに買いにゆく。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3378

 
       ひじき煮る 2.
 
 
 
 
■ 月が満ちてくる頃合である。
 虫も低い声で鳴いている。
 都心でそんなことがあるのか、と尋ねられると、穴場のようなところもあるのだからうかうかできない。
 私はホテルの庭に出てみた。ライトアップされてなかなかのものに見える。
 そこでシガリロの封は切らない。
 かつて、眠狂四郎の作者、柴田さんは高輪の坂道の辺りに住まわれていた。
 高輪詣で、とか言って後輩の作家達が集まったりもしたという。
 これは泉岳寺が近いからで、吉行さんも堀部安部衛について、一冊ものにされている。 
 
 
■ 柴田さんのお住まいから、坂道をうねうねしてゆくとホテルがある。
 この系列のホテルは食事がいまひとつなので有名だが、ここだけは例外的に風情があって、とりわけ庭が適宜歩ける。私は最寄の駅で降りると、このバーで一杯を飲んで帰ることがままあった。
 そこのバーテンダーと何時だったかカクテルコンテストでばったり会って、向こうもこちらを覚えていたりした。
 佐藤まさあき さんの貸本劇画に出てくるような感じ、と言えば分かるだろうか。
 また顔を出さないといかんなと思いながら、ひじき煮ている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3379

 
       海鳥たち。
 
 
 
 
■ 緑坂 3376 の画像は何であるか。
 よく見ると、画面左上の方向に疵のようなものがある。
 それが海鳥なのだ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3380

 
       花電車。
 
 
 
 
■ カメラマンのやや年の若い友人二人から、花電車のビデオを撮るのでそこに出てくれないかという話があった。
 プダラのサングラスをかけ、和服を着用し、ふむふむいやはや、サヨデッカ、という按配でそこにいてくれればいい、という。
 舞台は東京郊外のある地主の家。
 ごたぶんに漏れず、そういうところの嫡男というのはロクなことをしていない。
 
 
 
■ 彼らはプロであって、名前を出すと驚くような仕事をしている。
 一人はスチール。ひとりは動画の分野では相当なものである。
 ま、それはいいんだけど。
 確か何処かに、ウールではあるが和服が仕舞ってあって、羽織だけは絹だったろうか。 若い頃、それで首都高速に乗り、女のアパートに通っていたことがあって、馬鹿ではないかと思うのだが、そのようである。
 袂から財布を出したりする。料金所のオヤジが驚いた顔でこちらを眺めるのが楽しかったんだから、児戯みたいなものであろうか。
 
 
 
■ ビデオは日本ではDVDにせず、フランスの方へ流すのだという。
 だから面が割れないっすよ。
 ちょっと待てこら、昔の野坂昭如さんみたいなことさせてどうすんの、とは思ったが、彼らは野坂さんを知らない。
 ここで読者のために説明を加えると「花電車」とは、人生の出入り口付近で行う我が国伝統のお座敷芸である。色は問わない。
 卵であるとかバナナであるとか、沢庵、はちと無理か、そのようなものを切ったりしてみせる。水を吸い上げたり戻したりもする。
 それでどうにかなるのか、と言えばどうにもならないのであるが、男たちはすごいもんだなあと言って感動する。
 暫くたってから、心細くもなって、お袋の顔が浮かんだりするという話だ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3381

 
       花電車 2.
 
 
 
 
■ で、結局私は彼らの誘いには乗らなかった訳だが、理由はいろいろとある。
 顔出しNGの男優だから、と返事をしておいた。
「こーいちさん、そろそろ顔は露出してもいいっすよ」
 とか、言われることもままあるのだが、気がすすまない。
 
 
 
■ 五木寛之さんが、自らの写真の使用その他について、当時としては異例に神経質だったという話がある。五木さんの初期のエッセイにその旨が書かれているが、さすがにデビュー前に一定の苦労をされた五木さんらしいエピソードである。
 顔で売れる、というのはどの世界にもあるものだ。広告の基本である。
 が、今の段階で自らのWebなどに顔写真を載せているデザイナやモノカキというのは、個人的には俄かに信用しがたい。
 ま、偏見なんですけど。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3382

 
       色止め。
 
 
 
 
■ 色は問わない。
 などということを書いていると、ドーナッテモ知らないよ。
 ということを昔からよく言われた。
 茄子漬の場合、ミョウバンを使うのだという。
 緑坂の妙齢読者はここで笑う。
 もしくは、こっちいらっしゃい、とイウ。
 
 
 

2005年09月20日

「緑色の坂の道」vol.3383

 
       すこし曲がった秋の道。
 
 
 
 
■ 月の出ている晩、散歩はできなかった。
 少年の頃、寄り道をして暗くなる。
 妙に大便がしたくなり、かといってこの道端でするわけにもいかない。
 こないだまで夏だった。
 と、蝙蝠の飛ぶ黒紫の空の下を歩いていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3384

 
       ミスティ。
 
 
 
 
■ エロル・ガーナーというピアニストがいて、彼は黒人なのだが、この一曲だけで知られている。
 なんてこったい、ロマンチックだな。
 と思ったのは17歳の時で、親の財布からくすねた金でLPを買った。
 
 
 
■ 十六夜の晩、ライトアップされた庭を眺めながらそれを聴いている。
 ゆるいアメ車に乗っているようで、55マイルで恋をする。
 
 
 

2005年09月21日

「緑色の坂の道」vol.3385

 
       十六夜。
 
 
 
 
■ いさよい、と読む。名月の翌夜の月を言う。満月よりも出がすこし遅れるので、ためらうの意「猶予」(いさよふ)を当てる。

■ 電話をしようと思いながら何時も果たさない。
 余計な心配を掛けるかも知れないといぶかるのが一番の理由だ。
 とりとめのない話をしながら、相手の思惑を探るのは楽しい。
 
-------
 
■ 秋の燈にはひとなつかしさがある。
 坂を昇りながら、見上げると遠いマンションの窓に人影が見えた。
 それはすぐに消えたのだが、長いスカートを履いていたように思えた。
 宵闇の長さと暗さをおもう心には、夜ごとに月を待ち月をめでた心持が込められている。
 
 
○昔坂 vol.186 93年9月
 
 

「緑色の坂の道」vol.3386

 
         「呑んべ安」もしくは、
         それだけじゃないからね。
 
 
 
 
■ 坂の途中に泉岳寺という寺があって、そこにはかの有名な忠臣蔵、「赤穂浪士」の墓がある。
 近くに住んで随分になるのに、まだ墓そのものを眺めたことはない。
 普段は、門前にトラックの魚屋さんとかが出ている。時々観光バスなんかも停まっている。
 去年の今ごろだったか、その辺りが妙に騒がしいのでなんだろうと出てみると、丁度討ち入りの日にあたっていた。
 仕方なくカメラをぶら下げ人ごみを歩いてみると、帽子をかぶったご老人が無心にたこ焼を食べていた。バスのガイドさんが、旗を振っている。
 
 
 
■ 時は元禄十四年(1701年)三月、東山天皇の代で、時の将軍は五代綱吉。
 と、今最低限度の説明をしようと思ったが、急に面倒になったのでやめる。沢山本が出ていますから、そちらの方を読んでください。
 丁度今時分だったろうか、深夜ぼんやり起きていると、大映とか松竹とかの「忠臣蔵」が再放送になっていた。大体、「松の廊下」辺りから始まって、「殿、殿中でゴザル」と後ろから羽交い締めにされたりする。その後、無念の切腹。もう一度見たいと思っても、なかなかビデオにはなっていないようだ。
 市川雷蔵なんかも若い頃、浅野匠頭長矩の役をやっていたように覚えている。
 
 
 
■ 吉行さんと黒鉄ヒロシさんが、「堀部安兵衛」という本を出していて、先ほど本棚のようなところから落ちてきた(集英社文庫:1980)。全部読み通すのはくたびれるが、最後の対談に面白いことが書いてある。
 内蔵助が江戸に出てきた時に、比丘尼遊びをする。それはまあ、変わったものを試してみようかという、ワビサビのようなものだったのではないかという吉行さんの筆に対して、黒鉄さんは、いや、やっぱりケチだったんじゃないでしょうかと執拗に食い下がる。 
 
黒鉄:内蔵助は討ち入りの日も比丘尼遊びをしているという説がありますけど、そんな切羽詰まったところで女を買いにゆくとしたら、僕なら一世一代のを買うと思うんですが。 
吉行:討ち入りの日じゃなかったとおもうがね。比丘尼にすごくいい女がいたんじゃないの。
黒鉄:ですが、比丘尼というのは変態趣味でしょう。きっとご面相も立ち居振る舞いも悪いわけで、いい女であれば比丘尼なんかにならなくて済んだわけで。
吉行:女はそれだけじゃないからね。相性というものがある。
 
 
 
■ 比丘尼とは何かというと、尼さんの格好をした下級娼婦である。
 当然、頭を剃っていないともさもさ生えてくることになる。
 江戸時代というのは、結構いろいろあって、「江戸の遊女」という本にはその辺りのことがアカデミックに載っていた。今手元にないので著者の先生の名が思い出せない。確か東大の法制史の先生であった。
 尊敬すべきその名著によると、遊女というか女郎というのは、吉原だけで限定的に営業が許されていて、品川宿のそれなどは、飯盛女と分類するのが正しいのだという。宿屋一軒につき飯盛り何人と規定され、当然、取り締まりなども繰り返される。
 取り締まりを逃れる術のひとつとして、比丘尼などが派生したのかも知れない。この辺アイマイ。
 
 フランキー堺と石原裕次郎が出演した日活映画に、「幕末太陽伝」という傑作があったが、その中に当時の飯盛り女郎の風俗が描かれていた。
 しかし、なんでこの文章が、「呑んべ安」なのか、師走になると忙しい。
 
 
○昔坂 97年の界隈。元は品川の花魁の画像付。
 
 

「緑色の坂の道」vol.3387

 
       そう旨くはゆかないよ。
 
 
 
 
■ 漱石の小さな作品に、小さな娘と会話するところがあった。
 
「どうして井戸の中には水があるの」
「地面の下に水が流れているからだよ」
「じゃあ、どうして地面は落っこちちゃわないの」
「うん、そう旨くはゆかないよ」
 
 原文はどうなっていたのか本来は確かめるべきなんだろうが、億劫なのでやめる。
 それにしても、「そう旨くはゆかないよ」という台詞には、なかなか味がある。
 ここら辺の、何処か投げやりな気配ってのは、そう悪くはない。
 深夜、ちびちび酒を嘗めながら、独りディスプレイを眺めている大人の貴方には、説明せんでもいいとおもう。
 
 
○昔坂 vol.4 93年4月
―――――――――――――――――――――――――――――
 
■ この緑坂は3065でも使った。
 ま、いいんですけれども、何がいいたいかというと、昨今の、先へ先へと進もうとする新自由主義者ごっこの若い奴ってのは、暑苦しいなァということである。
 ここで全然関係ないが、青瓶を書き写してみる。これは97年くらいか。
 初出:読売新聞社 yominet.
 
        ネットワークの自由。
 
 
 
 
■ すこし大風呂敷を広げた題名だが、さておき。
 例のオウム事件の頃である。国家のなかに仮想的な国家をつくり、様々な各省庁を置いたことを評価する動きが一部知識人の間にあった。
 国家権力というものを相対化したという趣旨であろうか。
 全共闘とオウムとの相関関係を論じる書籍も出されていた。
 私は今まで、「オウム」という単語をほとんど使ってこなかった。
「某宗教団体」とか「新・新宗教」という言い方をしている。
 今回その固有名詞を使ってみたのは、現実から逃避する時代がそろそろ終わりつつある、という文学上での流れも生まれてきているように思うからだ。ただ、そのゆくえについてはまだ未知数であろう。サルトルの眼鏡なんかを思い出したりもする。
 さらに、事件から二年が経過し、破防法など社会的な影響についても一定部分で収まってきたように認識しているからでもある。
 
 
 
■ 当時、オウムに対して部分的ではあったにせよ肯定的な見方をしていた知識人の一部は、ややあってサイバースペースでの自由ということを唱え始めた。インターネットにおける自由な情報発信と交信が、国家や民族、組織の壁を乗り越えるというある種の期待、場合によっては幻想である。
 そうした雑誌を手にとってみると、彼等がオウムからインターネットに乗り換えたのではないかというような印象を薄く持った。活字が小さく、難解な言い回しなので雑誌は買わなかった。
 一面においてはそうした特性は世の中を変革してゆくだろう。人々の意識も社会構造も変わることになる。
 ただ、そう旨くはゆかないよ。鵺のようにかたちをかえ皆飲み込むようにしてずるずると移行してゆくものだよ、という気が私にはする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3388

 
       そう旨くはゆかないよ 2.
 
 
 
 
■ クレイジーキャッツの後期の歌に、新五万節というのがある。
 今じゃゴルフの大ベテラン。
 谷啓さんが突っ込みを入れる。
 評判わるいよ むいてないんじゃない やめてしまえー(横位置辺りから、アンダンテ)

 
 
 
■ 身も蓋もないというか、見事な三段論法である。厳密には違うが。
 ネットの世界を眺めていると、ついそう言いたくなることがあって、たまにはイウのだが、なかなかこうしたセンスというのは理解されにくい。
 何故かというと、クレイジーの世界は、週刊誌を眺めながら毎日通勤していた大都市サラリーマンを原則として対象にしているからである。
 野暮はいうなよ、オレも馬鹿。
 
 
 

2005年09月23日

「緑色の坂の道」vol.3389

 
       月夜見。
 
 
 
 
■ 秋が深まる。
 それは傾くようなかたちで、ぬるいお茶をすする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3390

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この里にすむひと。

2005年09月27日

「緑色の坂の道」vol.3391

 
       この里にすむひと。
 
 
 
 
■ なかなか、短い旅にいけないでいる。
「街角の煙草屋までの旅」という本が吉行さんにあったが、煙草を買いにその辺までというのも自分にとっては旅のようなものだ、という気分からつけられた題であった。
 この歳になると、こうしたセンスというのはよく分かる。
 また、旨いものだなともおもう。
 
 
 
■ 先日、白金台の界隈を歩いた。
 なんだい、近くに案外安くていい店もあるじゃないか、と、目黒で焼肉食べてからまたペペロンチーノをおかわりした。目黒の秋刀魚祭というのがあるそうで、どこへ行っても秋刀魚を薦められるのだが、まあいいやという按配で今年は外では食べていない。
 庭園美術館の庭を横目で眺めながら、とぼとぼと歩く。
 小さなビルをもぐったところに、酒場もあったりするのだが、何故かしらしゃらくさい気配なのであまりゆかないでいる。
 近くにあるスーパーで、そこの若いバーテンがポップコーンを一ダース買っているのを見て、おつかれさまと思った。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3392

 
       この里にすむひと 2.
 
 
 
 
■ カメラを持たない散歩というのは楽である。
 持っていると、つい被写体を捜してしまうからで、緑坂 3390 も、海の傍の堤防に頬をくっつけるようにして撮った。
 傍から眺めると、あのひとはなんで堤防にくっついていているんだろうと思われただろうが、夕方の漁港近くには人影がなかった。
 
 
 
■ あるときカメラの雑誌を眺めていて、自然を題材にする写真家の車の特集をしていた。四輪駆動であったりワンボックスであったり、様々だが、大抵は皆さん車の中に布団を持ち込んで寝泊りしていたりする。二段ベットになっているものもあり、ほとんどキャンプに近いところもある。年間それで4~5万キロも走るという。年に150日ほどとか。
 私はやや呆れたが、もしもう10歳も若ければそちらの方向にいっていたかも知れないという気もした。
 写真に限らないが、道具を使って表現する立場の人間は、どうしても深入りする傾向がある。一回は道具や状況に徹底的に凝る。徹底の度合いが、ええい、泊り込んでしまわなければ明け方のこの山は撮れない、ということなのだろうが、山に登るのはしんどい。
 
 
 
■ いつぞやの「花電車」に誘ってくれたカメラマンは普段、CMの仕事をしている。
 彼はシャコタンのメルセデスワゴンに乗り、ラーメンを5分で食う。
 皮シートはヒーターで暖められ、あったかいじゃん、と言うと、モデルさんを乗せるには不可欠な装備であると言っていた。
 持ち場によって、ノウハウは違うものである。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3393

 
       城ヶ島の虫。
 
 
 
 
■ 今、コニカミノルタの仕事のため「甘く苦い島」の画像を整理している。
 はじめるとこれが厄介で、担当者はやきもきしているようだが、編集というのは外から考えるより手間のかかるものである。
 元データが60メガほどの画像を数百いじるのであるから、WSは時々限界に近くなって、CPU使用率が90になったりした。HDDの中でクロスリンクが起きないよう、チェックディスクのRをかけながら別のPCで仕事をしている。
 
 
 
■ 編集とは、簡単に言えばひとつの世界を再構築することに似ている。
 いくつにも読める物語を中に含ませてゆくのである。
 これをせず、ただ単品を並べてしまっても、読者あるいはユーザは手にとって眺めてみようという気にはならない。
 プレミアムという単語がブランド戦略の中にあるが、何故この雑誌にこの商品のタイアップが載っているかということを考えると、果たして何故でしょう。
 宝石でも洋服でも、地下の食料品売り場と同じ体裁では困る。
 Webも実は同じで、アクセスのしやすさなどを前面に出しすぎると、そこは100円ショップになってしまう。
 使いやすい高級店というのも、現実の世界にはあることを知らない。
 勿論、敷居は高いのであるが。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3394

 
       さてさて、旅はつづくもの。
 
 
 
 
■ 田舎の道はぬかるもの。
 という歌があって、美空ひばりさんが歌っていた。
 この後段の歌詞に地方からクレームがついて、最近は舗装されているのだと言われる。 股旅の映画の主題歌であるから、時は江戸時代であってもである。
 田舎の道は遠いもの。に変わったとか聞く。
 
 
 
■ それはいいのだが、半分そんな気分でぼんやりしていた。
 江戸へ何里。みたらし団子。
 まだまだ続く孤独な作業っとくらあ。
 自分で孤独とかいうと、青少年のようである。
 
 
 

2005年09月28日

「緑色の坂の道」vol.3395

 
       一円携帯とスキャバル。
 
 
 
 
■ 使っていた携帯電話の電池が持たなくなってきたので交換する。
 いくつかを眺めたが、不要な機能が多く、安いので構わないということにした。
 若いひとたち、例えば三十代の甘木君などは、最新のそれを使っている。
「こーいちさん、いいでしょこれ、200万画素」
 とか、見せてくれるのだが、なんだか凄そうであった。
 携帯は腕時計などと等しく、いわば時代の先端を行っていると自らに言い聞かせる、重要なツールのひとつである。
 暗闇で光ったりもする訳ですね。
 
 
 
■ いずれにしても新しいものというのは面白いのだが、ほぼその寿命は電池である。
 電池を買うよりも新しい機種の叩き売りを買った方が安い、というのは基本的に何処か間違っていて、それは私が昭和三十年代生まれだからでもあるが、光る海 光る大空。
 
 
 
■ 外出したついでに、背広をひとつ作る。
 スキャバルという生地メーカーのものである。
 裏地につけるタックが格好悪いので、隣にあったドーメルのそれをつけてもらう。
 なくてもいいのだが、そこは流れで。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3396

 
       オレの。
 
 
 
 
■ 谷啓さんが、ワイシャツのネームに「オレの」と刺繍してもらっていたということを何処かで読んだ覚えがある。
 大笑いしたのだが、つまりまあ、お仕立券付ワイシャツなんてものが、お歳暮などの中核を占めていた時代のお話である。ワイシャツを間違えることはほぼないが、これは作ったものなんだぜ、ということを内外に示したい気持というのは分かる。
 
 
 
■ そういったタトゥシールを売り出して、妙齢の腕やその横あたりに貼り付けて遊ぶというのも面白いかも知れない。
「あたいの」というのと連れでである。
 ちょっと省きすぎて分からないかな、本緑坂。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3397

 
       発熱九月。
 
 
 
 
■ 久しぶりにうろついたせいか、夜半熱が出た。
 熱のあるときに見る夢というのは、不思議なものが多い。
 なるほど私はこんなことを押し込めているのか、と思えるものもある。
 かといって、夢分析などをするつもりはない。
 
 
 
■ おまえもいつも新しいことをやらなければならないから大変だろう。
 と、かつての同級生に言われたことがある。
 まあな、と答えたが、これには二つの側面があって、ひとつは技術の問題である。
 撮影にしてもPCの構築とソフトの操作にしても、全てが一時に新しくなるということはほとんどなく、段階を経てそうなってゆく。
 MS-DOSの知識が、PCの環境構築には最後のところで不可欠なように、そこからUNIXなどへ変化してゆくように、技術はある部分で通抵しているところがあるからだ。
 やりやすいかどうかは別にして、AFのカメラにMFのレンズを付け撮影することは多く、露出補正も絞りリングを廻して行う方が早いこともあった。
 
 
 
■ もうひとつの側面は、センスの問題である。
 一般に、こうした仕事はほぼセンスだけで勝負しているように思われる。
 であるから、いつも先端にいなければならないと。若いものが出てきたら困るだろうと。
 ところが、実はそういうこともないんですね。
 若者が作っているものというのは、ある種の流れの中にあることも多く、一気に広がるのだが消えてゆくのも早い。
 暫く前にあったロシアカメラのブームなどは、チープなライカごっこにも似て、これが味なんだよと言われても、そうですかという按配で眺めていることが多かった。
 飽和した中で、どちらに向かうかの問題でしかなかったのだろうという気もする。
 デザインにしろ写真にしろ、実は年輪のようなものというのはある。
 文章もそれは同じである。
 古くなるのは、風俗とかTIPSと呼ばれる上辺の技術であり、それには流行がある。
 いわば技術を相対化して眺めてゆく作業が必要になるだろうと思っている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3398

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君の胸の先の音。

「緑色の坂の道」vol.3399

 
       虫。
 
 
 
 
■ まずまずの天気だったが、夜になった。
 予定をとりやめ、一日部屋にいた。
 電話なんぞをしている。
 飯もとりあえずすこし食う。
 
 
 
■ 窓を開けると、虫の声がきこえた。
 月は出ていないが、薄い風がある。
 椅子の背に躯をかけると、背骨がごきりと鳴った。
 
_____
 
 
■ 盲目の小さな女の子がこちらを視ているように思った。
「よう、元気か」
 と、答えようとしたが、髭を剃っていないことに気付いた。
 
 
○昔坂 94年11月
 
 

2005年09月29日

「緑色の坂の道」vol.3400

 
       ジャンゴ。
 
 
 
 
■ ジプシーのギターを聴きながら、夜の高速を西へ向かった。
 森が近づく。
 その足もとに誰かがいて、白い脚が伸びる。
 誘う訳でもない、済んだ後でもない。
 黒い瞳がこちらをみていたが、それは弟だったのかもしれない。
 
 
 

2005年10月01日

「緑色の坂の道」vol.3401

 
       十月のふたつ。
 
 
 
 
■ 目の前にいるひとの二の腕にたるみをみつける。
 くりかえされる潮時。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3402

 
       枯野にて。
 
 
 
 
■ 黒い瞳の女がいて、彼女は風呂にはいっていず、こちらもそうだった。
 枯草の匂いがするというが、途中、そんなものは忘れている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3403

 
       君の胸の先の音。
 
 
 
 
■ 緑坂 3398、この作品がいいと、見知らぬ妙齢からメールを貰った。
 どこに住んでいて、何をしているひとか知らない。
 ネットというのは概ねそういうもので、彼女はオートバイに乗って荒れた海を眺めにいったことを書いていた。
 悪いが、今、乾いているのは女の方なのだ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3404

 
       君の胸の先の音 2.
 
 
 
 
■ 本作も、EPSONの連作広告に転用された。
 当時の担当者は、この上にある紫色がいいんですよと髭をたくわえてもいた。
 誰にでも海鳴りのようなものはあって、普段それは聴こえない。
 例えば東金の安いモーテルで女を抱いた後、どうしてこんなところなのという問いに答えようがない。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3405

 
       君の胸の先の音 3.
 
 
 
 
■ 鈴木翁ニさんだったと記憶しているが、「オートバイ少女」という名作がある。
 初出は「ガロ」。
 私はそのガロを持っていないが、文春から出ていた漫画文庫の特集で読んだ。
 自分の中にある血を、オートバイは対象化してくれる。
 えいやっと、海岸に出るのだが、そこで彼女はおしっこをする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3406

 
       二日酔いと坂。
 
 
 
 
■ どこかで、どうなってもいいや、という気分がある。
 そうはゆかないのであるが、一旦そう思うことで、薄皮が剥がれてゆくようなところもある。
「緑坂ってしぶといですよね」
 とか、甘木のヤローがついこないだ言っていたのであるが、負けた振りをしてじたじた続けるというのが、大陸におけるゲリラ戦の基本であった。
 大人というのは死んだフリをする。
 決して表には立たない。
 SEOもトラックバックの相互交換も、コメント欄もむやみに開放しない。
 俺に構うな、というポーズを取る。
 本当にそうなら、公開しなければいいのだから、つまりはポーズなのだ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3407

 
       泥の甘さ。
 
 
 
 
■ 強い酒を嘗めながら、キューバ産のシガリロを吸う。
 100円ライター、もしくは1500円程度のもので火をつける。
 シガリロの場合、息を吹き込んでやることはなくて、小刻みに吸えばいいのだが、ほとんどこれは土から産まれたものを煙にしているようなものだ。
 JFKがアイルランド系移民の師弟であったことは事実だとして、モンローとクーパーの遺作「荒馬と女」を眺めていると、誰か彼女の子宮を撫でてやればよかったのにと思う。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3408

 
       ジタン。
 
 
 
 
■ 70年代の終わりだったと思うが、フランスの二枚目俳優がジプシーを題材にした映画を作った。
 当時日本で人気のあった甘いマスクの俳優である。
 彼は育ちが悪く、「太陽がいっぱい」や、ジャン・ギャバンと競演した作品などは、彼が伸し上がる過程でのジゴロ的な部分を旨く顕して、今眺めるとまた別のコクがある。
 フランスには犯罪者を英雄として扱う伝統があるらしく、映画の中で彼もまたジプシーの群れに匿われる。
 黒い瞳の女がいて、それがそこでの妻であった。
 暫く前、私はジプシーの歴史について調べたことがあったのだが、つまりそれは正当なるものから弾かれた宗教的存在でもあって、ヨーロッパの影のような集団である。
 文化とは概ね、境界からくるものだと言ったのは誰だったか。
 〆切前の仕事場で、すこし離れたところにあるモニターに、彼の皮ジャケットが映っている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3409

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ひとり、ふたり。夜の凪。

2005年10月03日

「緑色の坂の道」vol.3410

 
       夢のあと雲。
 
 
 
 
■ 名月と言われる頃、それは九月だが、私は月をみあげた。
 雲があり、流れていて、どこへゆくのだろうとこころ急いだ。
 夏の余韻があり、次が定まらない。
 そんな季節のことであろうと思われる。
 
 
 
■ ひととひとが集まる場があって、暫く中に入ってゆくと個々のひとの人生のかたちが見えてきたように思えることがある。
 見えたかもしれない、という思いあがりなのだが、残念なことに既に修正はきかない。 それは声であり、顔つきであり、全体から滲む個性と時間の蓄積である。
 あるところで綺麗に歳をとるひとがいて、一方ですこし正視できないものもあったりする。
 どちらへ流れるかはそのときそのときの、ほぼ痩せ我慢であるとは経験上知っているのだが、なんということだろうなあ、手持ちのカードはいくつある。
 
 
 

2005年10月05日

「緑色の坂の道」vol.3411

 
       夜やもり。
 
 
 
 
■ 虎ノ門のホテルの傍にある長い壁に、一匹のやもりがいた。
 私は車の後ろにいて、それを眺めていた。
 薄く窓を開ける。
 おまわりが沢山いるなあ。
 大使館ありますからね。
 夜である。
 星条旗は見えない。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3412

 
       夜やもり 2.
 
 
 
 
■ やもりの手は広がっている。
 壁の上まで昇ると、これ以上いけないのだと知って戻り始める。
 明日は雨になるのか。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3413

 
       灰色の瞳。
 
 
 
 
■ 17歳の頃、オートバイに乗っていた。
 ジェット型のヘルメットに、ジョルジュ・ムスタキの歌の歌詞をマジックで描いてそれを模様にする。今で言えばタイポ・グラフィである。
 何故かは知らぬがフランス語で、アポストロフィの位置が格好よく思えた。
 勿論、読めはしない。
 
 
 
■ 工業に通っていた中学時代の連れが、ヘルを貸してくれと言ってきた。
 奴はZ2に乗っている。2,3日してからヘルは戻ってくる。
 暫くしてから、何時もゆく溜まり場の公園で、奴が女を連れてきていた。
 商業の女である。
 彼女が被っているヘルには、ムスタキの歌詞がマジックで描かれていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3414

 
       灰色の瞳 2.
 
 
 
 
■ 今でこそ意味なく偉そうにしているが、元はチンピラである。
 牛丼屋でサラダを取るかどうか、すぐに決断ができない。
 弁当にしてもらう時、紅生姜いっぱいくれ、とか言ってしまう。
 こんなに貰ってどうするのか。とりあえず冷蔵庫にしまう。
 ポイント・カードは案外に大事なものだと考えている。
 
 
 
■ 一杯2000円とか3000円の酒は飲むくせに、料理はケチるのね。
 と、言われたことがあって、誠に遺憾に存じます。と答えた。
 生ビール半額、などに釣られてゆくと、大体ロクなことにはならないでいる。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3415

 
       灰色の瞳 3.
 
 
 
 
■ 友人と酒を嘗めにゆく。
 座っただけで10000yenとかいうような店である。
 突き出しに女がついてくるようなものだから致し方ないのだが、ものの30分で飽きてきて、次にゆこうとなる。
 路地裏を歩いていて、おい、おまえ大分前に金貸したよな、という話になった。
 そういうおまえも、あの本とレコード返せ。
 ということになって、そういえばさあ、あのボトルの金だけで二週間暮らしていたことってあったよな、とか言い出す。
 あったんだよ。
 ラブホテルって高かったなあ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3416

 
       灰色の瞳 4.
 
 
 
 
■ それはこーいちさんが不良だからですよ。
 うるせ、不良でなかったらこんなことやってねえよ、とか言う。
 
 
 
■ せんだって、とある同世代のジャーナリストと酒を飲んだ。
「ジャーナリスト」という呼び方は「市民」と同じくらい嘘臭いものだが、立場もあるだろうから具体的には書かない。
 いくつか、その筋の賞を貰ったりしている今が旬の人物である。
 我々は煙草を分け合いながらカウンターで管を巻いていた。
 昨今はゴールデン街などにはゆかない。
 
 
 
■ 彼が社からの呼び出しで戻った後、私はポークカツを挟んだサンドイッチを食べた。
 食べたという上品なものではなく、喰ったというような按配である。
 ピクルスが旨かった。
 隣に10月だというのに原色のポロシャツを着た米国人がいて、私に話しかけてくる。
 旦那さん、もうすこしゆっくり喋ってくださいよ。
 と頼んだが、NYからきたのだというその出世したGIは、私にフィッシングの雑誌を見せて日米安保をしていた。
 
 
 

2005年10月06日

「緑色の坂の道」vol.3417

 
       青山あたり。
 
 
 
 
■ マイルスの「スケッチ・オブ・スペイン」の最後の曲は空腹に堪える。
 惚れた女がいて、それと別れ、二年経っても忘れられないという時期に、ドイツの小型車で聴いていた。
 路面の音が入ってくる。重いステアリングは減ってきたミシュランのタイアの突き上げを伝え、飛ばすとたまにキック・バックをくらった。
 赤坂へ通じる陸橋はまだなく、青山墓地のコーナーでは、信号で停められることなく尻を流したりしていた。
 感情を溜め込んで、それをひとつの方向に集める。
 ボリュームをあげてみると、時々向こう側にいったかのようなトランペットである。
 俺に構うな、と何か風景の中に立ち尽くしている。
 
 
 

2005年10月07日

「緑色の坂の道」vol.3418

 
       そこにいるだけのあいだ。
 
 
 
 
■ 〆切が重なって、昨夜は矩形のスペースにうつぶせになっていた。
 秋だというのに寝汗をかく。
 夜半もそもそと仕事場に入り「甘く苦い島」のジャンル分けの作業を進める。
 いくつもある制約の中で、コピーと画像とのバランスがなかなか取れないでいた。
 
 
 
■ 作品を作るとかまとめるというような時には、半ば窯に篭るような時がある。
 かつてEPSONの担当者が取材にきた時、出来上がったプレスには「アトリエ」とか書かれていて面映かったことがある。
 スタジオであれ、アトリエであれ、ともかく作業をする空間ということであろう。
 当時は高輪にいて、穴蔵のような仕事場だった。今は眼下に日本庭園らしきものが見えるのだが、時々催し物のようなものを開いていて夜までうるさい。
 何時だったかおかしな夢をみたことがある。
 長細い家の突き当たりに仕事場があって、その向こうは崖のある砂浜である。
 砂浜の先には当然海があって、夢のなかで成程、海沿いの土地に暮らすのだろうかと考えた。
 風が強く、サッシががたがたと揺れている。これでは車も痛むだろうなと思いながら、どことなく心細い気分になっていたことを覚えている。
 
 
 
■ ネットなのだから何処にいても仕事になるというのは唯の風説で、実際はそのようなことはない。打ち合わせで都心に出る機会というのはかなりある。
「夜の魚 一部」に出てくる東金のリゾート・マンションなども、隠れ家としてはいいのだろうが、あくまで隠れ家としてのことだ。
 私は生きているのが嫌になると、川沿いの傾いた家とか低層の空きが目立つビルなどに逃げ込みたくなる癖があって困る。
 麻布界隈の急な坂道にも、そうしたビルというか一軒家があってこころ惹かれた。広尾駅まで山をふたつばかり超える。歩くのはつらい。
 そこで何をしているつもりかというと、それがよく分からないでいた。
 
 
 

2005年10月08日

「緑色の坂の道」vol.3419

 
       秋の雨のつめたさ。
 
 
 
 
■ ベタな題だが、ひとひねりしようとするとあざとくなる。
 おふくろの携帯からメールの返信が届いて、何も書いていない。
 夕方電話があって、一生懸命いれたのだがどこかへ消えたと言っていた。
 仕事の途中であったのだが、30分ほど操作を教える。
 携帯を仏壇にしまうな。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3420

 
       音のしない蝉。
 
 
 
 
■ 窓際に蝉がいた。
 10月だというのに、どうしたんだ。
 すこし遅れて大人になったのだとしたら、暫くは飛べ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3421

 
       女は今、乾いている。
 
 
 
■ というコメントを貰った。緑坂 3403である。
「そして、男は今、乾くこともできないでいる」
 と続く。
 
 
 
■ ええ、電動の電気ポットを見ていて思うのだが、どうも前立腺肥大のようにとぼとぼとしている。
 このポット、若いときはどうだったかな。
 と思い出しても、三月前に買ったものだった。
 女に水気を。
 男に、なにもしないでいい昼と夜。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3422

 
       驟雨。
 
 
 
 
■ 矩形のスペースを出たり入ったりしながら「甘く苦い島」の編集作業を続けていた。
 HDDにデフラグをかけ、DVDに焼き、プロセスを記録する。
 HDDというのは記録媒体としては信用しにくいもので、壊れる時は一気にいく。
 前に多くのデータを交換型のHDDに記録しておいて、ムゴーイ目にあった。それ以来リスクは分散するようにしている。
 その後、角瓶を嘗めてへろへろになる。
 空が白々してからの酒というのは、どうも過酷である。
 通勤の方々が並んで歩く坂道を、道元坂のホテルからずるずる下ってゆく時のうつむき加減にも似ている。
 だるい。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3423

 
       日の移ろい。
 
 
 
 
■ ここでふと思い立って、島尾敏夫さんについて書いた緑坂を引っ張ってくる。
○昔坂 93年の4月。
 
―――――――――――――――――――――――――
 
        みんな歌いながら通り過ぎる。
 
 
 
■ 先日、島尾敏夫の「日の移ろい」という本を買った。島尾さんは「死の棘」の作者である。映画とビデオになっているから、視たかも知れない。
 ぱらぱらと捲っていると、なかなか面白い箇所があった。写してみる。
 
 八月三十一日
 明け方に私はぐっすり眠っている妻の寝姿をしばらく眺めていた。腰が痛むらしく、ときおり、あっ、とか、おっとか声に出している。妻の性格がみんなその中に凝縮されているみたいな感じがしてきた。その声は妻のほかの誰も出すことはできない。
 からだがだるくて仕事がしたくない。若い日の日々はもう帰ってこない。図書館に勉強にくる子どもらの声がきょうはことのほか横着にきこえ、とてもいやだ。
(島尾敏夫『日の移ろい』中公文庫版より)
 
 
 
■ 帰ってみると、自分の妻が部屋の壁に向かい、額をうちつけていた。
 というのは、とてもこわい話である。そう思って読むと、じわじわと滲み出てくるものがある。しかし、妙に笑えてしまう。身に覚えがある。
「さんじゅうろく歳の秋だから、元祖天才バカボンのパパだから、冷たい目でみないで」
 と、自転車に乗って歌いながら通り過ぎてゆこうかな、と言った按配である。
 
 
 

2005年10月11日

「緑色の坂の道」vol.3424

 
       日の移ろい 2.
 
 
 
 
■ 明け方、のろのろと仕事を続けようとWSの電源を入れる。
 各HDDのチェックディスクが済むまで、壊れかけたソファで漠然としていた。
 バチンという音がして、落雷だろうかと驚くと、EIZOのCRTモニターがお亡くなりになっていた。
 暫く前から時々様子がおかしかったのだが、〆切に追われそれどこではないよ、とウソぶいているとロクなことはない。
 これでは仕事にならないので、代替を捜しにネットで彷徨う。
 22インチCRTモニター最後の一台を有楽町に買いにゆく。
 CRTは昨年04年秋で生産中止なのである。
 
 
 
■ 同程度の性能の液晶モニターを買うと、なんということかしら70数万であるという。
 実売も結構なものだろうが、納期が一ヶ月だとか。受注生産なのだ。
 今使っているビデオ・ボードも違うものにしなければならない。
 液晶モニターは薄くて結構なのだが、こと写真を眺めるにはまだ今ひとつのところがあるようで、この辺りはポジ・フィルムとデジタル一眼の画質の差にも似ている。
 デジタルも結構で、私も多用しているが、最後の一枚となるとポジにはかなわない。
 メーカーはメーカーの都合で動くものである。売れなければ仕方がないと考える。
 結局私は、過去の遺産を継承することにした。
 ディーラーに残っていた最後のW124、280辺りを選んだ、みたいなところだろうか。
 次のメインCRTの代替の時には、液晶のプロ用も妥当な値段に落ち着いているだろう。
 
 
 
■ アトリエつうか仕事場を暗くして、モニターのキャリブレーションを取る。
 それ専用のソフトがあるのだ。二度ほどくりかえし、くたびれたので別の日にチューンすることにした。
 CMや商品撮影などをされるカメラマンの方が使うものは、デジカメからモニター、試しに出すインクジェット・プリンタ、それからCMYKまでをトータルで管理するソフトもあるのだが、フルセットで小型車一台分くらいである。
 それが必要な仕事も確かにあるが、成程、写真というのも装置産業に近い部分があるのかも知れない。
 色の管理については、ここ数年でかなり進歩している。
 例えばAcrobat 4.0 が出た頃、ICCのプロファイルがどうしたこうしたと、色の管理に詳しい方とあれこれをしていたことを思い出す。その後、安酒を飲みにいった。
 高田の馬場辺りで、口角泡を飛ばして議論していたこともあった。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3425

 
       日の移ろい 3.
 
 
 
 
■ 重さ33キロくらいあるモニターをひいこら言ってアトリエつうか仕事場に運ぶ。
 有楽町の大手家電店の店員は、Mac担当だったこともあり、マニアであった。
 彼は静かに断固としてCRTを薦めていた。
 台車に乗せ、私が車を廻す間待っていてくれる。
 ここで缶コーヒーなどを奢って、一服。
 というのが本来は筋なのだろうが、昨今はそうもゆかない。
 
 
 
■ 設置してから矩形のスペースにうつぶせになる。
「からだがだるくて仕事がしたくない。若い日の日々はもう帰ってこない」
という島尾敏夫さんの一文が頭をよぎる。
 島尾さんの「日の移ろい」は最上の日記文学のひとつだが、深刻な中にもじたじたと滲むユーモアに似たものがあって、それは、こうなったら仕方がない、笑うしかないだろうというような開き直りにも似ている。そう書くと分かったようで嫌なものだが。
 昨年だったか、島尾さんの愛妻が入院している頃の日記が発表され話題になったが、そちらはかなり赤裸々なところがあって、私はまだ覗き込もうという気にはならないでいた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3426

 
       ひとり、ふたり。夜の凪。
 
 
 
 
■ 何時だったか、ひとりで夜の港にいった。
 いったときはまだ夕方だったのだが、握り飯と缶コーヒーを飲んでいたら暗くなった。 米にコーヒーというのは合わないもので、どちらも好きなのだから仕方がない。
 車を移動させて、ライトを点ける。
 小さな漁船の舳先にには、鮫避けだろうか、眼のような印が描かれていた。
 自転車に乗った漁師が近寄ってくる。
 私は三脚を立て、コダクローム64で長い露出を試みていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3427

 
       ひとり、ふたり。夜の凪 2.
 
 
 
 
■ 結局、ここにある作品は全て緑坂の系譜である。
 写真単体で眺めるよりも、短いコピーがつくことで世界が成り立つ。
 すこし馴染んだ妙齢と、夜の散歩にゆくとする。
 すこし冷えてきた、と言いながらである。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3428

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始めから。

「緑色の坂の道」vol.3430

 
        始めから 2.
 
 
 
 
■ 何故、この画像にこの言葉なんですか。
 と、尋ねられることがよくある。
 数年前には、沖縄の南の果て出身の律儀な梟みたいな彼女にも問い詰められて困った。
 皆ゆるやかに大人になってゆく。
 かつて、FLASHを作ってくれたパートタイムの歌人は、その後恋の按配はどうだったのだろうか。
 焦ることはねえよ、ま、次ゆこう。
 
 
 

2005年10月13日

「緑色の坂の道」vol.3431

 
        インディアン・サマー。
 
 
 
 
■ ほぼ徹夜というか、午後に仮眠するという状態が数日続いている。
 コニカミノルタの仕事が佳境に入っているからだが、これについては話すと長くなる。 言いたいことは沢山あるのだが、今に見てろよボクだって。
 
 
 
■ 一晩でデザインの雛形を詰める。
 そこに100枚を流し込んでゆくのだが、バリエーションがあるので×3 とか 4に近い。
 ほぼWSの性能ぎりぎりを使うことになる。
 HDDがお亡くなりにならなければいいのだが。冷却のため外のアルミを一枚取り外した。
 CRTモニターのキャリブレーションは数回くりかえしている。色のバランスが前のものとは違っているようで、やや赤みが強くなった。
 これが本当に正しいのか、別のソフトや機器を使うべきなのだろうが、それは次の段階である。仕事場に数台ある液晶モニターは、どうでもいいやと放ってある。
 秋にはパーティのようなものもいくつかある。このままだと、ある県というか地方公共団体の会合に出られそうにない。
 別の〆切も、すこし延ばしてもらう。携帯が鳴る。
 
 
 
■ ある種の集大成というのは、短期間になされる。
 デザインも、全く何もないところから生まれるのではなく、今まで持っている引き出しのようなところから組み合わされることが多い。
 いずれにしろ、ここにこの文字を入れるべきかどうか。
 バランスと余白を考えて、夜の庭を見ていたりもする。
 10月だというのに冷房を入れていた。
 
 
 

2005年10月19日

「緑色の坂の道」vol.3432

 
        始めから 3.
 
 
 
 
■ 彼は高卒なのよね。
 と言った上司がいた。
 何年か前の、新宿のホテルのバーで、それも師走である。
 自分の片腕をそのように言う。それでいて、NYが大好きでジムに通ったりもしているのだという。
 確か修士だったと何度か聞いた。
 成程、そういうことか。と思いながら、私は車を拾って戻った。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3433

 
        なぜ髪が伸びるのか。
 
 
 
 
■ と思うことがある。
 薄い鬱になっているからだが、写真であれデザインであれ、文書の世界であっても、何か定型的でないことをやりたいと背中で思っている男や女は、そう考える一瞬がある。
 エロ本であれビデオであれ、その後には片付けるのも億劫なものだろう。
 とはいえ、水は流れる。
 あなたと夜とホルモンと。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3434

 
       眠りながら飛ぶ鳥。
 
 
 
 
■ 仕事は、1/3ほどが過ぎた。
 途中、背中一面に蕁麻疹のようなものが出て、これはいかんなと考えた。
 明け方、データDVDの入った宅急便を出しに外に出る。
 地下のガレージから右に曲がるときに、タイアが大きく鳴って下品である。
 何時だったか私がへろへろな格好をして下に降りると、エレベータの中でモノクロのスーツを着た妙齢後半の方と一緒になる。彼女は同じ階で降り、それからアメリカ製の四駆を駆って駐車場から出てゆく。
 タイアのスキール音が嫌だった。
 が、そうしたい訳ではなく、下が古いタイルだからなのだとも気がつく。
 
 
 
■ 雛形を元に画像を入れ替え、デザインをしなおし、概ね200近くを作った。
 WSの能力をほぼ一杯に使っているようで、物理空きメモリがどんどん減ってゆく。
 どういう按配か、画像を取り込む時に逆像になることがあって、納品した後に指摘してもらい、さっきまで直していた。多分TMPファイルが悪さをしていたのだとおもう。
 HDDも、ひとつ不良セクタというのができていた。
 一度空にしてやって、フォーマットする必要もあるのだろうか。
 私の仕事は、ほぼ道具に依存している。
 
 
 
■ なにもそこまで、という気分があって、確かにそうなのだ。
 ここのデザインを厳密にしなくても大勢に影響はない、という考え方もできる。
 けれども、英字のフォントに中ゴシックを使っていたり、センターや基準線が取れていないのを見ると、これでは仕方ないだろうという気にもなる。
 綺麗だと思えなければ、商品にはならないものだからだ。
 私は、こんなことをしてなんになるのダロウナと思いながら、10日ほど前に買ったCRTの22インチ・モニターに向かっていた。
 背中が痛い。
「プロの意地だよ」とか言いながら、それがどうしたともおもう。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3435

 
       眠りながら飛ぶ鳥 2.
 
 
 
 
■ 18か9の頃である。
 ローリング・ストーンズのライブのLPを乏しい金の中から買って、ヘッドホンで聞いていた。
 ベルト・ドライブの大きなプレイヤーで、家を出た頃、それだけは背中にしょっていた覚えがある。馬鹿じゃないだろうか。
 大体、中学とかの頃合にビートルズにかぶれる。
 その後、不良に近づくにつれ、たるいストーンズのリズムが格好よくも思えていたりした。
 
 
 
■「ミックの意地が爆発する」
 とか、LPの帯に書いてあったような記憶がある。
 当時、ミックもいい歳で、半分は時代遅れだと言われていたかも知れない。
 70年代が終わり、お洒落で知的な精神世界というものがトレンディになりかかっていた頃合である。「遊」なんて雑誌もあった。松岡さんも若かった。
 それはともかく、キースの音は相変わらずで、旨いんだか下手なんだか。
 カワサキのオートバイに乗っている奴なら分かるだろう、という按配の、工業地帯の男同士の煙草でもあった。川崎には「夜光」という地名がある。
 
 
 
■ ま、いいのであるが、「ミックの意地」」とかいう帯のコピーは今でもよく覚えている。これでは星野哲郎先生の演歌である。
 なんでこんなことやってんだろう。
 意地のタメだよ。
 誰の意地なんだよ。
 かかわった皆のもんだよ。
 徒労だなあ。
 徒労なんだよ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3436

 
       眠りながら飛ぶ鳥 3.
 
 
 
 
■ 背中に湿布を貼らせる。
 蕁麻疹が出ているから、本当はいけないのであるが、痛いのだから仕方がない。
 ここで自慢をさせてもらうのだが、私が使っている椅子は数年前に買った輸入品である。
 広尾にあるショー・ルームにいって、あれこれ煩いことを言って試した。
 ライセンスで国産のものも、その後出たらしいのだが、サイズが小ぶりになっていて、一番のいいところがない。椅子の上で胡坐をかいて問題がなく、また自由に動く袖がついていることが必修科目でもあった。
 デザイナもモノカキも、胡坐をかいていることが多いのです。
 
 
 
■ 当時というか今でも、IT関係のデザイナやその他の方々が使う椅子は、見た目が第一である。座面がメッシュになっている某社のそれは、格好いいのであるが、長く座っているとズボンが擦れて粉になる。今はなき、銀座の日本橋よりにあったショップで店長に質問をすると、ともいえます、その場合には座布団を敷きますと答えていた。
 例えば、高輪の国道沿いにあるクリニックの高名な先生はそのようにされていた。
 昼のTVにも時々出ているから名前は売れておられる。受付の妙齢は不思議にやさしく、また冷たく、こちらの格好を見て馬の値踏みをしているのだろうと思われた。
 冷たいお茶もその他もタダで飲める。私は何時も二杯くらいを飲んだ。
 アレルギーの薬はそこで処方してもらった。
 
 
 
■ 椅子を換えてから、腰痛というのは車の運転以外には滅多におきなくなっていた。
 それが、久しぶりに背中が痛くなったというのであるから、どれだけディスプレイに向きあっていたことだろう。
 これも「これだけ頑張ったのだ、誉めて」という自慢である。
 ないしは誰にともない甘えである。
 日本には自然主義文学の流れというものがあり、言ったっていいじゃないか。
「動物のお医者さん」という漫画には、「オレはやったぜ」と何度も言う、暑苦しい犬が出てくる。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3437

 
       眠りながら飛ぶ鳥 4.
 
 
 
 
■ どしゃぶりの中、背広をとりにゆき、アレルギーの薬を飲んだら12時間眠った。
 歳を取ると、眠りというのは短くなる。
 眠るにも体力が要るからだ。
 
 
 
■ 朦朧として矩形のスペースから這い出る。
 こんなことを続けていると多分死ぬな、とも思うのだが、組織の中にあるだろうストレスからは遠いのでまた違うのかも知れない。
 いずれにしても列の外にいることには変わりがない。
 書店で吾妻ひでおさんの「失踪日記」を買う。
 笑えないところで笑う。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3438

 
    O'u es-tu,mon amour? (Where Are You,My Love?)
 
 
 
 
■ 雨で前が見えない。
 ワイパーにシリコンの油膜がついている。
 私はジャンゴの、マイナースィングとホエア・アー・ユゥ・マイラブを繰り返し聴いていた。
 ここは東京の都心なのだが、別に何処であってもいいような気がした。
 部屋に酒が切れる。
 
 
 

2005年10月24日

「緑色の坂の道」vol.3440

 
       ディア・オールド・ストックホルム 2.
 
 
 
 
■ 皮底の靴は、10年ほど前に買ったCOMOである。
 そう高いものでもなかったような記憶がある。
 私はどちらかというと靴マニアで、チャーチからバリーなど、概ねのものは飯代を削って履いた覚えがある。週に数回が牛丼で、何が皮底かとも思うのだが、ま、そこは流れで。
 イタリヤ物は、格好はいいが長く履いていると足が痛くなった。
 かたちが綺麗なので、飾っておくにふさわしい。
 同じように、靴下に凝っていた頃もあって、全てがウールのそれを銀座界隈で買い、ほつれてくると同じような色の糸で繕っていた冬の夜もある。
 猫でも飼おうかとおもった。
 
 
 
■ 当時住んでいたところは、排気が外にでる大型のファン・ヒーターがあって、その前に靴下を置いておくと数時間で乾いた。
 出始めのそれだったものだから、結構な音がした。
 壊れたディスポーザーとともに、当時のモダン住宅みたいなものだったのだろう。
 窓を開けると東京タワーが見えていた。
 
 
 
■ そういえばその会合で、制服を着たお姐さんに、どこで着替えたのと聞いた。
 ホテルが用意してくれたんです。
 彼女は答えたが、帰りはどうするの、と尋ねると、このままの格好でタクシーに飛び乗るのだという。
 それは大変だな、そのヒールだけは脱いだほうがよかろう。
 そうですよね。
 とか言っていると、知っている顔の先輩格が近づき、北澤おまえは何をしているのだと後をまかせることになった。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3441

 
       ディア・オールド・ストックホルム 3.
 
 
 
 
■ 二次会の場で、代議士と一緒になった。元大臣である。
 面白い話もいくつかあるのだが割愛。
 隣に、昔赤ヘルを被っていたという団塊世代の方がすわり、大臣相手に床屋談義をしていた。
 私立中学からそのまま上に昇ったということをその場で自慢している。
 今は早期退職をして、あれこれなんだそうだ。
 私はくたびれたので、途中でばっくれ、上にあるシガー・バーへ逃げた。
 ソムリエに1300円で一番辛い奴、とか頼む。
 1700までだと、いいのがあるんですけどね。と言われる。
 
 
 
■ ジン・リッキーにペルノを混ぜてもらったものを飲んで、ともかく漠然とする。
 そういう名前のカクテルはないのだが、返還前の香港で一部の男たちに流行ったと、いい加減なことを言ってくたばっていた。
 有線だろうか、マイルスがかかっている。
 
 
 

2005年10月25日

「緑色の坂の道」vol.3442

 
       異邦人。
 
 
 
 
■ 黄昏の銀座あたりを、中森明菜さんの「歌姫」などを聴きながら流していた。
「さん」付けする必要もないのだが、ま、そういうことにしておく。
 ニコンF2用に、視度調整レンズを求める。
 今すぐ使うものではないが、なければピントが微妙に合わない。
 シュークリーム買って帰ろうかな、という按配である。
 
 
 
■ 私は昭和歌謡大全集のようなものが好きで、古賀メロディなどもよく聴く。
「誰か故郷を思わざる」などは、空で言える。
 言えたからといって、マイクを握るようなことは少ない。
 
 
 
■ 芯の疲れる仕事がもう1/4ほど終わって、残るはサイトのデザインと導線になった。
 いつもそうだが、デザインの雛形を作るときというのが最も集中する。
 普遍的な色を捜す。それから文字の大きさを決める。
 ここでもうすこし、という色気を出すと大体失敗して、POPならそれでいいのだが、時間を経てまだ通用するもの、という風にはなりにくい。
 この後どっぷりと日常に入ることを知っているから、例えば妙齢の前半は、旅をする歌を好む。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3443

 
       眠りながら飛ぶ鳥。
 
 
 
 
■ こないだ遠くへいったのよ。
 何処に。
 何処だか分からないけど、砂漠の上を飛んでいるの。
 それから。
 海が視えたけれど、中に魚はいないのがわかるの。
 
 
 
■ 深いところに居るんだよ。
 そうね。死んでいる訳ではないんだわ。
 
 
○昔坂.vol 592 94年3月
 
 

「緑色の坂の道」vol.3444

 
       暗闇坂のぼる。
 
 
 
 
■ せんだって部屋のセントラルのフィルターを掃除していたら、掃除機の先につけるアタッチメントがいかれた。
 どこかに100円ショップはないものかと漠然としていたが、麻布十番の中にあることを思い出し、地下鉄の出口のところを曲がった。
 十番というと、今はヒルズがあるので、どちらかというとそういう傾向である。
 そこで飯を喰い、坂道のブティックに新作を見にゆくというのが、30代40代前半の独特なステータスになっている。
 
 
 
■「ぼぎちん」という小説があった。
 解説は福田和也氏が書いている。
 バブル期というものが、例えばひとりの女性にとってどういうものだったかということをなぞったそれは、金とSEXの三昧の背後に、おかしな学歴信仰があったことを記録していた。小説に出てくる舞台は十番の生活である。
 主人公は男と別れNYにゆく。そこでも同じことを繰り返しながら、次第に何をすべきかを模索してゆく。
 ある種の教養小説でもあるのだが、事態はそう旨くはゆかない。
 これは男にも言えることだが、どういう異性関係を続けていたかということは、半ば身体に染み込んでいる部分がある。
 昔の彼が、BMに乗っていたのよ、と言われた時、貝の味噌汁に砂が残っていたような気になることもあるからだ。
 その時彼女は、とても不思議な顔をしている。
 
 
 
■ 十番のカフェで、マーク・ポスターの「情報様式論」の続きを読もうとすることは難しい。バルトであっても同じことで、フーコーならまだなんとかだろうか。
 私は掃除機の先を買い、洗濯ネットを4つほど求め、細い暗闇坂を車で昇っていった。 韓国大使館の前を下ると、今日は日の丸の方々の総出は予定されてないらしく、警邏の警官もその背中が緩やかである。
 
 
 

2005年10月26日

「緑色の坂の道」vol.3445

 
       暗闇坂くだる。
 
 
 
 
■ グリフィンズという葉巻を吸いながら、インスタント・コーヒーを飲んでいた。
 寝癖を立てながらである。
 ほぼ隣にあるホテルの地下にはバーがあって、そこにもシガーが売られているのだが、種類が少ない。時々よたよたと買いにいって、店員に驚かれる。何故驚くのか、服装でひとを判断してはいけない。
 どうもここは、カウンターに焼酎が並んでいるので今ひとつである。
 昔と大分違う。
 ダンディズムとはやせ我慢のことだが、その始祖と言われるブランメルの評伝を読んでいると、斜に構えた二線級のお坊ちゃんの遊びであるとも言え、白けた覚えがあった。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3446

 
       雨夜。
 
 
 
 
■ ゆるやかに雲が流れている。
 低いところにある。
 私は、アメリカの詩人の本をぱらぱらとめくっていた。
「100年前のNY」という本も開いたり閉じたりする。
 
 
 
■ 数日酒を嘗めず、アレルギーの薬を飲んで眠っている。
 起きてから暫くぼんやりするのが困るのだが、考えてみると起きてすぐ元気だったということはここ20年くらいはない。
 ぐずらぐずらと、人生が二日酔いだったような気もするが、思い出しても楽しくないのでなかったことにしている。
 そういう技は、妙齢から学んだ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3447

 
       雨夜 2.
 
 
 
 
■ 別件の〆切をひとつ終わらせ、ぐずらぐずらとデザインを試みていた。
 バナーである。
 置く場所があまり凝ったところではないので、比較的あっさりと作る。
 色をどうするかを暫く迷ったが、他の環境で眺めると大差がないと聞いて少しがっかりもする。
 多くの会社で使っている液晶モニターの色再現性は、ま、そんなものだというところか。
 
 
 
■ 最近、昭和初期の歴史と風俗に関わる本をぱらぱらと眺めている。
 NYモノと並んでであるが、いったりきたりをしているような按配で、時々頭が混乱する。
 その隙間に雑誌「丸」の古いものを風呂の中で読む。
「丸」というのは、旧日本軍と自衛隊マニア御用達の雑誌であるが、「軍事研究」よりは一般的である。いぶし銀のような読み応えがあって、とりわけ最後の長編手記が面白い。
 勇ましいものはほとんどなく、その多くが負け戦に関わる体験記である。
 インパール、白菊特攻。ほぼ全てが沈没した駆逐艦の記録。
 山本七平さんの「私の中の日本軍」を、市井の人が回想したものにも似て、視線は恣意的で主観的なのだが、それだけ等身大でもあった。
 大陸で女を買ったとか、都合の悪いことは大抵省かれている。
「俘虜記」の中に出てくる下士官や兵卒の様相を、彼らの立場から彼らの言葉で書いたものだとも言える。
 こう書くといささか嫌味ではあるが、やはり大岡昇平さんは知識人なのである。
 
 
 
■ だが、死体の描写は「野火」(大岡昇平)に出てくるものとほぼ同一である。
 まだ生きているうちに蛆が沸く。
 まず眼から溶けてゆき、最後は水のようになってゆく。
 と、南方で戦った兵士は必ず書いていた。
 ガ島こと、ガタルカナル島で切り込みの夜襲をかけた際、有名な海岸での全滅写真があるが、米軍がキャンプでテニスをしていたから彼らはたるんでいる、と認識して重火器に突っ込んでゆく様も、残る証言として記録されている。
 辻政信という参謀がいたが、ガ島には彼も関わっていた。
 何が言いたいかというと、多すぎてまとまらない。
 ただ、戦争というのはリアルなもので、本質は死体と、亢進した性欲ではないかと思うところもある。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3448

 
       野火。
 
 
 
 
■ 週末、大岡昇平氏の「野火」(新潮文庫版)を再読する。
 敗北が決定的になったフィリピン戦線での「人肉食い」を主軸とした小説であり、戦後戦争文学のひとつの金字塔であると評されている。
 圧倒的で抑制の効いた描写。神とはなんであるか。
 解説は、吉田健一氏。
 初出は、昭和27年。手元にあるものは平成7年度で77刷を数えている。
 
 
 
■ 一体に小説というのは読みにくいものである。誰にでも読める小説というものがもしあったとして、実をいうとそれは「文学」ではないという気がしないでもない。
 この小説の解説で吉田氏は次のように触れていた。
 
「彼が知識人であることを指摘するものがあるかも知れない。併し知識人であるということは、現代人であるということであって、人間が知識人であることを強いられるのが現代人というものの定義である」(前掲:181頁)
 
 誰かが、大岡氏の「俘虜記」だったかに触れ、「あの戦争という愚かな集団的狂信の中において、これだけの冷静な分析をしていた男がいたという事実に驚いた」というようなことを書かれていた。
 私は大岡さんの全集を読んだことがないので、これ以上のことは書けない。
 
 
 
■ やや長いが引用させていただく。
 
「私が静かに銃をさし上げるのが見える。菊の紋章が十時で消された銃を下から支えるのは、美しい私の左手である。私の肉体の中で、私が一番自負している部分である」(前掲:174頁)
 
 一旦、軍事教練に出された三八歩兵銃はその遊底部分にある菊印にバッテンが加えられた。銃と人間の不足から、それらがもう一度回収され前線に送られる。主人公はそのようにして徴収された平凡な中年男である。
 今の時代、「菊の紋章」をバッテンで消すなどという表現が、たとえそれが小説の中の必然であったとしても、果たしてどれだけの作家に可能だろう。
 作中、銃を捨て、銃を拾う。十字架があり菊の紋章がある。
 背後の水脈として大岡さんは象徴主義の手法を小説の中に結実させている。
 
__
 
「これが猿であった。私はそれを予期していた(略)。
 足首ばかりではなかった。その他人間の肢体の中で、食用の見地から不用な、あらゆる部分が切って棄てられていた。陽にあぶられ、雨に浸されて、思う存分変形した物体の累積を、叙述する筆を私は持たない」(前掲:155頁)
 
「後で炸裂音が起こった。破片が遅れた私の肩から、一片の肉をもぎ取った。私は地に落ちたその肉の泥を払い、すぐに口に入れた。
 私の肉を私が食べるのは、明らかに私の自由であった」(前掲:159頁)
 
「現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解できない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である」(前掲:165頁)
 
__
 
■ 暗闇の中で、山の稜線にちらちらと野火が見える。
 そこは人の住むところであり、ある種観念の、あるいはその反対物の幻のようなものである。
 平凡な主人公は戦後狂人として扱われる。些か長いこのフェイド・アウトが作品の構造を静かで確かなものにしていた。
 文学作品から教訓めいたことを導くのは愚かなことであるが、近代の終焉などというわかったようなことを言うのは、まだ相当に早いという気がする。
 
 
○「青い瓶の話」vol.2411 99年7月26日 初出:読売新聞社 yominet.
 
 

2005年10月28日

「緑色の坂の道」vol.3449

 
       秋の肩口。
 
 
 
 
■ ジャケットを羽織るようになった。
 といっても、私のそれはゴアテックスの黒いフィールド・コートである。
 ここ二年ほど、そればかりを着ている。
 余程のことがない限り、ホテルのロビーなどにもそれを着てゆく。
 かつてはハリス・ツィードの上着を襟を半分立てたりして羽織っていたものだが、スラックスが面倒になったので皮底の靴とともに仕舞いこまれていた。
 ネクタイをしなくていいというのは、さて半分は堅気ではない。
 
 
 
■ ネット時代になって、ジャーナリストが個人のサイトを持つようになった。
 多くは、レンタルのブログである。手軽だからであるが、注意深く規約を読むと、その著作権や使用権などは母家にそのまま移行することも多い。
 出会い系サイトと同じような仕組みなのだが、規約は誰も読まないところに小さく置いてある。
 民法90条に反するから無効、という考え方もあるが、ところが争うまでにかなりの時間と経費を要する。
 そうしたリスクを侵してまで、手軽だからということで一気に浸透したのだろうか。というよりも、著作権などに関する意識が乏しいのかも知れない。リスクは未だ意識されているとは思えないでいた。
 ブログの持つ利便性は多々ある。が、プロの眼からするとシステム不在・デザイン不在ともいえ、感心してばかりもいられない。どんなものもそうだが、功罪があるのだ。
 一時、アクセス数を誇るサイトも増えた。が、一皮向いてみるとその時その時の時事ネタを巧妙にとりあげ、あちこちの軒先にTBを勝手に打つことで成り立ってもいた。
 戯画化されたところでは、自作自演もくりひろげられている。
 
 
 
■ それはともかく。
 例えばジャーナリストだから、モノカキだからといって、組織を離れた個人になると、常に質の高いものを書いているという訳ではなさそうである。
 ほとんど取材もせず、ネットから拾ってきた情報を加工して論評する。
 畢竟、内容は似たり寄ったりになるのだが、通して眺めていると、その個人の立居地というのが透けて見えてくることもあった。
 あるひとはマーケティングと称して世の中全部を語り始め、あるひとはITの技術革新に絶対の信頼を置く。
 私も広告屋なので、マーケティングの基礎理論は学ぶ。意識する。
 とはいえ、それで全てが語られると思ったら大間違いで、悪しき80年代バブルの遺産と言うべき側面もあることを白けた気分で思い出してもいる。仕事の上では、それを承知で一定の単語なり概念を使っている場合もない訳ではない。これはITの新技術も同じであろう。
 
 話を一部ジャーナリストとその周辺のブログに戻す。
 ありていに言えば、仮にその社の肩書きなどがなく、単独でそこに文章が投げ出されていれば、床屋談義そのままのものであるところも少なくはないように私には思えている。
 床屋談義に参加することである種、コミュニティが成立する。それは非常に脆く、薄いものではあるのだけれども。
 
 世の中がネット時代になって久しい。
 だがネットというものは、あくまで個をさらしてしまうメディアではないかという認識を私は深めつつある。
 社の看板を取ってしまったら、何ほども残らない。記者という肩書きを外すと、どういったものであるかが不分明である。
 個としての取材は、業務以外には簡単にすることもできない。その苦労をしているのがフリーの立場の方々であるが。
 成程、世に言う大組織のジャーナリストというのは、個になるとこの程度の認識でいるのか。それで成り立っている世界なのか。そんなこともないのだが。
 というようなことが反射的に透けて見えるところに、誰しもがブログを持てるネット大衆化時代の利点があるのかとも思っている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3450

 
       秋の肩口 2.
 
 
 
 
■ 非常に誤解を招きやすい緑坂である。
 ま、いっか、と思いながら続ける。
 例えばこのような一文があったとする。
 
「このブログは、個人の責任において情報発信しています。
所属する会社の見解、方針とはまったく関係ありません」
 
 そう断ってあれば、なにか舌禍があった場合でも逃れられるということなのだろうが、世の中はそう甘くはない。ただ大目に見られているだけのことではなかろうか。
 これは「私人として参拝した」と言っているようなものなのだが、社会的な属性というのはトータルなもので、ここからはわたくし、ここからは業務、という風に明白に分けられるようなものではないのが実際である。
 かつての侍代議士のように「下半身は私人であります」とか答弁し、笑ってくれる社会背景ならば良かったのだけれども。
 
 
 
■ ある種のブログは、今の社会における階級上昇のひとつの手段として機能していた部分があると思っている。
 階級上昇とは、不安定な雇用時代における転職のひとつのツールを意味する。
 端的に言えば宣伝塔である。
 一部で話題になったブログから各種講演会に参加し、次にどうしても本を出し、その本を名刺代わりに次のステージを目指してゆく。
 ほぼこれは、インデペンデントなクリエイター、写真家や物書きの歩いてきた道と似ているのだが、それがより手軽なネット、更に言えばレンタルブログに場を移行したに過ぎないともいえた。
 
 
 
■ 決してそれは悪いことではない、と私は思っている。
 思ってもいるが、どちらも手に入れることは難しかろう。という気分も根強くある。
 どちら、とは何を指すのか。それは読者の方々が想像してください。
 今私は、かつて開高健さんが常宿していたという部屋を窓越しに眺めている。庭の見える二階の角部屋である。
 個人の才覚でこの世の中を泳いでゆくということは、結構な綱渡りであろう。
 開高さんの定期的な鬱と、その後のご家族の消息などを聞き及ぶにつれ、あの釣りへの没頭や食道楽などの戯れは、懸命に内面のバランスを取っていた所以なのだと実感する。
 一市民が社会を批評するのも結構。
 匿名あるいは実名で、夜半、政治や経済の出来事を語るのも、単身赴任の知的大衆には相応しい現代的趣味である。
 けれども、それを続けていったある日、眼前に「ルビコン河」のようなものが黒々と横たわってることに気がつく。
 渡るべきか、戻るべきか。今なら間に合う。
 果たしてそうだろうか。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3451

 
       肩口。
 
 
 
 
■ ジャケットは肩で着るという。
 何処に所属するでもなく、ひとりでいることを自覚しながら歩いていると、夏だというのに肩のあたりが寒い。
 
 
○昔坂 94年5月
 
 

「緑色の坂の道」vol.3452

 
       肩口 2.
 
 
 
 
■ 日本には転向問題というのは存在しなかった。
 あったのは転職問題である。
 
 と、看過したのは、平岡正明さんであったという。
 古本屋で求めた「昭和史探訪 2 日中戦争」(角川書店版:三國一郎 井田麟太郎編)を眺めていて、そんなことを思い出した。
 獄中転向の第一人者、鍋島貞親氏の言い分を、すこし白けた気分で読む。
 よど号で渡ったかつての闘志が、どのように主体的に推移・変節していったかというドキュメンタリー「宿命」(高沢皓司著:新潮社)とどこか似た匂いをかぐ。
 島耕作とよど号は、ある種、裏と表ではないかという気分を私は持っている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3453

 
       金色の午後。
 
 
 
■ こんなものを作っている。
#押しても何も変わりません。リンクしていないのでご注意。
 
Photo,Designed by kitazawa-office.
 上がORGであり、あれこれと使いまわすためのもの。
 下は、某社のサイトの導入部である。分かりやすく、手を加えている。
 
Photo,Designed by kitazawa-office.
 
 ここに載せないと、どうにもやる気が出ないのであげてみた。
 仕事したくない10月の金色の午後。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3454

 
       虫の夜。
 
 
 
 
■ 秋の夜には人懐かしさがある。
 と、10年ほど前の緑坂に書いた。
 今もそうなのだが、人というのは内側にいたりする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3455

 
       虫の夜 2.
 
 
 
 
■ 不機嫌な勤め人たち。
 というのが暫くのテーマである。
 そうは言うけれどもね、手の内が視えてしまうとまたそれも困るだろう。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3456

 
       一番細い針。
 
 
 
 
■「そりゃ、暑いですよ」
 くるぶしまであるスカートを履いたひとが答える。
「仕事だもんね」
「そうなんですよね」
 靴下は履いているんだろうか。
 
 
○昔坂 vol.948 94年6月
 
 

「緑色の坂の道」vol.3456

 
       一番細い針。
 
 
 
 
■「そりゃ、暑いですよ」
 くるぶしまであるスカートを履いたひとが答える。
「仕事だもんね」
「そうなんですよね」
 靴下は履いているんだろうか。
 
 
○昔坂 vol.948 94年6月
 
 

「緑色の坂の道」vol.3457

 
       死んだフリと坂道。
 
 
 
 
■ 大人というのは、負けたフリをする。
 フリであると思っていて、本当に負けることもあるのでご用心。
 と、30年ほど前の麻雀の指南書に書いてあった。
 本気にしないように。
 
 

2005年11月04日

「緑色の坂の道」vol.3458

 
       パーソナルアドカード
       甘く苦い島。
 
 
 

■パーソナルアドカード 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」

 を公開している。
 
 仔細は後ほど。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3459

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■パーソナルアドカード 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
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「緑色の坂の道」vol.3461

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「緑色の坂の道」vol.3462

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■パーソナルアドカード 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
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2005年11月07日

「緑色の坂の道」vol.3464

 
        昼の月。
 
 
 
■ 車を洗ったあとというのは、大抵が雨になる。
「雨の日半額」という看板がすこし前にはあったものだが、最近は見かけず、つまりは洒落のひとつだったのかも知れない。
 そういう訳でもないんだけどね。
 
 
 
■ 今庭を眺めていると、なんという名の樹だろうか、すこしばかり色がついてきている。
 暫く前、思い立って日光の奥にいったが、さすがに日帰りは疲れた。
 ナナカマドが赤くなっていて、全体はこれから傾くのだろう。
 脱サラをして始めたようなペンションというかなんというかで茶を飲んだが、そこの女性たちは薄く不機嫌で愛想が乏しかった。
 かつては綺麗にしていたのだろう、という按配で、すこし前の下北沢界隈でみかけた横顔10年後という気配でもある。
 都会にいたときは、ランチの梯子をしていたに違いない。
 手作りの民芸のPOPがデジカメとプリンターで作られていて、成程スローライフはデジタルとガソリンによって支えられている。
 その後、滝が見えるというレストランで休んだ。
 既に暗くなっていたので音だけが聞こえていた。
 
 
 
■ 戻るということを考えずに、農道の真ん中辺りで月を眺めている。
 それは昼の月であり、西の空が少しずつ濃くなっていって秋の夕暮れははやい。
 勿論、車でなければ凍えるところだが、かといって戻ってから山頭火をひっぱりだすほどウブでもないのだ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3465

 
        矢印ひとつ。
 
 
 
■ PAD「甘く苦い島」のサイトを作っていて、その矢印に悩んだ。
 ヨゼフ・ミューラー・ブロックマンという、デザインの大家がいたけれども(96年没)、ブロックマンが作ったスイスの鉄道標識、その矢印を一時間ばかり眺めていた。
 その後、半日ばかりPC上でじたばたとしてみた。
 構造的に分解してみようとしたのである。
 
 
 
■ 結果、そのバランスについては理解する。
 成程、このように作ればいいのかということも朧気ながら分かったような気になる。
 ただ、完全に模倣するには、三四日はかかるだろうということも深夜4時半くらいにはわかってもくる。腹も減る。
 模倣したからといって、それをそのまま使える訳でもない。
 ここで私は、戦時下の大量兵器生産の思想に立ち戻り、手持ちの部品の中からいくつかを組み合わせ、現在のものを30分で作った。
 単純な形態と視認性。
 もうひとつは、目立てばいいからといって、あざとくならないよう心がけたつもりである。
 
___
 
 
■ ブロックマンの矢印がどのようなものか、興味のある方は書籍で調べてください。
 昨今、多くのブログでは、本の表紙やその他を比較的野放図にスキャニングしたり携帯カメラで撮影し貼り付けている。
 が、これらは例えば表紙デザイナーの著作権侵害である。どうしても引用したいというのなら、クレジットを入れるのが仁義でしょうね。
 最近はデザイナの名前が書籍に記載されていることも多い。
 その意味で、今一見盛況を呈しているかのようにみえるブログの一部は、実は拾い集めてきたもののコラージュに過ぎない、という見方もできる。
 他のイメージの流用という意味では、POPアートのウォーホールのように、そこに新しい意味を付与できたかといえばそこまでには至らない。
 ウォーホールも著作権侵害で多額の賠償金を支払った訳なのだが、そのことはあまり知られてはいないようだった。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3466

 
       今でなければとおもうさもしさ。
 
 
 
 
■ 自分を笑えない30男以降を、私はあまり信用しないことにしている。
 わたしはなにをシテイルンダロウ。
 バカジャナイダロウカ。
 そういったものが、普通に暮らしていれば行間から滲んでくる筈なのだが、案外そうではなくて、天下国家を論じてみたり憤ったりしている。
 こっちおいで、と保守政党に呼ばれたりすると、大喜びではせ参じたりもする訳だが、こういうのを客観的には懐柔工作、ないしは「取り込まれている」というのです。
 
 
 
■ その件で、甘木君と酒嘗めながら話していると、彼はこういう。
「とっても急いでいるんですよ、今しかないとかおもって」
 ふむふむ。
 バスに乗り遅れるな、ということかね。
「それ、なんすか」
 
 
 
■ 簡単に言うと、今の30代前半の一部は、とても焦っているのではないかということであった。
 毎日がコンビニで生きているのだとして、携帯がパソコンよりも重宝するものだとして。分からないことがあればすぐにネットで検索し、それが世の全てだと思ったりする。 二極分化が着々と進むこの社会で、どこに自らを位置づければいいのかを懸命に模索しているかのように見える。
 つまりは転職問題である。
 知ってか知らずか、その一部がネットの言説に投影されてゆく。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3467