「夜の魚」二部 外灘 3

2005年08月10日

「夜の魚 外灘」 vol.115

 
 
 
 
■ 傀儡政権を維持する資金の多くはアヘンによってもたらされ、偽金がそれを支えた。アヘンは名実ともに中国人の人心を腐敗させてゆく。
 
 私はアヘン吸引を勧める当時の新聞広告をみたことがある。
 中国人の助手が持ち込んだ古い資料を眺めている時だった。
 断髪のモダン・ガールが煙管を持ち、その脇に「松竹梅」と書かれた商品の絵がある。その商品は煙管で吸引するものではなく、ヘロインに各種薬物を混合させた複合麻薬であった。この広告をつくったのは日本人であることは確かだった。当時の化粧品や酒類の広告とその文法が同じなのだ。
 私は対岸の電視塔の灯りを眺めていた。煙草の味がしない。
 若い恋人達が肩を組み、夏の夜風に吹かれている
 葉子の父は戦後どのような情報工作に関わっていたのだろう。
 彼はこの上海で特務に従事した経験を買われ、米国中央情報局の仕事についていた。
 仮に北沢が政治的な裏の世界にまで関与しているのだとするならば、葉子の父のことを知っていても不思議ではない。その逆もだ。
「どうしたの、そんな怖い顔をして」
 葉子が私の顔を覗き込んだ。
 
「あの浅漬け、誰がつくったんだ」
 先ほど、カレイの焼き物と一緒に食べた香のものは旨かった。
「わたしよ、塩で揉んだだけだけど」
 ひとは変わるものなのだろう。
 私は葉子を促して上海大厦に歩いた。
 
 
○「夜の魚 外灘」C-了
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.114

 
 
 
 
■ 日中戦争当時、日本は国策として中国全土にアヘンを公然と売買していた。
 満州事変以後、日本は内モンゴル政策を採るようになる。
 三九年「蒙古連合自治政府」、通称〈蒙彊政権〉という日本軍の傀儡政権がモンゴルに樹立された。満州国に続く二つ目の傀儡政権である。
 
 蒙彊地帯は、中国屈指のアヘン栽培地であった。
 ここにわが国の首相を総裁とする対中国機関が設けられた。「興亜院」並びに「大東亜省」である。その指導のもと広範なアヘンの製造・販売が画策されたのである。
 上海においては、天津の茂川機関と並んでアヘン密売の特務機関、里見機関が存在した。ここでは児玉や笹川らの「萬和通商」と連携しながら、三九年まで主にイラン製密輸アヘンを販売していた。
 この密輸に関わり、財閥系商社同士の苛烈な競争があったとされている。財閥系商社はこの密輸によって、一年で八千万円の利益を計上した。当時の八千万円は中型航空母艦一隻の建造費に相当する。
 
 太平洋戦争勃発にともない、イランからのアヘン密輸は途絶える。上海のアヘン事情は蒙彊地帯から産出されたものが主流になってゆく。
 すでに興亜院の指揮のもと、アヘン商、〈宏済善堂〉が組織され、支部は中国各地に広がった。里見が副理事となっていた上海の〈宏済善堂〉は、四○年以降中国全土のアヘン供給量の半分からそれ以上を販売した。
 偽造法幣流布の〈杉工作〉と並び、このアヘンの製造・販売はわが国の対中国政策の隠された要とも言えた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.113

 
       四三 鶏頭
 
 
 
 
■ タクシーを降りすこし歩いた。
 黄浦江の脇にある公園のベンチに座る。
 植え込みの処に赤い花が並んでいる。遠くから眺めると、色をそこに置いたようにみえる。鶏頭だ。
「父と何を話したの」
 葉子が尋ねる。
「いや、たいしたことじゃない」
 
 葉子は自分の父が工作員だったことを知っているのだろうか。
 私は割り切れない気分が澱のように溜まっているのに気付いている。
「お母さんはどうしている」
 私は葉子に聞いてみた。
「母は藤沢にいるわ。何度か上海にもきたけれど、馴染めないといってすぐに戻るのよ」
 葉子の母はまだ四十代の筈だった。七○年の万国博覧会の頃、葉子の父と知り合い結婚した。何時だったか葉子に聞いたことがある。
 葉子の母は学生運動に関わっていたのかも知れない。
 吉川の時と同じように助けられ、それが恋愛感情に移行したのだろうか。
 
 あの時代の熱気のようなものを私はうっすらと覚えている。
 各地で中国物産展が開かれ、赤い星と毛沢東の写真を飾った会場では人民帽を被った知識人と称される人たちが誇らしげに説明をしていた。
 熱気は単に政治的なものだけではなく、その時代の空気そのものを規定した。
 梅機関に属していたという葉子の祖父は、汪兆銘を監視する主治医のような任務についていたのだろう。軍医であり憲兵であることはこの場合都合が良い。
 汪兆銘は戦時中名古屋で客死したと言われている。
 かつて国民党左派と目された汪兆銘を、あの時期に担ぎ出した日本の政策は一面で的確だったと言える。しかし、蒋介石の独裁傾向に拮抗する汪兆銘自身の姿勢を日本は傀儡としてだけ利用した。
 私は晃子が送ってきたファイルの内容を思い出していた。
 二度目に送られてきたそれには、中国とアヘンに関しての歴史的な経過が端的に纏められていた。葉子の父が話したことと大筋において符合している。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.112

 
 
 
 
■ 私は〈上海人脈〉という言葉を思い出した。
 児玉機関や里見機関に関する資料は驚くほど少ない。膨大な資金の流れについては、明らかにされていないことの方が遥かに多かった。無闇に調べることは生命に関わると言われて久しい。
「こんな話をするつもりはなかったが」
 葉子の父はもういちど椅子の背もたれに躯を預けた。薄い疲労がみえる。
「食事でもするかね」
「いただきます」
 外はまだ暗くなっていないが適当な時間でもある。
 階段を降りると、葉子とメイドが食堂に用意をしていた。
 味噌汁とカレイの焼いたもの、それから香のものがあった。
 葉子が横から父親に味噌汁の腕を持とうとする。不機嫌そうな顔をしながら彼はそれに従っていた。
「片手というのは不便なものだよ」
「そうですね」
 冷たい緑茶を飲み、とりとめのない話をし、葉子の父は寝室に入った。
「また、きたまえ」
 私は屋敷を辞することにした。葉子が続く。
 
 振り返ると、隣接したガレージに灰色の蛙のような車が駐まっていた。特徴的な楕円形のライトがみえる。シトロエンのDSだ。
 私は何台かの車のことを、葉子の父に尋ねれば良かったと思った。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.111

 
 
 
 
■「吉川君のことは知っているね」
「ええ」
「彼も、間接的には特務なのだよ」
 葉子の父は言う。
「どういうことですか」
「わからんかね。先日日本の新聞に、高度成長盛りの頃、当時の保守政権の首班に米国中央情報局から資金が流れていたことが報じられていただろう。そうした場合でもCIAは直接金を渡す訳ではない。彼がその役をした訳ではないが、そのような任務を果たす者を合法工作員というのだ」
「合法ですか」
「それは昔の特務や中国情報部の言い方だが、様々な分野に協力者を作っておくことも秘密戦の基本なのだ」
「それで彼を逮捕から助けたと」
 葉子の父は答えなかった。椅子の背に凭れ、目を細くして言った。
 
「君はぼんやりしているようだがなかなか鋭い。葉子が珍しくしおらしくしているのもわからんでもない。だがね、歴史というのは空白の部分があって、それを無闇に掘り起こすことは危険でもあり意味のないことなのだ」
 私はそうは思わなかった。けれども、口に出すことは控えた。
 おそらく、葉子の父はアメリカの中央情報局CIAの工作員だったのだろう。であるから、当時の公安警察に顔が効いたのだ。吉川が起訴されるのを助け、今の巨大商社に潜り込ませたのも意図あってのことだろう。
「それで、何時お辞めになったのですか」
「かれこれ十五年程前だ。すこし嫌気がさした。少年時代を過ごした上海でビールでも売ろうと思ったのさ」
 よく無事に辞められたものだと思った。同時に日本政府の仕事もしていたのかも知れない。〈杉工作〉で不明になったという重慶政府の法幣も、一定の部分では生き延びる工作に使われたに違いない。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.110

 
       四二 ONCE I LOVED
 
 
 
 
■ 葉子の父が何故このような話をするのか不思議だった。
 かれこれ、二時間近くは経っているだろう。
 私は椅子から立ち上がり、断りを入れてから煙草を吸った。
 メイドがコーヒーを持ってきた。
「戦争が終わってからどこにおられたんですか」
 私は葉子の父親に尋ねた。
「特務にいた連中はほとんど戦犯だった。わたしも例外ではない。目先の利く者は内地に帰り、石井などのように細菌戦情報を渡すことで占領軍の追求を逃れた者も多かった」
「それで」
「撫順戦犯管理所に二年入れられた。その後米軍に渡され、向こうでそれ以後を過ごし日本に戻った」
 
 この説明はおかしいと私でもわかった。
 撫順というのは中国の戦犯管理所である。赤い星、共産中国になってから開設され、ソ連から多くの戦犯が移送されたと聞いたことがある。
 当時の政治状況を考えると、中国に抑留されている者がアメリカに渡されるということは、余程の政治的理由がなければ為されない筈である。
「何時のことです」
「朝鮮戦争が起きるすこし前のことだった」
 葉子の父は中国軍に捕まったりはしなかったのだろう。
 何らかの手段で中国を離れ、そこで米軍との交渉があった。台湾に渡ったのか、日本に潜伏していたのかも知れない。私は煙草を灰皿に消した。
 
「アメリカで特務に従事した訳ですね」
 葉子の父は答えなかった。私の顔をみず、首をほんの僅かに傾け、それは認めることを意味した。
 
 
 

2005年08月09日

「夜の魚 外灘」 vol.109

 
 
 
 
■ 当時児玉機関は、今私が泊まっている上海大厦のふたつのフロアを借り切っていた。各種のパーティが催され、文士や新聞記者、得体の知れない壮士などが夜毎に集まっていたと言われている。大世界・ダスカとともに、上海を影で牛耳る象徴でもあった。
「同時に松機関が〈杉工作〉のために設置された。影佐と同じく大本営から岡田芳政少佐が配属された。汪兆銘の南京政府を擁護することを主たる目的としている」
 
「杉工作とは何ですか」
「簡単に言えば偽金つくりだ。このカメラと同じように陸軍登戸研究所、こんどは第三課だが、そこで作成された偽造法幣を使用する。物資の導入と経済の攪乱、蒋介石支援物資に対する妨害などを謀ろうとしたのだよ」
「偽金をつくったのですか」
「うむ」
 葉子の父は詳細に説明を始めた。ファイルを開く。
 印刷の中でも紙幣の印刷は最高の水準を要求される。
 そのため、登戸研究所の研究班には、内閣印刷局と大手関連会社が全面的に協力することとなった。ドイツ製ザンメル印刷機が日本で始めて使用される。
 日本で印刷された偽造法幣の主体は拾円券である。これらは中野学校の卒業生によって上海に送り込まれた。敗戦までに四○億元が作られ、現地で流通したものは二五億元だと言われている。
 四五年までに重慶の国民政府が発行した法幣は五五○億円である。偽造法幣の占める割合は一%に満たず、経済攪乱という秘密戦の意味からは完全に失敗した作戦であった。
 しかしながら、偽造法幣は阪田が中国全土に張り巡らせた商社網を通じ青幇に渡され流通する。青幇の首班は徐采丞であった。
 
 この法幣は、松機関を通じて陸軍や海軍の物資購入資金として使われた。旧日本軍は偽金で物資を購入していたのだ。
「当時わたしは十代の少年だった。熱心な愛国少年ということだ。父の仕事を誇りに思い、敗戦間際には実際に手伝うようになっていた」
「なにをしたんですか」
「連絡と法幣の受け渡しだ。昭和二○年に入ると日本からの偽造法幣は上海に無事に着かなくなる。制空権もなく、輸送船は途中で撃沈される。捉えられ殺されることも多くなった」
「危険な仕事でしたね」
「うむ。そのため敗戦になるとわたしは捉えられることになる。父は既に南京で死亡していた。母については消息がわからない」
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.108

 
       四一 杉工作
 
 
 
 
■ 私は冴のことを思い出していた。
 冴の母親は満州に渡った開拓民を両親に持ち、終戦直前に置き去りにされた子であった。小さな村の農民に買われ、そこで育つ。
 買われたと言っても、生き延びるためにジャガイモ一袋と交換されたというのが事実に近いのだろう。冴の母は、娘となり冴が生まれるまで自分が日本人であることを知らなかった。
 
「汪兆銘政権は日本軍の傀儡政権だった。わたしの父は梅華堂に本部を持つ梅機関に配属され、汪兆銘政権実現のため働いた。君は当時上海にいくつの特務機関があったのか知っているかね」
 私は首を振った。
 葉子の父は一枚の紙を取り出し、右手で簡単なチャートを書き始めた。押さえるもののない紙が動き、書きにくそうである。
 肘から先が無くなった左手のことを、彼はこのようにして考えることになるのだろう。私は手を出さなかった。
 
「汪兆銘が親日政権を作ったのは三九年のことだ。この時梅機関が設立される。同時に阪田機関、松機関が作られた」
 葉子の父の顔に赤味がさしている。
「梅機関は三九年六月、大本営陸軍謀略・宣伝部課長、影佐禎昭大佐によって作られた。影佐は日本軍の中国におけるありかたを内部改革する目的をもっていたとも言われるが、真意の程はわからない」
 汪兆銘は三五年一月、国民党中央委の開会式で狙撃され重傷を追った。
 対日妥協政策に対する批判によるものだとされている。
 彼はそこで失脚したが、梅機関の援助によって国民政府、通称〈南京政府〉をつくることになった。
 
「同時に作られたのが阪田機関だ。ここは対中経済謀略の実行機関だった。秘密結社〈青幇〉との太いパイプを阪田誠盛は持っていた。この配下に海軍の萬和通商がある。児玉誉士夫が指揮をとった。さらにアヘン密売を専門とする里見機関がある。この他に誠達公司・達記公司など表向きは通常の会社を中国側に設立させ、秘密戦に従事させていた」
 葉子の父はチャートに線を引きながら説明した。
 萬和通商は別名〈児玉機関〉と呼ばれ、その首班は戦後右翼の大物として各種疑獄事件に名前を連ねている。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.107

 
 
 
 
■ 日本の中国に対する侵略は一九二○年代の終わりから始まっている。
 一九二七年、日本では金融恐慌が起こり国内は失業者で溢れる。その五月、日本軍は山東に居留民保護を名目として兵を送り、中国国民革命に対峙した。
 更に六月から七月にかけて、「東方会議」と呼ばれる外務省・軍部高官を集めた対中政策の基本政策が定められた。ここでは後に「華北分離工作」と名付けられた満州国を中心とする日本の権益、鉄道施設権の獲得などの大要が定められた。
 二八年、蒋介石率いる国民革命軍が北伐を開始し中国共産党と対峙すると、日本は第二次山東出兵を行う。さらに当初は親日派であった東北の軍閥、張作霖を暗殺する。
 
 この一九二八年という年は、日本国内においても歴史的な変曲点であった。共産党員の大弾圧が開始され、治安維持法が天皇の名において緊急勅令で改正された。これにより、自由主義思想までもが極刑で取り締まることが可能となる。
 一九三一年九月、関東軍は満鉄線を破壊し、これを中国軍のしわざとして一斉に中国軍を攻撃、十五年戦争の火蓋を切った。〈満州事変〉の勃発である。
 翌三二年、上海に侵攻、その隙に「満州国」傀儡政権を誕生させる。
 日本は満州国を国家総力戦体制のための資源供給、重化学工業、さらに対ソ線の前線基地として位置づける。
 産業開発五カ年計画、北辺振興計画、日本人農業移民政策は満州国の三大政策であった。
 中国では次第に反日運動が広がる。反満抗日運動の展開である。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.106

 
       四〇 東方傀儡
 
 
 
 
■「わたしの父は上海で憲兵をしていた。もともとは軍医であったのだが、どういう訳か憲兵に志願し関東憲兵隊に配属された。当初は梅機関に所属し、後に阪田機関、松機関などでも勤務した。医者であり憲兵であることが特務上重宝がられたのだろう」
 葉子の父はそこまで言うと、グラスに残るブランデーを一口で干した。
「昭和十三年か、わたしは実家のある藤沢から母とともに上海に呼び寄せられた。日本租界地に与えられた屋敷で暮らすようになる。その年、南京に新国民政府が樹立され、汪兆銘が首班となった」
 
「汪兆銘」
「そうだ。君も名前くらいは聞いたことがあるだろう。一一月に近衛内閣は東亜新秩序の建設を声明した。国民党政府内の反蒋派であった汪兆銘は一二月重慶からハノイに脱出し、日本との和平交渉に入ったのだ」
 私は漠然と記憶をたぐることにした。
 日本から上海に渡る時、中国関係の書物を何冊か読んだ。
 広告の仕事というのはそうした地味な作業に支えられている。どのような商品であれ、背景となっているものに対し、一定の知識と姿勢のない処で言葉を紡ぐことは許されない時代に入りつつあった。少なくとも私はそう考えている。それは歴史に対しても同様なのだろう。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.105

 
 
 
 
■ 第一次大戦以後、世界戦争は総力戦の時代を迎えた。
 従来の武力中心主義の戦闘から政略戦・思想戦・経済戦など、国家の総合力をもって戦う戦略思想が主流となった。国家総力戦思想である。これは姿を変え今日でも保持されている。
 それに対応して昭和二年「秘密戦資材研究室」、別名「篠田研究室」が陸軍科学研究所に設置された。当時は金融恐慌直前であり、青年将校などの間に国家主義思想が浸透しつつある時期でもある。
「これが何だかわかるかね」
 葉子の父は何枚かの写真を私にみせた。
 それは巨大な茶筒のようなもので、そこからホースのようなものが出ている。散水車に搭載された写真もあった。
「石井式濾水機だよ」
 この濾水機は当時としては画期的なものであった。
 各種細菌を人体に無害な一部のものを除きほぼ完全に除去することができたという。素焼きの濾過管の中を高圧で水を通す。濾過管の表面に付着した汚物を回転ブラシでこそぎ落とすという仕組みになっていた。
 葉子の父が取っ手を廻す仕草をする。石井式というのは、考案者である石井四郎の名をとったものとされている。
 
「満州では必需品だったのだよ。細菌戦にもね」
 石井四郎は関東軍防疫給水部、いわゆる七三一部隊の軍医中将である。彼はわが国における細菌戦研究の創始者とも言われる。
 試験的ではあったにせよ始めて毒ガス攻撃がなされたというノモンハンにおいて、この濾水機は飲料水の確保に絶大な効果を発揮し、後に全軍に配給されることとなった。
 ハルピンの七三一部隊とともに、南京には「支那派遣軍防疫給水部」通称一六四四部隊があった。そこでも細菌を使った人体実験が行われていたことが今日では明らかになっている。
「登戸では一六四四と合同実験を行っていたのだよ」
「捕虜かなにかですか」
「いや、思想犯や強制連行されてきた朝鮮人など一概に特定はできない」
 私は何故葉子の父親がそのような話をするのかいぶかしく思った。
 しかし、おぼろげな一本の線が背後にあることだけは感じられる。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.104

 
 
 
 
■ 旧日本陸軍において防諜・謀略など、秘密戦に携わる要員を養成したのが「陸軍中野学校」である。
 一九三七(昭和一二)年一二月、東京九段にある愛国婦人会本部付属の別館を借り、設立の準備が進められた。陸軍士官学校幹部候補生出身者の中から選抜された者が入所し、第一期生は三九年七月に卒業している。
 もともと日本軍は秘密戦についての理解が薄く、機関設立のための予算や場所なども十分ではなかった。正式に「陸軍中野学校」という名称になったのは四○年八月になってからで、初代校長には北島卓美少将が選ばれた。当初は「後方勤務要員養成所」と呼ばれていたという。
「〈秘密戦概論〉という八○頁程のテキストがある。これは戦後自衛隊の調査学校の教本になっていた。一九七七年、国会の予算委員会で野党議員がすっぱ抜き、やっとその存在が明らかになったんだがね」
 葉子の父は続けた。
「中野学校と密接な関係があったのが、陸軍登戸研究所だ。例えばマイクロドットと呼ばれる超縮写技術はその後のマイクロフィルムの原型となっている」
 それがこのライターに仕込まれたカメラとフィルムなのだろう。
「その研究所というのは何時頃できたんですか」
「一九二七年、昭和二年だ。始めは新宿戸山ケ原、次に川崎登戸、終戦間際には長野県に疎開している」
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.103

 
       三九 登戸研究所
 
 
 
 
■ 私はブランデーの瓶を持って階段を続いた。
 一番奥まったところが書斎になっているようだ。促され私は部屋に入った。
 マホガニーの大きな机があった。葉子の父は背もたれの高い椅子に座り、私にも向き合った椅子を勧めた。
「このライターを知っているかね」
 彼は引き出しの中からオイル式の古いライターを取り出した。
 何処にでもある形である。蓋を開け、石を擦る。
 火は点かない。僅かに金属の開閉する音が混じった。
「カメラだよ」
 葉子の父は銀色のライターを私によこした。
 ライターの金属に丸い穴が開いていて、そこは黒いレンズのようになっている。
「陸軍登戸研究所で開発され、特務機関で使われていたものだ。中に八ミリフィルムが入っている」
「登戸研究所ですか」
「そうだ。実用化されたものの中には風船爆弾や自動発火式の火炎瓶などがある」
「特務と言うと、スパイということですか」
「うむ、そのように一般には理解される。上海は戦争中、特務機関の活動拠点のひとつだった。今もそうだがね」
 そう言うと、葉子の父は机の横の小さなボードを開け、小さなグラスをふたつ摘み出した。私から瓶を受け取りグラスに垂らす。一口を嘗める。
 それから彼は机の鍵を開け、中から黒い革表紙のファイルを取り出した。机の上で開く。
 葉子の父が出した古いファイルには何枚かの地図と写真、縮小コピーされた厚い書類の束があった。
 
「わたしの父は上海の梅機関というところに属していた」
 葉子の祖父にあたるのだろう。私は黙って葉子の父親が話すのを聞いていた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.102

 
 
 
 
■「医者が煙草は駄目だというんだよ」
「痛みますか」
「ああ、MSコチンを朝晩服用している。痛みは和らぐよ」
 モルヒネ経口錠のことだ。激痛を十二時間押さえることができる。真壁が渡した資料の中に市販薬としての名前があった。
 葉子の父は紅茶を一口飲んでカップを置いた。
「これでは仕方ないな」
 後ろにある棚から酒を取り出すよう私に指示した。ブランデーの瓶を机の上に置く。葉子の父は自分のカップにすこし垂らし、私のカップにかなり注いだ。
「ところで、君は葉子のことをどう考えている」
「はあ」
「はあではなく。あれと結婚するつもりはないのかと言うことを聞いている」
「結婚ですか」
「そうだ、あれはわたしの一人娘だ。君も知っている通りわたしはここで貿易会社を経営している。葉子には跡をつがせたい」
 話が奇妙な方向に流れた。
「昨年、君には葉子が大変世話になった。君は撃たれ入院までしている。それは葉子を愛していたからじゃないのかね」
 私は黙っていた。口にして良いものかどうか考えていた。自分の気持ちをこのようなかたちで問われることについても迷いがあった。
 浦東にあるビル、さらにこの屋敷にしても、葉子の父の資産は十億ドルは下るまい。日本人である葉子の父が、このような資産を上海に保持していること自体が不思議でもある。
 
「結婚は考えていません」
 私は口にした。葉子の父の顔をみた。
「葉子さんのことは愛しているのかも知れません。それは今だからです。昨年の事件の時にはそんなことを考えている余裕はなかった」
 葉子の父は暫く黙っていた。怒るかと思ったがそうではなく、おかしなものをみるように私の顔をみた。
「なるほど、君はすこし変わっているな。目の前のチャンスを眺めて通るタイプらしい」
「そうでしょうか」
「いや、いいだろう。瓶を持って二階にきてくれ。みせたいものがある」
 そう言うと葉子の父はドアを開け、階段のある踊り場に歩いていった。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.101

 
 
 
 
■ 私は煙草を吸わなかった。メイドに勧められたが座ることもしなかった。長椅子の横に立ち、手入れされた芝生を眺めていた。
 葉子がドアを開けた。後ろに父親が立っている。右手で指示され、私は長椅子に座った。
「いや、どうも」
 葉子の父親が頭を下げる。私もそれに従う。濃い茶色のガウンを着て、葉子の父は左手を首から吊っている。
 僅かに痩せたようだ。頬がこけ顔色はガウンの色にも似ている。
 六十の半ば過ぎだと思われる葉子の父は、その世代にしては背が高かった。髪は後退しているが白髪という訳でもなく、がっしりした首と体躯をしている。
「おまえは二階にあがっていなさい」
 父親は葉子に言う。葉子は何か言いたげに一度振り向いたが、ドアの外に出た。
「それで、君はわたしに何を聞きたいんだね」
「ええ、どこまでご存じかどうかです」
「なんのことかな」
 私たちは腹を探りあってみた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.100

 
       三八 娘婿
 
 
 
 
■ 上海は晴れた。
 雨雲は南に去り、低い位置に白い雲が幾つか浮かんでいた。
 私は昼近くに目覚め、下着を替えた。
 左胸のあたりが青く痣になっている。指で触ると鈍く痛む。
 葉子が外に出て上着を買ってきた。紺色の麻である。
 以前着ていた上着は、銃で撃たれた穴と焼け焦げが出来ている。
 走羽に連絡をする。今日は葉子の父親に会う予定だと告げた。
 走羽は口にしなかったが、彼も銃弾を受けている。Eタイプの助手席、タン色の革シートの膝の辺りに血痕がついているのを私はみていた。
 車がないのでタクシーを拾った。
 葉子の案内で、旧フランス租界地にある葉子の父親の屋敷にむかう。
 葉子の父は、病院での手術が済むと比較的短期間で退院していた。本人がそのように希望したのだろう。浦東にあるビルの前で新型のベンツが爆破され、葉子の父は肘から先の左手を失っていた。
「ここよ」
 葉子がタクシーから降りる。坂道があって煉瓦造りの塀垣がある。二階建ての平たい洋館である。
 私は葉子からすこし離れ、門柱から玄関までの石畳を歩いた。
 中国人のメイドがいた。五十位の眼鏡をかけた女性だ。髪を中国風に縛っている。
 私は応接間に待たされた。古い英国調の長椅子がある。メイドが紅茶をもって入り、奧に引っ込んだ。
 
 
 

2005年08月08日

「夜の魚 外灘」 vol.99

 
 
 
 
■ 外は雨が降っている。夏の雨だ。
 上海大厦は冷房の効きが悪かった。改装する前のニュウ・グランドの旧館のように、外付けのダクトが壁を張っている。
 私たちは寝ることにした。
 時間をかけ、こわばっているものを内側からほどこうとした。
 葉子は低い声をだした。暫くそれは続き、挟みつけては首を傾けた。
 
 葉子に色がなくなっている。
 原色の断片が背後に退き、半透明のベールのようなものが皮膚の上を覆っている。
 汗に過剰な密度はなく、跳ね返してくる胸の張りの中に柔らかさが混じっている。
「わたしね」
 葉子が低い声で言う。
「わたし、このまま歳をとってもいいと思っているの」
 動きを続けた。一点に加える圧力は何かに遮られ、芯のようなものにぶつかる。そのままにしていると、もうひとつ口を開き、別のものとなって包み込む。
 私たちはそのまま眠りについた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.98

 
 
 
 
■ 私はルームサービスでお粥を取った。
 覚醒剤の主成分であるメサンフェタミンを製造するにはかなりの規模の工場を必要とする。真壁の資料には詳しい製造方法に関しては省かれていた。
 ただ、大量の塩素系ガスが発生するので、一般的な都市部においては覚醒剤の製造は困難であるとされていた。現在の日本で大量に製造することがほとんど不可能に近いのは、そうした理由があるからなのだろう。
 この街なら可能かも知れない。
 上海には、急速な資本主義化の流れの中で幾つかの深刻な矛盾があらわれている。しかしそれらを含め、大抵のことなら呑み込んでしまう強靱な胃袋を、上海という都市は持っているような気がしていた。
 
 もともと、中国ではアヘンが麻薬の主流であった。
 アヘンすなわちヘロインは、第一に多幸陶酔感をもたらす。本来、末期ガンの治療などに使われる強力な鎮痛剤としての側面を持っているからでもある。自律神経に障害をもたらすのは当然であるが、道徳観や倫理観などの高等な感情が鈍化してゆくことも特徴とされていた。ただ、覚醒剤や他の麻薬にみられる幻覚や妄想などは出現しない。
 簡単に言えば、アヘンはぼんやりし、覚醒剤は尖らせる。つまり、覚醒剤は企業戦士に向いているということなのだ。
 戦時中、侵略する側が覚醒剤を打ち志気を高め、侵略される側にはアヘンを浸透させ判断力を奪い、「抗日」に至らないようしむけたという事実がそのことを寓話的にあらわしている。
 中国、上海という都市で、覚醒剤が作られ始めているということの背景には、急速な資本主義化と開放政策とがあるように思える。
 表で得る賃金の数倍を、副収入として夜の仕事で稼ぐ。
 そうしたことがある意味で当たり前のようになってきていた。私の仕事を手伝っていた助手のひとりは、昼間教師をしている。
 年収一年分に相当する携帯電話が爆発的に売れていること、上海に住む若者の多くが高額なポケ・ベルを持っているなどということは、インフラストラクションの順当な整備や発展を待たず、何段階も省略することによって経済構造が変化していることのひとつのあらわれなのだろう。
 いずれにせよ無理が出る。
 
 私は、上海が日本が辿ってきた経緯を、一気にしかも壮大なスケールで行おうとしているかのような錯覚にとらわれた。
 けれども、今が二十世紀の終焉にあり、しかもここが中国だということについて、その意味するものの全体がみえないことにも気付いていた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.97

 
       三七 意味について
 
 
 
 
■ 昨年、水上警察の取り調べ室で、私は奥山から葉子は常用者ではないと聞かされた。奥山は遠慮がちにそれを言う。
 覚醒剤は七二時間でほとんど体外に排出されるが、髪の毛が二十本程あれば、半年から数年の間にわたる使用歴が判明する。これは一九九○年、厚生省研究班によって開発された方法でガスクロマトグラフ質量分析装置を用いる。覚醒剤ばかりでなく、大麻やコカイン、モルヒネなどにも適用可能だと言われている。
 常用者でないにも関わらず、幻覚や幻聴がきこえたというのだから葉子には何か別の誘因要素があったのだろう。
 
 私は葉子の父親に会うつもりになっていた。
 葉子は自分の母親のことをほとんど話さなかった。嫌っている訳でもないようだが、葉子の母は藤沢に暮らしている筈である。家族のことに立ち入りたくはないが、私は北沢の言葉が気になっていた。北沢は葉子の父のことを知っている。
 何か核心のようなものがあるのだと思える。
 自分が寝た女の父親に平然と会える神経というのが私にはわからない。
 女親や姉妹であれば、何処か品定めをされているような風情があって、場合によってはつきあうこともあるだろう。しかし、父親となると話は別だ。
「明日、親父さんに会いにゆくよ」
「え、見舞いってこと」
「ああ、それもある」
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.96

 
 
 
 
■ 私は葉子に尋ねてみた。
 昨年、葉子は北沢に拉致された。その際、覚醒剤を使われたとして暫く警察病院で治療を受けた。
「わたし、覚醒剤は始めてだったの。髪の毛が逆立つような、息が苦しくて手と足が細かく震えたわ。あと、喉が乾いたことを覚えている」
 これらの症状は、覚醒剤自体が自律神経に影響を及ぼすことからくる。
「病院では薬を出されたわ。多分抗精神薬だとおもう。個室だったからよくわからないけど、二三日寒気と何かひとの声がきこえた」
 
 葉子はアップジョン社系の睡眠薬を常用していた。
 常用量依存である。何かの治療で処方されたものに対し、漫然とした依存が起こり、やめることができなくなる。
 葉子の睡眠薬の常用が、一度の覚醒剤使用に対し過敏な反応を引き起こした原因ではないかと私には思われた。
 覚醒剤の中毒になった者は、仮に覚醒剤の使用を中止しても、僅かなアルコール、睡眠薬などで症状の再現をみるという。逆耐性現象というらしい。
 また、幻覚・幻聴などが再現することをフラッシュバックという。覚醒剤の怖さは、使用を中止したからといってその影響からたやすく逃れることができず、人格の基底部分を変えてしまうところにあった。
「叫んでいるひとがいたわ、虫がよってくるというのよ。後ね、殺しにくるからここから出せと暴れているひともいた」
「男か」
「ううん、女もいた。わたしより若いの。痩せてね、下着だけの姿でベットに縛られているのをみたわ」
「葉子はどんな声がきこえたんだ」
「おまえなんか意味のない人間だ、って顔の溶けた男と女が傍にきて言うのよ」
「今はどう思う」
「時々そうおもうわ」
「じゃあ正常だ」
 私は水で割ったウィスキーをつくった。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.95

 
 
 
 
■ 真壁の資料には「アヘン戦争」については省略する、と書かれている。
 植民地政策の一環として英国が東インド会社につくらせたアヘンが清朝を滅ぼすきっかけになったのだ。同じようなこと、ある意味では遥かに悪質なことを戦中の日本も行っていたのだから触れないことにしたのだろう。役人の発想だ。
 
 一般に麻薬というのは法律で禁じられたものを指す。
 アルコールや各種薬物、つまり向精神薬などの場合には中毒とは呼ばず、依存、または依存症と呼ばれることが多い。
 麻薬中毒とは、アヘン・ヘロイン、コカイン、大麻(マリファナ・ハシッシュ)、さらに覚醒剤による中毒に大別されている。
 私が読み終えた資料を葉子は手にとって眺めている。
 いわゆる覚醒剤というのは、いくつかの種類の覚醒アミンを指す。
 日本での主流はメサンフェタミンと呼ばれるもので、市販の咳止めなどに含まれているエフェドリンとよく似た分子構造を持っていた。
 エフェドリンは日本人の長井長生が麻王から抽出に成功したものとして有名である。
 これはヒロポンとして日本人には馴染みの深いものであった。戦中には、軍の指導で大量に製造され、半ば強制的に使われていた。眠気の防止、士気高揚、疲労感排除などが目的である。「猫の目錠」「突撃錠」などの名で呼ばれていたという。
 いわゆる特別攻撃隊の隊員は、この錠剤を噛みながら異常に昂進した精神状態で「万歳」を叫んで死んだのである。
 
 戦争と麻薬というのは切ってもきれないものだ。アフガンでは多くの旧ソ連兵士が大麻樹脂の中毒になったという。
 メサンフェタミンは粉末で、もしくは錠剤で供給される。重曹やカフェイン、アンナカ、ナフタリンなどと混ぜられ、シャブ、アキアジ、ガンコロ、スピードなどと呼ばれ密売される。不純物の配合の仕方によって効き目が変わってくると言われている。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.94

 
       三六 津軽
 
 
 
 
■ 起きると頭が痛かった。
 真壁の持ち込んだスコッチを半分程空けたのだからやむを得ない。
 一日、上海大厦の部屋で何もせず過ごした。
 
 何時だったかこのホテルでアヘンを吸ったことを思い出す。
 酒とアヘンとどこが違うのか、そんな気分にもなっている。
 夜になって、私は真壁が渡した資料を読み始めていた。そこには覚醒剤にとどまらず、麻薬一般についての簡単な説明があった。
 中国の雲南省、タイ、ラオス、ミャンマーに隣接した高原地帯は「黄金の三角地帯」と呼ばれ、年に三度ケシの花の栽培が可能だとされている。
 ケシの未成熟な果実と茎のあいだに傷をつけ、そこから分泌された液体を乾燥させたものがアヘンの原材料となる。天然に得られたものの四分の一程度が薬物としての効果を持っている。
 内部に含まれた二十種類程のアルカロイドのうち主要な成分はモルヒネであり、モルヒネに塩化アセチルを化合させてつくられたものが半合成アルカロイド、ヘロインである。ヘロインはモルヒネの十倍の毒性がある。
 日本では一八三七(天保八)年、奥州の津軽地方で始めてケシの栽培とアヘンの製造が始められ、ツガルとの呼び名で残った。
 「黄金の三角地帯」におけるケシの栽培は主としてシャン人によって行われ、それを指揮するのは、クンサーを指導者とするMTAである。クンサーは民族独立運動の指導者であるとともに麻薬王でもあった。自動小銃、地雷で武装した二万五千の軍隊が常駐している。
 また、中国におけるエイズ患者の多くは隣接した雲南省に集中し、そのほとんどが麻薬常習者であるとされている。静脈注射による感染が主な原因なのだろう。毎年、雲南省では二百五十人からの麻薬密売者が死刑になっていた。