2006年04月13日

「緑色の坂の道」vol.3698

 
       同質の声。
 
 
 
■ 昔坂を再掲する。
 
「緑色の坂の道」vol 1
--------------------
 
       同質の声。
 
 
 
■ とある日本の写真家が、肖像写真を撮っていて、「気力は眼に出る」ということを、何処かに書いていた。
 それに答えたのか、ある小説家が「知性は声に出る」などと書いていて、そういうものか、と記憶に残った。
 見知らぬひとと電話で話していて、ああ、この人は自分と同じような感覚をしているのではないかと思うことがある。
 高かろうが低かろうが、そして時折ひび割れることがあっても、その背後にある漠然とした気配のようなものを感じることもある。
 
 
 
■ もともと、個性というのは実に厄介な人間のさまざまな要素の複合体である。
人間が成長するにつれて、ある部分を抑制し、ある部分を育成するこ とによって、微妙なバランスが生まれる。
 その前提として、自分を点検する作業があるのだが、となると、年齢によって、抑制する部分や育成しようとする部分が少しずつ異なってくることになる。
 人の声というのも、そうした微妙なバランスの上に成り立っているような気がする。
 もともとあったものに、何が付け加えられ何が削られたのか。そしそれは、その人の裡でどのように均衡を保っているのか。
 見知らぬひとからの電話の後で、そのように思うこともある。
 
 
_____________________________________________
 
 
■ 確か93年頃のものだったと思う。
 元寝た、じゃね、モトネタは吉行さんの随筆の中の一節だった。
 ここから教訓的なことを導くのは、後から考えると薄く下品なのでやめておく。
 
 

「緑色の坂の道」vol.3697

 
       花影。
 
 
 
■ このところ、ゆっくり眠れない日が続いている。
 そのくせこの時間までPCを眺めているのだから、いたしかたない。
 〆切があれこれあって、それを送った後だからだ。
 正月に飲もうと思っていたウィスキィを暫く前に開け、三杯ばかり嘗めていると45%だった。
 
 
 
■ ネットという世界では、例えば全人格的なものが滲み出る。
 それは文章の柄の悪さと品のよしあし、であったり、Webカメラの音声からくる向こう側の印象だったりする。
 声について言えば、これはこちら側のひとの声。
 それは向こう側のひとの声。
 というのが、始めてかかってきた電話などで俄かに伝わってくることがある。
 ではネットで散見する文章はどうかというと、ひとつの定型の中に入った安い物語であることも多い。つまりは同じことなのだ。
 
 
 
■ まともに桜の下に立たず、今年も終わった。
 それで良かったのかも知れない。
 立っているとどうにかしたい気になるのだが、何処からくるのかが分からないでいる。
 
 

2006年04月05日

「緑色の坂の道」vol.3696

 
       鳥、雲に入る。
 
 
 
■ あるとき、都心にある都営アパートの裏手に入った。
 公園があり、よじ登る枠組みがあり、いくつものベンチがある。
 ベンチには団塊の世代よりも少し上、万博の頃に社会人だったろう男達が座っていた。 桜の下に若い母親達が集まっている。
 廻りには子供もいて、そこで昼間の宴会をしているらしい。
 花見には竹輪がいいと何処かのスーパーに張り紙がしてあったことを思い出したが、さすがに傍による訳にもゆかない。
 ひとり、まだ一歳に満たない子供が庇の下で仰向けになっていた。
 
 
 
■ 私は空を見上げる。
 空には雲があり、それは桜の色と似通ってもいる。
 薄眼になれば、どこからが花なのか、俄かに判別はできない。
 横切るものがいくつかあって、ただの影なのだが、鳥のようにもみえる。
 鳥は集まっては離れ、それから急速に上向きになっていった。
 この先は路地である。
 池田先生と代々木方面のポスターが一軒置きに貼ってある。
 改革と書かれたものも隣にあって、つまりは付き合いということなのかもしれない。
 昔だったら、ここに眉毛の濃い方が殺虫剤を片手に持っていたところだ。
 
 
 
■ 100円で缶コーヒーを買う。
 20円安いのは随分なような気がする。
 公園の横に保育園があって、砂場には誰もいなかった。
 すこし古くなった桃色のカーテンの後ろが給食室で、頭に頭巾を被った妙齢中程と前半が、首を傾けて何かを作っているようなのだが、粘土をこねていただけかとも思う。
 
 

2006年04月04日

「緑色の坂の道」vol.3695

 
       紅子。
 
 
 
■ 何年か前、千鳥ガ淵の桜を眺めにいったことがある。
 もちろん夜だった。それもほとんど明け方に近い。
 その時間帯でなければこの季節、そうしたところをうろつく訳にもゆかず、勤め人でないことは半ば無益だと知るばかりだった。
 一本煙草を吸う。
 水を飲んだりする。
 向こう岸には、ライトを消された後の薄桃色の塊が重なっていて、それは握り拳がいくつも連なっているかのようにも見える。
 仮に砂漠の国に、一本の桜があったとしたらそれはそれで不思議なもので、砂を握りしめその花を眺めてもどうということもない。
 
 
 
■ その先を歩いてゆくと、靖国がある。
 桜花という稚拙なロケットに若い兵士を乗せ、一式陸行の下にぶら下げられていた時代が少し前にあった。沖縄の海の傍でである。
 一式陸行は防弾装備を持たず、弾が当たると簡単に火を噴いた。
 辿りつく前にほとんどが燃えてゆく。
 
 
 
■ 桜の樹の下に、ひとりの女が立っていることがある。
 薄く笑ったり、腕を曲げていることもあるが、大抵はすこし若い。
 若くありたいと願うからだろう。
 着物は大抵赤色で、名を紅子というのだと聞いた。
 
 

2006年04月02日

「緑色の坂の道」vol.3694

 
       花曇。
 
 
 
■ 〆切がいくつか重なって漠然としていた。
 窓からは桜の花がいくつかの塊になってみえている。
 遠くで赤子の泣き声と笑い声がして、空耳なのだが、花の下に赤ん坊が置いてあったという話がどこかにあった。