2006年01月05日
「緑色の坂の道」vol.3586
一月の雨。
■ 年が明けている。
一年を振り返るとか、今年は何をしようとかいうことを書く気になれないで、緑坂はいつもの通りであろうか。
ランキング等に参加するようになったら、やめたほうがマシだという気もしている。
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2006年01月05日
一月の雨。
■ 年が明けている。
一年を振り返るとか、今年は何をしようとかいうことを書く気になれないで、緑坂はいつもの通りであろうか。
ランキング等に参加するようになったら、やめたほうがマシだという気もしている。
一月の雨 2.
■ 盆や正月というのは、薄いかさぶたのようなものがいっとき剥がれてゆく狭間であるような気もしている。
自分が何処から来たのか、何をしていたのか、本当に好きな食べ物は何なのか。
というようなことが目の前に突きつけられたような錯覚に陥る。
であるから、若い頃は少し恥ずかしいものだった。今もその気配は残る。
おふくろの作った雑煮の味が、身体の中に染み込んでいる。
三角の握り飯を作るのが下手で、いつも丸いそれだったりした。
懐かしさというのは、時間である。
あるいはその時に見た、単なる風景であったりもした。
一月の雨 3.
■ 師走の歌姫。
という緑坂を書こうと思ってしまい忘れた。
地下二階にある駐車場から車を出す。
昨日まで一面に散らかっていた銀杏の枯葉が片付けられている。
青い制服を着た、掃除の方々が掃いてくれたのだと分かる。
仕事とはいえ申し訳ない気分が残るのは、私も昔、ゴルフ場の掃除をしたことがあったからで、遠くに見えるプレイヤーと隣の女性が別の世界にいるように思えた。
はいつくばって芝生の手入れをする。
何時かそうした立場になりたいと思うこともなく、その仕事で得た金で単車の部品を買っていた。あるいはガス代である。
それで何処を走ったかというと、実は覚えていないのだった。
2006年01月09日
古い革靴。
■ ボサノバは冬のためにあるのよ、と誰だかが言っていた。
今、そんなことは誰も口にしない。
中古になったCDが二枚でいくら。ポイントカードはお持ちですか。
位があがると、名札のところに色がつくのだ。
ゆるやかに傾く。
■ 実は私もいい歳になったので、それほどのことでは驚かなくなっている。
昨日夜半、仕事をしながら薄く窓を開けていると、六発の銃声のようなものが聴こえた。高いその音ではなく、消音器を付けた38口径程のものである。
もしかすると、青い外ナンバーの方々があれこれあったのかも知れず、暫く放っておくとサイレンの音はしない。
屋上にある日本庭園にも人影はなかった。
■ そこは流れで、次ゆこう。
というのが緑坂のひとつのテーゼである。
消音器と思ったものは、金属バットを壁に数回殴りつけたものかも知れず、銃声との判別はなかなかつかないでいる。
小さな地震のようなものがトレーラの爆発であったりしたことも、数年前にはあった。
寒椿。
■ 一体に表現をするということは、怖いものだという気がしている。
写真であれ文章であれ、例えばデザインにしても、その本人の個性というものが滲み出ているものだからだ。
個性というのは様々な要素の複合体であるが、元々あったものにそれから付けたし、あるいは一定の部分を削り、ひとつの方向に持ってゆこうとする。
ひとつの方向とは狭いものではなく、一定の幅があるものだが、いずれにしても表現の背後にはその本人の実態そのものがあると思うようになった。
■ 植え込みのところに赤い色がある。
それが椿であることに気づいて、それから坂道を下る。
この道では煙草が吸えない。
2006年01月11日
手を伸ばしたら湿っていた闇。
■ 私は風邪がうつり、連休には熱を出していた。
仕上げねばならない仕事がひとつふたつあって、明け方もそもそと資料をめくる。
つまんねえなあこんなこと。
でもこれを片付けないとなにがしか、片がつかない。
赤いラベルの酒を嘗め、それをタウリンで割っていた。
■ どうでもいいことではあるのだが、ITの会社やネットの世界の一部には、カルト的な空気が薄く漂っているかのように思えることがあった。
カルトとは何か、というと前に書いた緑坂があるので検索していただきたい。簡単に言えば、非合理的なカリスマや絶対的な存在を求める心理的な状態である。
つまり、疑い続けることができないでいる。
手を伸ばしたら湿っていた闇 2.
■ 矩形のスペースに突っ伏して、枕の傍に置いた携帯が鳴り、気が付くとそれが放り投げられてあった。
ごめんね、と言いながら拾い寝癖を直す。
洗面台の顔は無様にむくんでいる。
さわやかに笑うことなど、ここ十年くらいやっていないのではなかろうか。
ま、いいんですけどね。
■ 緑坂というのは、状態のことなのよ。
とか抜かした妙齢中程がいた。
中程、ということにしておく。
こいつ昔からしゃらくさいことを言っていたが、暫く考えてから言っているんだろうなあ。カレーパン食べながら。
緑坂がそうなら、おまえさんはなんだろうね。
わたし。
わたしは毛を焼かれた狐みたいなもの。
手を伸ばしたら湿っていた闇 3.
■ 闇には匂いのようなものがあって、あるときそれをごまかすためにお香を焚いてみたりする。
香の道は、聞くというらしいのだが、なに耳で分かるわけでもない。
感覚を曖昧にすることで分かってくる世界がある、という前提で成り立っている。
2006年01月12日
手を伸ばしたら湿っていた闇 4.
■ 東京の冬は乾いている。
そうでないところが、大雪であるにも関わらず。
一月の初めまで時折舞っていた銀杏の枯葉も粉になり、深夜、不思議なタイアを回転させる黄色の清掃車が片付けていった。
私が今履いている靴の底は磨り減っていて、雨の日の黒い大理石の上では滑る。
かといって並木通りで買おうかなという気にもなれず、一月に潰そうと考えた。
枯れ枝の色たち。
■ モデムでないと繋がらないメールサーバーがあって、そのために古いカード型モデムを設定していた。56の季節が懐かしい。
技術というのは相対的なもので、画像やデザイン以外のアプリならば、石(CPUのことです)は数年前のもので十分である。それよりもメモリを余計に積んだ方がいい。
などと、生意気なことを言えるようになったのは何時からだったろう。
夜通しWSを分解していた穴蔵のような仕事場。
それをアトリエと書いたのはEPSONの妙齢デザイナであった。
■ 庭が白みかけてきて、遠くにある薄い高層マンションにはまだ灯りがついている。
山一証券の元会長はバブルの頃、40階建てのウォーター・フロントの最上階にいたと、読売新聞のノンフィクションで読んだ。雪印の崩壊に関しては、北海道新聞が力作を出していて、最近はそのような本を眺めていた。同じ記者という職業であるが微妙に文体が違う。それは風土なのかデスクの個性なのか。
読売の社食は古き昭和の匂いがする。
私は、写真家と呼ばれることがたまにあって、その場合「先生」とついてくる。
他に呼びようがないものだから、「センセ」とカタカナなのだろうと考えてもいる。
とりあえず立てておけば間違いはないだろうという側面と、また、使い捨てである者を昔から先生と呼んだ、と山本夏彦さんは書いていた。
世は商売。
■ 一月の街路樹は灰白色をしている。
薄く茶が混ざってもいるのだが、それは僅かだ。
2006年01月14日
そこにいるだけのあいだ。
■ ご存知、「甘く苦い島」のコピーである。
原型は、NYのブロードウェイ近くの交差点、急ぎ足で通勤してくるニューヨーカーを壁にへばりついて撮影したものである。
面倒なので直接のリンクは貼らない。上部にある「甘く苦い島」take.1 41枚 をクリックするとその中にある。
■ 撮影時、私はリコーのコンパクトカメラを使った。マニアなら分かるだろう。GRレンズの付いたそれである。絞り優先。若干の露出補正をかけることもあるが、ほとんどカメラの露出のままでいける。
後にライカのM6が手に入り、28ミリということでこのレンズを捜した。
ライカ用のマウントである。元々はそのために作られたからである。
新橋や銀座の中古カメラ屋でも、なかなか置いておらず、なんということだろうか、スーパー・アンギュロンなどよりも場合によっては高価であると言われた。
となると、GRを複数台持っていた方が何かと実用的なのであるが、カメラの世界はそういうものでもなく、暫く悩んだ覚えがある。
■ ガッコの頃の大先輩に、当時このレンズを作った辺りにおられた方がいて、何時だったか写真を見ていただいた。
読売新聞での仕事「列島いにしえ探訪」である。
「北澤、これをリコーにもってゆけ。これはいい。風を感じる」
とか言われたのであるが、うーん、そういうのってなあ、とか思いながら今日に至っている。
奈良原さんや、そうそうたる方々が作例を載せておられたからということもあるが、恐らくは私の個人的資質なのだろう。
どうもね、そういう商売は苦手である。
「いにしえ探訪」の当該作品はニコンの24ミリで撮影している。
大先輩は海外でゴルフをされたりして壮健なのであるが、会合で顔を会わせると最近は撮っているのかとハッパをかけられる。
はあ、お注ぎします。
などと日本酒を注いだりして、男の世界も線路は続くよどこまでも。
ローレンローレン、ローハイド。
そこにいるだけのあいだ ツー。
■ GRのレンズは適当にウェットである。
エルマーのそれ程でもなく、僅か100年と少しで近代化とその果てに辿り着いた我が国に相応しい、合理主義と大正期べス単の味を隠し味のように描写に忍ばせていた。
とか書くと、毎月カメラやレンズの構造と歴史を褒めなければならない、大手新聞社のカメラ雑誌のライターさんのようである。
ま、仕事ですからねえ。
作例がつまらないからといって、取材費が出なかったりする訳だからいたしかたないところもある。
■ 結局、GRレンズのライカマウントは買えなかった。
M6でリバーサルを使うことは滅多になく、コードバンのストラップをつけて喜んでいた。中にはどう転んでもともかく写るトライXなどを入れている。
モノクロというところがマニアなのだ。
一度、金属製のレンズのフードを転がしたことがあって、おお2万数千円と思いながら赤になった信号のあたりでクラクションを鳴らされた。
女郎の足抜け。
■ のようなことを、この正月明けにやっていた。
つまりまあ、夜逃げの手伝いのようなものだが、そのために私は豚のような自分の車を洗わず出した。洗うと目立つ、というよりも雨が降る。
何年か前にもそのようなことがあり、深夜都心のオフィス街で荷物を積み込んで首都高速を飛ばした。
当時、謝礼はカレーライスである。
■ もういいだろうというところで道に迷った。
抜けてきた女郎は隣の席で、風邪をこじらせた咳をしている。
それは見事に私にうつり、今でも身体から抜けない。
どうしてくれるのさ、とここで言う。
川があり、細い月が映り、それでいて冬の空は抜けていた。
やつれた彼女は普段より五歳ばかり老けてみえる。
時々、思い出話をしては同じところを廻っている。
数日、酒ばかりを飲んでいたのだという。
ワインだと言ったが、なくなったら紙に入った日本酒であろうかとおもわれた。
続・女郎の足抜け。
■ アニさん、わたし。
なんでえ。
これからどうしたらいいかえ。
■ 東海道の品川宿、そこにある神社は六月に祭りがある。
急な階段を登ってゆくと途中に小山のようなものがあり、模擬的なお遍路の道になっている。
そこには大きな石碑があって「道行」と楷書体で書かれていた。
品川の宿場女郎、飯盛女達が祭られているものである。
■ さて。
傷ついてるんだから、回復には時間がかかる。
すぐにがんばろうと思うんじゃねえぜ。おめえはそれがわりい癖だ。
とか、煙管はないので紙巻で、ゆるゆる車を走らせた。
ぞくぞく、女郎の足抜け。
■ 彼女はいわゆる中産階級のひとり娘である。
郊外に家があり、教育を受け、途中ではぐれ、何か夢のように絶対的なものを求めた。 思い立ったらすぐ旅に出てしまうような、わたしはボスボラス海峡が好きなのよ、とか80年代中頃には多分言っていたのだろう。
恋をするが、その恋には現実味がない。
破滅であるとか「スパゲテツティ・コナチーズ・カケテクレンチョ」の伊達男に弱かった。ツが大文字であるところに注意。
■ でへでへでへ。
と、本当は泣くところだ。
女の泣き顔には育ちが出るというが、ほぼ鼻水を垂らしてもいい段階ではあったように思われる。
ここでいい、というのは建前で、本当はその角を曲がって茶を一杯。
■ 送り届けた後、私はコンビニで暖かいお茶と肉まんを買った。
郊外のコンビニは、小学校のグランド半分くらいの駐車場がある。
若い女の店員は、お釣りの小銭を投げてよこすようなこともなかった。
それからまた道に迷い、いくつもの通りを抜けて、小林旭と美空ひばりのCDを聴きながらずるずる都心に戻ってきたのである。
女の入り口恐山。
■ 仕事に疲れた女たちは北へ向かうのだという。
いつだったか郵便受けの中に霊場ツアーの広告が入っていて、暫く眺めて捨てた。
全国各地にある霊場というか、神のいる山やそうした箇所を訪れる旅行社のパンフである。
添乗員達は皆なにがしかの師範代であったりした。顔写真も出ている。
ある意味では、眼鏡をかけたネズミ男であろうかと思われた。
■ かつて「銀座ラプソディ」で樋口修吉さんが、大手商社に勤めながら博打癖が治らず、終いには百科事典の販売員になっていった自伝的経緯を書かれていた。
私は博打はやらないが、不思議に身につまされた。
本作は、昭和30年代後半から40年代半ばにかけての銀座・赤坂、あるいは六本木界隈の風情を驚くべき記憶と細部の描写で、あたかも散文詩のように留められている。
普段本は読み捨てることにしているのだが、この本だけは捨てきれず、「銀座百店」や「洋酒天国」のダイジェスト版と共に書棚の中に紛れている。
樋口さんは作家になられた。味のある随筆を、寡作であるが綴られている
ところで、今も癌の特効薬だというカタカナの薬というかなんというかを売っているひとたちもいた。
家へ帰らないか。
■ わたし、恐山にいこうと思ってね。
ふむ。
そこで仲居でもしているわ。暫くしたら来てね。
おめーは何をいっているんだか。
だってさ。
いい男を捜して、子供ができるように抱いてもらいな。
知的衒学、足抜け女郎は、そこでくしゃみと咳をした。
2006年01月22日
ドリームランド 5.
■ 2005年の3月、私は「ドリームランド」という題の緑坂を書いた。
「オウム」というキーワードで、本ブログで検索していただきたい。
その前後である。あるいは緑坂 3048.
■「政治的宗教」あるいは「カルト的経済」。
いくつもの単語で今の世界は語ることができる。単語というのは概念を圧縮したものだが、その背後に幾層にもたたまれた構造があることに注意しなければならない。
薄い予感のようなものがあって、このところ私は、立花隆さんの田中角栄のシリーズを壊れかけたソファの上で読み返していた。
金権体質というのがこの国に伝統的にあるのだとして、本件もその延長線上にあるものだという気がしている。
漠然とぼんやりする能力。
■ この17日前後というのは、短いタームではあるけれど、歴史のひとつの曲がり角であったという気がしている。
ニコンが銀塩カメラを縮小。
それからヒルズの事件で、その後にはコニカミノルタがカメラやフィルム事業からの完全撤退を発表した。
考えてみれば私もコニカミノルタで「甘く苦い島」を販売していたのだから大騒ぎの筈である。
■ 守秘義務という訳ではなく、とりあえず仁義というものがあると私は勝手に思っている。よって、今の段階で仔細は書かないことにしよう。
それよりも、彼や彼女はどうするのだろうとお人よしのことを考えた。
■ 麻雀放浪記の作者、別名、色川武大さんに「うらおもて人生録」(角川文庫)という本がある。緑坂にも何度も出てくる。
子供のいなかった色川さんが、50歳を過ぎて若いひとたちに分かりやすく語ろうと試みた、読み返すとなかなかコクのある随筆集である。
私は色川さんと等しく、どこか列の外にいた不良だったので、書かれていたことは身に染みた。
大事な時にチャランポランになること。という一節があって、この按配はよく分かる。 突っ込み過ぎない、更に追い討ちをかけないという説明があるのだが、ま、そこは流れで。
東京の印象。
■ 雪はとりあえず一日で過ぎた。
私の今いるところは、大きな庭に面しているので雪が降り落ちるのをカーテンを開け、暫く漠然と眺めていた。
新雪は桜の開花にも似ている。
けれども一方で、三メートルを超す積雪の中でじっとしていなければならない人たちもいて、受け取り方は存在に依拠する。
近くにあるホテルの窓には、雪を眺めようとする家族連れや同伴の人たちもいて、彼らは何時までもカーテンを閉めなかった。
チャリチャリ、と坂道を、金属のチェーンをつけたトラックが昇ってゆく音もする。
2006年01月23日
緊縮小唄。
■ 咲いた花でも しぼまにゃならぬ ソジャナイカ
ここが財布の ソオヨ ダンゼン あけた財布の締めどころ
(時世時節じゃ 手をとって
ハ 緊縮しょや 緊縮しょ)(以下囃子同じ)
他人の金なら よそ見て済もが ソジャナイカ
借りた五十億は ソオヨ ダンゼン 借りた五十億は頭割り
(西条八十作詞:中山晋平作曲:藤本二三吉唄「緊縮小唄」ビクターレコード:昭和4年)
■「公私経済緊縮運動」というものが昭和の始めにあった。
その時のPRソングのひとつである。西条八十など、当時最高のメンバーによる制作である。二三吉さんは江戸前の芸者。「祇園小唄」などで有名である。
確か、祇園恋しや だらりの帯よ とかいうものだったと記憶している。
当時のメディアと言えば、ラジオよりも蓄音機が普及していた。もちろんテレビなどはない。
時は「金解禁前」、そのために緊縮財政を国民に訴えることが目的である。
大量のビラ、講演会・映画制作などなど、国を挙げての国策運動の一環である。
初の政権放送も宰相・浜口雄吉によって、レコードに吹き込まれている。
関東大震災の後、その復興のために膨大な金がかかる。その融資のためには金本位制を採用しなければならない。第一次大戦の好況から一転して、巷には不景気風が吹き始めていた。
まあ考えてごらんなさいませ。
■ 当時の蔵相・井上準之助は全国に遊説行脚を行う。
家庭の主婦向けに、「まあ、考えてごらんなさいませ」「‥じゃございませんか」などのソフトムードで国民とその台所に訴えたという。
■ ところで「ソウヨ ダンゼン」というような言い方は何処かで聞いたことがある。
昭和30年代の日活映画、裕次郎の相手役がよく使っていたような記憶があった。
石坂洋次郎の純文学路線のそれである。
「断然」をカタカナで口にする。口にした時は漢字であるかカタカナであるか、はっきりしないのであるが、この場合には当然後者であろうかと思われる。
何故なら、西条八十の作詞もそうなっていたからだ。すこし力んで言う。
昭和4年と言えば、大正デモクラシーの名残もあり、また巷にはエログロ・ナンセンスの風潮も次第に蔓延していた頃合である。
「なーにがなんだか ワッカラナイノヨ」
これは、後年クレイジー・キャッツが替え歌で歌ったものだが、元唄はこの頃であった。元週刊朝日の編集長、扇谷さんが就職試験の後、この歌を歌って帰ったという記載をご本人の随筆で読んだ覚えがある。

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■パーソナルアドカード 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
Black Thursday.
■ 日本が金解禁を模索していた当時、アメリカの株価はゆるゆると上昇していた。
日本で金融恐慌がおこる1927年(昭和2)、NY株式市場では株式投機が加速。
ダウ平均381.17ドルと、その後長く破られなかったピークをつける。
公定歩合が引き上げられたものの、株の投機的ブームは収まらない。
歴史学者の中村政則氏は「昭和の恐慌」(小学館)の中で次のように言う。
「銀行、投資信託会社、株式取引所に対する政府の規制はずさんで、野放図な株価操作、投機が横行していた。一攫千金を夢みた投機師が跳梁し、みせかけの繁栄を作り出していたのである。
異常な株価騰貴につられて、ホテルのボーイやレストランのウェイトレスまでが株に手を出す始末であった」
■ 1929年(昭和4)年、10月24日木曜。
NY株式市場は空前のパニックに陥る。いわゆる「暗黒の木曜日」(Black Thursday)である。
休日空けの28日、29日と更に続落し、11月13日、主力株・花形株が底なしの最安値をつけ、平均株価は198.69ドルと、9月3日ピーク時の半分になっていった。値下がり総額は約300億ドル。その年のアメリカのGNPの三割に達する損失であったとされる。
例えば「アメリカ電信電話」が、9月3日に304ドル。
奈落の底と言われた、同年11月13日に197.5ドル。
更に、1932年の最安値が70.25ドル。(日銀調査月報」昭和37年2月版より)
■ ここから先のことは、緑坂の読者であれば先刻ご承知の通りだろう。
NYのクライスラー・ビル、エンパイア・ステートビルなど、代表的な摩天楼のいくつかはその時代に建てられている。三つ揃いのスーツを着て、街頭でりんごを売る天才投資家。
この恐慌は、当初一過性のものとして受け取られていた。
が、実際はそうではなく、日本で4年、アメリカで11年の長きに渡って国民を苦しめる。ニューディール政策から第二次大戦までの流れは、大筋でこの時に決まったと言っても過言ではない。
俳優の原田芳雄さんは優れたブルース歌手でもあるが、その持ち歌の中に、夢を求めて世界を点々とする男の歌がある。NYからメキシコ、ジャマイカあたりへ流れる。
「一攫千金 宝石さがし ただのガラス球」
確か作詞は阿木葉子さんではなかったろうか(未確認)。
ドサ健、追証地獄。
■ 名作「麻雀放浪記」(阿佐田哲也)にはいくつもシリーズがあるが、追証については触れられていない。
この小説の一番のコクは、博打の技を極めてゆくことで、何か人間の一番大事なものを壊してゆくといった、成長が荒廃に通じる世界もあることを示唆したところであった。
ロマンとは言っても、肌のカサついた、相当に殺伐とした風景なのである。
そのことは、東京地方裁判所の喫煙ルームにいってみると分かる。
ブランド物を着た男や女たちが、何故かは知らぬがせかせかと煙草をふかし、呼ばれる順番を待っているのだが、不思議に誰も「東スポ」は持っていなかった。「世界」もである。
■ 西新宿のファミリーレストランへゆくと、今そのビルの上で説明会を受けたかのような若い男が、こうすれば必ず儲かるという話を聞いている。喋っているのは、昔モデルをしていたと称する妙齢中ほどから後半である。その時の宣材などを広げたりしていた。
最近はそれをノートPCで行う。
いわゆるこれがネズミ講、つまりはマルチ商法であるかのと感心したのだが、ファミレスでは舞台としていかがなものかという気もした。
これでクルーザーを買ったとかいう話も聞こえてきた。
若者はうつむいている。
彼の脇には、使い込まれたディ・パックがある。
自分もそうなれるだろうかと、思っていても口にしない。
2006年01月26日
浅い夢。
■ 緑坂を再掲する。2005年3月8日掲載分。
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「緑色の坂の道」vol.3048
ドリームランド 4.
■ 手元に「ナチ・ドイツと言語」(宮田光雄著:岩波新書)という本がある。
やや長いが引用させていただく。
ナチ・ドイツの『第三帝国』は、ヴィマール共和国の政治的・経済的な失敗から生まれたというだけではない。むしろ、敗北と苦難の中から、ふたたび人々に名誉感情と自己意識とを回復してくれる『救済者』にたいする民衆的待望から生まれてきたのであった。そこでは『救済』は、古い腐敗した世界が没落し、腐敗をもたらした『悪い敵』が絶滅させられることによってのみ可能になる、と信じられた。このような危機は世界的であり、事を決する最終的な時は目前に迫っている、という漠然とした予感が広がっていった。
人々の待望した未来像には、ある種の擬似宗教的なイメージがまとわりついていたことは否定できない(前掲:5頁)。
■ 既に1933年、ウィーンの政治学者エリック・フェーゲリンはその著書「政治的宗教」の中で、政治の世界におけるメシアニズムを指摘している。簡単に言えば英雄待望論、カリスマを待つ社会的な心情、その空気である。
ナチの思想の背景には、弱肉強食を是とした社会的ダーウィニズムがあった。
全てを野放図な市場原理にまかせ、勝者だけが生存に値するというそれは、水面下で畢竟過剰な民族意識につながってゆく。
■ 私は今の日本は、ある種の戦前ではないかという疑いを持っている。
あれから60数年経っているのだから、個々の顕れ方や段階は違っているが、大雑把にいって社会に漂うある種の閉塞感の総量は、いかばかりだろうと考える。
伝統的な体制から零れ落ちたかのようにみえる、無数のひとたちがいる。
それはフリーターであったり派遣の立場だったり、あるいは煩雑な立場の変更と再編成に右往左往せざるを得ない組織人であったりする。
いつの間にか明白な階層が生まれていて、これ以上はいけないということがはっきりと分かる。果たしてこの上というものが何なのか、それも不分明になった。足元が崩れる。
フェーゲリンの「政治的宗教」を、仮に経済に置き換えて読み解くことが可能だとすれば、経済活動のある部分が、擬似宗教の匂いを放つようになって実は久しいのではないか。
加えれば、そこには常に投機的なものが常駐していて、多くのひとは自らの閉塞感と空洞から惹かれてゆく。
ネットの世界の擬似平等感が拍車をかける。