「夜の魚」二部 外灘 4

2005年08月10日

「夜の魚 外灘」 vol.129

 
 
 
 
■ 銃身の下に丸いバレルがついているライフルが一丁入っていた。グレネードランチャーだろう。その下にマガジンと箱に入った各種弾薬がある。箱を開くと先端の色が違っている。
「通常は金色のものを使います」
 走羽が銃を取り出した。右側のラッチを押しロックを解除した。バレルを引き、先端が丸くなっている弾を入れてみる。銃を斜めにし撃つ真似をした。
 黒いナイロンザックの中に髪の短い若い男が弾の詰まった箱を入れた。ライフルのマガジンもベルトのようなものに挟んだ。
 吉川の携帯電話から連絡が入った。葉子が出る。先にいっててくれ、とのことだ。奴は何をしているのか。
 私たちは薄いコーヒーを飲んでケブラーのチョッキを着込んだ。
 葉子が着替えのため上に昇った。
 真壁がこのビルの外で待機している。葉子が白いFFのバンで真壁を拾うという手筈にした。
 私たちは小型無線機の周波数を定めたものに合わせた。警官がしているように肩口にベルトで止めた。上着の下に黒いナイロンのマガジンベルトを締める。
 開封していないダンボールの箱は走羽のバンに積まれた。地雷の使い方など説明されてもどうせわからないのだ。問題はジャム、弾詰まりがないように祈ることと、ゆっくり正確に撃つことだ。
 
「銃の練習をしませんでしたね」
 走羽が横顔のまま言った。
 私は、どうしてこんなに組織的なのだと尋ねてみた。
「アフガンにいたことがあるんですよ。彼もね」
 十一時が過ぎ、車に乗り込んだ。
 先に張り込むことにする。
 
 
○「夜の魚」外灘 D-了
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.127

 
       四八 待機
 
 
 
 
■ 夕方になった。
 私はビルの最上階にあるオフィスのソファで横になっていた。
 吉川は自分の勤める商社の上海支社に顔を出してくると言って出かけていった。携帯電話を貸せというので渡した。
 
 一九八○年代半ばから、日本の大手新聞社は上海支局を再開するようになっていた。当初、事務所を借りるのにも苦労したらしいが、このところ新しいビルに移転し始めている。吉川は晃子の勤める通信社をも廻るつもりなのだろう。
 八○年代半ばと言えば〈上海宝山製鉄所〉の一期工事が完了した時期である。これは文革後の「洋躍進」政策による大規模な経済近代化計画であり、粗鋼年産七六○万トンという世界最大規模の製鉄プラントは日本企業が受注していた。
 八○年から日本は、中国に対し膨大な政府開発援助金ODAを供与している。低利・長期の円借款は、十年余りで累計七四○○億円にもなっていた。中国の貨幣価値に換算するととてつもない金額であると言えた。
 
 中国にとって日本は最大の援助国になっている。どこにきても横柄な吉川の態度もわからないではなかった。
 最上階のオフィスの窓からは電視塔がみえた。銀色に輝いている。西日を浴びて次第に色がついてゆく。そのまま眺めていると空が暗くなり、自動的にオフィスの照明がついた。
 黒いビルの四隅に赤いランプが点滅するようになった。
 私はベレッタを取り出してみた。右手で持っていると確かに重い。マガジンを取り出して確認すると静かに押し込んだ。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.126

 
 
 
 
■ 吉川は駐車場の中にある詰め所のようなところで眠った。
 昨夜は遅くまで走羽とその配下を相手に、武器の使い方について議論をしていたという。様子を伺いに葉子が降りると、走羽が苦笑しながら帰るところだった。髪の短い若い男が残った。彼はその後下見にでかけた。
 浴室を出ると頭が痛かった。葉子に生理痛の薬をもらい、胃薬とともに飲んだ。ビルの二階にあるカフェで吉川と会うことにする。
 このビルには守衛が常駐していない。昼間はパートタイムの守衛がいるけれども、十二時を過ぎると無人になる。代わりに各種センサーが動作し、必要があれば各通路を遮断することになっている。文革後、中国都市部では官民ともに腐敗が急速に進んだ。守衛を完全に信用することはなくなっているのだろう。
 テナントには日本からの資本も含め各種企業が入っている。だが、三分の一程度が空いたままになっていた。巨大なビルの割にがらんとした印象があるのはそのためだった。
「ろくでもない武器ばかりだな」
 吉川が先にきていた。彼はトマトジュースを飲んでいる。
 
「都市ゲリラ教本のことをあいつは知らねえんだ」
 走羽のことを言っているのだろう。
 まだ頭が痛かった。吉川の話を適当に聞いていると葉子が店に入ってきた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.125

 
 
 
 
■ 服を着たまま、ウォーターベットの中に潜り込んだ。葉子がズボンとシャツを脱がしている。
 どれくらい飲んだことになるのだろう。水を何度か足してもらい、ぐずぐず酒を嘗めていた。ファイルは旨く保存できただろうか。記憶にない。
 私はビルの最上階、そこから螺旋階段を降りたところの部屋に連れられていった。脚がもつれて転んだ。
 なんだか生きているのがイヤになった。なんでこんなところに居るんだと思った。
 そうしたことを口にしたかどうか、確かなことは覚えていない。
 
 気がつくと昼近くになっていて、何時までも毛布を抱えている私に葉子が浴室のドアを指さしていた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.124

 
       四七 誰も寝てはならぬ
 
 
 
 
■ 私は酒のグラスを持ちパソコンのある机に向かった。
 立ち上げる。中の構造はここで仕事をしていた時と変わっていなかった。エディタを起動し文字の大きさを調節する。思いついた文章を打っていった。
 何を打っているのか自分でもわからなかった。単語連想法で深層心理が探れるなどということを、まだ信じているひとがいるのだろうか。
 考えていることは女のことだ。殺された冴という女の肌のことである。
 私は記憶を甦らせようとしていた。
 
 男女が寝ることがあって、その具体的な味について、鮮明に覚えているなどということは少ない。全体としてこうであるということは後になって言えるが、どこがどう違っているかについては、こちら側の感覚に左右される。その感覚は単体で存在する訳ではなく、その時の自分の状態に微妙な影響を受ける。
 でなければ、忘れるなどということが起きる筈がない。
 大の大人が、自分が初めて寝た相手の顔や躯を鮮明に覚えているなどということが実際にはほとんどないように、忘れることによって次の相手に逢うことが可能となる。
 冴は野鶏だった。生きるために職業として躯を売っていた。天安門の事件がなければ、今頃北京で中国画を描いていたのかも知れない。
 私は氷の溶けたグラスにウィスキーを注ぎ、延々と嘗めていた。白い中国服を着た冴の姿を画面に映せないものかと思った。
 
〈望郷〉と打ち、それではコピーにならないと考えた。
〈家へ帰らないか〉けれども、その家というのは何処なのだろう。
 机の脇に水の入ったグラスが置かれた。横を向くと葉子が立っていた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.123

 
 
 
 
■ 走羽が最後に根を張ろうとした街がこの上海なのだろうか。
「当時の上海は死んだような街でした。しかし集合住宅での暮らしは北京などとはまた違っていて、余所者には住み易いのです」
 私は通り過ぎてきた上海の下町を思い出していた。
 路地には粗末な縁台が出され、それを囲んで皆食事をしている。丼飯を抱え、歩きながら喰っている姿も何度かみかけた。井戸や水道の廻りにしゃがみ込んで洗い物をしている女達もいた。
 その光景には不思議な懐かしさがあった。私たちもまたそのような暮らしをしていたのだという記憶が残っている。
 
 日本が豊かになったなどと言っても、たかだかこの三十数年ばかりのものでしかない。その豊かさには厚みがなく、幾つもの無理によってかろうじて支えられている。広告の仕事を続けていれば、そんなことの虚しさが簡単に透けてみえるようになる。どこが豊かなんだ、と思い始めることによって、私には意味あるものがほとんど書けなくなる時期が二年ほどあった。今もそうなのかも知れない。
「今、どれくらいの若いものがいるんだ」
「直接面倒をみているのは五十人ばかりです。後は女達ですが」
 走羽はグラスの氷を揺らしてから口をつけた。
 
 走羽の姿には不思議な余裕のようなものがあった。〈余所者〉と自らを規定し、裏の世界に棲むこの男は何をみてきたというのだろう。
 その時無線機が鳴った。見張りの者から吉川が戻ったという知らせが入る。走羽は駐車場に降りてゆこうとする。私は続かなかった。明日落ち合う時間を決め、もう一杯酒をつくった。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.122

 
       四六 余所者
 
 
 
 
■ 周波数を定め、小型無線機を真壁に渡した。明日の夜再び落ち合うことにする。日本にいる真壁の上司、私に電話でだけ連絡を取ってきた初老の男に報告をしておくよう私は言った。これから何が起こるのか、真壁自身も不安なのだろう。指で眼鏡をしきりに直している。私だってわからない。
 駐車場にいる葉子に頼み、酒を持ってきてもらった。
 私は走羽にグラスを勧めた。ブラインドをすこし開け、空がみえるようにした。
「何をはじめようっていうんだろうな」
「さあ、小さな革命じゃないですか」
 葉子は氷を用意すると、そっと事務所を出ていった。
 私たちは酒を飲んだ。ディスプレイからの光で走羽の顔が青白くみえる。
 
「紅衛兵ってのは志願するものなのかい」
 私は走羽に尋ねてみた。
「ええ、自ら進んで腕章をつけるのです。わたしは十三の時に紅衛兵になりました。〈紅小兵〉という小学生の組織があったのです」
 走羽が話し始めた。
「文革の最後の頃はひどいものでした。わたしは国境近くの農村に下放されます。軍にも入らされました」
 走羽は古いボルト・アクションのライフルを撃つ真似をした。そこで銃器に触れたということなのだろう。
「文革小組の裁判の後は各地を転々とします。ろくに学校にもゆけませんでしたからね。ひとつのところに居着くことができないのです」
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3247

 
       動機は女だ。
 
 
 
 
■ 簡単に言えばそういうことになる。
 古今東西、物語というのはそれでいいのだと思われる。
 
 
 
■ 95年当時、シトロエンDSというのはそれほど一般的ではなかった。
 確か碑文谷にある車雑誌の会社が特集でとりあげ、それから都心でも数台を見かけるようになったと記憶している。
「怪盗ファントマ」というB級映画があったが、そこでDSがイタリアのパトカーとバトルを繰り広げる。当時のイタ車のパトカーは、弁当箱と呼ばれたアルファである。
 どちらが勝ったかというと、そこは映画であるからフランス車のDSであった。
 60年代はまだ、第二次世界大戦の傷跡が製作者の中にも檻のように残っていて、例えばイアン・フレミングの007シリーズの原作には、アストンマーティンとフェラリーの対決が見られたりする。
 つまり、車に国旗を付けて走っていた時代である。サテーィズが乗ったホンダもそうだった。
 
 
 
■ ハードボイルドの範疇に入れていいのか「深夜プラス1」という小説にも、DSが登場している。レジスタンスの生き残りの主人公が出てくるエンターティメントの名作である。ギャビン・ライアル著。優しい殺し屋が登場したりする。
 つまり95年当時の私は、それらを模倣しながら、ある種分かりやすい文法に従って本作を書いていたことになるのだが、ま、そこは流れで。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.121

 
 
 
 
■ 走羽がアタッシュを開けポータブルCDロムを取り出した。機械に接続し電源を入れる。それからフロッピーを入れ、データを読ませていた。
 画面には上海の地図が表示される。マウスを使い浦東地区をズームにした。
 
「ここで緑になっている部分、これが現在建築中のビルです。地下にシェルターがあります。ダスカで襲ってきた男の持っていたのは、シェルターに入るための磁器カードでした」
 走羽がマウスをクリックしている。
「問題は同じ番号で二カ所に入れるということです」
 緑色の部分に、点滅している赤色がふたつあった。ひとつは東方明珠広播電視塔の傍にある。他方は電子工場が並んでいる一角のようだ。一枚の磁器カードでどちらにも入れるようになっているのだろう。
「塩素ガスの発生をごまかすという点からは工場地帯が妥当です。けれども大型の清浄装置を使えばこちらでも精製できないことはない」
 走羽が電視塔の近くの赤色を指さす。
「そんな装置がありますかね」
 真壁が口を挟んだ。
「核シェルターには大抵のものが揃っています。このビルにも小型のものが備えつけられている筈です」
 走羽は磁器カードからビルの所在地を割り出した。どうしてそのようなことが出来るのか私にはわからない。
 
 中国の都市部には現在五百万人近くの失業者が溢れている。彼等はリューモンとなって都市を流浪する。一方で金と権力は集中し、高級車を乗り回すことのできる階層が出現している。走羽のような新しい街の裏役には、銃ばかりでなく情報を自在に操るような資質が必要になっているのだろう。
 私には閃くものがあった。北沢なら覚醒剤の精製に電視塔のすぐ近くを選ぶに違いない。
「こっちだろう」
 私は電視塔の傍の赤い点滅を指さした。走羽がうなづき、真壁が眼鏡を直した。
 低いところにあった月は昇るに従い色を白く変えた。今は空の真上にあって、忙しく流れる雲を銀色に照らしている。
 
 襲撃は明晩に決めた。この明け方、走羽の手下が内偵にゆくことになっている。アウディを運転していた髪の短い男である。
「彼はね、朝鮮人なんですよ」
 走羽がブラインドを指で押し下げ、窓の外をみながら言った。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.120

 
 
 
 
■ 走羽が残された武器を運んできていた。ボックス型のバンの後部には、茶褐色のダンボール箱がいくつも積まれている。髪の短い若い男が一緒だ。他にふたり、走羽の配下が駐車場の入口をかためている。
 走羽が私にパソコンを貸してくれと言った。黒い上着の胸ポケットから一枚のフロッピーを取り出す。
「これで場所の特定ができるでしょう」
 私は走羽とともに三十二階の小さな事務所に昇ることにした。走羽は小型のアタッシュケースを持っている。事務所には広告の版下をつくる何台かのパソコンがそのまま残っている。真壁をも連れてゆくことにした。
 事務所に入り、真壁と金の相談をした。小切手を用意するように言ってあったのだ。
「とても一億は無理ですよ」
「そうかな、在日米軍にはタダで土地を貸しているじゃないか」
 私は小切手を真壁から受け取った。額面には五千万円とある。
 
「いいでしょう。残った品物はわたしが処分します」
 走羽が無表情に言う。北沢の覚醒剤を捌くつもりなのだ。否定すべき理由は私にはない。走羽の迫力に真壁は言い返せないでいた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.119

 
       四五  赤い月
 
 
 
 
■ その夜、私たちは浦東にある高層ビルの地下二階に集まった。
 このビルは葉子の父がオーナーである。私もここの三十二階に事務所を借りていた。駐車場の一番奥を封鎖し、細い覗き窓がいくつも開いているシャッターを降ろした。
 
 黒に近い紺色のジャガーEタイプが戻ってきている。ベルトを全て日本製のものに取り替え、焼けたプラグとオイル類を交換していた。粘度は五〇Wが入っている。
 その時代の高性能車には現代の化学合成オイルは馴染まない。当時の車は、ピストンとシリンダーのクリアランスが思ったよりもあり、その隙間をオイルで埋める必要がある。圧縮比を保つためだ。
 クローム・メッキされたワイヤースポークのホイルは優雅で美しいけれども、コーナーの度に歪む。鍛造のアルミに履き替えた。扁平率はそのままに本国製のP5を履いた。これ以上グリップするタイアだとサスペンションが保たない。
 だが、今回Eタイプを使うつもりはない。目立ち過ぎるのだ。
 真壁が一台日本車を用意した。FFの白い小型バンである。マニュアルであるが、空荷であれば小気味よくタック・インすることができる。半袖のワイシャツにネクタイ姿の真壁が乗っていると、外回りの営業車そっくりにみえた。

 吉川の到着が遅かった。彼は、旧フランス租界地にある葉子の父の屋敷に出かけていた。
 葉子の父の屋敷には灰色のシトロエンDS後期型があった。ドゴールが乗っていた車だが、運転には独特の癖がある。血管のように張り巡らされた細いパイプに植物性、後には鉱物性オイルが流れ、ステアリングからブレーキ、さらに車高を自由に変えられるハイドロニューマティック・サスペンションが備えられている。宇宙船のようなスタイルとともにすばらしい乗り心地を示したが、信頼性に問題があった。完全に整備できるところが上海にあるとも思えない。吉川がDSを借りてこなければ良いがと私は思った。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.118

 
 
 
 
■ 午後の半ば過ぎ、吉川が尋ねてきた。
 紺色の麻の上下を着ている。サイズは合っている。
 葉子の買ってきた上海ビールを開け、酸っぱくて飲めたものではないと三口で飲んだ。
「それでどうなっているんだ」
 私は吉川に尋ねた。
 
「ああ、ガスは暴動鎮圧用のものだ。米軍のライアット手榴弾が使われている」
 吉川は説明を始めた。一昨日の夜、晃子はサンクに奥山を同乗させ黄金町のビルからT市の病院にむかった。奥山に頼まれたらしい。二人が冴の個室を見舞っている時、突然ガス手榴弾が投げ込まれた。奥山が部屋から飛び出し、侵入した男三人と撃ち合いになったという。
 奥山は拳銃を携帯していた。ひとりを射殺する。残る二人は逃げた。かけつけた警官のひとりが胸を撃たれ即死する。侵入した男の一人は傷を負い逮捕されたが、もうひとりは車で逃走した。
「奥山が撃った相手はフィリピン人だった。NPAのメンバーだろう」
「それで、冴さんの容態はどうなんだ」
 吉川は椅子から立ち上がり、窓の傍によった。外を眺めている。
「いや、部屋の中にも銃弾は撃ち込まれているんだ。一発が腹部に命中している」
「危ないのか」
「死んだよ」
 葉子が私の顔をみた。
「晃子さんはベットの下に隠れて助かった。この襲撃で看護婦と入院患者ふたりが重傷を負っている」
 私は廻りにあるものが、自分の躯から離れてゆくような感覚にとらわれた。瞳孔が凝縮したのだろう、吉川の姿が闇の中に浮かんでいるようにみえる。
「ともかく車を用意しよう」
 吉川が言う。
 
 冴は死んだ。北沢の雇ったテロリストに殺されたのだ。
 躯の中でフィルムが逆転するように、血と漿液が動き出すのが私にはわかった。暫くその状態が続き、首を振って私は部屋を出た。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.117

 
 
 
 
■ 生暖かい風が窓から入ってくる。レースのカーテンが時々ふわりと揺れた。
 三十分ほど過ぎただろうか、上海大厦の交換から電話が入った。
 日本からだという。吉川だった。
「おれだ。病院からかけている。晃子さんと奥山は無事だ」
「そうか」
「明日そっちへゆくよ」
「うん」
「そっちで話す」
 そう言って電話が切れた。
 冴の様子が気がかりだった。私は何本も煙草に火をつけすぐに消した。
 上海に来るとき、私は晃子に車の鍵を預けてきた。古いサンクはすぐにバッテリーがあがってしまう。そうした理由もあるが、晃子には車が必要だった。奥山に会いゆくには車が便利なのだ。
 昨夜、奥山と晃子は冴の見舞いに行ったのだろう。サンクに乗ってだ。奥山の肺の傷はまだ完全に直った訳ではなく、基本的に外出はできない筈だった。
 
 私はイスラム原理主義者という言葉が出てきていることに驚いていた。この件には関係がないと思っていたのだ。直接関係はないのだろう。北沢だ。奴が日本に潜む雑多なテロリストを使い、多方面との繋がりを敢えて我々に誇示しているのだ。
 私は北沢の薄い唇を思い出した。追いすがるジャガーに、勝ち誇ったような甲高い排気音を響かせ、遠ざかっていったフェラーリの赤い尾灯を覚えている。
 北沢は、私と走羽を始末することができなかった腹いせに、日本にいる冴をもう一度襲わせたのだろう。晃子は監視されていたのかも知れない。
 腹の底に溶けた鉛の塊があって、それがゆっくり動いている。一杯の酒をそこに流し込むことにした。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.116

 
       四四 岩場の植物
 
 
 
 
■ ロビーに真壁が待っていた。
「捜していたんです、どこにいたんですか」
「どうしたんだ」
「昨夜、T市の大学病院が襲われました。警官と銃撃戦になりイスラム原理主義者を名乗る男が逮捕されています」
 顔がこわばるのが自分でもわかった。そこは冴が入っている病院である。
「それで」
「詳しいことはまだわかっていません」
 私たちは部屋に入ることにした。葉子が閉め切った部屋の窓を開けた。
 真壁は灰色のハンカチで額をぬぐいながら話し始めた。
「侵入にはスタンガンとガスが使われています。警備の人間がスタンガンで無抵抗にされ、数人が侵入した。奥山がひとりを射殺しています。千葉県警の警官が一人死亡しました」
「奥山がいたのか」
「ええ、丁度居あわせたのだそうです。今は連れの方とともに手当を受けています」
 
「冴さんは」
「わかりません。彼女の部屋を狙ったのは確かです」
 スタンガンとは高電圧の護身用器具である。容易に入手することができる。私は日本に電話をした。吉川と晃子に連絡を取ったが不在だった。晃子の留守番電話に急いで吹き込む。晃子のところの電話はポケ・ベルに転送する仕組みになっていた。
 真壁に言い、奥山と話せるよう警察関係に連絡をとってもらう。電話を廻されるばかりでラチがあかないようだった。