2005年12月30日

「緑色の坂の道」vol.3585

 
       わたしはなんにもしたくない。
 
 
 
■ と書かれたTシャツがあるのだという。
 古く80年代バブルの時代には、そのようにして所属サークルのスタジャンを作ったと聞く。今でもガッコのタイ、あるいはネッカチーフをしている彼もいて、君は大丈夫かとおもうのだが本人には言わない。そのブレザー、いいね。
 年末に、手元にあった漫画を眺めると、そのように思春期とそれ以後の物語が並べられていて二日酔いの身体にはこたえた。
 格好いいということは、なんて格好わるいんだろう。
 という名台詞が確か早川義夫(ママ)さんだかにあって、ジャックスを年末に全部聴くと例えば社会復帰できなくなるものだが、それはそれ。
 気分は阿佐ヶ谷なのである。
 
 

「緑色の坂の道」vol.3584

 
       津軽海峡天城越え。
 
 
 
■ 北へ帰る豚の群れは誰も無口で 海鳴りだけを聴いていた
 
 と、こうした歌はどのように理解すればいいのだろう。
 ほぼ「飛べない豚は、ただの豚だ」とかいう第一次大戦からのマニアなアニメに出てくる、トレンチコートの世界ではないかとおもう。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3583

 
       夜汽車ふたつ。
 
 
 
■ そういう日本語はないわよっ、とかいう声が聞こえてきそうである。
 携帯のアドに数人の妙齢からメールが入り、あれこれ個性があった。
 絵文字を入れて、最後に「しみじみ」と書いてきたトカゲのねーさんもいれば、今原宿にいるから暇してたらこないかしら、とか誘う落花生の産地のひともいた。
 彼女は面食いである。
 私は、寝癖を立てながら年末の雑事に追われ、そのくせ壊れかけたソファの上で柳田さんの「零戦も湯」じゃね「燃ゆ」を読んでいた。
 これは名作である。雑誌「丸」を30冊ほど読むとそれが理解される。いいんですけどね。
 
 
 
■ 今からは無理よ、化粧に時間がかかるから。
 とか返信して、気分は二丁目の年末であった。
 
 

「緑色の坂の道」vol.3582

 
       夜汽車ひとつ。
 
 
 
■ 私は一年をふりかえるのが好きではない。
 そんなものは、北や南へ向かう深夜の高速の上か、あるいは薄く黄ばんだ新幹線の喫煙車両でやればいいと思っている。
 この季節、大抵ひとりばかりはノートPCを持ち出して、その場でメールを書いたりブログを更新している男がいるものだ。
 青春後期というのは見苦しいものだな、と眺めているのだが、ひとつ置いた席で、もうじき定年だろう方がPCを鞄から取り出して、デジカメと接続しているのには驚いた。
 お姉さん、ビールください。
 
 

2005年12月27日

「緑色の坂の道」vol.3581

 
       明け方三ヶ月。
 
 
 
 
■ 冬の夜は長い。
 気がつくと既に暗く、それでいてうんざりするほど冷え込んだりもする。
 落葉というのか、ほんの一日二日で樹は裸になってしまう。
 それは木枯であったのだろう。
 仕事場の窓ガラスから何度も舞っているのがみえていた。
 
 
 
■ 視界に、細い鉛筆立てのような高層マンションが建っていて、まだほとんど人は入っていないようだった。中ほどに常夜灯のように灯りが点いている部屋があり、彼の地は細かなシャンデリアが付いているようだ。
 あのガラスというかアクリルの集まりをひとつひとつ拭いてゆくのは大変だ。
 若い頃、嵐山にあるお屋敷のそれを、掃除していたことを思い出す。
 泊めてもらって、庭なども掃いた。
 
 
 
■ 大きな仕事は大体終わっているのだが、独りで生きている訳ではないものだから、あれこれと雑用が入る。
 例えば複数台のPCの面倒をみたりしながら、分からない設定に6時間もかかった。
 いい加減こういう人生は終わりにしたいものだよなあ、と思いながら、買うべき部品のリストを作ったりしている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3580

 
       行方 3.
 
 
 
■ などとやっている訳であるが、彼女の胃袋には穴が小さく開いている。
 それはいかんじゃないか、と力説してもその後で医者にはゆかない。
 根性で治すというよりも、実は怖がりなのだろうと思っている。
 
 
 
■ 横浜に近い女子大の、下校時間にはBMWが並んだという丘の上で、郊外の低層マンションの奥様にはならずに酒を売る。
 翌日、私の携帯にはメールが何度か入った。
「兄貴ー、久しぶりに会えて嬉しかったっすよ」
 お前は水谷豊か、と70年代を知る者はおもった。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3579

 
       行方 2.
 
 
 
■ 行方というのは、流れのことである。
「流れる」
 というのは、幸田文さんの名作であるが、そういった腰の据わった文章とか妙齢後半に会うことは少ない。
 何故かというと、おそらくはその父親が偏屈でなかったからだろうと思っている。
 
 
 
■ 仕事で関わったことのあるバーにいくことがあった。
 バーというのはつまり、ブルーラベルなどが置いてあるそれで、氷が丸かったりするところだと思っていただければ良い。窪みのない氷である。
 男たちは酒というよりもカウンターの中にいる男や女に会いにゆくのであって、半分は色気だが、それだけでもないところが酒の気配の不思議なところだった。
 
 
 
■ いたしかたなく、テッテ的に飲む。
 今夜は帰さないわよっ、という台詞は「さあ付き合え」というようなものであって、「水しかでねえよ」と言いながら歌舞伎町の界隈まで流れた。
 親のこと、故郷のこと。子供の頃に別れたままの父親のこと。
 おっかさん、身体の按配どうなんだい。
 それがさ、あたしってさ。
 しかし君って、日本酒嘗める時にトカゲとか言われない?
 ちょっとこっちいらっしゃい。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3578

 
       行方。
 
 
 
■ 旅に出ます。
 捜さないでクダサイ。
 と、いうメッセージを残して、液晶ドットの中の犬だったか豚に似た動物が背を向ける。
 そういった玩具が世紀末の頃に流行った。
 結構な値段もしたのだが、それは何処へいったものか。
 
 
 
■ 私たちは年末であるが、しかもそれのどん詰まりでもあるが、まだ一本のグリフィンズを吸うだけの余裕は持ちたいと願っている。
 あるとき、かつて世話になった方に連名で日本酒を送った。
 それでは奥様に申し訳ないだろうと羊羹をつけたのだが、いただいた礼状には「こーいちさんらしいユーモア」とか書かれていて、なんとなく恐縮をしたという覚えもある。
 酒はですね、高島屋で半被を着ている方から説明を受けて選んだものです。
 と、ここで書いてもいたしかたがない。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3577

 
       行方について。
 
 
 
 
■ 12月は会合と飲み会のためにあるかのような気がした。
 朝方近くまで、というものがいくつか続き、次の日はほとんど使い物にならない。
 若い頃、といっても三十くらいだったと思うが、どんなに酒を飲んでも翌日の午後になるとどうにか格好がついたものだ。
 が、もういけない。
 酷い時は翌日の夜中まで、あるいは更に日付を超えて、漠然と天井を眺めているようになる。これを家庭内および事務所内チンボツという。
 水もでねえや。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3576

 
       夢の柵。
 
 
 
■ 一夜にして街の飾り付けが変わる。
 他の国のことは知らないが、日本というのはそういう国なのだろうと思う。
 昨日まで八紘一宇で、今日からは赤旗と。
 そしてそのときそのときは、必ずしも一生懸命なのである。
 
 
 

2005年12月26日

「緑色の坂の道」vol.3575

 
       そして師走の犬。
 
 
 
 
■ 男たちの胸のなかには、一匹の痩せた犬が棲んでいるのではないかと思うことがある。
 負け犬が遠吠えが海の傍できこえる。
 ところが誰かを柔らかく抱くことも、それから振り向くことも、その犬がさせるのであって、そうなると笑顔というのは不思議なものだ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3574

 
       冬の瞳。
 
 
 
 
■ 街に誰もいない。
 祭が終わったからだ。
 内堀通りを走っていると、犬が一匹いた。
 奴はふりむいて、お前も何処へゆくと口をあけた。
 
 
 

2005年12月22日

「緑色の坂の道」vol.3573

 
       家へ帰らないか。
 
 
 
 
■ という緑坂を随分前に書いたことがある。
「甘く苦い島」でも、NYのチャイナタウンの写真にコピーとしてつけた。
 
 
 
■ このところ、朝方近くまで飲む機会が多く、ほとんど沈没している日々だが、例えばこの12月一杯で仕事を離れるという男たちと会った。
 彼は身体を悪くし、以前とはすこし違う話し方をする。
 私の吸っている葉巻を、ひとくち頂戴と廻しのみをした。
 ぼそぼそと、一見派手に動いている組織の内実を話してくれたりする。
 割り切れないものが多い時、無理して割り切ることはできないでいる。
 
 
 
■ 帰るところがあるのだから、そこへ戻るべきなのだろうと思う。
 坂道をゆっくりと下りながら、同世代の男ふたりは寒いぜと肩をすぼめたりした。
 
 
 

2005年12月16日

「緑色の坂の道」vol.3571

Photo Design / kitazawa-office
This file is created by kitazawa-office
No reproduction or republication without written permission

■パーソナルアドカード 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
Distributed by コニカミノルタ

「緑色の坂の道」vol.3571

  
       お局行進曲。
 
 
 
■ 暫く前、クレイジー・キャッツが歌う「実年行進曲」とかいうのがあった。
 それを聴いていたとして、誰だかがイウ。
 
 おれたちゃお局 文句があるかー
 背も高いが プライドたかいー
 機械にゃよわいが 男にゃつよい
 ばーかにすんなよ まーだこれからだ
 毎晩いっても 大丈夫大丈夫
 
 
■ このようにして、師走の夜をのしのし歩いてゆく妙齢本格派の集団。
 センター街でも道ができるという。
 
 

「緑色の坂の道」vol.3570

 
       師走のヤサグレ 2.
 
 
 
 
■ 新宿で飯を喰った。
 盛り場とは大体そういうものだが、隣の肘があたるかようなカウンターでとりいそぐ。 女三人、口を開けて食べながら喋っていて、緩やかに偏差値である。
 みなかったことにして次へゆく。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3569

 
       師走のヤサグレ。
 
 
 
■ という題でメールを書いた。
 同世代のジャーナリストと、なんとはなしに飲もうということになったからだ。
 場所は銀座裏。北千住でも良かったのだが、帰り際が困るという。
 昔浅草界隈で飲んで、電車がなくなり、そのまま曖昧宿に泊まって随分高かった覚えがある。指で触ると、過酷な畳であった。
 浅草というのも、夜が更けるとなかなかヘビーなところがある。
 
 
 
■ ひとりは酒を止められているとか言って、手羽先ばかりを食べていた。
 大根食わなきゃだめだよ、とサラダをあてがう。
 焼酎のおかわり、と叫ぶと、北澤さん出世したじゃないすか、こないだは一番安い奴くれとか念を押していたのに、と指摘される。
 やだね記者って、メモとっているね。
 150円くらいの階級上昇。おお、弁証法。などと言って男たちは騒ぐ。
 隣には妙齢の方々が楽しそうにサレテおられた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3568

 
       愛人。
 
 
 
■ 私は声が低い。
 何時だったか麻布十番の辺りをうろうろしていて、店のドアが開き、流れてきたのが「愛人」の中国語版だった。香港で客死した彼女の歌である。
 散々遊んで転がして。
 と、浅田次郎さんが書いていたかのような、一見薄幸そうに見えて実は腰の太い、いわゆるそういった仕事に関わる方々のテーマソングのひとつである。
 
 
 
■ 上海のカラオケスナックで、それが流れていたことを思い出した。
 何省から来ているのか。ほぼモンゴル付近ではないかと思われる彼女が太い腕でマイクを握る。少し毛深い。
 私はデジタル一眼でその姿を撮ったりもしたのだが、液晶で彼女達に見せるための場繋ぎであった。
 思い出すと緩やかに嫌味なものだ。
 
 
 

2005年12月13日

「緑色の坂の道」vol.3567

 
       裏からみた枯葉たち。
 
 
 
■ 東京の今時分、大き目な葉はプラタナスである。
 見事なそれを歩道に見つけると、これを踏んでいいのだろうかと僅かに思う。
 それから踏むのだが、例えばガード・レールの傍に少しばかり山になって銀杏の黄色があったりした。夜になるまでそれは残る。
 私は、新しいクッション・カバーをひとつ買おうと思っていた。
 中も薄くなってきているのだが、とりあえず節約である。
 とても爽やかに応対をする店にいって、無条件に信じているものだから個人的には寂しくなった。
 お飲み物は何にしますか。
 と、尋ねられているような気もしたからだが、いずれにしてもそれを求める。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3566

 
       愛と勇気とあんなもの。
 
 
 
■ すこしぼんやりしようと思い、タクシーを拾って虎ノ門にゆく。
 私はゴアテックスのジャケットで、その下はプレスを忘れた綿のパンツである。
 ガスの乾燥機を使うと一気に乾くのだが、生地には悪そうだ。
 2000円以下のすこし細い葉巻を買い、100円ライターで火をつける。普段使っているそれを忘れたからである。
 もうすこしなんとかした方がいいのではないかという密かな声も聞こえるが、何バーなんてものは、退屈な男たちが集まることが基本だと信じている。
 あ、どうも。
 などと言ってスツールに居る先輩諸氏に頭を下げる。
 
 
 
■ だが12月はざわついている。
 背中の辺りに、そういう空気が張り付いてきて、私は居心地が悪かった。
 若いバーテンが尋ねる。これからどこへゆくんですか。
 うん、埋立地で煙草吸ってるさ。
 彼もまた泊まりで、地下にある寝床で仮眠して戻るのだ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3565

 
       12月にできた友達。
 
 
 
■ という緑坂も、この季節定番である。
 私には定番のそれがあって、ネタに困ると堂々とそれを使う。
「みんな歌いながら通り過ぎる」
 などは、10年以上繰り返している。
 
 
 
■ 若いときというのはとかく技に走りやすいものだ。
 一定の年季を積むと技で濡れる訳でもないことに気がつく。
 手を握るのが好きなの。
 いや、そうでもない。
 別にいいんだあんなもな。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3564

 
       人生が福岡県。
 
 
 
 
■ あんた、ぐずぐずしているんだったら辞めてしまいなさいよ。
 昔みたいに身体使って仕事すればいいだけじゃない。
 と、細君に言われたというジャーナリストと酒を飲んだ。
 細君というよりも、もうすこし違う。
 奥さん何処。
 うん、福岡県。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3563

 
       人生が青森県。
 
 
 
 
■ という緑坂を、10年ほど前に書いた。
 昔からやや馬鹿だったのであるが、これが「ウスラ馬鹿」となるとほぼ救いようがないような気がする。薄いそれである。
 なにをしてもしなくても、男たちというのは突堤の先にいる。
 俺は何をしているんだろうなあ。
 わからないけど、二月の五所川原は寒いらしい。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3562

 
       飾りのついた四輪馬車 2.
 
 
 
■ セントラルパークの辺りには、観光客相手の馬車が並んでいて、と聞いたことがある。
 私はまだ見たことはない。
 もしかすると冬だけのものなのだろう。
 根拠なくそう思うのは、古いJazzのジャケットにそうしたものがあるからだった。
 当時のJazzメンはネクタイをしていて、二ヶ月分の家賃より高いスーツを着ていた。
 これでソフトを被っていると、終戦直後の愚連隊にも似てくる。
 どういう訳かズボンが太い。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3561

 
       飾りのついた四輪馬車。
 
 
 
■ 夜が明けてきた。
 冬の夜である。
 地下に降りて、古い水平対向二気筒のエンジンを暖気し、それから羽田のあたりまでゆければいいのだろうが、私は歳を取ったのだとおもう。
 〆切のようなものをひとつ送って、安いスコッチを嘗める。
 つまらないな。こんなものか。
 
 
 

2005年12月12日

「緑色の坂の道」vol.3560

Photo Design / kitazawa-office
This file is created by kitazawa-office
No reproduction or republication without written permission

■パーソナルアドカード 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
Distributed by コニカミノルタ

「緑色の坂の道」vol.3559

 
      - BREAKFAST AT TIFFANY'S -
       「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
 
 
 
■「ティファニーで朝食を」の設定が1943年。
 そのときホリーは20歳になったばかりだった。
 カポーティは作中で暗示するにとどまるが、ホリーは1930年代の不況に家族が離散した後取り残された白人小作農家の子供である。
 訳者の龍口氏はそれを「捨て子」と表現しているが、そこに親の意思があったかどうかは定かではない。
 弟は軍にゆくしかなく、その後戦死する。
 そして姉はと考えてゆくと、なんのことはない。
 例えば日本でも昭和初期、冷害のために身売りをせざるを得なかった東北の娘達と随分のところで重なっていることに気がつく。
 
 
 
■ ある晴れた朝、目を覚まし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね。(前掲:58頁)
 
 これは、本作の中で最も有名な台詞だろう。
 もちろん、ティファニーの中で食事をすることはできないが、例えば東京にある同名のそこから窓の外を眺めると、不当というべきか都会だからというべきか、オレンジ色の牛飯の看板が目に入ったりする。
 私は何年か前、若いカップルでごったがえすそこで憮然としていた覚えがある。
 ちょうどクリスマスが近かった。
 NYの本店では、確か売り子の人たちはガラスケースをあける権利を持っていず、高額な商品を見せてもらうにはいちいちフロアの責任者が鍵をあけなければならない、という話を読んだ覚えがある。本当かどうか確かめてはいないが、何ティファニーに限ったことではない。
 
 十何年。わしが望むのは、あの娘が金持になっていてくれればいいってことだけだよ。(前掲:16頁)
 
 NYの街角のバーの親父、ジョー・ベルはそういう。
 ホリーをアフリカで見かけたという噂を耳にして、二人の男は酒を飲む。
 半ばロマンチックな設定なのだが、金持にというところが俄かに具体的だった。
 
―――――――――――――――――――――――――
 
■ 随分と長く、この作品に絡んで書いてきた。
 当初、軽いお伽話かと思って読んでいたのだが、どうもそうでもなく、魅力的だがとても厄介な妙齢に知り合ったかのような気分もある。
 それはNYやアメリカについても同じだった。
 先の緑坂に記載した、農業安定局 FSA の記録がアメリカのサイトで公開されている。
 私はあまり外部にリンクを貼らないのであるが、この場合は例外として紹介してみることにする。
 
「アメリカン・メモリー」
・その中の「Documenting America」
・例えばドロシア・ラングの「MIGRANT MOTHER, NIPOMO,CALIFOLNIA,1936」
同様に当時のNYを記録したものはこちらである。撮影ウォーカー・エバンス。
 
 ここからまた、いくつもの物語も読めるのだが、別の機会に書くことにしたい。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3558

 
      - BREAKFAST AT TIFFANY'S -
       摩天楼まで。
 
 
 
■ NYについて触れる時、結局は1920年代から30年代にかけての狂乱と、大恐慌を背景にしなければならないのだろうという感触を私は持っている。
 例えばクライスラー・ビルの完成は1930年。
 直後にエンパイヤ・ステート・ビルが完成するが、そのときは1929年の「暗黒の木曜日」以来の未曾有の株価低落は既に始まっている。
 
 
 
■ 第一次大戦後、アメリカは好景気の波に乗る。JAZZエイジと呼ばれるそれである。
 失業者は減ったものの所得の格差は広がり、全体の42パーセントの年収は1000ドルにも満たなかった。ブルッキンズ研究所の報告によれば、トップにいる1パーセントの更に10分の1が、底辺を形成する42パーセントと同じ収入を得ていた。
 当時のNYには貧民窟に暮らすひとびとが200万人いたとされている。
 そして1929年の大恐慌がくる。
 この恐慌については、別に何度も書かなければならないものだろう。
 30代大統領、クーリッジは得意の名言を吐く。
「人々がどんどん職場から放り出されると失業が生じる」
「この国はうまくいっていない」
 市場経済主義者というのは、外から物を言うのが得意であった。
 
 
 
■ 一方、1930年代にはオクラホマで大量に難民が発生していた。
 小作農は土地を奪われ、25万、30万人とカリフォルニアに流れこんでゆく。スタインベックの「The Grapes of Wrath」にはこの間の事情が克明に描かれている。
 小作農の中には、第一次大戦に従軍した兵士たちも多かった。
 彼らは「オーキー」と呼ばれたが、当時の白人小作農たちの生活を、ニューディール政策の下、農業安定局(FSA。1937年に再移民局より改名)に雇われた写真家たちは膨大な記録に残している。
 FSA、ストライカーの総括の下、ウォーカー・エバンス、ドロシア・ラングなど、5人の写真家が雇われた。後に画家となる、ベン・シャーンなどの名もある。
 アメリカ南西部の農民達の窮状調査。
 この活動はニューディール政策の宣伝の意味が強かったのだが、写真史の世界では「アメリカン・ドキュメント」と呼ばれ、20世紀初頭、ルイス・ハインなどによって始まった社会的ドキュメンタリーの延長線上にあった。
 FSAの活動は、第二次大戦最中まで続けられたが、のべのネガ枚数は20~27万枚に及ぶという。
 それはドキュメントというにとどまらず、ある種アメリカのイコンになっていた。
 最も有名なそれは、ドロシア・ラングの「MIGRANT MOTHER, NIPOMO,CALIFOLNIA,1936」であるかも知れない。
 が、これは誰が撮ったものだろう。
 金網に手をかけるひとりの少女の写真があって、彼女は笑っていたりもする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3557

 
      - BREAKFAST AT TIFFANY'S -
       12月になって。
 
 
 
■ このところ会合が続き、薄い疲れが溜まっている。
 先週までまだ青かったこちら側にある銀杏が急に色づき、もうじきばらばらと銀杏を落とす音が響くだろう。隣接したところにある教会で、今日も誰かが挙式をあげていた。
 さてNYはといえば、随分寒くなっているに違いない。
 
 
 
■「ティファニーで朝食を」の中で、カポーティはヘミングウェイの名前を出していた。
 いわゆる第一次大戦後の「ロスト・ジェネレーション」を意識し、ある面ではそれを継承しているともいえるが、元々映画のための作品でもあったから、半分はからかっているようなところもある。
 文学史では有名な話だが「失われた世代」という呼び方は、ガートルード・スタインという女性が命名したことになっている。
 彼女は広い意味でのパトロンヌで、パリに遊ぶ作家達のサロンの中心・女王的存在でもあった。
「You are all a lost generation.」
 パリにいたヘミングウェイ達に向かって、「あなたたちはみんな、失われた世代なのよ」と言ったことになっているのだが、「陽はまた昇る」(1926)の序文にはそう記載されている。
 この場合の lost という言葉には、「途方にくれた、どうしていいか分からない」という意味があり、今英語でそれを口にしてみると、案外すんなり入ってくるようなところもあって心地よい。が、半分はいい気なものだという気持もある。
 
 
 
■「失われた世代」について書くと長くなるので避けたいものだが、結局彼らは「自由」や「民主主義」「栄光」や「犠牲」といった抽象的な愛国心や概念、いわゆる人道主義というものが、第一次大戦という総力戦でずたずたに引き裂かれてしまったという挫折感をもとにしている。
 例えば1916年、ドイツ軍がヴェルダン突破をくわだてた際には、セーヌ川沿いのフランス=イギリス連合国側は、数キロ前進のために死者60万人を出した。
 60万の死者というのは、にわかに信じられない数だが、全くレマルクの書く通りの世界が広がる。いわゆる「シカゴの屠場さながら」(武器よさらば)だった。
 当初アメリカでは、この戦争は不人気だった。
 しかし「防諜法」などの成立を経て、国家的規模で戦争協力へのプロバガンダが繰り広げられてゆく。アメリカ防衛協会の設立。徴兵制の採択。
 そのような中、ドス=パソスやカミングスら、若い作家・詩人志望者たちが競って従軍してゆく。当時、「野戦衛生隊」という組織があり、ハーバードやイェール、ブリンストン大学の卒業生の多くが「紳士志願兵」としてフランス軍に従軍した。
 これは正式な徴兵制を逃れる手でもあったのだが、例えばヘミングウェイは1918年、アメリカ赤十字野戦病院の輸送車運転手としてイタリヤに渡る。
 フィッツジェラルドも米軍の少尉任官試験を受けて三ヶ月の訓練を経るが、彼の場合は従軍を思いとどまっている。
 戦争の後、ドルの価値は高まる。20年代、アメリカは空前の好景気を迎えた。
 その金でパリに遊んでいたヘミングェイ達は、自分達が信じていたピューリタン的人道主義を疑うところから作家活動を始めてゆく。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3556

 
      - BREAKFAST AT TIFFANY'S -
       月の河。
 
 
 
■ 美人は10年しかもたない。
 ということを誰かが書いていた。
 エリオットの詩集でもめくろうかという気にもなる。
 
 
 
■ オードリー・ヘプバーンは1993年1月20日午後7時、癌のために亡くなった。
 晩年はユニセフの国際親善大使として、アフリカ奥地で精力的に活動し、その名声を第三世界の飢餓の救済、その広報活動に費やした。
 とは言っても、いわゆる南北問題を社会・政治的な立場から語った訳ではない。
 存命の頃の映画雑誌などを見ると、オードリーは貴族の血を引いていることが強調されている。「ローマの休日」で一躍世界にデビューした彼女には、そういう物語が必要だったのかも知れない。
 が、オードリーの父は大戦中、黒シャツを着てナチズムに傾斜していた。投獄もされる。母親も親派だったという記録もあり、戦後そのことは永くタブーとされていた。
 必ずしも精神的に恵まれた少女時代ではなかったというのが一般的な見方である。
 第二次大戦から僅か8年。1953年に制作された同作は、監督のウィリアム・ワイラーをして「これからは胸のない女性の時代になる」と言わしめたが、スクリーンの上ではご存知の通り、一部でしかそれは実現しなかった。
「麗しのサブリナ」で共演した、ウィリアム・ホールデンとの恋。
 初めての結婚は54年、俳優メル・ファーラーと。スイスでの挙式は有名である。
 メル・ファーラーはある種の才人で、脚本も書けば演出もする。オードリーとは四回目の結婚だったが、その後もカトリーヌ・ドヌーブなどと浮名を流した。
 流産と何度かの恋。出産と育児。
 
 
 
■ オードリーの子供時代の写真を眺めていると、理不尽なことだが私は、「アンネフランク」を思い出してしまった。
 つまり、戦争の匂いが薄く漂うのである。
「ティファニーで朝食を」の主人公ホリーが、NYのアパートの階段で歌う。
 演じるオードリー。
 かつてバレーをやっていたというその脚は、今冷静に眺めるとやや膝が目立ち、ふりむいた時の首筋は、32歳という年齢しては筋がはっきりしている。
 映画は原作に比べお伽話に翻訳されてもいたが、やはり何処かしら苦いものは残っている。
 この小説は、誤解を恐れずに言えば一種の「花柳小説」ではなかろうか。
 我が国では荷風や川端康成が描いたそれ。
 あるいは「花影」などで大岡昇平さんがその系譜を継いだようなものに近い。
 芸子は女給になり、そしてホステスと呼ばれるようになったが、NYではまた別のかたちを取っている。
 
 
 

2005年12月08日

「緑色の坂の道」vol.3555

 
       夢去りしマチカド。
 
 
 
 
■ 男というのは無駄な生き物だとおもう。
 ただひとしずくのために、格好をつけたりそうでなかったり。
 数年に一度だけではあるが、半ば出家したくなる師走の頃合、横浜は日の出町に泊まる。
 あるいは鶯谷界隈をうろつく。
 よってらゃいよ、と誘うリー・マービンが化粧したかのような元妙齢に誘われ、短い間立ち話をしたりする。
 あんた、どっからきたの。
 いや、北の方だよ。
 邪魔して悪かったな、と自動販売機で暖かいお茶を買う。
 そうもゆかないので、細く折った千円札を胸元に煙草のように落としたりする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3554

 
       イブのヒール。
 
 
 
 
■ 確かバブルの終わり頃だったと思う。
 表参道は今ほどブランドの店が並んでいなく、夜はもうすこし控えめだった。昼間はいったことがない。
 イブの前夜、私は代々木公園の方から車を流してきた。
 当時はドイツ車に乗っていて、スポイラーの下にラリーでよく使う大型のスポットを付けていた。
 交差点の辺りに何か光るものがある。
 避けようと速度を落とすと、それはベルトのついたピン・ヒールで、色は何色だったのか覚えてはいない。
 馬鹿な女だな、と思いながら、今になると片足でタクシーから降りている姿を想像もする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3553

 
       コートについて。
 
 
 
 
■ せんだって、ヘプバーンとケーリー・グラントの「シャレード」を見返した。
 年齢というのは首筋に出る。
 グラントが着ていたコートは、アクアスキュータムのシングルだったのだろうか。
 黒いスーツの上に羽織って走ると、ほぼ10歳は若くもみえる。
 オードリーが着ていた、襟の立ったジヴァンシーもそうなので、つまりラインと色なのだなと、おかしな処に感心もしていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3552

 
       ブルー・クリスマス。
 
 
 
 
■ 何故このようなことを書いているかというと、緑坂の「ティファニーで」を書いていて、すこしばかり気が重くなったからである。
 いわゆる中年になると、視えなくてもいいものまで視線に入り、気分は前立腺肥大である。
 君ってさ、生理重いだろう。
 とか、平気で聞くようになる。
 それにしても、カタカナでクリスマスと書くと間が抜けている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3551

 
       1958 マイルス 4.
 
 
 
 
■ 若い頃、額縁を買ってLPのジャケットを入れ、たまにはヒビの入った壁にかけていたことがある。
 額縁はバブルの頃の大井町の、赤いカード屋で買った。
 JAZZの世界では大体、ジャケットのデザインがいいものは演奏もそれなりである。
 独特の色使いがあって、一目見ただけでレーベルが分かるのだ。
 それは何かというと、例えば50年代のNYであったり、西にある都市の坂道を昇ってくるアート・ペッパーであったりした。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3550

 
       1958 マイルス 3.
 
 
 
 
■ あのカタカナの使い方は北澤さんでしょうっ。
 と、南国の梟に似た彼女に言われたことがあった。
 痩せれば美人なんだがなあ、と言うと、いいつけますよとかいう。
 どうしてひとがいい話をしている時に、店のおねーちゃんを呼ぶんですか。
 説明しがたい含蓄である。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3549

 
       1958 マイルス 2.
 
 
 
 
■ ディヴィスは、コルトレーンの入らないものに限る。
 と書いていたのは英国の作家、キングスレー・エイミスだった。
 私は吉行さんの訳でそれを読んだ。蕎麦やシングルモルトの薀蓄にも似ている。
 マイルスなどと馴れ馴れしく呼ぶことは許さない、などとエイミスは書いていた。
 どこまで本気なのか隙間なのか。
 ま、そこは流れで。
 成熟したなにがしかというのは、曖昧なものなのでアル。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3548

 
       1958 マイルス。
 
 
 
 
■ ジャケットは池田万寿夫さんだった。
 58年ごろのマイルスはいくつだったか、簡単に言えばロマンチックな演奏をする。
 車で横浜辺りまで流すには合わないが、パーキングに入れて暖かいお茶を飲んだりする。
 アルミの味が僅かに混ざり、それが普通になっている。
 
 
 

2005年12月07日

「緑色の坂の道」vol.3547

 
       Today 4.
 
 
 
 
■ 暫く前、何故かは分からないが、PCを二台ばかり組んでいた。
 最近扶養PCが多い。
 2.8とか2.9とか、見た目の馬力はあるのだが、不思議にOSが粘っている。
 試しに測定をしてみると成程そういうことであるのかと分かったような気にもなる。
 メモリとはマンションの平米に似ていて、旧式であれ広さには敵わないところもあった。つまりは排気量なのである。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3546

 
       Today 3.
 
 
 
 
■ 枯れてゆく手前のあざとさが、種田山頭火の俳句である。
 彼は風景を見ても自分のことしかみえていない。
 この甘さは、例えばIT関連に勤める中堅とかその部下の妙齢には受けて、つまりは分かりやすいロマンチックなのである。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3545

 
       Today 2.
 
 
 
 
■ ヘイグのピアノは、どちらかというと玄人受けをする。
 玄人とは、バークリーに留学して今はホテルで賛美歌の後ろにいる方ではなく、まあこんなもんでいいだろうかと、最後の水の旨さを知っている遊び人のことを言うのだと思う。
 そんなことどうでもいいじゃないか。
 と、真剣に徹夜してから思ったりもしていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3544

       Today.
 
 
 
 
■ アル・ヘイグを一日流している。
 ということは、半ば疲れているということで、確かに12月は〆切も会合も重なる。
 あるパーティの会場で、自由に煙草をとってくれと平積みにされている。
 一回貰ってから、もうちょっと欲しいなと戻ったら笑われた。
 いい酒出しているね。
 水はいまひとつだけれども。
 こういう客っていやだなあ。
 
 
 

2005年12月05日

「緑色の坂の道」vol.3543

 
      - BREAKFAST AT TIFFANY'S -
       ドライベルモット。
 
 
 
 
■ NYの街角にはいくつものバーがあって、そこには一癖もふた癖もある親父がいるという。
 私は馴染んだことはないが、ヤンキーズの試合ならテレビで見た。
 彼らは雇われている訳ではなく、結構勝手にやっているものだから、その歳まで独身だったりすることもある。パリ解放と等しく、離婚していたのかも知れないが。
 1956年ジョー・ベルは67歳だった。
 ホリーがアフリカ、東アングリアにいたのかも知れないという噂を聞き、ポールを呼び出して作った酒が「ホワイト・エンジェル」である。パーティパンチとは異なる。
 ジンとウォッカだけでつくるのか、それでどうしろというんだ。
 
 
 
■ どうもしない。
 ただ酔えばいいのだという気分の時、マティニに入っているオリーブが邪魔になることが時々ある。
 ジャック・レモン主演の「アパートの鍵貸します」の中で、時間の経過をはかるのに、オリーブを刺してあった楊子を並べる場面があって、つまりはまあ、泥酔ですな。
 今回「ティファニーで朝食を」を再読すると、ところどころに酒と煙草、多くは葉巻だが、が効果的に使われていることに気がついた。
 マティニを三杯飲んで随分と千鳥足になっている場面。マンハッタン。軽くバーボンを注いでいるところ。お祝いにはシャンパンで。
 仮にシャンパンが余ったら、葡萄酒のかわりに肉料理に使うといい。クリスマスにあける、安手のものでは味が出ない。消えてなくなりそうなものほど、無駄があってもいいのだろう。
 
 映画の中で「私」こと売れない小説家ポールは、妙齢本格派の燕のような設定になっている。何で食べているのか、そのリアリティを出そうとしたからだろう。
 ポールを演じたジョージ・ペパードは当時33歳。
「ローマの休日」のグレゴリー・ペック程の背丈と見た目の知的さには欠けるが、笑うといかにもハリウッド伝統の色男として、オードリーのエスコート役には相応しかった。
 彼もアクターズ・スタジオで演技の勉強をしている。ロマンスからハードボイルドまで、演技の幅は広い。
 服装の好みもよかった。
 例えば原作で、ポールがブルックリン近くで地下鉄に乗っているという記述がある。
 就職の面接に出向き、それがはかばかしくなく、また43年というのは第二次大戦の最中であるから、ふらふらしている男には徴兵の声もかかっていたのだ。
 プレスの効いたヘリンボーンなど着れる訳はないのだが、そこは映画の世界であろうか。まずは絵にならなければ仕方がないのだ。
 
 
 
■ ここで緑坂妙齢読者のために薀蓄をすこし。
 マティニとは、いわゆるカクテルの中の定番と言われるもので、「マルチニ」「マティーニ」「マテニ」など、いくつもの発音がある。
 基本はジンとドライベルモット。
 バーテンダーというのは、客の顔をみて作るものであるから、放っておくとジンはその店で何時も使っているものになる。ベルモットも同じだ。
 貴女はそういうことはないと信じているものの、甘いそれが次第にまとわりつくように感じた場合、まずはベルモットの銘柄を変えてもらう。
 どれ、と商品名を口にするのは品がないので、すこし甘くないものなどと言う。
 それで、イタリアのものではない緑色の瓶が出てきたらその店はとりあえずである。
 ジンは何にしますか、などと聴かれても、レディは答えてはいけない。
 まして「ジンの濃縮くれ」などと言ってはいけないのである。
 
 
 

2005年12月04日

「緑色の坂の道」vol.3542

Photo Design / kitazawa-office
This file is created by kitazawa-office
No reproduction or republication without written permission

■パーソナルアドカード 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
Distributed by コニカミノルタ

「緑色の坂の道」vol.3541

 
      - BREAKFAST AT TIFFANY'S -
       融ける雪のように。
 
 
 
■ と、ここまで書いて、私はすこしうんざりしているようだった。
 十二月だからからも知れない。
 もっと軽く触れておけばよかった、という気もしないでもない。
 東京は銀杏が色づいている。
 神宮の辺りには、まだ、日のある時間に近寄ってはいなかった。
 外苑西通りの外れ、プラチナ通りと呼ばれるその辺りを広尾方面に下った。趣味のいい名前ではない。午後の日差しは金色であり、銀杏の背が思ったよりも高いことに気がつく。ビルの影になっている樹だけが、まだ緑色のままだったりした。
 一本違うだけなのにこうして差がつくのだ。と思いながら、車のガラスは汚れている。 
 
 
■ こうなったのも、ただ悲しみが原因なんですよ。
 と、ブラジル人の外交官、ホセは言う。ホリーは彼と同居しそのうちに妊娠する。
 小説で「私」ことポールとホリーは、決して恋人同士にはならなかった。寝なかったのである。
 一般に、今付き合っている男のことをいちいち報告してくる女性というのはいるものだ。過去の男の数をホリーのように正直に告げる。だがそれも、数え方次第である。
 聞いている男友達は、大抵、彼女に一定の部分で振り回される。
 それを半分は楽しんでいるようなところもあって、手のかかる猫の相手をしているような気分にもなる。
 何故一歩を踏み出さないのかと自問しても、はっきりした答えは出てこない。
 まだ自分が何者でもないとき、つまりはやや長い青春の終わりなどにそうした女友達は際立つ。
 ホリーは自らの性格から事件に巻き込まれる。新聞沙汰になり取調べを受ける。
 そして遊園地で落馬し、流産してしまう。
 体面を気にするホセはブラジルに去っていった。実は本国に家族もあったのだ。
 NYには雑多な人種が住んでいるが、アメリカ社会におけるブラジルなど中南米の人々の位置づけは微妙であり、場合によると黒人よりも屈折した立場にあるものだという指摘を、80年代にNYに住んでいた大学の教員が書いていた。
 
 
 
■ 女は口紅をさしてからでないと、こういう手紙は読まないことにしているのよ。
(前掲:139頁)
 
 ホセからの手紙を預かってきたポールの前で、ホリーは強がりをいう。
 それから拳を口の中に入れて泣くのをこらえる。
 女性の会話の旨い作家というのがいて、その理不尽さ、感情の脈絡のなさ、可愛さ、愚かさなどを端的に書き留める。
 ヘミングウェイやフィッツジェラルド、あるいはチャンドラーなどもそうだろうか。
 今いくつか覚えている台詞を書き写そうとも思ったが、それも野