「夜の魚」二部 外灘 6

2005年08月12日

「夜の魚 外灘」 vol.159

 
 
 
 
■ 車を階段の手前に停め、ゆるい坂道を昇って墓地の中に入っていった。まだ虫が鳴いている。両脇には痩せた松の木がかしいでいる。
 風は海の方からくる。白い波頭が僅かにみえた。
 
 葉子は集合住宅の暮らしが気に入ったようだった。まだ上海にいる。皺だらけの老婆とともに買い出しに出かけ、しゃがみ込んでは女達と洗い物をした。自由市場の雑踏の中で、大きな口を開けて笑う姿をみていると、それでいいのだという気がしてくる。隣人の気配と人いきれのこもる集合住宅の闇の中で、私たちは膏薬を貼ったまま何度か交わった。
 今頃、上海には江菫が着いているだろう。江菫は日本で働く北京からの留学生と恋に落ちていた。姉を訪ねるということで、一昨日成田を離れたのだ。
 冴の骨の半分は上海に返すことにした。処理は走羽にまかせる。困惑した奴の顔を考えてもみたのだが、それよりすこし寒くなった。
 
 
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○「夜の魚」二部 外灘 完
 
・主要参考文献       後述
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.158

 
 
 
 
■ 北沢の死体は確認されなかった。ハインドは浦東の高層ビルのひとつにぶつかりそこで炎上した。
 
「シャドウなのよ」
 晃子が何時だったかそんなことを言っていた。その晃子は退院した奥山の部屋に足繁く通っている。吉川は借用したヘリを爆破されたことで暫くベトナム奥地に飛ばされている。本人は栄転だと主張していた。
 一度だけ夢梁の部屋に案内されたことがある。壁に沢山の写真が飾ってあって、中に着飾った女達が写っているものがあった。何年か前の新年会の写真のようだ。金色の飾り付けが目立つ。
 並んだ女達の一番後ろに、見覚えのある顔があった。眉を描き、くっきりした化粧をした冴の顔だ。白い中国服を着ている。微かに笑っている。夢梁に尋ねると、このシマの女達だと言う。冴は走羽の処にいたのだ。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.157

 
 
 
 
■ 上海の新聞やテレビには電視塔の一件は報道されなかった。沢山のヘリが忙しく上下し、死んだり傷ついた中国兵を片づけていた。天安門の時と同じだ。なかったことにするのだろう。黒い煙が空に昇ってゆく。
 
 北沢のハインドに命中したのは、アメリカ製のスティンガー・ミサイルだった。アフガンにも投入され、多くのヘリや航空機を撃墜し、戦局を一変させたと言われる赤外線誘導方式の地対空ミサイルである。肩にかけ、相手の軌跡を予測しながら発射するらしい。
 発射直後にハインドが旋回したこと、フレアを放射したことが至近での爆発に繋がった。フレアとはアルミ箔の細かな断片のようなもので、赤外線の誘導を拡散し妨害する。無数のフレアが燃えながら落ちてくるのを私はみた。
 
 スティンガーを発射したのは走羽だった。
 彼は夢梁を小型無線機で呼び、対岸の黄浦公園に逃れた。髪の短い朝鮮国籍の男と共に、アフガンから搬入していた寅の子のミサイルを発射したのである。
 走羽とは携帯電話で一度話した。今は香港でほとぼりを冷ましている。残された覚醒剤を捌くつもりでもあるのだろう。
 沢山の人間が死んだ。
 地下のドームで私に親指を立てた若い男は、北沢の手下に射殺された。頭の後ろから拳銃で撃たれると弾は前面に放出し、顔がわからなくなる。旧日本軍もそのようにして密偵を撃ったのだと葉子の父が言っていた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.156

 
       六〇 水はいったいどうしたのだろう
 
 
 
■ 二ヶ月が過ぎた。
 夜の横浜新道を葉山の方角に向かっている。
 
 サンクのドアにはぽつりと穴が開き、ガムテープでそこを塞いでいる。病院が襲われた時、流れ弾が当たったのだ。
 私は海のみえる高台に小さな墓地を買った。
 冴の骨が半分だけ入っている。
 千葉の方にも分譲霊園があると吉川は言う。奴の会社が持っているものらしい。
 真壁から走羽に渡った小切手のうち一千万を私は貰うことにした。墓地を買い、残りは危険手当である。
 あの後、私たちは上海の狭い集合住宅に連れてゆかれた。夢梁が中心となって世話をしてくれた。ごってりした膏薬をあちこちに塗られ、上海語しか喋らない老婆が毎日包帯を取り替えた。飯に肉や野菜をぶっかけたものを喰わされる。夜の小便は樽のようなものの中にする。それにも慣れた。
 二週間ほど隠れていただろうか。葉子の父、成ケ沢が何度か尋ねてきた。老婆に義手の具合を自慢している。
 銀色の眼鏡をかけた公安の男は一度だけ部屋を尋ねた。
 私に資料を渡し、ここで読んでくれと言うと後は持ち帰った。
 暫くして、日本では現役の閣僚のふたりが辞職した。
 二三日の間、東方明珠広播電視塔の上空には銀色の戦闘機が低空で行ったり来たりしていた。Jian Ji 六型、ミグ一九戦闘機の中国版である。威嚇のつもりなのだろう。それも昼間だけだ。