「夜の魚」二部 外灘 2

2005年08月08日

「夜の魚 外灘」 vol.93

 
       三五 夏雨
 
 
 
 
■ 上海大厦にもどった。
 走羽のところの髪の短い若い男がアウディでむかえにきたのだ。
 彼がつくまで一時間程かかった。
 雨は一度あがったかにみえたが、今度は薄くて広い雲が大陸から流れてきた。上海は久しぶりの本格的な雨になった。
 穴のあいた上着を手にかかえ、私たちはのろいエレベーターに乗った。
 
 私は濡れた古いタオルのようにくたびれていた。
 ドアの前に立つと微かに話し声がする。日本語のようだ。誰かが尋ねてきているようだ。
 走羽は気配を察知し、指を一本たて、廊下を引き返した。
 呼び止めようと思ったが理屈はわかる。
 彼は今来た廊下を歩きながら、左手を耳に当てる仕草をした。電話しろとのことだろう。私はその後ろ姿を暫くみていた。
 部屋に入る。葉子とともに真壁が中にいた。
「どうやって手錠を外したんだ」
「なによ、あれ鍵の要らないオモチャじゃないの」
「そうだよ」
 そうでなければ鍵を捨てる訳がない。私はベットに上着を放り投げた。
 葉子は鼻を上にむけている。相手は後だ。
「ご苦労様でしたね。上海の公安に連絡が入って、何があったのかわかりましたよ」
 真壁が口を挟んだ。こうした夜にネクタイ姿をみるのはイヤだった。
「ああ、そうですか、心配で覗きにきたという訳ですね」
「首尾はどうです」
「金が足りない。相手は思っているよりも強大だ」
「というと」
「北京の党幹部の子息達がここの地上げに参与している。奴は彼等とのパイプを誇示していた」
「なるほど」
「アラブは直接関係はないとおもう。あんたと晃子の資料にあったけれどもね。金が流れているんだろう」
「それは問題ですね」
「それはそっちで処理してくれ。今夜は二人を撃って、すこしのあいだ死んだんだ」
「死亡は計二名だそうです」
 真壁は眼鏡を持ち上げながら言った。彼は黒い鞄の中から分厚い書類ファイルと茶色の紙袋を取り出して机の上に置いた。
「これをどうぞ。では失礼いたしましょう」
 そう言って真壁が帰った。
 ファイルは晃子からのものだった。開封はされていない。茶色の紙袋には、ありふれたスコッチが一本入っていた。
 
 
○「夜の魚 外灘」B-了
 
 

2005年08月07日

「夜の魚 外灘」 vol.92

 
 
 
 
■ みるみる視界が閉ざされた。
 水温計の下にあるタンブラー・スイッチを押し下げ、ワイパーを動かした。
 前がみえない。
 北沢の車は遥か前方に遠ざかっている。
 私はアクセルを戻し、躯の力を抜いた。
 ハザードをつけ惰性で流れる。ゆるゆると路肩にジャガーを寄せた。
 
「ということですね」
「ああ」
 どこがやられたのか、ルーカスの電装はこれだからイヤだ。
 私はびっしょり汗をかいていることに気づいた。
 まだベストを着ているのだ。
 胸のあたりが熱を持って鈍く痛んだ。触ってみると、ケブラーの防弾チョッキはそのあたりがひきつったようになっている。
 上着に穴が開き廻りが焦げている。
 指が入りそうだ。入れてみる。
 
 上着の胸ポケットに何か紙のようなものが入っていることに気づいた。
 取り出すと、絵葉書のかたちをした毛沢東のブロマイドだった。
 赤い看板をバックに、斜めに手をかざしている。
 太った彼の首のあたりに、ぽっかりと穴があいていた。
 エンジンが止まった。
 私は走羽の顔をみた。彼は仕方ないといった表情で携帯電話を取り出している。
 
「紅太陽は、半神・半人の守り神なのです」
 彼は毛沢東のブロマイドを眺めながらそう言う。
 私は車の外にでた。稲妻の下、激しい雨は通り過ぎ、空気に湿り気が戻っている。Eタイプの屋根に水滴が残っていた。時折、車が通り過ぎる。
 上着を脱いでシートに放り投げた。防弾チョッキを脱いで尻にしき、私は路肩のコンクリにもたれかかった。
「今、車がきますから」
 走羽が煙草をすすめた。
 わたしはしゃがみ、彼は立ったまま、上海市街をぐるりと廻っている高速道路の上でぼんやり煙草を吸った。
 黒い雨雲が南に流れてゆく。海に出るのだろうか。
 
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.91

 
 
 
 
■ フェラーリの尾灯が左に逸れた。
 ジャンクションに入ってゆく。
 高速に入ろうというのだ。
 私はEタイプの細いウッド・ステアリングを時折戻しながら、コンクリで囲まれた周回路を加速した。
 アンダーがでる。外側に膨らむ。Eタイプの旧式なシャーシはずるずると尻を流した。
 黒い高速の上にでた。車の数は少ない。
 北沢のフェラーリは私を待っているかのようだった。
 助手席に誰か座っている。女かも知れない。
 
 百十マイル付近で尻が近づいた。
 右手にぼんやりと街の光がみえた。
 黒い空の中程で稲妻が光った。間隔は短く、そして近い。
 456GTは五・五リッター、ティーポF116エンジンを積んでいる。四四○馬力、二九○キロ程度は出るだろう。
 グラマラスだが節制している女をすぐ後ろから眺めたような形状のテールの下には、可変式のスポイラーがついている。速度とともにその角度を変える。
 次第に速度が上がった。
 百三十マイル、二百キロを超え隣に並ぼうとした。
 窓を開け、走羽がイングラムを突き出す。
 信じられない加速でフェラーリは遠ざかった。音楽のような排気音が聞こえる。
 アクセルを床まで踏み、追おうとした。
「エアコンのスィッチを切ってください」
 走羽が指摘する。その通りだ。
 時折、大型のセダンを抜いた。止まっていると言うよりも逆行しているように思えた。
 
 ジャガーの十二気筒はその持てる馬力を全て使っている。
 SUキャブからは濃いめのガスが直接流れ込み、わずかに鼻先をリフトさせながら、ゆるやかに右に傾く灰色の高速を二五○まで出している。
 スミスのメーターは振り切る手前、一六○マイルをすこし越えたところで揺れ、タコ・メーターはレッド・ゾーンの中で震えている。
 マニュアルだったらもうすこし出るのだろう。
 何分程追っただろうか。
 水温計の針がじりじりと上がる。
 フェラーリとの距離は縮まらない。
 
 バン、という音がした。
 その後、ガラガラと続き、エンジンの力が抜けてゆく。
「どうしたんです」
「ベルトが切れた」
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.90

 
 
 
 
■ 公安のパサートがサイレンを鳴らし二台向かってきた。
 一台が交差点に斜めになった。抜けられない。
 が、公安の車はそのままバックする。
「これもWJ」
 走羽が言う。
 なんのことかわからない。脇をすり抜け、T字路に突っ込んだ。
 速度が出過ぎている。私は大きくハンドルを切った。
 ジャガーのダンロップは限界までたわみ、路面を掴みきれず尻から流れた。
 オートマのセレクターを指先で押す。
 ニュートラルにして駆動を切る。
 サイドブレーキで後輪をロックさせた。カウンターをあてる。
 指先でドライブに入れ、鈍いショックの後、浮かせていたアクセルを踏んだ。
 
 古い十二気筒は雄の黒豹が唸るように低い姿勢から速度を上げてゆく。
 僅かにアクセルを戻す度、SUの四連がぼこぼこ不平を言った。
 
 バンドだ。
 旧租界地帯の建物が並んでいる。
 ライト・アップされ、街灯がいらないくらいだ。
 中国通商銀行、日清汽船、アクベインと呼ばれていたビルが一瞬に流れてゆく。
 私は北沢のフェラーリを追って南下した。
「456GT、プラス2」
 走羽が呟く。
 通りが広くなった。
 速度計は九十マイル近くを指している。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.89

 
       三四 半神
 
 
 
 
■ 上海の夜は遅い。通りは比較的混んでいた。
 Eタイプのライトをハイビームにし、北沢の車を追った。
 一体になった丸い四つのテールランプが目印だ。
 みえた。
 黄浦江の方角に向かっている。
 ちらちらと東方明珠が視界に入る。
 背の低いガンメタリックの車は、センターを時々オーバーしながら通りを擦り抜けようとしていた。
 ネオンが後ろに流れる。クラクションが聞こえる。先はT字路だ。
 右折した。
 グラマラスで端正な腹がみえた。
 フェラーリだ。
 脇腹に大きくダクトが抉られ、鼻先が長い。
 走羽はEタイプの助手席に背中を沈めている。
 イングラムとベレッタのマガジンを点検し、音を立てて押し込んだ。膝の上に置く。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.88

 
 
 
 
■ 走羽が腰を屈めベレッタを発射した。
 私も背中から抜き出し右手に握る。安全装置を外した。
 走羽がもういちど連射する。
 肉に銃弾が埋め込まれる鈍い音がした。
 ひとりが倒れる。
 階段は裏手の路地に繋がっている。あと一階だけだ。
 路地の方角から新たに三人の男が走ってくる。
 大型の爆竹に似た音がして三人の男が銃を発射した。
 トカレフのようだ。
 私たちは挟まれた格好になった。
 
「右」
 走羽が私に指示する。
 私は右手に走る男を撃った。
 男がうつぶせに倒れるのがみえた。
 小さめのドラムを忙しく叩くような音がした。
 白い光が視界に入る。
 階段の上にいた男が崩れ落ちる。悲鳴ではなく、動物が潰れるときのような声を出した。
 イングラムだ。走羽は上着の下に小さな機関銃を隠していたのだ。
 非常階段の出口には柵がしてあった。飛び降りるしかない。
 走羽が顎でうなづく。イングラムを路地に向けて発射し、威嚇した。
 私は膝をついて路地に転がった。走羽が続いて飛び降りる。
 ジャガーのある方角へ走る。
 夜の四馬路は人波が分かれ、悲鳴がいくつかあがっている。
 上海夜星の前から一台の車がバックするのがみえた。
 通行人がはじき飛ばされ、短くふわりと浮いた。
 北沢だ。
 私はEタイプのドアを開けようとする。
 鍵をかけていることに気づき、舌打ちをした。
 
 その時、視界の端に黒い服の男がみえた。
 白い光が広がり、私は心臓の上を強く殴られたような気がした。
 撃たれたのだ。
 よく息ができない。大きく口をあけている。尻餅をついた。
 走羽が左手を伸ばし、イングラムを連射している。私を撃った男は歩道に崩れた。
 イングラムのマガジンを取り替え、走羽は私の手を引いて起こした。
 車に乗り込んだ。
 ハンドルをつかみ、短く息をした。
 アクセルを床まで踏み、四馬路に飛び出した。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.87

 
       三三 銃撃
 
 
 
 
■ 音楽が変わった。
 フロアに何人かのダンサーが飛び出てきた。
 テンポの早いシンセ・ベースのボリュームが上がった。
 気がつくと北沢の背後には男がふたり立っていた。
 黒っぽい背広を着て、片手を上着の中に突っ込んでいる。護衛がいたのだ。
 北沢が軽く手を挙げる。男達が一歩後ろに下がる。
 
「まあ、そういう訳で、躯に気を付けてください。日本に帰られて安売りのチラシでも作っていれば長生きもできます」
 薄い唇で北沢は笑った。
 照明の加減で額に白い傷跡があるのがわかった。眉毛のすぐ上だ。昨年の冬、横浜港でのバトルの際、奴は額から血を流していた。
 私は椅子から立ち上がった。背中をむけ、帰ろうとした。幾つかのミラー・ボールが天井で廻っている。ホールの中で客も踊りだした。
 
「残ってるな」
 私はふりむいて、人差し指で自分の眉の上を指さした。
 北沢の顔をみる。
 どんな表情をしているか確かめようとせず、私は出口の方に急いだ。
 走羽が脇に寄る。
「こっちです」
 走羽は中国服の女をつきとばし、エレベーターの奧にある通路に入った。
 ドアを開ける。音楽が遠くなる。
「奴等は追ってきます」
 非常階段がある。
 灰色の鉄の階段を私たちは駆け下りた。
 男が飛び出てくる。先ほどの奴等だ。
 短い音がして、手摺に火花が散った。
 撃ってきている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3236

 
       チャイナ服について。
 
 
 
 
■ この辺りにくると、ほぼ日活映画である。
 ないしは、チョウ・ユンファ主演の、明白B級ハードボイルドの世界でもある。
 95年当時、私はこの作品を楽しみながら書いていた。
 今再掲するために久しぶりに読み返しながら、ま、それもいいんでないスか、と呆れながら案外である。
 本来であれば、この1/3も削ってゆくのが密度としては筋なのだが、ぎりぎり削ることは「夜の魚」一部でやっているので、このままにしておく。
 
 
 
■ 谷口ジロー&関川夏央。
 名コンビのデビュー作は「リンド 3!」という劇画であった。
 谷口さんって絵が下手だったんだなあ、と思いながら壊れかけたソファの上で読み返していた。
 その作品は、70年代後半のユキバのない大卒自由業者の魂の彷徨が荒々しく出ていて、ほほえましくも面白い。
 関川さんも案外にガンマニアで、まあ、単車の本なんかを出していたんだからその筋では正常進化なのだが。ユーモアの味が滲み出てくるのは、誰にとっても暫く経ってである。
 ちなみに「夜の魚 外灘」 vol.86 の中にあるボサノバの歌詞は、私が酔っ払いながら適当に作った。あの頃はスコッチがまだ高く、ノエリィとジンだったと思う。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.86

 
 
 
 
■「それで」
 私はグラスに口をつけた。十五年もののスコッチの筈だが味に濁りがある。つまりはそういうことなのだ。
「ご存じのように、この上海という都市は中国の龍の眼と言われています。香港や東京なんか問題にならない」
 北沢が話し始めた。
「わたしもこの街にいくつかの会社を持っている。香港やロシアにもね。アラブの友人もいます」
「だから何だ」
「葉子のお父様には気の毒なことをした。わたしが葉子に連絡を取ることを随分嫌うものでね。お粗末な話なのだけれども、写真をとった男がネガを逆さに焼いたみたいなんですよ」
 爆弾の装着を誤ったと言いたいのだろうか。それより、葉子の父は北沢の存在を知っていることになる。
 
「上海、龍の眼の街で、覚醒剤を大量につくろうっていうのか」
 北沢は煙草を取り出した。香港の女優が躯を斜めにし、細いライターで火をつける。太股がのぞけた。
「中国はもともと、アヘンの国ですよ」
 確かに北沢の言うとおりだった。
 アヘン戦争に始まり、中国の近代史にはどのようなかたちであれ、アヘンの栽培と密売が密接に関わっていた。旧日本軍も特務機関を通じてアヘンによる膨大な利益を得ている。これは旧財閥系商社も加わった国家的な計画であった。一時の蒋介石や中国共産党も、青幇らを利用し自らの権力と資金を確固たるものにしようと試みた。青幇は上海のアヘン世界を牛耳っていた。
 
 中国とアヘン、とりわけ上海とアヘンとは、歴史の裏面において決して無視することのできない大きな流れを作っている。
 私は片肺をつぶされた奥山のことを思った。
 横浜黄金町の古いビルの一室で、奥山は蒼白な顔色で私を見上げた。
 粗悪な覚醒剤を大量に打たれ、時々心臓がとまるような状態で放置された冴という女のことを思った。冴はこの街の夜の女だった。
 彼女の膀胱には半透明のビニールの管が差し込まれ、意識のないまま今も病室に眠っている。性器の上にはKという文字がナイフで抉られている。
 私はグラスをみつめた。
 フロアからボサノバが流れている。
 
   あなたは月のようにわたしを照らすわ
   わたしは水の底からあなたをさがすの
 
 恋の歌のようだ。旨い英語とは言えない。低い拍手が鳴り、フロアは暗くなった。
 私はグラスをテーブルに置いた。
 大きな音がした。テーブルが濡れる。
 
「正当化しても無駄だ。おまえはこの酒のようにまがいもんだよ」
 私は北沢の顔をまっすぐにみた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.85

 
 
 
 
■「お久しぶりですね。どうぞこちらへ」
 低い、ゆっくりした声が聞こえた。
 聞き覚えがある。それは薄い唇からでてくる。
 北沢だ。
「太ったんじゃないのか」
「いや、そういうあなたこそ。互いに髪と躯には気をつけましょう」
 私は革張りの椅子に腰掛けた。柔らかく、躯が埋まった。背中のベレッタが尻にあたる。走羽はすこし離れた丸いスツールに浅く腰をかけている。
 北沢は太ってなどいなかった。
 黒っぽい背広を着ている。英国製の生地なのだろう、こうした人工灯の下で、それは僅かに赤にも蒼にもみえる。沈んだ深い色をしている。
 北沢の隣に座っている女が酒をつくった。長いスカートが膝のあたりまで割れている。中は滑らかなようだ。
 水で割るのかと尋ねられたので、氷だけを入れて貰うことにした。
 グラスを受け取る時、強烈な香水の匂いがした。けれども、それは決して不快な種類のものではなかった。
 
「彼女は香港の女優です。日本の映画にも出ている筈だが」
 北沢が言う。多分そうなのだろう。
 両脇には三十代から四十代半ばまでの中国人の男が座っていた。
 彼等は一様に太り、銀色の眼鏡をかけている。光沢のある明るい色の上着を着ていた。頬の肉で眼が細く押し上げられている。
「こちらは北京中央幹部のご子息達です。ここで用地買収などの事業をなさっている。わたしも大変お世話になっていましてね」
 北沢は自分のグラスを持ち上げ、彼等の前にかざした。
 
 浦東地区を中心としてこの数年、多くのディベロッパーが上海に集まっていた。上海における最近の貸しビルの賃料は、交通や通信、電力などインフランクションの不備にもかかわらず、東京並かそれ以上だと言われている。
 それに関わり、中国共産党の幹部の子息達が独自の事業を興し、莫大な利潤を得ているということは公然の事実だった。
 銀色の眼鏡をかけた男達は北沢にうなづいた。優雅な様子にみせようというのだろうか、私には西遊記の侍従のようにも思えた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.84

 
       三二 スマロ
 
 
 
 
■〈上海夜星〉は四馬路(スマロ)に面した新しいビルの四階にあった。
 四馬路は、現在では福州路と呼ばれている。南京路とともに、夜の上海で最もにぎやかな繁華街のひとつである。
 私はEタイプをゆるゆると転がした。
「あの辺ですね」
 走羽が指さす。歩道にはメルセデスやBMW、時には日本製の大型車が斜めに駐車している。なんだか治外法権のようだ。中に一台、ガンメタリックの背の低い車があった。テールランプが丸く、四つ並んでいる。
 
「党幹部の車ですね、このジャガーにもWJとありますが」
 並んだ車のナンバーを眺めていた走羽が言った。
 私はEタイプを表通りからすこし離れたパサートの後ろに駐めた。
 走羽がEタイプの後ろのハッチを開く。ジャガーの場合には横に開くようになっている。走羽は自分のアウディから移したナイロンザックを開いている。
 私は上着を着て先に歩いた。ドアの前にゆくと、ここが中国かと思えるようなネオンが光っている。日本のベイエリアにあった大型の店よりも派手だ。
 黒い蝶ネクタイをしたボーイがエレベーターの前にいた。走羽は何事かを話し、その脇に並んでいる男女よりも先にエレベーターに乗り込んだ。私も続く。
 四階に上がると、中国服を着た女が近寄る。その背後には男が二人立っている。
 思ったよりも落ち着いた造りの店だった。若いものばかりではない。
 北沢に取り次ぐよう女に言うと、入り口のところで暫く待たされた。
 
 煙草に火をつける。こちらにきてから私は仕方なくアメリカ煙草を吸っていた。藁を燃やしているような中国製よりはマシだ。
 背後にいた男がこちらをみている。灰皿がないのだ。
「VIPルームにどうぞ」
 太股のスリットがほとんど腰まで割れた中国服の女が笑って案内した。VIPルームと聞いて、背後にいた男は顔をそらせた。上海ではこの言葉がその通りに使われているのだろう。
 フロアのようなものがあって、長いドレスを着た女が歌っている。そこだけスポットを浴び、浮かび上がってみえる。
 ボサノバのリズムだ。
 ディスコとは言え、ここは高級なクラブになっているようだ。階段を昇り、フロアが見下ろせる一角にボックスがある。
「こちらです」
 案内されたところに何人かの男と女が座っていた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.83

 
 
 
 
■ 着替えて浴室から出ると、走羽と葉子が銃のサイトを外していた。
 脇には黒いナイロンベルトがあり、ベレッタ用十五連発のマガジンが何本か入っていた。
「これを着てください」
 いつ用意したのか、走羽が薄くて黒いチョッキを私に差し出す。
「ケブラー製の防弾チョッキです。ショットガンと九ミリまでは大丈夫」
 手に持つと案外に軽い。黒いポロシャツの上に羽織ってジッパーを上げてみる。
「麻のベストにはみえないわね」
 葉子が傍によってポロシャツの襟を出してくれた。
 ケブラーというのはガラス繊維だという。刃物には弱い。それを防ぐには薄い鉄板を縫い込むことになるが、僅かに重くなる。生地は防水になっているが、水を含むと防弾力が極端に低下する。
 走羽の渡したものは鉄板を含んだものではなかった。
 暑いが死ぬよりはマシだと考えた。昨年、横浜港で北沢に撃たれたことを覚えている。熱さの後で鈍い痛みが長く続く。
 
 煙草を何本か吸い、ゆこうかと立ち上がった。
 葉子を呼び、背中にゴミがついていると教えた。
「なあに」
 と後ろを向いたとき、手首に手錠をかけた。
「なにするのよっ」
 もう片方にも手錠をはめ、椅子の背もたれに紐で縛った。ベレッタの入った葉子のバックからEタイプの鍵を取り出した。バック自体は離れた棚の上に置いた。
 手錠の鍵はすこし開いている窓から捨てた。
「ばかっ、はずせないじゃないのっ」
 ばたついている脚の奧から下着がみえている。
 騒いでいる葉子を後に私は部屋を出た。
 エレベーターを待つ間、走羽が尋ねる。
「どこで手錠買ったんですか」
「豫園のとなりの自由市場」
 走羽が笑い、私たちはのろいエレベーターに乗った。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.82

 
       三一 待っている
 
 
 
 
■ 夕刻、上海大厦に戻った。
 葉子が部屋に待っていた。浦東の高層ビルにひとりでいるのが耐えられないのだと言った。走羽は腕を交差させ、中国式の挨拶を葉子にしていた。私は始めてみる。
 フロントに電話をすると、案の定メールが届いていた。ボーイに持ってきて貰い指先で開けると、昨日と同じ便箋である。北沢からのものだ。
〈上海夜星〉という、先頃できたばかりのディスコで待っているという。今日は英語で書かれている。
 
「つまりはそういうことだ」
 私は走羽と葉子の顔を見渡した。
「ゆくんですか」
 走羽が尋ねた。
「ああ、顔見せってことさ」
「襲ってきますよ」
 そんなことはわかっている。だから銃を買ったんだ。
「わたしもゆくわ」
 葉子が口を挟んだ。短いスカートにTシャツ、手にはベレッタを持っている。眼がつり上がっているように思えた。
「まあいいや、時間はまだある」
 私は上着を脱いでシャワーを浴びることにした。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.81

 
 
 
 
■「子どもができたらここにくるべきですね」
 走羽が言った。彼に家族があるようにも思えなかった。
「みんな楽しそうだな」
「中国では家族を大事にします。ここにいるのは皆〈小皇帝〉です」
「独生子女政策」、一人っ子政策のことだ。中国では爆発的な人口増加を抑制するため、子どもを一人に抑制するいう政策が取られるようになった。
 子どもが一人の場合には国からの補助が受けられるが、二人目になると夫婦の年収に相当する罰金が課せられる。三人目になると三倍の罰金である。いつだったか、広告の助手をしている若い男に聞いたことがある。彼は二人目ができたというので悩んでいた。
 中国は広大な国であって、地方には強い男尊女卑の風習が残っているところもあるという。そのようなところで子どもを一人に限定することは結果として女嬰殺しを招く。未就学児童も多い。
 
「人海戦術の国なんだがなあ」
「古い言葉ですね。それは朝鮮戦争までですよ」
 走羽は厚いガラスのコップに入った褐色のお茶をゆっくりと飲んだ。
 私の背中にはベレッタが挟まれている。胸には一本マガジンがあって、反対側のポケットには毛沢東のブロマイドが入ったままだ。
 走羽もベレッタを背中のベルトに挟んでいる筈だ。
 甲高い笑い声の響く明るい店の中で、そんなことに気付くと奇妙な気分になった。
「あの夢梁さんてのは恋人なのか」
「いや、うちのシマの娘です」
 走ってきた男の子が走羽の脚にぶつかりお茶をこぼした。母親と思われる女が近寄ってきて子どもを抱き寄せる。走羽に謝ることはなかった。
 私は彼の表情をみていたが、細い眼が一瞬硬くなったように思えた。
「今の上海の関心は、金と小皇帝、あとはペットです」
 ハンカチを取り出し、走羽はズボンを拭いている。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.80

 
 
 
 
■ 金は走羽が払った。
「日本人だと料金が高くなります」
 外に出ると、いつ呼んだのか、髪の短い男が車を廻していた。
「下町にいってみましょう」
 走羽はそういってアウディの後部座席に入り込む。私も続いた。
 外灘に沿った道を下り、中山東二路に入る。渋滞はあるがそれでも流れている。
 
 街の風景が次第に低くなった。右手に折れ、文化電影院と書かれた看板の前に車が停まった。映画館のようだ。古い日活映画でもやっていないかと思ったが違っていた。看板にある女優は、こわい顔でこちらを睨んでいる。美人だ。
 通りは師走の買い出しのように混雑している。
「この先に自由市場があります」
 走羽はそういって人波を肩で泳いでゆく。チケットを求め、豫園と呼ばれる中国式庭園の中に入ってゆく。
 四隅がピンと跳ね上がった屋根の建築がいくつもある。鈍い赤色と金、緑が組み合わされた、いわゆる中国式の楼や堂が庭の中に点在している。しだれ柳が綺麗だった。
 九回直角に曲がっているというコンクリート製の橋が水の上にかかっている。沢山の人たちがその上を歩いている。小さな子どもの姿が目立つ。着飾って髪の両方に花飾りをつけた少女がいた。男の子が走って転んだ。
 私と走羽は橋を歩いた。
 中ほどに湖心亭という建物がある。中に入り窓の傍に座った。飲茶や食事ができるようになっている。休日ではないが、大勢のひとたちが笑ったり食べたりしていた。
 
 
 

2005年08月06日

「夜の魚 外灘」 vol.79

 
 
 
 
■「まともな稼ぎでは買えない仕組みになっています」
 それはそうだ。
「彼女たちを口説くには携帯電話をみせればいいんです。あとは直接的な話題を避け、無難な自然の話をするのがいちばんです」
 走羽は興味なさそうに説明をする。電話と自然という関係がよくわからなかった。
 
「上海娘というのは見栄っ張りです。お金に弱い。けれども、自分は野鶏ではないというプライドもある。性的な匂いのする誘いには過敏に反応する。動物や花などの話題が一番良いのです。さらに、この開放経済の中で成功した個人経営者なのだという雰囲気と、さりげない嫉妬心を利用すれば容易に落ちるのです」
 走羽の説明は本を読んでいるかのようだった。言われてみればそうなのかも知れない。南京路にはサングラスをかけた男や女の姿が目立った。
「こうした商品が並ぶようになったのはここ数年のことです。それまでは人ばかりで、買いたくなるようなシロモノはひとつもなかった」
 多分その通りなのだろう。
 
「食事をしましょう」
 走羽が通りの終点、道に跨るように建っている灰色のビルの中に入った。
 和平飯店、上海の発音では〈ウビンウエテイ〉である。
 旧日本軍が駐留していたこのビルは現在ホテルになっている。上海におけるアール・デコ建築の代表だと言われていた。通称サッスーン・ハウスの名の通り、一九二九年ユダヤ系イギリス商人であるヴィクター・サッスーンによって建てられた。「サッスーンなしで、上海を理解することはできない」と中国の有名な歴史学者は書いている。
「上海市役所、昔は香港上海銀行と呼ばれていましたが、キャセイ・ホテル、メトロポール・ホテルなど、この一帯にあるネオ・クラシックな建築物の多くはサッスーンによって建てられたものです。アヘン王のね」
 走羽は磨かれた真鍮のドア飾りを指でさすりながら説明した。サッスーンはもともとアヘンの密輸で膨大な財をなした。
 
 走羽はエレベーターの前にゆき、ボーイに指示している。
 龍鳳庁(ロンフォンテン)と書かれた店の中に入る。ペパーミントグリーンのクロスと壁の白色が独特の雰囲気だった。天井には金色の鳳凰の浮き彫りがあり、油で曇ってはいなかった。
 四川料理のいくつかを注文した。名前はわからない。蟹は季節が違うということで頼めなかった。
 走羽は赤いトウガラシが浮いた重慶火鍋(ジュンチンフォグォ)を平気な顔で食べている。私は汗をかきながら、中に浮いた魚の身を箸でつまんだ。
 煙草を吸いながら、走羽は黒ビールをゆっくり飲んでいた。
 店の中から黄浦江がみえた。浦東の高層ビルも銀色に光っている。今は帆を上げたジャンクをみることはできないが、大小の船が鈍く光る川面をゆっくりと往来している。
「こういうのを右傾的平和というんでしょうか」
「どうかな」
 
 龍の名のつく店で外灘の風景を見下ろしていると、私は不思議な不安に襲われた。それは、ここにいるのが馴染まないといった気分である。今まで馴染んだと思ったことがないのにも気付いている。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.78

 
       三〇 九曲橋
 
 
 
 
■ 昼前に走羽から連絡があった。
 一時間でむかえにくるという。
 私はのろのろと起きあがり薄いコーヒーを飲んだ。
 葉子にベレッタを渡す。別に驚くでもなく葉子は銃を四つに分解している。マガジンを入れると五つだ。確認すると手際よく組み立てた。
 私は黒いナイロンベルトをひとつ渡した。マガジンが何本か入っている。
「でも、どこにゆくの」
 葉子は尋ねる。
 私は曖昧にごまかした。暫くここで待つように言う。
 携帯電話が鳴り、エントランスへ降りてゆくと門柱の影に走羽が待っている。
 バンではなく、アウディの五気筒に乗り込んだ。上海にはドイツ車が多い。彼等は現地工場を持っている。
 運転席にいるのは二十代後半の男である。髪を短く刈り上げている。
 私たちは延安東路トンネルを下り、南京路に入った。路肩に停まる。
 
「観光をしましょう」
 走羽が持ちかける。私は彼の後に続くことにした。
 車を降り、南京東路を歩く。平日の午後だというのに、驚くばかりの人波である。走羽を見失い、首を振っていると彼が背後から肩を叩くということが二度あった。
 ショーウィンドーの中には輸入物のブランド品が並び、それを扱う店員もまた細く垢抜けている。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.77

 
 
 
 
■ 私は走羽が置いていったナイロンザックを肩にかけ、事務所を出た。
 ステンレスのエレベーターにひとりで乗っていると不安になる。
 最上階まで昇り、葉子がいる部屋への階段を降りた。
 ふたつあるベットの一方で、葉子は横になっていた。
 赤い中国服を着て尻を出している。
 待ちくたびれて眠ったのだろうか、そうではなく、気配を察して葉子は起きあがる。細いサンダルの紐がほどけている。素足のようだ。
 小さなドアを開け、暫くすると葉子はコーヒーのカップをもってきた。
「すこし窓をあけてくれよ」
 葉子に頼み、四角い部屋をくるんでいるシャッターのようなものを操作して貰った。ここは先の細くなった高層ビルの天辺にくっついたガラス貼りの温室のようなものだ。いや、水槽なのかも知れない。
 
 半分ほど開いた全面の窓から対岸の旧租界地帯がみえた。
 手前には黒い黄浦江がある。人口一千二百万、正確にはそれ以上の、世界でも有数の国際都市の夜の姿だ。八十年代まではほとんど眠ったように沈黙を続け、大中国の表舞台からは完全に外されていた。
 眠龍、眠れる上海というのは毛沢東がしかけた〈罠〉であるとの意見をどこかできいたことがある。
 勿論非公式だが、と断りを入れた後で
「煽っておいて利用するというのは、常套手段だったのですよ」
と彼は私に説明した。
「上海方式ってのがありましてね、改革や議論を推奨した訳です」
「あとで切られましたね、提言した者の多くは」
 あれは市当局が主催する物産展のポスターについて打ち合わせをしている時だった。その男は市の職員だったのかも知れない。
 
 走羽は元紅衛兵だった。
 彼も煽られてそれを信じ、一夜開けると全てを失った男のひとりだ。
 無表情な細い眼の背後には、みてはいけないものを見続けてきた者だけが持つ無感動を装った意志のようなものがある。
 私はぼんやりと煙草を吸っていた。
 まだ残る街の照明の反射で、夜の雲が鈍く光っている。月が隠れたりみえたりして、空の上には風が吹いているのだろう。
「ねえ」
 葉子が傍によった。
 私は葉子の脚に触った。手を伸ばすと下着をつけていなかった。
 照明を消した。部屋は空に浮かんだ水槽のようだ。
 背中に挟んだベレッタを右手に持ち、後ろから葉子の中にはいった。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.76

 
       二九 斑雲
 
 
 
 
■ 私は走羽に真壁からの小切手を渡した。
 足りないのではないかと尋ねると、正直いってそうだと言う。
 これでは人間が雇えない、死んだり傷ついた場合に面倒をみる必要があるのだと説明した。
 走羽は自らの組織のようなものを持っている。
 上海は基本的に移民社会であった。頼る者のない移民、上海に流れ込んできた住民は、出身地域・省を中心に結束し、自らの権利を守ろうとした。
 そうした集団は都市化が進むとともに相互扶助組織を形成する。それは次第に〈親分ー子分〉の関係を基礎としたヤクザ組織に変質してゆく。「青幇」の形成である。
 中国近代にはもともと秘密結社の伝統があった。
 清王朝は、満州族が漢民族を支配する形で形成された征服王朝だと言われている。漢民族の中には根深い反満感情が残った。それが秘密結社形成の土壌となった。
 当時、中国本土には三つの結社があったとされ、東南型の結社の原型が青幇だった。一九三○年代に上海の青幇は全盛期をむかえる。大世界はその象徴でもあった。
 
「八十年代後半、上海には食い詰めたリューモンが流れ込みました。その頃の上海は今のような活気はなく、閉塞的な空気が漂っていました」
 走羽が低い声で説明を始めた。
「開放政策からこの処急速に人口が増えつつあります。資本主義化の影響から、街の裏にもわたしのような者が必要になってきているのです」
 説明するところの意味がよくわからなかった。
 私は残金について、もうすこし待ってくれと頼んだ。
「まあ、いいでしょう」
 私は北沢からの封筒を走羽にみせた。呼び出しがあったのだと説明した。
「なるほど、監視されている訳です。明日あたりまた連絡があるでしょう」
 明日の午後迎えにくると言って走羽は部屋を出ていった。
 私には彼の黒い上下が麻の中国服のようにみえた。
 足音がしない。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.75

 
 
 
 
■ 幾つもの武器を走羽は机の上に並べた。
「イングラムM11。これは室内で使ってください。別に当たらなくてもいい。引き金を引くのは二秒までにすること」
 銃身が数センチしかない機関銃である。ベレッタよりもほんの僅かに大きい。みているとブリキのオモチャのようでもある。弾薬を詰める時に使うマガジンローダー、銀色のサプレッサーも別にあった。
 サプレッサーは消音器であり、イングラムの先端に廻し込むことによって弾速を低下させ、銃口、マズルの反動を抑える効果があるという。
「毎分千発プラス。畳めば上着の下にも隠せます。消音器は反動が酷すぎる時に使います。ベレッタは背中のベルトに挟んでください」
 私は言われるままに拳銃をベルトに挟んでみた。ゴリという音がして骨に当たる。ベルトをすこし緩めるべきか考えた。
「どうしてアメリカ製の武器ばかりなんだ」
 走羽は腰にまくような黒いナイロンの弾倉入れを取り出しながら答える。
 
「こうした場合、問題は質です」
 その理由はわかる。けれども、どこから入手したのだろう。台湾や香港にルートがあるのだろうか。
「あとはM203Mグレネードランチャーとクレイモア対人地雷をバンの中に置いてあります」
 私は些か呆れた。ほとんど海兵隊の武器だ。
 
「戦争でもするのか」
「ええ、局地戦にはなりますよ」
 走羽は無表情だった。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.74

 
 
 
 
■「二分前だぜ」
「ええ。英国では招かれた時間の二分前にドアをノックすべきだとものの本には書いてあります」
 走羽は細い眼でにこりともせず言った。
 私はこの男となら一緒にやれるだろうと思った。
 部屋に入ると、走羽は灰色の不燃性絨毯にザックを落とした。音を立ててジッパーを開ける。中に手を入れ、重さあるものを取り出してゆく。
「まずはM9」
 拳銃だ。走羽は本体を右手に持ち、黒いナイロンのベルトから弾倉を引き抜いて銃に押し込んだ。銃口を私にむけ、それから降ろす。
「使い方は知っていますね」
「眼をつぶって引き金をひくんだろ」
「そうとも言えますが、それは精神論です。撃ち方は後で教えます」
 ゴトリと音をさせ、ネットワークのハブが繋がる大きな机の上に走羽は拳銃を置いた。私は手を伸ばす。記憶にある中国製トカレフ、通称ブラック・スターよりもほんの僅かに軽い。
「ベレッタM92SBーF。M9オートマチック・ピストルです」
 走羽も椅子に座り、黒い上着から煙草を取り出して火をつけた。
「中国製じゃないんだな」
「ええ、あれは安心して使えない。これは米軍制式採用になっています。十五発、ダブル・アクションで引き金を引くだけですぐに撃てます」
「ふうん」
 映画でみたことのあるような拳銃だ。上の部分に切り抜きがあって、赤い色がみえている。弾があることを示すのだろう。
「M9は二丁あります。弾薬は九ミリ。あなたと葉子さんが使って下さい」
 走羽は葉子のことを知っていた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.73

 
       二八 ベレッタ
 
 
 
 
■ 葉子の運転で浦東に戻った。
 北沢からの封筒については話さなかった。
 耳鳴りのしない新型のエレベーターの中で、葉子の中国服のスリットを触る。柔らかい絹だ。
 葉子は鼻を上にむける。
 父親が入院してから、葉子は箱のような部屋に眠っていたという。最上階にあるペント・ハウスから螺旋の階段を降りたところにある。囲まれているような気がして安心するのだと葉子は言う。
 後でゆくと言って、私は三十二階に降りた。
 ところどころに非常灯のついた廊下を歩く。事務所のドアを開けた。鍵と暗唱番号の二重構造になっている。
 空調のスイッチを入れ、ブラインドを締めた。昼間は対岸から透かしてみることの出来ないガラスが貼られている。
 み慣れたパソコンが何台か並んでいる。考えてみれば、日本からサブノートを持ってくる必要はなかったのだ。全体がプラスチッックでできた回転椅子を引き出して座る。
 十時五分前になった。
 ドアの後ろに微かな気配がした。気配は一度離れ、それから戻った。腕時計をみていたのだろう。僅かな間があって、ドアがノックされた。
 黒いナイロンザックを肩に走羽が立っていた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.72

 
 
 
 
■ 葉子と共に一度上海大厦に戻った。
 この街でEタイプに乗ることに違和感はなくなっている。時々電動ファンが二段階に唸り、オーバーヒートの兆候はみられなかった。すこし古いジャガーは、それが対米輸出タイプのものであっても、夏場は乗れないものと相場は決まっているのだ。
 ロビーに真壁が待っていた。日本の週刊誌を持っている。
「上の説得がなかなかでしてね」
 小切手を渡してきた。額面は一千万円、振出人は「横浜埠頭株式会社」とある。
「領収書いるんだろ」
「ええ、機械類一式その他、としてください」
 真壁は連絡先を教えて戻っていった。乗り込むのをみていると、日本領事館の車ではなかった。
 上海大厦の隣は旧ソ連大使館になっている。上海の公安なのだろう、一台のバンが脇の道に貼り付いている。鈍い灰色の重そうな建物にいくつかの灯りがついている。
 
 フロントにゆくと私宛にメッセージが届いていた。封筒に入っている。メッセンジャーの少年が届けてきたのだろう。
 一度部屋に昇った。走羽に連絡を取ることにした。携帯電話の番号にかける。彼はこういう取引は堂々としていた方が怪しまれないという。今晩十時、浦東の高層ビル、私が広告を作っていた事務所に来てもらうことにした。その部屋はまだ使えるようになっている。
 時計を眺めるとまだ時間はある。先ほどフロントで渡された封筒を指先で開けてみた。
 
 レターヘッドのついた便箋に鮮明なレーザープリンターの印字で日本語が一行ある。レターヘッドは細かな花柄だった。
「近々、会いましょう。北沢」
 と書かれていた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.71

 
       二七 イピル
 
 
 
 
■ 何時間眠ったのか、葉子が私を揺り起こした。頭を振ってもそう痛みはなかった。まだ生きている。
 葉子が薄い手帳のような携帯電話を私によこした。
 出てみると走羽である。番号は簡単に調べられるのだろう。
「簡単な用意ができました。いつでもいいですよ」
 走羽はそういって、自分の番号を教えた。
 二つ折りにして携帯電話をしまう。電話自体はフランスの製品だった。
 真壁に金の用意ができるのか心配である。
 走羽にどれくらい払えば良いのかもわからない。
 時計を眺めると十分な夜だ。身支度をして下に降りることにした。
 葉子の支度を待たず、ビルの二階に入っているドイツ料理の店に入っていることにする。私は真壁が渡した茶封筒を持った。
 ゆでたジャガイモは旨くなかった。ソーセージはまずまずだ。私はコーヒーを二杯飲んだ。
 
 真壁が渡した書類の束には、かなりのことが書いてあった。
 晃子からのメモも入っている。
 晃子の字で「参考まで」と書かれた紙の下に、新聞記事のコピーがあった。
 今年に入ってフィリピンではテロ事件が頻繁に起こるようになっていた。四月のはじめ、ミンダナオ島南イピルの町に、イスラム過激派組織「アブザヤブ」の兵士二百人が襲撃を加えた。人質を惨殺し、民間人を含め五十三人が死亡する。
 〈イピル襲撃事件〉だ。ニューヨーク世界貿易センタービル爆破襲撃事件に関与していたアラブ系外国人の逮捕・投獄に対する報復措置だと言われている。
 フィリピン警察情報局は「フィリピンでのイスラム過激派の活動と国際テロ組織との関連」と題する特別報告をまとめた。
 アフガニスタン戦争に参加した元イスラム義勇兵が、パキスタン経由でロシア製武器の横流しをしているという。軍事訓練も行っているとされている。
 フィリピンという国自体が急速に様々な国際テロ組織の活動拠点になってきていることへの懸念を報告書は提示していた。
 晃子がどんなつもりでこの記事をコピーしたのか、私にはわからなかった。しかし、晃子のことだ。北沢の背後にある組織は、フィリピン新人民軍NPAやレッド・アーミーという、ある種共通の思想で括られるようなものではないことを示唆しているのだろう。
 
 テロリストに思想などというものはない。
 動機はあっても、手段が目的を凌駕し一人歩きをしてゆく。このことは赤色・白色テロを問わず、二十世紀の歴史そのものが教えている。
 どこがどこまで繋がっているのか、皆目見当はつかなかった。みえない闇のようなものがあって、その入り口に立っているのだと思った。
 葉子が降りてきた。髪を上に束ね赤い中国服を着ている。
 これでは葉子の父に会いにゆくわけにはいかないな。
 そう考えながら葉子が料理の注文をするのを私は聞いていた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.70

 
 
 
 
■ これも上海という街だ。ありそうにないことが現実に起きる。
「なんだか頭いたいな」
 私は風呂を借りることにした。
 頭に巻いた包帯がじゃまで旨くゆかなかった。
 どうすべきか考えていると葉子が入ってきた。
 私の頭に器用にテーピングをし、傷の部分が濡れないようにしている。髪の毛が貼り付く。こんなに世話する女だったかなと不思議におもった。
 私の背中を流しながら葉子が言う。
「ねえ、冴さんていうんでしょ」
「う」
「すこし惚れたんでしょ」
 女が優しい時というのはたいていがこんなものだ。
「まあ、いいわ。それでわたしに触る気はあるの」
 そう言って、葉子は浴室を出ていった。
 新しい下着が用意されていた。漠然としていると葉子が笑った。
「いいから、すこし眠りなさいよ」
 私はそれに従い、高層ビルの天辺に突き出ている箱のような部屋で眠ることにした。
 
 途中、ランニング一枚でビルの上から飛ぶ夢を視た。その下はつけてない。背中に羽は生えていず、落ちてゆく間びっしりと汗をかいた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.69

 
 
 
 
■ 葉子には始めから不思議なところがあった。始めて会った頃は、神奈川の丘陵にある四年生の女子大に籍があり、慰安婦に関わるボランティア活動をしていた。お嬢様のお遊びだけれども、その動機には真剣なものもあったのだろう。
 けれども一時は北沢の女のひとりであり、覚醒剤の密輸にかかわっている。追われている時はアップジョン社系の睡眠薬を常用していた。
 運転も拳銃の扱いも旨い。吉川が撃たれた時、私は古いカマロで相手を追った。私は中国の狐のような女に脇腹を裂かれる。その時、その女を冷静に撃ち殺したのも葉子だった。
 分断され、つじつまがあわず、極めて人間的な部分を持ちながら最後までそれが統合されない。そうした人格の形態があるのだと聞いたことがある。本人はそれに苦しみ、自分から逃れようとする。ある意味で誰もが同じことなのだが、それに気付くにはかなりの時間を必要とする。
 
 上海の高層ビルのほとんど天辺で、私はパンツも履かずにウォーターベットに腹這いになっていた。この部屋は恐らく隠し部屋のようになっているのだろう。葉子の父、オーナーだけの特権だ。
「この部屋、窓はないのかな」
「あるわよ」
 葉子がリモコンのようなものを操作した。
 モーターの音がして側面の壁が両側に開かれた。対岸の風景が目の前に広がってゆく。茶褐色の黄浦江が遠くにみえている。光が部屋の中一面に入ってくる。壁かと思っていたのは部屋をくるむ模造大理石のシャッターだったのだ。
「趣味が悪いでしょ」
「ああ、びっくりした」
 スイッチを逆転させ、葉子はシャッターを締めた。
「ね、この部屋は突き出たひとつの箱のようになっているのよ」
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.68

 
       二六 飛ぶ夢
 
 
 
 
■「つかれた」
 私はおもうことを口にした。
「なんだかイヤになった」
 葉子は黙っている。私の顔をみているのがわかる。
 ドアを開け、パーキングの壁に小便をした。午後の日差しをあびて、流れるものはざらついた肌に吸い込まれた。黒くなった部分はみるみる乾いてゆく。
「かえりましょう」
 車に戻ると葉子が低い声で言う。そのとおりだと私は思った。運転を代わる。高速の終点を外に出ると、私は助手席に躯を沈めた。葉子はゆるゆるとアクセルを踏んでいる。
「風呂にいれてくれよ」
「ええ」
 
 葉子は二十四歳になっていた。始めて会ったときはバス停の標識にもたれ、崩れるように私の部屋に眠った。
 私は眠りたいのだとおもう。
 いつでもどこでも眠れる筈なのだが、時折おかしな夢を視る。それは近い未来のことであり、忘れていた若い頃のことでもあった。
 一時間ほど走って、浦東の高層ビルについた。地下二階の駐車場にジャガーを駐め、一番高い階まで昇ると階段を降りた。
 私は汗ばんだ上着を脱ぎ、ズボンを床に落とした。履いていたパンツも緩かったのでついていった。ランニング一枚で、揺れるウォーターベットに潜り込んだ。
 暫くすると葉子が脇に寄ってきた。シャワーを浴びていたらしい。ガウンに着替えている。
「背中でも揉もうか」
「うう」
 葉子が後ろから私の背中の筋を押している。旨いとは言えないが、真剣にやっているのはわかる。
 
 
 

2005年08月05日

「夜の魚 外灘」 vol.67

 
 
 
 
■ 何をするでもなかった。
 ただ歩道を歩いている。大きな通りの向こうには鉄製の橋桁があって、狭い車線を車が忙しくゆききしている。
「まってよ」
 葉子が後ろから追いついた。
「なにを怒っているの」
 説明しても仕方ない。大抵はそうだ。
 私は外灘に面した通りに立ち尽くしていた。遠くで蝉の声がする。
「ここは暑いな」
「そうね」
 とぼとぼとホテルの方角に戻った。部屋に戻りたくない。車できたかと葉子に尋ねると、そうだと答えた。
「鍵をかしてくれ」
 
 私はEタイプのエンジンをかけた。
 混雑をかき分け、高速に乗った。
 上海の街の周辺には急速に高速道路が整備されている。地下鉄も部分的に開通しているという。
 十二気筒のエンジンはトルクの塊だった。旧式のトルク・コンバーターは踏むと僅かなスリップがある。
 タイムラグの後、背中から腹を押されるような加速に移った。
 ストロンバーグのキャブだと思っていたが、そうではなさそうだ。排気ガス規制の複雑な配管を外し、吸気からその出口まで単純な一本の線で結ばれている。その音だ。シリーズⅠと同じSU型のキャブを使っているのだろう。
 低く、くぐもった音が長いボンネットから響く。スミスのメーターは一二○マイル、二〇〇キロを指している。微かに車体が浮いている。ハンドルの感触が薄いものになっている。
 高速にはほとんど車の姿はなかった。途中、日本製の大型セダンとドイツ製の前輪駆動を抜いた。追ってはこない。
 私はEタイプの細身のウッド・ステアリングを触っていた。八時二十分の位置に置くのが正式な作法だという。コーナーは指先で送るのだ。
 葉子は助手席で黙っていた。奥行きの狭いシートに斜めに座り、まっすぐ前をみている。
 黄色と黒の標識が眼の前に迫り、次第に道は細くなった。先は工事中になっている。
 私はアクセルを緩め、車の惰性にまかせた。
 小さなパーキングがあり、その中にジャガーを停めた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.66

 
       二五 低糖タイプ
 
 
 
 
■ 明け方近く、上海大厦に戻った。
 走羽がボックス型のバンで大通りまで送ってくれた。
 雨は上がっていたが、歩道には水たまりが出来ている。
 夏の朝、上海の街は緑と水の匂いがする。
 濁った赤色をしたタクシーがきた。日本製の小型車だった。
 私は部屋に戻り、濡れタオルを後ろ頭に押しあてて眠った。
 どれくらい経っただろう。何度か電話が鳴っている。手を伸ばし、受話器を外していると耐え難い音が響く。
 私は上海にきたことを後悔していた。その気分は葉子が訪ねてきても変わらなかった。後ろ頭にコブができている。昨夜は気付かなかったが、短く口を開け、乾いた血がこびりついている。
 葉子が薬屋に走り、消毒液と包帯を買ってきた。頭に巻くと白い鉢巻のようになった。髪が逆立っている。
 痛み止めを噛んでいると、電話が鳴る。真壁がロビーにきているという。
 暫く待たせることにしてシャワーを浴びた。
 
 若い頃、私は半袖のワイシャツが嫌いだった。眼鏡をかけ、半袖のシャツにネクタイをしている男は濁った矛盾の象徴のように思えた。
 今はそうは思わない。けれども、ロビー脇にある年代物の椅子に座り日本の新聞を読んでいる真壁の姿をみると、そうした偏見のようなものが甦ってくる。
「どうしたんですか、その頭は」
 真壁が言う。
「仕事したんだ、危険手当くれよな」
 真壁は薄く笑った。
「一市民じゃなかったんですか」
「そんなこと言うためにわざわざ来たのか」
「いやいや、ところで何か情報はつかめましたか」
 新聞を畳み、真壁は眼鏡を直す。私は椅子の前に立ったままだった。離れたところに葉子もいる。
「金を用意してくれ、できるだけ早く」
「何をするんですか」
「テロリストを雇うんだよ、武器を買うんだ」
 私は出口の方に歩いてゆこうとした。真壁が椅子から立ち上がり私の横にくる。
「わかりました、上に話してみます。これを読んでください」
 そう言って茶封筒を渡す。
「それから冴さんね、回復していますがかなり弱っている。T市の大学病院に移しました」
 私は真壁の顔をみた。多分怖い表情だっただろう。
 古くなって光沢は失せているが、厚みのある本物の大理石の床を歩き、私はホテルの外にでた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.65

 
 
 
 
■ 私は走羽に尋ねた。
「この街のどこかに覚醒剤の原料、メサンフェタミンをつくっている工場がある。そこを捜したい」
「確かですか」
「わからない。しかし現に襲われている。上海でも日本でも、かかわっている何人もが爆破されたり狙撃されたりしている」
「どうしてあなたがそんなことをしようとするのですか」
 走羽は核心に触れてきた。
 私はいくつもの理由を考えた。どれも本当のようには思えない。自分でも納得している訳ではないのだ。
「正直いうとわからない。ただ、この街で野鶏だった女と会った。彼女は奴らに襲われ、質の悪い覚醒剤を大量に打たれた」
 走羽の眼は細い。まっすぐにこちらをみている。
「名前は」
 走羽が尋ねた。
「日本名で冴、こちらでは葵だったとおもう。北京から逃げてきたと言っている」
 走羽が眼をつむり暫く考えている。両手の指を組みゆっくりと動かしている。
「わかりました。銃は用意しましょう。人間もね」
 そう言うと彼は立ち上がり隣の部屋に入った。小さなグラスを持ってくる。ウィスキーの瓶を出す。
「自由化政策のおかげで、スコッチも飲めるのです」
 私たちは小さなグラスに四角い瓶の酒を垂らし、一杯を嘗めた。
 
「天安門の頃、わたしは広東省にいました。紅衛兵になった時、わたしは十三歳だった」
 ファイン・ベリー・オールドと書かれた酒の瓶を眺めている。
 走羽は元紅衛兵だったのだ。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.64

 
 
 
 
■ ボックス型のバンはかなりの速度で雨の中を走った。
 いくつかの路地を曲がり、坂のようなものを越えては下り、病院の裏口から入って表に抜けたりもした。尾行を確認しているのだ。
 背の低い茶色のビルが密集する一角に入った。上海独特の集合住宅だ。
 狭い道路には錆びた自転車が並んでいる。鎖が二重に巻き付けられ盗難を防いでいる。
 バンはビルの横、瓦礫が残る空き地に駐まった。
 ビルに入り、細い階段を四階まで昇ってゆく。照明器具は設置されているが電球が外されている。手摺を頼りに男の後に従った。
 部屋に入った。
 狭くはないが広くもない。片づいている。
 コンクリに直接ペンキを塗ったようで、壁はところどころ斑になっている。蛍光灯の灯りがまぶしかった。
 
 中背の男は走羽(ゾウバ)と名乗った。
「夢梁からききました。わたしは二階からみていました」
 走羽は濡れたタオルを手渡しながら言った。殴られた後頭部が熱を持っている。
「彼等はこの街の地下組織の者です。新しい流れ。ロシアやマニラなどとも組んでいる」
 走羽は殺した男の財布を取り出した。元、円、ドル、いくつもの上海カード、それらを机の上に置いていった。
 一枚の磁器カードが混ざっている。それは社員証のようなもので、新しい設計のビルには必ず設置されているセキュリティ・カードだった。
「これを分析すれば、どこのビルかはわかる。時間はかかりますが」
 走羽は無表情に言う。背中に手を廻しベルトに挟んだ拳銃を取り出した。ゴトリと机の上に置く。グリップのところが濡れている。男から奪ったトカレフをその横に並べた。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.63

 
       二四 家へ帰らないか
 
 
 
 
■ 確かに殴られたのだろう。
 まだ意識はある。私は唸っているようだ。人が近づくのがわかる。
 肩を掴まれた。二人ほどいたらしい。
 引きずられてゆく。靴が脱げそうになる。
「急(チエッ)」
 という声が聞こえた。彼等は私をどこかに運ぶつもりだ。
 黄浦江に浮かぶことになるのか、あの川は水が濁っている。
 その時、私を引きずる片方の手が離れた。私は湿った床に投げ出される。
 パン、パンと音が続いた。
 ひとりが走ってゆく。
 こんどは重い銃声がきこえた。
 すこし間があり、遠くから簡単な音が一度した。
 それきり聞こえなくなった。
 どれくらい経ったのか、床に倒れている私の耳もとに人の気配がした。
 腕をつかまれ、引き上げられた。
 薄く眼をあけてみる。
 黒っぽい服を着た、中背の男が立っている。
「だいじょうぶですか、つけられていたようですね」
 男は細い眼で無表情に言った。
 廻りを見渡すと、すこし離れたところに男がうつぶせに寝ている。
 床には血が流れている。色はみえないが匂いがする。
 黒っぽい服を着た男は、倒れている男の傍によった。
 足を肩口に差し入れ、裏返しにした。手早く男の躯を確かめている。鍵の束と手に持った銃、それから財布を上着のポケットに入れていた。
 
「一道去哦」
 男は私を促した。一緒にゆこうと言うのだ。ふらつく足で先へ進んだ。
 ホールへ続く通路の壁の下に、もうひとりの男がしゃがんでいるのがみえた。撃たれている。手に銃を持っている。見慣れた中国製トカレフだ。
 外は雨になっていた。
 ぬかるみに足を突っ込んで泥水が入った。
 一台のバンがあり、その中に私は転がり込んだ。
 
 
 

「夜の魚 外灘」 vol.62

 
 
 
 
■ 私は小さな鍵をみていた。
 夢梁の白い指の中から出てくる様は手品のようだった。
 上海とはそうした街なのだ。私は青い瓶のビールを頼み、軽い食事をした。一度上海大厦に戻り時間をつぶした。
 
 大世界・ダスカは人民広場の南東にある。
 一九三○年代には地下組織のボスたちがこの場所を仕切り、あらゆる快楽と退廃を買うことができた。
 一階は賭博場、スロットマシーン。二階は食堂、三階には淫売宿があり、その上には射的、鍼、灸、その上には迷路と麻雀屋があった。
 中国共産党による解放後、人民遊楽場となり、現在の名称は「大世界遊楽中心」という。健全な娯楽場になったと言われるが気配は濃厚に残っている。
 派手なネオンがまだついていた。大世界という文字は一緒だ。
 十二時が近づく。私はタクシーから降りて裏口を捜した。いくつもある。どれなのか分からない。鉄の扉を押してみると鈍い音がして開いた。
 中に入ってゆく。野外ステージは表側にあるようで、人の気配がまだ残っていた。
 建物の廊下をまっすぐ歩いた。ドアがあり、錆びた鎖が繋がっている。南京錠がかかっているようだ。私はポケットから夢梁の渡した小さな鍵を取り出し、使ってみた。開く。
 中はホールになっていて、廻りには無数の客席があった。
 真ん中は舞台のようになっている。その舞台に一本の光の筋が落ちている。
 私は光のある方角に歩いた。
 二階の客席に人影がみえたような気がした。
 光に浮かぶ埃と背後の闇の中で、人影はぼんやりと揺れてみえた。
 
 その時、後ろから頭を殴られた。
 眼の中が白くなり、麻酔が効く時のように意識が遠のいてゆく。
 
 
 

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