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2009年03月11日

「緑色の坂の道」vol.4265

 
     風売り。
 
 
 
■ しばらく旅に出ていて、こちらの方を留守にしていた。
 旅というのは北だったり南だったりするわけだが、そこにいくつもの話があって、それを全部書き記そうとするのは野暮である。
 濾過されるの待とうとして、軒下に誰のものか、風車がある。
 
 

2009年03月16日

「緑色の坂の道」vol.4266

 
     オーキイ、アナポーコ。
 
 
 
■ ぼろぼろに仕事が詰まっているのだが、何もやる気がせず、漠然と古い映画などを眺めていた。
「七変化狸御殿」(1954年松竹:監督/大曽根辰夫)である。
 美空ひばり主演。
 粗筋その他については、ここで書かなくてもいいだろうと割愛する。
 どうってことない正月映画なのだが、15分くらいすると中座できなくなった。
 
 
 
■ ナカサキプギョー、ハラキリサムラーイ。
 コノオンナノコ、ローヤニイレナサーイ(註:ひばりのこと)。
 バンジュンこと伴淳三郎が映画の中で口にする台詞である。
 ガリガリ博士みたいな役柄であった。
 こちら、オーキイ、アナポーコ。
 あちら、チーチャイ、アナポーコ。
 
 
 
■ そういうところばかりを覚えていて、これでいいのかという気もするのだが、ま、春である。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4267

 
     ノーテン、ファイラー。
 
 
 
■ アイヤー、脳袋壊了。
 というのが正式らしいのだが、この当時の流行語のひとつらしい。
 先の「七変化狸御殿」は昭和29年。終戦後9年目の作品である。
 ちなみに今から9年前というと、あらまドウシタラヨカロという按配で、たったそれだけしか経っていない。
 劇中、農地解放みたいな台詞も飛び出したりして、世相であった。
 
 
 
■ 若いフランキー堺さんが、狸の役をしてドラムを叩く。
 その隣で、美空ひばりがすさまじく太い二の腕で、背中に蝶の羽をつけてJAZZを歌う。
 楽しいクリスマスという代わりに、楽しいお正月、なところがわが国である。
 歌はとんでもなく旨い。
 向こうだったら、エラ・フイッツジェラルドの若い頃、と言っても通ったかもしれない。
 この時ひばりはいくつだったか。思春期半ばというところ。
 正面から撮っていると、やはり狸にも似ている訳である。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4268

 
     水の入らねえそのうちに。
 
 
 
■ 広沢虎造が、森の石松の幽霊の役で出てきたりした。
 浪花節、そのさわりを聴かせるのだが、いかにも正月映画らしい観客サービスである。 ひばりが七変化で渡世人の格好をする。
 仁義を切って話が済んだところで、それじゃぁ水の入らねえそのうちに、と口上述べる場面もあって、ひばりこの時15歳。
 結局は芸事の世界だったのだ。
 
 

2009年03月18日

「緑色の坂の道」vol.4269

 
     春の領分。
 
 
 
■ 街がそわそわと落ち着かない。
 風だからである。
 たらの芽を買って帰る。
 
 

2009年03月24日

「緑色の坂の道」vol.4270

 
     春の領分 2.
 
 
 
■ 仕事のできない男たち。
 という緑坂を書いて、没にした。
 男だけではないからである。
 
 
 
■ しばらくたつと、雪のように花が降る。
 枝先に、緑が膨らんできている。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4271

 
     ゆっくりした夜の道。
 
 
 
■ 東から風が吹いて、一晩荒れた。
 枕をかかえ腹ばいになっている。
 
 

2009年03月25日

「緑色の坂の道」vol.4272

 
     犬の目。
 
 
 
■ 時々ではあるが、小津安二郎監督の映画をみかえす。
 粗筋ではなく、その場面をである。
 早送りをしながら目に付いたところを静止させ、その構図などを眺めていた。
 
 
 
■ 小津監督再認識のきっかけになったとされるドナルド・リチー著「小津安二郎の美学」(山本喜久男訳:フィルムアート社刊)が今手元にある。
 中に、カメラマンの宮川一夫が、山中貞夫もロー・アングルを多用し、それを「犬の見た目」と評したと書かれていた。
 身も蓋もない言い方であるが、子供の視線などと呼ぶよりは好みである。
 浮世絵、特に人物を描いたそれなどにしても、比較的低い位置からその構図を決めていることが多く、一瞬止まっているかのようにも見える。
 
 
 
■ 今奥付を捲っていたら、前掲書の発行は1978年とあった。
 独特の色調の装丁は栗津潔さんである。
 当事、DVDなどはまだなく、挿入されているシークエンスなどは相当苦労したようにもおもえた。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4273

 
     犬の目 2.
 
 
 
■ 省くことというのは、ある種の美学だという。
 茶とか花、桂など数奇屋の世界にも通じるところがあって、例えば「天地人」という言葉は元々華道の世界からきていると聞いた。
 それがどういう意味であるかは割愛する。
 面白いのは、それを発見するのが外部の人間、この場合はオハイオ生まれで永く日本に住んで映画評を書いていたリチー氏だったというところである。
 一般に外人向け日本美の紹介というと、ある種独特の癖のようなものがあることが多いのだが、不思議なことにこの本にはその印象は薄かった。
 こう括っていいかは不明なのだが。
 
 
 
■ 私は難解な映画評というのは苦手である。
 今まで最後まで読み通したものは、色川武大さんと田中小実昌さんのものくらいだったろうか。何故かといえば、博打の負け方と弁当の喰い方が好きだからだった。
 
 

2009年03月27日

「緑色の坂の道」vol.4274

 
     犬の目 3.
 
 
 
■ 酒場でホステスが犬の話をしていた。
 生まれつき少し障害のある犬で、それを飼っている。
 隣にいた友人がとりあえず医師なので、話半分に聞いている。
 そういえば君、生理重いだろうと尋ねると、どうしてわかるの、動けなくなるくらいと答える。薬の名前も。
 そのとき犬は、部屋の隅からみあげている。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4275

 
     犬の目 4.
 
 
 
■ で、犬の話からどうにかするかといえばそういうことはない。
 ここ数年、億劫なのである。
 出された酒を静かに飲み、並んだゴージャスな乾きものを少しつまみ、そのうちのいくつかをポケットに入れ、黙って金を払って戻る。
 そうか、障害があると安いのか。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4276

 
     犬の目 5.
 
 
 
■ 彼女は資格を取ろうとしている。
 その相談を友人にしている。
 医療や介護や、それから写真に興味があって、私の知らない外国の写真家の名前をいくつか挙げた。
 惚れた男と半年住んで、それから別れ、週に何度かはヘルプで入る。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4277

 
     犬の目 6.
 
 
 
■ かつて吉行さんに「ホステスを別の世界の人間だと思わないこと」という名言があった。酒場でモテルにはドウシタラヨカローという切実な問いに対してである。

 
 
 
■ 吉行さんのそれは、トーマス・マン以来の古典的芸術論、いわゆる市民社会が確固として存在する世界の中での表現者の立場である。
 分かりやすく言えば、なにがしかの欠落を自覚せざるを得なかった人間が、いたしかたなく表現の立場に追い込まれてくるという構造である。
 つまりは不良であると。
 あるいは多感すぎてもいけない。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4278

 
     犬の目 7.
 
 
 
■ 写真家などというものは、基本的に犬の目なのである。
 これを綺麗に写そうとだけ思うと、いつか下卑てくる。
 綺麗に、というところを別の言葉に置き換えても同じである。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4279

 
     味について。
 
 
 
■ このところ、小型車ばかりに乗っていた。
 そういう仕事とまた日常だったからである。
 小型車それ一台ということになれば、例えばランチア・イプシロンの適宜やれた奴などがいいのだろうが、シートの手入れがどうにもならない。
 まあ、滅びていく風情を楽しむという境地に達すればいいのかも知れないが。
 とりあえず色気のようなものは水のように残る。
 
 
 
■ 久しぶりにエンジンをかけ、暖気する。
 3秒ほど手前、ガスを送ってからである。
 煩いな、という音がして目覚めるのだが、こうした場面の書き方は、大藪晴彦さんが一番旨かったような記憶がある。半ば愚直と言ってもいい。
 その後80年代に入ると車や単車は文化的様相を呈し、ポストモダンの波の中に相対化されていったのだが、その流れは実をいうと今でもある。
 
 
 
■ 桑原坂を下り、近くのスタンドで洗車をした。
 ここはガソリンの質がそう悪くない。
 線路の向こう側で、例えば数円安い看板にひかれ入れてみると、リッター4しか走っていないことがあって、貧乏性は損をする。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4280

 
     味について 2.
 
 
 
■ フロントの空気圧を足してもらう。
 まだ冷えているから、規定プラスにはしなかった。
 オイルの量はMaxよりやや下である。
 
 
 
■ 低いギアで暫く走った。デフが暖まった頃合、高速に乗る。
 別にどうということもないのだが、軽く流していく。
 少し雑味が混じっているような気もするのだが、まだ2000キロ走ったかという程なので、多分こちらの馴染みなのだろう。後で0.1リッター程、オイルを足すことにする。
 速いトヨタに先を譲り、オービスのないところでシフトダウンしてみた。
 
 

2009年03月31日

「緑色の坂の道」vol.4281

 
     桜とるひと。
 
 
 
■ この季節、曖昧なもので、体調ものぼりおりする。
 今年は桜も遅いようだが、せんだって英国大使館の辺りで渋滞になった。
 三脚を立て、花弁に近づいている人がいた。
 マクロなのだろうか、誰しもが撮ろうと試みる。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4282

 
     花曇。
 
 
 
■ 空が曇っていると、花の色はそこに透けてしまう。
 薄い桃色と灰の区別をつけねばならない、ということもないので、そのまま見上げる。
 こうした風土の条件というのは、自分にはどうにもならないもので、またどうにかしなくてもいいんじゃないかというような気になって長い。
 
 
 
■「ワイルダーならどうする?」という映画の本を眺めていた。
 キャメロン・クロウという映画監督が、91歳のビリー・ワイルダーに長いインタビューをしたものである(キネマ旬報社刊:宮本高晴訳:2001年)。
 装丁は和田誠さん。ワイルダーといえばこの方しかいない。
 50年代のハリウッド全盛期、モンローやゲーブル、ジャック・レモンなどのエピソードが語られていた。
「アパートの鍵貸します」「麗しのサブリナ」「七年目の浮気」に「昼下がりの情事」と並べていくと、なんといったらいいのか、ちょっと胸が一杯になる。
 
 
 
■ 壊れかけたソファの上でそれを捲っていると、不思議なことに次第に機嫌が悪くなる。
 廻りに当たったりして、大人気ないのは何時ものことだが、それが何処からきているのかが不思議だった。
 

「緑色の坂の道」vol.4283

 
     阿呆面のお前たちとどこかでばったり出会っても
     そしらぬ顔でいような。
 
 
 
■ ワイルダーは、ユダヤ系であった。
 ポーランドに生まれている。
 緑坂を読まれている方には、半分はそれで通じるところがあると思ってもいるのだが、アンジェイェフスキの小説「灰とダイアモンド」の舞台もまたポーランドであった。
 ワイダ監督の元、映画化されている。
 私が不機嫌になっていったことが、そのことと関係があるのかどうか。
 そんなことは知らないが、ヘップバーンにしてもディートリッヒにしても、少し辿っていけばどうしたってあの時の戦争、ナチとの関わりが水面下に沈んでいるかのようである。
 ハリウッドに関わらず、映画という存在そのものがそうしたものではあるのだけれども。
 
 
 
■ ワイルダーの皮肉やウィットは、非常に洗練されていた。
 いくつかの作品でケイリー・グラントを使いたかったと、その感じはよく分かる。
「サブリナ」ではグラントの代役がボガートで、そのためボガートは最後までワイルダーとぶつかったというエピソードは有名である。「昼下がりの情事」でもグラントの代わりにクーパーが演じた。
 が、今いくつかの作品を思い出してみると、ここでグラントが演じていたら半ば出来すぎになってしまうところだったような気がしないでもない。
 チャンドラーも、フィリップ・マーロウを演じるのはグラントがいいと言っていたらしいが、その辺りもワイルダーと一脈通じる感じがある。
 
 

「緑色の坂の道」vol.4284

 
     阿呆面のお前たちとどこかでばったり出会っても
     そしらぬ顔でいような 2.
 
 
 
■ ワイルダーに子供はいなかった。
 いたのであるが、遠く離れたところにいた。
 そのことが作品に微妙に影響しているという指摘もある。
 都会の独身者の御伽噺。
 例えば「アパートの鍵貸します」という作品は「他人の情事のぬくもりが残るベットに一人もぐる男の物語」である。
 この辺り、具体的に想像していただくと結構神経に堪えるところがある。
 リンダ・ローリングが去った後、枕に残った長い髪の毛を一本を拾い上げて名台詞を呟くマーロウ、なんていうロマンチックなものではない。
 
 
 
■ ジャック・レモン演じる主人公はその間、バーでマティニを飲む。
 時間の推移が、オリーブを挿してある爪楊枝が並んでいくことで表現される。
 飲まずにいられるかという按配で、ほぼジンそのもの。ノエリー・プラットが数滴。
 後にウォッカを使うようになったと、ワイルダーの二度目の配偶者、オードリーは言っていた。