2005年10月28日
「緑色の坂の道」vol.3452
肩口 2.
■ 日本には転向問題というのは存在しなかった。
あったのは転職問題である。
と、看過したのは、平岡正明さんであったという。
古本屋で求めた「昭和史探訪 2 日中戦争」(角川書店版:三國一郎 井田麟太郎編)を眺めていて、そんなことを思い出した。
獄中転向の第一人者、鍋島貞親氏の言い分を、すこし白けた気分で読む。
よど号で渡ったかつての闘志が、どのように主体的に推移・変節していったかというドキュメンタリー「宿命」(高沢皓司著:新潮社)とどこか似た匂いをかぐ。
島耕作とよど号は、ある種、裏と表ではないかという気分を私は持っている。
「緑色の坂の道」vol.3450
秋の肩口 2.
■ 非常に誤解を招きやすい緑坂である。
ま、いっか、と思いながら続ける。
例えばこのような一文があったとする。
「このブログは、個人の責任において情報発信しています。
所属する会社の見解、方針とはまったく関係ありません」
そう断ってあれば、なにか舌禍があった場合でも逃れられるということなのだろうが、世の中はそう甘くはない。ただ大目に見られているだけのことではなかろうか。
これは「私人として参拝した」と言っているようなものなのだが、社会的な属性というのはトータルなもので、ここからはわたくし、ここからは業務、という風に明白に分けられるようなものではないのが実際である。
かつての侍代議士のように「下半身は私人であります」とか答弁し、笑ってくれる社会背景ならば良かったのだけれども。
■ ある種のブログは、今の社会における階級上昇のひとつの手段として機能していた部分があると思っている。
階級上昇とは、不安定な雇用時代における転職のひとつのツールを意味する。
端的に言えば宣伝塔である。
一部で話題になったブログから各種講演会に参加し、次にどうしても本を出し、その本を名刺代わりに次のステージを目指してゆく。
ほぼこれは、インデペンデントなクリエイター、写真家や物書きの歩いてきた道と似ているのだが、それがより手軽なネット、更に言えばレンタルブログに場を移行したに過ぎないともいえた。
■ 決してそれは悪いことではない、と私は思っている。
思ってもいるが、どちらも手に入れることは難しかろう。という気分も根強くある。
どちら、とは何を指すのか。それは読者の方々が想像してください。
今私は、かつて開高健さんが常宿していたという部屋を窓越しに眺めている。庭の見える二階の角部屋である。
個人の才覚でこの世の中を泳いでゆくということは、結構な綱渡りであろう。
開高さんの定期的な鬱と、その後のご家族の消息などを聞き及ぶにつれ、あの釣りへの没頭や食道楽などの戯れは、懸命に内面のバランスを取っていた所以なのだと実感する。
一市民が社会を批評するのも結構。
匿名あるいは実名で、夜半、政治や経済の出来事を語るのも、単身赴任の知的大衆には相応しい現代的趣味である。
けれども、それを続けていったある日、眼前に「ルビコン河」のようなものが黒々と横たわってることに気がつく。
渡るべきか、戻るべきか。今なら間に合う。
果たしてそうだろうか。
「緑色の坂の道」vol.3449
秋の肩口。
■ ジャケットを羽織るようになった。
といっても、私のそれはゴアテックスの黒いフィールド・コートである。
ここ二年ほど、そればかりを着ている。
余程のことがない限り、ホテルのロビーなどにもそれを着てゆく。
かつてはハリス・ツィードの上着を襟を半分立てたりして羽織っていたものだが、スラックスが面倒になったので皮底の靴とともに仕舞いこまれていた。
ネクタイをしなくていいというのは、さて半分は堅気ではない。
■ ネット時代になって、ジャーナリストが個人のサイトを持つようになった。
多くは、レンタルのブログである。手軽だからであるが、注意深く規約を読むと、その著作権や使用権などは母家にそのまま移行することも多い。
出会い系サイトと同じような仕組みなのだが、規約は誰も読まないところに小さく置いてある。
民法90条に反するから無効、という考え方もあるが、ところが争うまでにかなりの時間と経費を要する。
そうしたリスクを侵してまで、手軽だからということで一気に浸透したのだろうか。というよりも、著作権などに関する意識が乏しいのかも知れない。リスクは未だ意識されているとは思えないでいた。
ブログの持つ利便性は多々ある。が、プロの眼からするとシステム不在・デザイン不在ともいえ、感心してばかりもいられない。どんなものもそうだが、功罪があるのだ。
一時、アクセス数を誇るサイトも増えた。が、一皮向いてみるとその時その時の時事ネタを巧妙にとりあげ、あちこちの軒先にTBを勝手に打つことで成り立ってもいた。
戯画化されたところでは、自作自演もくりひろげられている。
■ それはともかく。
例えばジャーナリストだから、モノカキだからといって、組織を離れた個人になると、常に質の高いものを書いているという訳ではなさそうである。
ほとんど取材もせず、ネットから拾ってきた情報を加工して論評する。
畢竟、内容は似たり寄ったりになるのだが、通して眺めていると、その個人の立居地というのが透けて見えてくることもあった。
あるひとはマーケティングと称して世の中全部を語り始め、あるひとはITの技術革新に絶対の信頼を置く。
私も広告屋なので、マーケティングの基礎理論は学ぶ。意識する。
とはいえ、それで全てが語られると思ったら大間違いで、悪しき80年代バブルの遺産と言うべき側面もあることを白けた気分で思い出してもいる。仕事の上では、それを承知で一定の単語なり概念を使っている場合もない訳ではない。これはITの新技術も同じであろう。
話を一部ジャーナリストとその周辺のブログに戻す。
ありていに言えば、仮にその社の肩書きなどがなく、単独でそこに文章が投げ出されていれば、床屋談義そのままのものであるところも少なくはないように私には思えている。
床屋談義に参加することである種、コミュニティが成立する。それは非常に脆く、薄いものではあるのだけれども。
世の中がネット時代になって久しい。
だがネットというものは、あくまで個をさらしてしまうメディアではないかという認識を私は深めつつある。
社の看板を取ってしまったら、何ほども残らない。記者という肩書きを外すと、どういったものであるかが不分明である。
個としての取材は、業務以外には簡単にすることもできない。その苦労をしているのがフリーの立場の方々であるが。
成程、世に言う大組織のジャーナリストというのは、個になるとこの程度の認識でいるのか。それで成り立っている世界なのか。そんなこともないのだが。
というようなことが反射的に透けて見えるところに、誰しもがブログを持てるネット大衆化時代の利点があるのかとも思っている。
2005年10月26日
「緑色の坂の道」vol.3448
野火。
■ 週末、大岡昇平氏の「野火」(新潮文庫版)を再読する。
敗北が決定的になったフィリピン戦線での「人肉食い」を主軸とした小説であり、戦後戦争文学のひとつの金字塔であると評されている。
圧倒的で抑制の効いた描写。神とはなんであるか。
解説は、吉田健一氏。
初出は、昭和27年。手元にあるものは平成7年度で77刷を数えている。
■ 一体に小説というのは読みにくいものである。誰にでも読める小説というものがもしあったとして、実をいうとそれは「文学」ではないという気がしないでもない。
この小説の解説で吉田氏は次のように触れていた。
「彼が知識人であることを指摘するものがあるかも知れない。併し知識人であるということは、現代人であるということであって、人間が知識人であることを強いられるのが現代人というものの定義である」(前掲:181頁)
誰かが、大岡氏の「俘虜記」だったかに触れ、「あの戦争という愚かな集団的狂信の中において、これだけの冷静な分析をしていた男がいたという事実に驚いた」というようなことを書かれていた。
私は大岡さんの全集を読んだことがないので、これ以上のことは書けない。
■ やや長いが引用させていただく。
「私が静かに銃をさし上げるのが見える。菊の紋章が十時で消された銃を下から支えるのは、美しい私の左手である。私の肉体の中で、私が一番自負している部分である」(前掲:174頁)
一旦、軍事教練に出された三八歩兵銃はその遊底部分にある菊印にバッテンが加えられた。銃と人間の不足から、それらがもう一度回収され前線に送られる。主人公はそのようにして徴収された平凡な中年男である。
今の時代、「菊の紋章」をバッテンで消すなどという表現が、たとえそれが小説の中の必然であったとしても、果たしてどれだけの作家に可能だろう。
作中、銃を捨て、銃を拾う。十字架があり菊の紋章がある。
背後の水脈として大岡さんは象徴主義の手法を小説の中に結実させている。
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「これが猿であった。私はそれを予期していた(略)。
足首ばかりではなかった。その他人間の肢体の中で、食用の見地から不用な、あらゆる部分が切って棄てられていた。陽にあぶられ、雨に浸されて、思う存分変形した物体の累積を、叙述する筆を私は持たない」(前掲:155頁)
「後で炸裂音が起こった。破片が遅れた私の肩から、一片の肉をもぎ取った。私は地に落ちたその肉の泥を払い、すぐに口に入れた。
私の肉を私が食べるのは、明らかに私の自由であった」(前掲:159頁)
「現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解できない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である」(前掲:165頁)
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■ 暗闇の中で、山の稜線にちらちらと野火が見える。
そこは人の住むところであり、ある種観念の、あるいはその反対物の幻のようなものである。
平凡な主人公は戦後狂人として扱われる。些か長いこのフェイド・アウトが作品の構造を静かで確かなものにしていた。
文学作品から教訓めいたことを導くのは愚かなことであるが、近代の終焉などというわかったようなことを言うのは、まだ相当に早いという気がする。
○「青い瓶の話」vol.2411 99年7月26日 初出:読売新聞社 yominet.
「緑色の坂の道」vol.3447
雨夜 2.
■ 別件の〆切をひとつ終わらせ、ぐずらぐずらとデザインを試みていた。
バナーである。
置く場所があまり凝ったところではないので、比較的あっさりと作る。
色をどうするかを暫く迷ったが、他の環境で眺めると大差がないと聞いて少しがっかりもする。
多くの会社で使っている液晶モニターの色再現性は、ま、そんなものだというところか。
■ 最近、昭和初期の歴史と風俗に関わる本をぱらぱらと眺めている。
NYモノと並んでであるが、いったりきたりをしているような按配で、時々頭が混乱する。
その隙間に雑誌「丸」の古いものを風呂の中で読む。
「丸」というのは、旧日本軍と自衛隊マニア御用達の雑誌であるが、「軍事研究」よりは一般的である。いぶし銀のような読み応えがあって、とりわけ最後の長編手記が面白い。
勇ましいものはほとんどなく、その多くが負け戦に関わる体験記である。
インパール、白菊特攻。ほぼ全てが沈没した駆逐艦の記録。
山本七平さんの「私の中の日本軍」を、市井の人が回想したものにも似て、視線は恣意的で主観的なのだが、それだけ等身大でもあった。
大陸で女を買ったとか、都合の悪いことは大抵省かれている。
「俘虜記」の中に出てくる下士官や兵卒の様相を、彼らの立場から彼らの言葉で書いたものだとも言える。
こう書くといささか嫌味ではあるが、やはり大岡昇平さんは知識人なのである。
■ だが、死体の描写は「野火」(大岡昇平)に出てくるものとほぼ同一である。
まだ生きているうちに蛆が沸く。
まず眼から溶けてゆき、最後は水のようになってゆく。
と、南方で戦った兵士は必ず書いていた。
ガ島こと、ガタルカナル島で切り込みの夜襲をかけた際、有名な海岸での全滅写真があるが、米軍がキャンプでテニスをしていたから彼らはたるんでいる、と認識して重火器に突っ込んでゆく様も、残る証言として記録されている。
辻政信という参謀がいたが、ガ島には彼も関わっていた。
何が言いたいかというと、多すぎてまとまらない。
ただ、戦争というのはリアルなもので、本質は死体と、亢進した性欲ではないかと思うところもある。
「緑色の坂の道」vol.3445
暗闇坂くだる。
■ グリフィンズという葉巻を吸いながら、インスタント・コーヒーを飲んでいた。
寝癖を立てながらである。
ほぼ隣にあるホテルの地下にはバーがあって、そこにもシガーが売られているのだが、種類が少ない。時々よたよたと買いにいって、店員に驚かれる。何故驚くのか、服装でひとを判断してはいけない。
どうもここは、カウンターに焼酎が並んでいるので今ひとつである。
昔と大分違う。
ダンディズムとはやせ我慢のことだが、その始祖と言われるブランメルの評伝を読んでいると、斜に構えた二線級のお坊ちゃんの遊びであるとも言え、白けた覚えがあった。
2005年10月25日
「緑色の坂の道」vol.3444
暗闇坂のぼる。
■ せんだって部屋のセントラルのフィルターを掃除していたら、掃除機の先につけるアタッチメントがいかれた。
どこかに100円ショップはないものかと漠然としていたが、麻布十番の中にあることを思い出し、地下鉄の出口のところを曲がった。
十番というと、今はヒルズがあるので、どちらかというとそういう傾向である。
そこで飯を喰い、坂道のブティックに新作を見にゆくというのが、30代40代前半の独特なステータスになっている。
■「ぼぎちん」という小説があった。
解説は福田和也氏が書いている。
バブル期というものが、例えばひとりの女性にとってどういうものだったかということをなぞったそれは、金とSEXの三昧の背後に、おかしな学歴信仰があったことを記録していた。小説に出てくる舞台は十番の生活である。
主人公は男と別れNYにゆく。そこでも同じことを繰り返しながら、次第に何をすべきかを模索してゆく。
ある種の教養小説でもあるのだが、事態はそう旨くはゆかない。
これは男にも言えることだが、どういう異性関係を続けていたかということは、半ば身体に染み込んでいる部分がある。
昔の彼が、BMに乗っていたのよ、と言われた時、貝の味噌汁に砂が残っていたような気になることもあるからだ。
その時彼女は、とても不思議な顔をしている。
■ 十番のカフェで、マーク・ポスターの「情報様式論」の続きを読もうとすることは難しい。バルトであっても同じことで、フーコーならまだなんとかだろうか。
私は掃除機の先を買い、洗濯ネットを4つほど求め、細い暗闇坂を車で昇っていった。 韓国大使館の前を下ると、今日は日の丸の方々の総出は予定されてないらしく、警邏の警官もその背中が緩やかである。
「緑色の坂の道」vol.3442
異邦人。
■ 黄昏の銀座あたりを、中森明菜さんの「歌姫」などを聴きながら流していた。
「さん」付けする必要もないのだが、ま、そういうことにしておく。
ニコンF2用に、視度調整レンズを求める。
今すぐ使うものではないが、なければピントが微妙に合わない。
シュークリーム買って帰ろうかな、という按配である。
■ 私は昭和歌謡大全集のようなものが好きで、古賀メロディなどもよく聴く。
「誰か故郷を思わざる」などは、空で言える。
言えたからといって、マイクを握るようなことは少ない。
■ 芯の疲れる仕事がもう1/4ほど終わって、残るはサイトのデザインと導線になった。
いつもそうだが、デザインの雛形を作るときというのが最も集中する。
普遍的な色を捜す。それから文字の大きさを決める。
ここでもうすこし、という色気を出すと大体失敗して、POPならそれでいいのだが、時間を経てまだ通用するもの、という風にはなりにくい。
この後どっぷりと日常に入ることを知っているから、例えば妙齢の前半は、旅をする歌を好む。
2005年10月24日
「緑色の坂の道」vol.3441
ディア・オールド・ストックホルム 3.
■ 二次会の場で、代議士と一緒になった。元大臣である。
面白い話もいくつかあるのだが割愛。
隣に、昔赤ヘルを被っていたという団塊世代の方がすわり、大臣相手に床屋談義をしていた。
私立中学からそのまま上に昇ったということをその場で自慢している。
今は早期退職をして、あれこれなんだそうだ。
私はくたびれたので、途中でばっくれ、上にあるシガー・バーへ逃げた。
ソムリエに1300円で一番辛い奴、とか頼む。
1700までだと、いいのがあるんですけどね。と言われる。
■ ジン・リッキーにペルノを混ぜてもらったものを飲んで、ともかく漠然とする。
そういう名前のカクテルはないのだが、返還前の香港で一部の男たちに流行ったと、いい加減なことを言ってくたばっていた。
有線だろうか、マイルスがかかっている。
「緑色の坂の道」vol.3440
ディア・オールド・ストックホルム 2.
■ 皮底の靴は、10年ほど前に買ったCOMOである。
そう高いものでもなかったような記憶がある。
私はどちらかというと靴マニアで、チャーチからバリーなど、概ねのものは飯代を削って履いた覚えがある。週に数回が牛丼で、何が皮底かとも思うのだが、ま、そこは流れで。
イタリヤ物は、格好はいいが長く履いていると足が痛くなった。
かたちが綺麗なので、飾っておくにふさわしい。
同じように、靴下に凝っていた頃もあって、全てがウールのそれを銀座界隈で買い、ほつれてくると同じような色の糸で繕っていた冬の夜もある。
猫でも飼おうかとおもった。
■ 当時住んでいたところは、排気が外にでる大型のファン・ヒーターがあって、その前に靴下を置いておくと数時間で乾いた。
出始めのそれだったものだから、結構な音がした。
壊れたディスポーザーとともに、当時のモダン住宅みたいなものだったのだろう。
窓を開けると東京タワーが見えていた。
■ そういえばその会合で、制服を着たお姐さんに、どこで着替えたのと聞いた。
ホテルが用意してくれたんです。
彼女は答えたが、帰りはどうするの、と尋ねると、このままの格好でタクシーに飛び乗るのだという。
それは大変だな、そのヒールだけは脱いだほうがよかろう。
そうですよね。
とか言っていると、知っている顔の先輩格が近づき、北澤おまえは何をしているのだと後をまかせることになった。
「緑色の坂の道」vol.3439
ディア・オールド・ストックホルム。
■ 薄い眠りから醒めると身体が重い。
そんなに飲んだだろうか、と思い出すが、目の下に隈のようなものができていた。
壊れかけたソファの上で新書を二冊読む。
こちらが歳を取ったせいか、読み応えのある本が少ない。
■ 先日、皮底の靴を履いて会合にでかけた。
すぐ近くにあるホテルのエントランスで車を拾う。
ボーイはふたりいて、私がネクタイをしている時にはすぐに近づく。
君それはなにか間違っているんじゃないか、という気分もあるのだが、実はそうとも言えない。上海では車と腕時計で全てを判断する。
雨でなかったので、靴の底は削れずに済んだ。
■ 政治家がいたり役人がいたり、新聞社や代理店、テレビなどのひとたちがいる。
文化人もちらほらしたり、制服を着た綺麗なお姐さんも並んでいる。
昔なら少しうんざりしたところなのだが、何、私の仕事も虚業なのだから仕方がない。 ま、こんなもんだろうな、と思いながら壁の片隅で酒を嘗めている。
先輩格のどなたかがいて、時々挨拶などをしたりする。
「世は営業」と山本夏彦さんは書いている。
でも、投げやりなんだよなあ。
2005年10月19日
「緑色の坂の道」vol.3438
「緑色の坂の道」vol.3436
眠りながら飛ぶ鳥 3.
■ 背中に湿布を貼らせる。
蕁麻疹が出ているから、本当はいけないのであるが、痛いのだから仕方がない。
ここで自慢をさせてもらうのだが、私が使っている椅子は数年前に買った輸入品である。
広尾にあるショー・ルームにいって、あれこれ煩いことを言って試した。
ライセンスで国産のものも、その後出たらしいのだが、サイズが小ぶりになっていて、一番のいいところがない。椅子の上で胡坐をかいて問題がなく、また自由に動く袖がついていることが必修科目でもあった。
デザイナもモノカキも、胡坐をかいていることが多いのです。
■ 当時というか今でも、IT関係のデザイナやその他の方々が使う椅子は、見た目が第一である。座面がメッシュになっている某社のそれは、格好いいのであるが、長く座っているとズボンが擦れて粉になる。今はなき、銀座の日本橋よりにあったショップで店長に質問をすると、ともいえます、その場合には座布団を敷きますと答えていた。
例えば、高輪の国道沿いにあるクリニックの高名な先生はそのようにされていた。
昼のTVにも時々出ているから名前は売れておられる。受付の妙齢は不思議にやさしく、また冷たく、こちらの格好を見て馬の値踏みをしているのだろうと思われた。
冷たいお茶もその他もタダで飲める。私は何時も二杯くらいを飲んだ。
アレルギーの薬はそこで処方してもらった。
■ 椅子を換えてから、腰痛というのは車の運転以外には滅多におきなくなっていた。
それが、久しぶりに背中が痛くなったというのであるから、どれだけディスプレイに向きあっていたことだろう。
これも「これだけ頑張ったのだ、誉めて」という自慢である。
ないしは誰にともない甘えである。
日本には自然主義文学の流れというものがあり、言ったっていいじゃないか。
「動物のお医者さん」という漫画には、「オレはやったぜ」と何度も言う、暑苦しい犬が出てくる。
「緑色の坂の道」vol.3435
眠りながら飛ぶ鳥 2.
■ 18か9の頃である。
ローリング・ストーンズのライブのLPを乏しい金の中から買って、ヘッドホンで聞いていた。
ベルト・ドライブの大きなプレイヤーで、家を出た頃、それだけは背中にしょっていた覚えがある。馬鹿じゃないだろうか。
大体、中学とかの頃合にビートルズにかぶれる。
その後、不良に近づくにつれ、たるいストーンズのリズムが格好よくも思えていたりした。
■「ミックの意地が爆発する」
とか、LPの帯に書いてあったような記憶がある。
当時、ミックもいい歳で、半分は時代遅れだと言われていたかも知れない。
70年代が終わり、お洒落で知的な精神世界というものがトレンディになりかかっていた頃合である。「遊」なんて雑誌もあった。松岡さんも若かった。
それはともかく、キースの音は相変わらずで、旨いんだか下手なんだか。
カワサキのオートバイに乗っている奴なら分かるだろう、という按配の、工業地帯の男同士の煙草でもあった。川崎には「夜光」という地名がある。
■ ま、いいのであるが、「ミックの意地」」とかいう帯のコピーは今でもよく覚えている。これでは星野哲郎先生の演歌である。
なんでこんなことやってんだろう。
意地のタメだよ。
誰の意地なんだよ。
かかわった皆のもんだよ。
徒労だなあ。
徒労なんだよ。
「緑色の坂の道」vol.3434
眠りながら飛ぶ鳥。
■ 仕事は、1/3ほどが過ぎた。
途中、背中一面に蕁麻疹のようなものが出て、これはいかんなと考えた。
明け方、データDVDの入った宅急便を出しに外に出る。
地下のガレージから右に曲がるときに、タイアが大きく鳴って下品である。
何時だったか私がへろへろな格好をして下に降りると、エレベータの中でモノクロのスーツを着た妙齢後半の方と一緒になる。彼女は同じ階で降り、それからアメリカ製の四駆を駆って駐車場から出てゆく。
タイアのスキール音が嫌だった。
が、そうしたい訳ではなく、下が古いタイルだからなのだとも気がつく。
■ 雛形を元に画像を入れ替え、デザインをしなおし、概ね200近くを作った。
WSの能力をほぼ一杯に使っているようで、物理空きメモリがどんどん減ってゆく。
どういう按配か、画像を取り込む時に逆像になることがあって、納品した後に指摘してもらい、さっきまで直していた。多分TMPファイルが悪さをしていたのだとおもう。
HDDも、ひとつ不良セクタというのができていた。
一度空にしてやって、フォーマットする必要もあるのだろうか。
私の仕事は、ほぼ道具に依存している。
■ なにもそこまで、という気分があって、確かにそうなのだ。
ここのデザインを厳密にしなくても大勢に影響はない、という考え方もできる。
けれども、英字のフォントに中ゴシックを使っていたり、センターや基準線が取れていないのを見ると、これでは仕方ないだろうという気にもなる。
綺麗だと思えなければ、商品にはならないものだからだ。
私は、こんなことをしてなんになるのダロウナと思いながら、10日ほど前に買ったCRTの22インチ・モニターに向かっていた。
背中が痛い。
「プロの意地だよ」とか言いながら、それがどうしたともおもう。
2005年10月13日
「緑色の坂の道」vol.3431
インディアン・サマー。
■ ほぼ徹夜というか、午後に仮眠するという状態が数日続いている。
コニカミノルタの仕事が佳境に入っているからだが、これについては話すと長くなる。 言いたいことは沢山あるのだが、今に見てろよボクだって。
■ 一晩でデザインの雛形を詰める。
そこに100枚を流し込んでゆくのだが、バリエーションがあるので×3 とか 4に近い。
ほぼWSの性能ぎりぎりを使うことになる。
HDDがお亡くなりにならなければいいのだが。冷却のため外のアルミを一枚取り外した。
CRTモニターのキャリブレーションは数回くりかえしている。色のバランスが前のものとは違っているようで、やや赤みが強くなった。
これが本当に正しいのか、別のソフトや機器を使うべきなのだろうが、それは次の段階である。仕事場に数台ある液晶モニターは、どうでもいいやと放ってある。
秋にはパーティのようなものもいくつかある。このままだと、ある県というか地方公共団体の会合に出られそうにない。
別の〆切も、すこし延ばしてもらう。携帯が鳴る。
■ ある種の集大成というのは、短期間になされる。
デザインも、全く何もないところから生まれるのではなく、今まで持っている引き出しのようなところから組み合わされることが多い。
いずれにしろ、ここにこの文字を入れるべきかどうか。
バランスと余白を考えて、夜の庭を見ていたりもする。
10月だというのに冷房を入れていた。
2005年10月11日
「緑色の坂の道」vol.3430
「緑色の坂の道」vol.3428
「緑色の坂の道」vol.3425
日の移ろい 3.
■ 重さ33キロくらいあるモニターをひいこら言ってアトリエつうか仕事場に運ぶ。
有楽町の大手家電店の店員は、Mac担当だったこともあり、マニアであった。
彼は静かに断固としてCRTを薦めていた。
台車に乗せ、私が車を廻す間待っていてくれる。
ここで缶コーヒーなどを奢って、一服。
というのが本来は筋なのだろうが、昨今はそうもゆかない。
■ 設置してから矩形のスペースにうつぶせになる。
「からだがだるくて仕事がしたくない。若い日の日々はもう帰ってこない」
という島尾敏夫さんの一文が頭をよぎる。
島尾さんの「日の移ろい」は最上の日記文学のひとつだが、深刻な中にもじたじたと滲むユーモアに似たものがあって、それは、こうなったら仕方がない、笑うしかないだろうというような開き直りにも似ている。そう書くと分かったようで嫌なものだが。
昨年だったか、島尾さんの愛妻が入院している頃の日記が発表され話題になったが、そちらはかなり赤裸々なところがあって、私はまだ覗き込もうという気にはならないでいた。
「緑色の坂の道」vol.3424
日の移ろい 2.
■ 明け方、のろのろと仕事を続けようとWSの電源を入れる。
各HDDのチェックディスクが済むまで、壊れかけたソファで漠然としていた。
バチンという音がして、落雷だろうかと驚くと、EIZOのCRTモニターがお亡くなりになっていた。
暫く前から時々様子がおかしかったのだが、〆切に追われそれどこではないよ、とウソぶいているとロクなことはない。
これでは仕事にならないので、代替を捜しにネットで彷徨う。
22インチCRTモニター最後の一台を有楽町に買いにゆく。
CRTは昨年04年秋で生産中止なのである。
■ 同程度の性能の液晶モニターを買うと、なんということかしら70数万であるという。
実売も結構なものだろうが、納期が一ヶ月だとか。受注生産なのだ。
今使っているビデオ・ボードも違うものにしなければならない。
液晶モニターは薄くて結構なのだが、こと写真を眺めるにはまだ今ひとつのところがあるようで、この辺りはポジ・フィルムとデジタル一眼の画質の差にも似ている。
デジタルも結構で、私も多用しているが、最後の一枚となるとポジにはかなわない。
メーカーはメーカーの都合で動くものである。売れなければ仕方がないと考える。
結局私は、過去の遺産を継承することにした。
ディーラーに残っていた最後のW124、280辺りを選んだ、みたいなところだろうか。
次のメインCRTの代替の時には、液晶のプロ用も妥当な値段に落ち着いているだろう。
■ アトリエつうか仕事場を暗くして、モニターのキャリブレーションを取る。
それ専用のソフトがあるのだ。二度ほどくりかえし、くたびれたので別の日にチューンすることにした。
CMや商品撮影などをされるカメラマンの方が使うものは、デジカメからモニター、試しに出すインクジェット・プリンタ、それからCMYKまでをトータルで管理するソフトもあるのだが、フルセットで小型車一台分くらいである。
それが必要な仕事も確かにあるが、成程、写真というのも装置産業に近い部分があるのかも知れない。
色の管理については、ここ数年でかなり進歩している。
例えばAcrobat 4.0 が出た頃、ICCのプロファイルがどうしたこうしたと、色の管理に詳しい方とあれこれをしていたことを思い出す。その後、安酒を飲みにいった。
高田の馬場辺りで、口角泡を飛ばして議論していたこともあった。
2005年10月08日
「緑色の坂の道」vol.3423
日の移ろい。
■ ここでふと思い立って、島尾敏夫さんについて書いた緑坂を引っ張ってくる。
○昔坂 93年の4月。
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みんな歌いながら通り過ぎる。
■ 先日、島尾敏夫の「日の移ろい」という本を買った。島尾さんは「死の棘」の作者である。映画とビデオになっているから、視たかも知れない。
ぱらぱらと捲っていると、なかなか面白い箇所があった。写してみる。
八月三十一日
明け方に私はぐっすり眠っている妻の寝姿をしばらく眺めていた。腰が痛むらしく、ときおり、あっ、とか、おっとか声に出している。妻の性格がみんなその中に凝縮されているみたいな感じがしてきた。その声は妻のほかの誰も出すことはできない。
からだがだるくて仕事がしたくない。若い日の日々はもう帰ってこない。図書館に勉強にくる子どもらの声がきょうはことのほか横着にきこえ、とてもいやだ。
(島尾敏夫『日の移ろい』中公文庫版より)
■ 帰ってみると、自分の妻が部屋の壁に向かい、額をうちつけていた。
というのは、とてもこわい話である。そう思って読むと、じわじわと滲み出てくるものがある。しかし、妙に笑えてしまう。身に覚えがある。
「さんじゅうろく歳の秋だから、元祖天才バカボンのパパだから、冷たい目でみないで」
と、自転車に乗って歌いながら通り過ぎてゆこうかな、と言った按配である。
「緑色の坂の道」vol.3422
驟雨。
■ 矩形のスペースを出たり入ったりしながら「甘く苦い島」の編集作業を続けていた。
HDDにデフラグをかけ、DVDに焼き、プロセスを記録する。
HDDというのは記録媒体としては信用しにくいもので、壊れる時は一気にいく。
前に多くのデータを交換型のHDDに記録しておいて、ムゴーイ目にあった。それ以来リスクは分散するようにしている。
その後、角瓶を嘗めてへろへろになる。
空が白々してからの酒というのは、どうも過酷である。
通勤の方々が並んで歩く坂道を、道元坂のホテルからずるずる下ってゆく時のうつむき加減にも似ている。
だるい。
2005年10月07日
「緑色の坂の道」vol.3418
そこにいるだけのあいだ。
■ 〆切が重なって、昨夜は矩形のスペースにうつぶせになっていた。
秋だというのに寝汗をかく。
夜半もそもそと仕事場に入り「甘く苦い島」のジャンル分けの作業を進める。
いくつもある制約の中で、コピーと画像とのバランスがなかなか取れないでいた。
■ 作品を作るとかまとめるというような時には、半ば窯に篭るような時がある。
かつてEPSONの担当者が取材にきた時、出来上がったプレスには「アトリエ」とか書かれていて面映かったことがある。
スタジオであれ、アトリエであれ、ともかく作業をする空間ということであろう。
当時は高輪にいて、穴蔵のような仕事場だった。今は眼下に日本庭園らしきものが見えるのだが、時々催し物のようなものを開いていて夜までうるさい。
何時だったかおかしな夢をみたことがある。
長細い家の突き当たりに仕事場があって、その向こうは崖のある砂浜である。
砂浜の先には当然海があって、夢のなかで成程、海沿いの土地に暮らすのだろうかと考えた。
風が強く、サッシががたがたと揺れている。これでは車も痛むだろうなと思いながら、どことなく心細い気分になっていたことを覚えている。
■ ネットなのだから何処にいても仕事になるというのは唯の風説で、実際はそのようなことはない。打ち合わせで都心に出る機会というのはかなりある。
「夜の魚 一部」に出てくる東金のリゾート・マンションなども、隠れ家としてはいいのだろうが、あくまで隠れ家としてのことだ。
私は生きているのが嫌になると、川沿いの傾いた家とか低層の空きが目立つビルなどに逃げ込みたくなる癖があって困る。
麻布界隈の急な坂道にも、そうしたビルというか一軒家があってこころ惹かれた。広尾駅まで山をふたつばかり超える。歩くのはつらい。
そこで何をしているつもりかというと、それがよく分からないでいた。
2005年10月06日
「緑色の坂の道」vol.3417
青山あたり。
■ マイルスの「スケッチ・オブ・スペイン」の最後の曲は空腹に堪える。
惚れた女がいて、それと別れ、二年経っても忘れられないという時期に、ドイツの小型車で聴いていた。
路面の音が入ってくる。重いステアリングは減ってきたミシュランのタイアの突き上げを伝え、飛ばすとたまにキック・バックをくらった。
赤坂へ通じる陸橋はまだなく、青山墓地のコーナーでは、信号で停められることなく尻を流したりしていた。
感情を溜め込んで、それをひとつの方向に集める。
ボリュームをあげてみると、時々向こう側にいったかのようなトランペットである。
俺に構うな、と何か風景の中に立ち尽くしている。
2005年10月05日
「緑色の坂の道」vol.3416
灰色の瞳 4.
■ それはこーいちさんが不良だからですよ。
うるせ、不良でなかったらこんなことやってねえよ、とか言う。
■ せんだって、とある同世代のジャーナリストと酒を飲んだ。
「ジャーナリスト」という呼び方は「市民」と同じくらい嘘臭いものだが、立場もあるだろうから具体的には書かない。
いくつか、その筋の賞を貰ったりしている今が旬の人物である。
我々は煙草を分け合いながらカウンターで管を巻いていた。
昨今はゴールデン街などにはゆかない。
■ 彼が社からの呼び出しで戻った後、私はポークカツを挟んだサンドイッチを食べた。
食べたという上品なものではなく、喰ったというような按配である。
ピクルスが旨かった。
隣に10月だというのに原色のポロシャツを着た米国人がいて、私に話しかけてくる。
旦那さん、もうすこしゆっくり喋ってくださいよ。
と頼んだが、NYからきたのだというその出世したGIは、私にフィッシングの雑誌を見せて日米安保をしていた。


