2005年09月29日

「緑色の坂の道」vol.3400

 
       ジャンゴ。
 
 
 
 
■ ジプシーのギターを聴きながら、夜の高速を西へ向かった。
 森が近づく。
 その足もとに誰かがいて、白い脚が伸びる。
 誘う訳でもない、済んだ後でもない。
 黒い瞳がこちらをみていたが、それは弟だったのかもしれない。
 
 
 

2005年09月28日

「緑色の坂の道」vol.3399

 
       虫。
 
 
 
 
■ まずまずの天気だったが、夜になった。
 予定をとりやめ、一日部屋にいた。
 電話なんぞをしている。
 飯もとりあえずすこし食う。
 
 
 
■ 窓を開けると、虫の声がきこえた。
 月は出ていないが、薄い風がある。
 椅子の背に躯をかけると、背骨がごきりと鳴った。
 
_____
 
 
■ 盲目の小さな女の子がこちらを視ているように思った。
「よう、元気か」
 と、答えようとしたが、髭を剃っていないことに気付いた。
 
 
○昔坂 94年11月
 
 

「緑色の坂の道」vol.3398

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君の胸の先の音。

「緑色の坂の道」vol.3397

 
       発熱九月。
 
 
 
 
■ 久しぶりにうろついたせいか、夜半熱が出た。
 熱のあるときに見る夢というのは、不思議なものが多い。
 なるほど私はこんなことを押し込めているのか、と思えるものもある。
 かといって、夢分析などをするつもりはない。
 
 
 
■ おまえもいつも新しいことをやらなければならないから大変だろう。
 と、かつての同級生に言われたことがある。
 まあな、と答えたが、これには二つの側面があって、ひとつは技術の問題である。
 撮影にしてもPCの構築とソフトの操作にしても、全てが一時に新しくなるということはほとんどなく、段階を経てそうなってゆく。
 MS-DOSの知識が、PCの環境構築には最後のところで不可欠なように、そこからUNIXなどへ変化してゆくように、技術はある部分で通抵しているところがあるからだ。
 やりやすいかどうかは別にして、AFのカメラにMFのレンズを付け撮影することは多く、露出補正も絞りリングを廻して行う方が早いこともあった。
 
 
 
■ もうひとつの側面は、センスの問題である。
 一般に、こうした仕事はほぼセンスだけで勝負しているように思われる。
 であるから、いつも先端にいなければならないと。若いものが出てきたら困るだろうと。
 ところが、実はそういうこともないんですね。
 若者が作っているものというのは、ある種の流れの中にあることも多く、一気に広がるのだが消えてゆくのも早い。
 暫く前にあったロシアカメラのブームなどは、チープなライカごっこにも似て、これが味なんだよと言われても、そうですかという按配で眺めていることが多かった。
 飽和した中で、どちらに向かうかの問題でしかなかったのだろうという気もする。
 デザインにしろ写真にしろ、実は年輪のようなものというのはある。
 文章もそれは同じである。
 古くなるのは、風俗とかTIPSと呼ばれる上辺の技術であり、それには流行がある。
 いわば技術を相対化して眺めてゆく作業が必要になるだろうと思っている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3396

 
       オレの。
 
 
 
 
■ 谷啓さんが、ワイシャツのネームに「オレの」と刺繍してもらっていたということを何処かで読んだ覚えがある。
 大笑いしたのだが、つまりまあ、お仕立券付ワイシャツなんてものが、お歳暮などの中核を占めていた時代のお話である。ワイシャツを間違えることはほぼないが、これは作ったものなんだぜ、ということを内外に示したい気持というのは分かる。
 
 
 
■ そういったタトゥシールを売り出して、妙齢の腕やその横あたりに貼り付けて遊ぶというのも面白いかも知れない。
「あたいの」というのと連れでである。
 ちょっと省きすぎて分からないかな、本緑坂。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3395

 
       一円携帯とスキャバル。
 
 
 
 
■ 使っていた携帯電話の電池が持たなくなってきたので交換する。
 いくつかを眺めたが、不要な機能が多く、安いので構わないということにした。
 若いひとたち、例えば三十代の甘木君などは、最新のそれを使っている。
「こーいちさん、いいでしょこれ、200万画素」
 とか、見せてくれるのだが、なんだか凄そうであった。
 携帯は腕時計などと等しく、いわば時代の先端を行っていると自らに言い聞かせる、重要なツールのひとつである。
 暗闇で光ったりもする訳ですね。
 
 
 
■ いずれにしても新しいものというのは面白いのだが、ほぼその寿命は電池である。
 電池を買うよりも新しい機種の叩き売りを買った方が安い、というのは基本的に何処か間違っていて、それは私が昭和三十年代生まれだからでもあるが、光る海 光る大空。
 
 
 
■ 外出したついでに、背広をひとつ作る。
 スキャバルという生地メーカーのものである。
 裏地につけるタックが格好悪いので、隣にあったドーメルのそれをつけてもらう。
 なくてもいいのだが、そこは流れで。
 
 
 

2005年09月27日

「緑色の坂の道」vol.3394

 
       さてさて、旅はつづくもの。
 
 
 
 
■ 田舎の道はぬかるもの。
 という歌があって、美空ひばりさんが歌っていた。
 この後段の歌詞に地方からクレームがついて、最近は舗装されているのだと言われる。 股旅の映画の主題歌であるから、時は江戸時代であってもである。
 田舎の道は遠いもの。に変わったとか聞く。
 
 
 
■ それはいいのだが、半分そんな気分でぼんやりしていた。
 江戸へ何里。みたらし団子。
 まだまだ続く孤独な作業っとくらあ。
 自分で孤独とかいうと、青少年のようである。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3393

 
       城ヶ島の虫。
 
 
 
 
■ 今、コニカミノルタの仕事のため「甘く苦い島」の画像を整理している。
 はじめるとこれが厄介で、担当者はやきもきしているようだが、編集というのは外から考えるより手間のかかるものである。
 元データが60メガほどの画像を数百いじるのであるから、WSは時々限界に近くなって、CPU使用率が90になったりした。HDDの中でクロスリンクが起きないよう、チェックディスクのRをかけながら別のPCで仕事をしている。
 
 
 
■ 編集とは、簡単に言えばひとつの世界を再構築することに似ている。
 いくつにも読める物語を中に含ませてゆくのである。
 これをせず、ただ単品を並べてしまっても、読者あるいはユーザは手にとって眺めてみようという気にはならない。
 プレミアムという単語がブランド戦略の中にあるが、何故この雑誌にこの商品のタイアップが載っているかということを考えると、果たして何故でしょう。
 宝石でも洋服でも、地下の食料品売り場と同じ体裁では困る。
 Webも実は同じで、アクセスのしやすさなどを前面に出しすぎると、そこは100円ショップになってしまう。
 使いやすい高級店というのも、現実の世界にはあることを知らない。
 勿論、敷居は高いのであるが。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3392

 
       この里にすむひと 2.
 
 
 
 
■ カメラを持たない散歩というのは楽である。
 持っていると、つい被写体を捜してしまうからで、緑坂 3390 も、海の傍の堤防に頬をくっつけるようにして撮った。
 傍から眺めると、あのひとはなんで堤防にくっついていているんだろうと思われただろうが、夕方の漁港近くには人影がなかった。
 
 
 
■ あるときカメラの雑誌を眺めていて、自然を題材にする写真家の車の特集をしていた。四輪駆動であったりワンボックスであったり、様々だが、大抵は皆さん車の中に布団を持ち込んで寝泊りしていたりする。二段ベットになっているものもあり、ほとんどキャンプに近いところもある。年間それで4~5万キロも走るという。年に150日ほどとか。
 私はやや呆れたが、もしもう10歳も若ければそちらの方向にいっていたかも知れないという気もした。
 写真に限らないが、道具を使って表現する立場の人間は、どうしても深入りする傾向がある。一回は道具や状況に徹底的に凝る。徹底の度合いが、ええい、泊り込んでしまわなければ明け方のこの山は撮れない、ということなのだろうが、山に登るのはしんどい。
 
 
 
■ いつぞやの「花電車」に誘ってくれたカメラマンは普段、CMの仕事をしている。
 彼はシャコタンのメルセデスワゴンに乗り、ラーメンを5分で食う。
 皮シートはヒーターで暖められ、あったかいじゃん、と言うと、モデルさんを乗せるには不可欠な装備であると言っていた。
 持ち場によって、ノウハウは違うものである。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3391

 
       この里にすむひと。
 
 
 
 
■ なかなか、短い旅にいけないでいる。
「街角の煙草屋までの旅」という本が吉行さんにあったが、煙草を買いにその辺までというのも自分にとっては旅のようなものだ、という気分からつけられた題であった。
 この歳になると、こうしたセンスというのはよく分かる。
 また、旨いものだなともおもう。
 
 
 
■ 先日、白金台の界隈を歩いた。
 なんだい、近くに案外安くていい店もあるじゃないか、と、目黒で焼肉食べてからまたペペロンチーノをおかわりした。目黒の秋刀魚祭というのがあるそうで、どこへ行っても秋刀魚を薦められるのだが、まあいいやという按配で今年は外では食べていない。
 庭園美術館の庭を横目で眺めながら、とぼとぼと歩く。
 小さなビルをもぐったところに、酒場もあったりするのだが、何故かしらしゃらくさい気配なのであまりゆかないでいる。
 近くにあるスーパーで、そこの若いバーテンがポップコーンを一ダース買っているのを見て、おつかれさまと思った。
 
 
 

2005年09月23日

「緑色の坂の道」vol.3390

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この里にすむひと。

「緑色の坂の道」vol.3389

 
       月夜見。
 
 
 
 
■ 秋が深まる。
 それは傾くようなかたちで、ぬるいお茶をすする。
 
 
 

2005年09月21日

「緑色の坂の道」vol.3388

 
       そう旨くはゆかないよ 2.
 
 
 
 
■ クレイジーキャッツの後期の歌に、新五万節というのがある。
 今じゃゴルフの大ベテラン。
 谷啓さんが突っ込みを入れる。
 評判わるいよ むいてないんじゃない やめてしまえー(横位置辺りから、アンダンテ)

 
 
 
■ 身も蓋もないというか、見事な三段論法である。厳密には違うが。
 ネットの世界を眺めていると、ついそう言いたくなることがあって、たまにはイウのだが、なかなかこうしたセンスというのは理解されにくい。
 何故かというと、クレイジーの世界は、週刊誌を眺めながら毎日通勤していた大都市サラリーマンを原則として対象にしているからである。
 野暮はいうなよ、オレも馬鹿。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3387

 
       そう旨くはゆかないよ。
 
 
 
 
■ 漱石の小さな作品に、小さな娘と会話するところがあった。
 
「どうして井戸の中には水があるの」
「地面の下に水が流れているからだよ」
「じゃあ、どうして地面は落っこちちゃわないの」
「うん、そう旨くはゆかないよ」
 
 原文はどうなっていたのか本来は確かめるべきなんだろうが、億劫なのでやめる。
 それにしても、「そう旨くはゆかないよ」という台詞には、なかなか味がある。
 ここら辺の、何処か投げやりな気配ってのは、そう悪くはない。
 深夜、ちびちび酒を嘗めながら、独りディスプレイを眺めている大人の貴方には、説明せんでもいいとおもう。
 
 
○昔坂 vol.4 93年4月
―――――――――――――――――――――――――――――
 
■ この緑坂は3065でも使った。
 ま、いいんですけれども、何がいいたいかというと、昨今の、先へ先へと進もうとする新自由主義者ごっこの若い奴ってのは、暑苦しいなァということである。
 ここで全然関係ないが、青瓶を書き写してみる。これは97年くらいか。
 初出:読売新聞社 yominet.
 
        ネットワークの自由。
 
 
 
 
■ すこし大風呂敷を広げた題名だが、さておき。
 例のオウム事件の頃である。国家のなかに仮想的な国家をつくり、様々な各省庁を置いたことを評価する動きが一部知識人の間にあった。
 国家権力というものを相対化したという趣旨であろうか。
 全共闘とオウムとの相関関係を論じる書籍も出されていた。
 私は今まで、「オウム」という単語をほとんど使ってこなかった。
「某宗教団体」とか「新・新宗教」という言い方をしている。
 今回その固有名詞を使ってみたのは、現実から逃避する時代がそろそろ終わりつつある、という文学上での流れも生まれてきているように思うからだ。ただ、そのゆくえについてはまだ未知数であろう。サルトルの眼鏡なんかを思い出したりもする。
 さらに、事件から二年が経過し、破防法など社会的な影響についても一定部分で収まってきたように認識しているからでもある。
 
 
 
■ 当時、オウムに対して部分的ではあったにせよ肯定的な見方をしていた知識人の一部は、ややあってサイバースペースでの自由ということを唱え始めた。インターネットにおける自由な情報発信と交信が、国家や民族、組織の壁を乗り越えるというある種の期待、場合によっては幻想である。
 そうした雑誌を手にとってみると、彼等がオウムからインターネットに乗り換えたのではないかというような印象を薄く持った。活字が小さく、難解な言い回しなので雑誌は買わなかった。
 一面においてはそうした特性は世の中を変革してゆくだろう。人々の意識も社会構造も変わることになる。
 ただ、そう旨くはゆかないよ。鵺のようにかたちをかえ皆飲み込むようにしてずるずると移行してゆくものだよ、という気が私にはする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3386

 
         「呑んべ安」もしくは、
         それだけじゃないからね。
 
 
 
 
■ 坂の途中に泉岳寺という寺があって、そこにはかの有名な忠臣蔵、「赤穂浪士」の墓がある。
 近くに住んで随分になるのに、まだ墓そのものを眺めたことはない。
 普段は、門前にトラックの魚屋さんとかが出ている。時々観光バスなんかも停まっている。
 去年の今ごろだったか、その辺りが妙に騒がしいのでなんだろうと出てみると、丁度討ち入りの日にあたっていた。
 仕方なくカメラをぶら下げ人ごみを歩いてみると、帽子をかぶったご老人が無心にたこ焼を食べていた。バスのガイドさんが、旗を振っている。
 
 
 
■ 時は元禄十四年(1701年)三月、東山天皇の代で、時の将軍は五代綱吉。
 と、今最低限度の説明をしようと思ったが、急に面倒になったのでやめる。沢山本が出ていますから、そちらの方を読んでください。
 丁度今時分だったろうか、深夜ぼんやり起きていると、大映とか松竹とかの「忠臣蔵」が再放送になっていた。大体、「松の廊下」辺りから始まって、「殿、殿中でゴザル」と後ろから羽交い締めにされたりする。その後、無念の切腹。もう一度見たいと思っても、なかなかビデオにはなっていないようだ。
 市川雷蔵なんかも若い頃、浅野匠頭長矩の役をやっていたように覚えている。
 
 
 
■ 吉行さんと黒鉄ヒロシさんが、「堀部安兵衛」という本を出していて、先ほど本棚のようなところから落ちてきた(集英社文庫:1980)。全部読み通すのはくたびれるが、最後の対談に面白いことが書いてある。
 内蔵助が江戸に出てきた時に、比丘尼遊びをする。それはまあ、変わったものを試してみようかという、ワビサビのようなものだったのではないかという吉行さんの筆に対して、黒鉄さんは、いや、やっぱりケチだったんじゃないでしょうかと執拗に食い下がる。 
 
黒鉄:内蔵助は討ち入りの日も比丘尼遊びをしているという説がありますけど、そんな切羽詰まったところで女を買いにゆくとしたら、僕なら一世一代のを買うと思うんですが。 
吉行:討ち入りの日じゃなかったとおもうがね。比丘尼にすごくいい女がいたんじゃないの。
黒鉄:ですが、比丘尼というのは変態趣味でしょう。きっとご面相も立ち居振る舞いも悪いわけで、いい女であれば比丘尼なんかにならなくて済んだわけで。
吉行:女はそれだけじゃないからね。相性というものがある。
 
 
 
■ 比丘尼とは何かというと、尼さんの格好をした下級娼婦である。
 当然、頭を剃っていないともさもさ生えてくることになる。
 江戸時代というのは、結構いろいろあって、「江戸の遊女」という本にはその辺りのことがアカデミックに載っていた。今手元にないので著者の先生の名が思い出せない。確か東大の法制史の先生であった。
 尊敬すべきその名著によると、遊女というか女郎というのは、吉原だけで限定的に営業が許されていて、品川宿のそれなどは、飯盛女と分類するのが正しいのだという。宿屋一軒につき飯盛り何人と規定され、当然、取り締まりなども繰り返される。
 取り締まりを逃れる術のひとつとして、比丘尼などが派生したのかも知れない。この辺アイマイ。
 
 フランキー堺と石原裕次郎が出演した日活映画に、「幕末太陽伝」という傑作があったが、その中に当時の飯盛り女郎の風俗が描かれていた。
 しかし、なんでこの文章が、「呑んべ安」なのか、師走になると忙しい。
 
 
○昔坂 97年の界隈。元は品川の花魁の画像付。
 
 

「緑色の坂の道」vol.3385

 
       十六夜。
 
 
 
 
■ いさよい、と読む。名月の翌夜の月を言う。満月よりも出がすこし遅れるので、ためらうの意「猶予」(いさよふ)を当てる。

■ 電話をしようと思いながら何時も果たさない。
 余計な心配を掛けるかも知れないといぶかるのが一番の理由だ。
 とりとめのない話をしながら、相手の思惑を探るのは楽しい。
 
-------
 
■ 秋の燈にはひとなつかしさがある。
 坂を昇りながら、見上げると遠いマンションの窓に人影が見えた。
 それはすぐに消えたのだが、長いスカートを履いていたように思えた。
 宵闇の長さと暗さをおもう心には、夜ごとに月を待ち月をめでた心持が込められている。
 
 
○昔坂 vol.186 93年9月
 
 

2005年09月20日

「緑色の坂の道」vol.3384

 
       ミスティ。
 
 
 
 
■ エロル・ガーナーというピアニストがいて、彼は黒人なのだが、この一曲だけで知られている。
 なんてこったい、ロマンチックだな。
 と思ったのは17歳の時で、親の財布からくすねた金でLPを買った。
 
 
 
■ 十六夜の晩、ライトアップされた庭を眺めながらそれを聴いている。
 ゆるいアメ車に乗っているようで、55マイルで恋をする。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3383

 
       すこし曲がった秋の道。
 
 
 
 
■ 月の出ている晩、散歩はできなかった。
 少年の頃、寄り道をして暗くなる。
 妙に大便がしたくなり、かといってこの道端でするわけにもいかない。
 こないだまで夏だった。
 と、蝙蝠の飛ぶ黒紫の空の下を歩いていた。
 
 
 

2005年09月16日

「緑色の坂の道」vol.3382

 
       色止め。
 
 
 
 
■ 色は問わない。
 などということを書いていると、ドーナッテモ知らないよ。
 ということを昔からよく言われた。
 茄子漬の場合、ミョウバンを使うのだという。
 緑坂の妙齢読者はここで笑う。
 もしくは、こっちいらっしゃい、とイウ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3381

 
       花電車 2.
 
 
 
 
■ で、結局私は彼らの誘いには乗らなかった訳だが、理由はいろいろとある。
 顔出しNGの男優だから、と返事をしておいた。
「こーいちさん、そろそろ顔は露出してもいいっすよ」
 とか、言われることもままあるのだが、気がすすまない。
 
 
 
■ 五木寛之さんが、自らの写真の使用その他について、当時としては異例に神経質だったという話がある。五木さんの初期のエッセイにその旨が書かれているが、さすがにデビュー前に一定の苦労をされた五木さんらしいエピソードである。
 顔で売れる、というのはどの世界にもあるものだ。広告の基本である。
 が、今の段階で自らのWebなどに顔写真を載せているデザイナやモノカキというのは、個人的には俄かに信用しがたい。
 ま、偏見なんですけど。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3380

 
       花電車。
 
 
 
 
■ カメラマンのやや年の若い友人二人から、花電車のビデオを撮るのでそこに出てくれないかという話があった。
 プダラのサングラスをかけ、和服を着用し、ふむふむいやはや、サヨデッカ、という按配でそこにいてくれればいい、という。
 舞台は東京郊外のある地主の家。
 ごたぶんに漏れず、そういうところの嫡男というのはロクなことをしていない。
 
 
 
■ 彼らはプロであって、名前を出すと驚くような仕事をしている。
 一人はスチール。ひとりは動画の分野では相当なものである。
 ま、それはいいんだけど。
 確か何処かに、ウールではあるが和服が仕舞ってあって、羽織だけは絹だったろうか。 若い頃、それで首都高速に乗り、女のアパートに通っていたことがあって、馬鹿ではないかと思うのだが、そのようである。
 袂から財布を出したりする。料金所のオヤジが驚いた顔でこちらを眺めるのが楽しかったんだから、児戯みたいなものであろうか。
 
 
 
■ ビデオは日本ではDVDにせず、フランスの方へ流すのだという。
 だから面が割れないっすよ。
 ちょっと待てこら、昔の野坂昭如さんみたいなことさせてどうすんの、とは思ったが、彼らは野坂さんを知らない。
 ここで読者のために説明を加えると「花電車」とは、人生の出入り口付近で行う我が国伝統のお座敷芸である。色は問わない。
 卵であるとかバナナであるとか、沢庵、はちと無理か、そのようなものを切ったりしてみせる。水を吸い上げたり戻したりもする。
 それでどうにかなるのか、と言えばどうにもならないのであるが、男たちはすごいもんだなあと言って感動する。
 暫くたってから、心細くもなって、お袋の顔が浮かんだりするという話だ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3379

 
       海鳥たち。
 
 
 
 
■ 緑坂 3376 の画像は何であるか。
 よく見ると、画面左上の方向に疵のようなものがある。
 それが海鳥なのだ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3378

 
       ひじき煮る 2.
 
 
 
 
■ 月が満ちてくる頃合である。
 虫も低い声で鳴いている。
 都心でそんなことがあるのか、と尋ねられると、穴場のようなところもあるのだからうかうかできない。
 私はホテルの庭に出てみた。ライトアップされてなかなかのものに見える。
 そこでシガリロの封は切らない。
 かつて、眠狂四郎の作者、柴田さんは高輪の坂道の辺りに住まわれていた。
 高輪詣で、とか言って後輩の作家達が集まったりもしたという。
 これは泉岳寺が近いからで、吉行さんも堀部安部衛について、一冊ものにされている。 
 
 
■ 柴田さんのお住まいから、坂道をうねうねしてゆくとホテルがある。
 この系列のホテルは食事がいまひとつなので有名だが、ここだけは例外的に風情があって、とりわけ庭が適宜歩ける。私は最寄の駅で降りると、このバーで一杯を飲んで帰ることがままあった。
 そこのバーテンダーと何時だったかカクテルコンテストでばったり会って、向こうもこちらを覚えていたりした。
 佐藤まさあき さんの貸本劇画に出てくるような感じ、と言えば分かるだろうか。
 また顔を出さないといかんなと思いながら、ひじき煮ている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3377

 
       ひじき煮る。
 
 
 
 
■ 時々、台所に立つ。
 先日思い立ってヒジキを煮てみた。
 そういうものが食べたかったからである。
 すこし多く戻したので、ヒジキ汁というものにもする。
 
 
 
■ 無精髭を生やしながら、不機嫌な顔でひじきを煮ている。
 対外的に見るとそういうことになるのだが、誰も見ていないからいいとする。
 それからシガリロが欲しくなって、近くのホテルのBARに買いにゆく。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3376

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海鳥が横切った。痛いのは何故だ。

2005年09月15日

「緑色の坂の道」vol.3375

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まだこの坂を昇らねばならない。

「緑色の坂の道」vol.3374

 
       まだこの坂をのぼらなければならない 3.
 
 
 
 
■ おおむね、次の段階に移行する手前というのは空気が粘る。
 平行線を暫く続け、数をこなすことによって質的な変化が起きるのを待つ。
 簡単に言えば、しくじったネガとポジの本数によって写真の腕が変わるようなものだが、数をこなせばいいというものでもないのは、男女の間柄にも似ていた。
 
 
 
■ 昔、開高健さんと吉行さんの対談で、開高さんが中南米の男たちの話をする。
 まだ若いのに、経験が三桁を超えているということに驚く。
 吉行さんは軽くいなし「足踏みをしない訳だね」という。
 つまりはひとりの相手のところで、イチニと足踏みをしていることも大人の厄介には大事なことなんだという指摘である。
 開高さん驚く。ナルホドなあ。
 オイチニの薬屋さん、というのが戦前にはあって、大体は退役軍人が軍服を着て訪問販売をしていたという話もあるが、それとは関係のないお話。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3373

 
       まだこの坂をのぼらなければならない 2.
 
 
 
 
■ おおむねクーダラナイ緑坂であるが、あのとき私は若かった。
 93年であるから、ドウシタラヨカロ。
 このコピーはその後何度か使った。
 
 
 
■ ま、どうでもいいのだが、薄っすらと機嫌が悪い。
 こういうときはふらりと出かけ「海を見ていたジョニー」ごっこをしてくるか。
「風に吹かれて えみりの育毛」
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3372

 
       まだこの坂をのぼらなければならない。
 
 
 
 
■ 歯医者に行った。
 遅れると、
「どうして電話しないのよ」
 と言われる。
 女医さんである。
 
 
 
■「磨いてなーい。煙草すう。しかも治療を途中でやめた形跡がある」
「はあ」
「噛むとこなくて、困るでしょ。どうするの」
「ま、どうとでもしてください」
「ところで、貴方、結婚してるの」
 聞いてない。
 
 
○昔坂 93年10月
 
 

「緑色の坂の道」vol.3371

 
       月の影。
 
 
 
 
■ ガラス越しに空をみている。
 雲が流れるともなく。
 屋上に庭園があって、見事に手入れされているが、人影はない。
 灯りがひとつ消えた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3370

 
       from.
 
 
 
 
■ コニカミノルタの仕事のため、画像を選択している。
 頭をからっぽにしなければならず、それがなかなかできないでいた。
 ある地方自治体の担当者から、相談のメールがくる。
 困ったもんだよなあ、コンサルというのは対価がかかるのだが、それを理解してもらうのは難しい。
 
 
 
■ レンタルブログで何かご高説を書いているひとたちを、ぼかあ信用しない。
 と、甘木君が言っていたことがある。
 自腹を切りなさい、ということで、それは真にもっともな話だろう。
 利用規約をよく読むと、著作権から使用権までがそのサーバーを運営する会社に移行するというようなことが書いてある。あたかも、出会い系サイトの注意書きのような小ささでである。
 それを知ってか知らずか、裁判になれば問題がない、そういう条項は無効だと社の法務の人間に言われたから大丈夫、という方もいたが、それは眉唾である。
 彼に対してあまり親身になってくれなかったのではないか、という気もしているが、それを口にする訳にはゆかない。
 
 
 
■ といってここに書いているのだからドットハライ。
 気分が乗らないので、酒を嘗め始める。
 
 
 

2005年09月13日

「緑色の坂の道」vol.3369

 
       pride.
 
 
 

■「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」vol.28

 は、ある意味で最も緑坂的な作品である。
 読売新聞社 yominet に掲載した際、かなりの評判をとった。
 評判とはつまり、この作品がいいという声が思わぬところから聞こえてきた、という意味である。
 かつて、アゴスト「アート&デザイン」という質の高いデザイン誌があった。
 その012号に「甘く苦い島」は特集されている。本作はその中でもやや大きく使われていた。
 表紙が横尾忠則さん。その次が松永真さん。
 その暫く後だったから、今考えるともっと喜んでいい話で、どうもその辺り私は鈍いところがあるようだった。
 
 
 
■ HDDの中から、かつて書いた青瓶の一部を転載してみる。
 
 昨夜遅く、若いものから電話がかかってきた。
 PDFを見たという。私はくたばって最後の一杯を嘗めるべきか逡巡していたところだった。
「どうしてこれが、pride なんですか」
「どうしてって言われても、そういうことなんだよ」
 NYの、これはどこだったろうか。地名を忘れている。
 向こうからひとりの熟年が歩いてきて、彼は帽子を被っていた。
 私はほとんどノーファインダーでたった一枚だけを撮った。
 この時はFD28ミリだったと思う。結果的に壁そのものにピントが合っている。
(青瓶 2213 99年)
 
 
 
■ 向こう側に若い男の顔がある。洋服のモデルだろうか。
 手前を歩く老人は、ややうつむきながら歩いている。
 彼を撮るとき、車道に飛びのいて撮ったことを覚えている。クラクションを鳴らされた。
 私は、どんな風に年を取るのか。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3368

 
       アフター・ザ・ブラック・マンディ。
       履歴書をグロスで書いた 4.
 
 
 
 
■ つまり金融恐慌である。
 その後、アメリカがどのようにしたのかには異説あるが、いずれにしろ不祥事の責任者はほとんど処分されたという。
 それが原動力だったのかどうか、99年当時、アメリカはIT関係の好景気で半ば得意の絶頂にあった。
 
 
 

■「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」vol.26

 この画像は、NY、グランド・セントラル駅構内である。
 MoMaの展示作のようなモダン・アートの壁面の前に、男が二人立ってぼそぼそと話している。画面を暗く焼いているが、一人は黒人である。アフリカ系アメリカ人、と呼ぶべきだという主張もある。
 彼らは、仕立てのいいスーツを着ていた。
 
 
 
■ 私はエスカレーターを降りてくるところだった。
 なにか呼ぶようなものがあり、手に持っているMFのカメラで一枚を押す。
 露出もピントも実はマニュアルであって、下がってくる通路の上から反射的にシャッターを切った。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3367

 
       アフター・ザ・ブラック・マンディ。
       履歴書をグロスで書いた 3.
 
 
 
 
■ 部落、じゃね、「ブラック・マンディ」とは何だったのか。
 分からなければ自分で調べてください、というのが緑坂および青瓶の原則的な姿勢である。
 とかく批判を浴びるものだが、先日もコニカミノルタの担当者にそのように言われた。
「北澤さん、コール・ポーターなんて誰も知りませんよ」
 
 
 
■ そう言いながらである。
「震えて眠れ」
 ってのは63年の映画にありましたね、とか彼は言う。
 え、そだったっけ。そうだったかもしれない。
 覚えてないんですか。
 んん(ごまかす)、あなた相当マニアですね。
 
 
 
■ コール・ポーターを知らないひとがいても良いのだと思う。
 ヘミングウェイの名前だけは知っていても、フィッツジェラルドとその妻ゼルダの顔は誰も知らないように。
 西新宿にはいくつもの名前の通った会社が入っているが、その地下駐車場というのはさびしい。
 3000円を買うと一時間だけ駐車代が無料になる。
 が、それを適用している店が次第に少なくなって、ほぼ有名無実になってしまってもいる。
 私は1800円を払った。
 条例でアイドリングは禁止されているが、一台のセダンがエアコンをかけっぱなしにして、ずっとそこで眠っていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3366

 
       アフター・ザ・ブラック・マンディ。
       履歴書をグロスで書いた 2.
 
 
 
 
■ 元IBMのアメリカ本社にいたという40代の男性が、タクシーの中でインターネットラジオから録音したJAZZのテープを聴いていた。
 と、いう緑坂を随分前に書いたことがあったが、そんなことで驚いていたのも、もしかするとひとつの時代だったのかも知れない。
 97年の頃合、世の中はまだ牧歌的だった。
 あの頃、牛丼はいくらだっただろう。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3365

 
       アフター・ザ・ブラック・マンディ。
       履歴書をグロスで書いた。
 
 
 
 
■ テキストの文字列を検索するソフトで、HDDの中を眺めてみる。
「甘く苦い島」という単語が出てくるのは、「夜の魚 三部 南春」の辺りからであった。 97年の頃合である。
 ものはついでで、書き写してみる。
 
 
       十四 甘く苦い島
 
 
 
■ 二週間が過ぎた。
 通りはクリスマスの飾りつけで溢れてはいた。けれども、年々過剰になる豆電球の数とは裏腹に、町にそれ程の活気はなかった。ライトアップされた表参道のけやき並木を眺めるための渋滞がテレビ画面に映る。
 十二時を廻ると目立った人影がない。若者も意味なくぶらついてはいなかった。
 主要な駅前には客待ちのタクシーがアイドリングしながら目をしばたたせている。昨日までプログラムを設計していたような三十前の運転手が室内灯を点け、憮然たる顔つきでパソコン雑誌を捲っていた。
 
 
―――――――――――――――――――――――――
 
 とまあ、7年前というのはまだ何処か牧歌的である。
 続けて97年4月の青瓶から。
 
 
■「甘く苦い島」というのは、クレーの絵の題名であった。
 困ったときのクレー頼みというのが緑坂にはあって、夜魚 3、二部の出だしはそのようになる。
 アメリカで移民を制限する法律が出来たそうで、かなり波紋を呼んでいるのだけれども、そのアメリカでは1992年に大きな暴動があった。
 その暴動の主体は黒人ではなく、スパニッシュやコリアン、チャイニーズという多国籍多文化の移民達が主体であったとされている。
 大まかに言って、日本という国も急速にアメリカの跡を追っているようなところがある。周辺諸国からの移民や難民の話題が、ここ数年紙面をにぎわすようになっている。ものの本によると、人口流動化というのが地球的規模になっているんだという。
 
 
 
■ 終身雇用制度が実質的に崩壊し、年俸制や契約制が急速に普及する背後には、ゆきずまりがはっきりしてきた社会構造を、雇用の流動化によって乗り切ろうという思惑があるのかないのか。
 国内においてはそのような流動化を促進する必要があり、国外からは大勢の外国人労働者が流れ込む。
 そうした時代の変化を背景として、ベトナム人との四分の一混血の少女が物語に登場している。
 ぼんやりしながら、どう絡ませるか考えているんです。
 
 
 
○全41枚はこちら
 

2005年09月12日

「緑色の坂の道」vol.3364

       THE WAY
       PDF
       ADVERTISING
       LOOKS.
 
       「緑色の坂の道」-甘く苦い島-.
 
 
 
■ この作品集の標題は、パウル・クレーの1938年の作品から拝借引用している。
「甘く苦い島」(Insula Dulcamara)という言葉自体は、ラテン語の「Dulcis」(甘い)と「Amarus」(苦い)という単語からの造語になる。
 二極分離したもの、その概念の衝突。
 この頃のクレーが、義理の娘に書いた手紙から引用してみる。
 
「世の中は簡単に消化できる事柄だけでなりたっているのではないということにがっかりしてはいけない。重苦しさも結局は他の力とうまく平衡がとれるのだという希望を捨ててはならない。
 そして私達はそれぞれの好みによって、甘いものと苦いものを二つのお椀から取って味わうべきなのだ。注意深さと知性があれば、だれも大きな幻想に屈することはないだろう」
(「klee」Susanna Partsch著:80頁:ベネディクト・タッシェン出版)
 
 
 
■「大きな幻想」というのが、ドイツ第三帝国の野望であったことは言を待たない。が、そうした時代背景を抜きにしても、クレーの言葉にはある種普遍性が含まれている。
 近年好景気に沸くアメリカ。その近代化の過程や、現在と未来のある意味で集約的磁場であるNY・マンハッタン島をひとことで顕すのなら、なんという言葉がふさわしいのだろう。
 甘く、しかも苦い島。
 マンハッタン島というのは、外側を微かになぞっただけの人間にとっても、そこに住んでいる多様な肌と階層の人々にとっても、錯綜する概念と現実、その衝突と調整の場所のように思える。
 そして、私たちの住んでいるこの土地というものも、その色濃さや密度・構造は別として、甘く苦い島であるのだと私は思う。
 
 
 
○初稿:1999年12月。本作品集のあとがきより。
全41枚を眺めるにはこちら

「緑色の坂の道」vol.3363

 
        9.11の話。
 
 
 
 
■ 昨日、東京港区界隈は、突然激しい雷雨になった。
 雨の粒が縦に見える。
 しばらくしてあがるのだが、それからは湿度と不思議な大気の状態で、身体のあちこちが違和を覚える。
 世の中の構造が変わるとき、自分の中の組成もぎしぎしと軋むようなことがあるのだろう。
 
 
 
■「甘く苦い島 - Insula Dulcamara」オリジナルの掲載が終わった。
 この段階では41枚。
「ghost of a chance」で始まり、「塩だ」で終わっている。
 本作品群の中でも「グランド・ゼロ」つまりワールド・トレード・センタービルの画像がいくつかあって、それは既に歴史的なものなのだが、例えば
「甘く苦い島 - Insula Dulcamara」vol.27
  がそうである。
 向こう側にいる彼らの世界に、こちらの少年たち二人は決して入ることができない。
 近くにいることや眺めていることはできるのだが、もう一歩踏み出すとどうなるのかを彼らは知っている。
 
 
 
■ 全41枚を眺めるにはこちらである。
 この後、当時書いた「あとがき」などを掲載してゆく。
 
 
 

2005年09月11日

「緑色の坂の道」vol.3362

 
        地裁のパンチパーマ 2.
 
 
 
 
■ 時間があったので地下へ降りてゆく。
 まだ、人気の乏しい地下界隈に床屋があり、そこに貼ってある見本がアイパーであり、もうすこし言えばいわゆるパンチパーマであることに気が付いた。
 思わず小型のデジタルカメラを取り出そうと思ってやめにした。
 ここでパンチをかける人がいるのである。
 
 
 
■ それから喫煙室に入って漠然としていると、つまりここが社会学的にどういう場所であるのかということを認識する。
 なになにさん、来ていますか。
 と呼ばれるのは、明るいとこで見てはいけない、金ラメの文字の入ったブランド物のTシャツを着ている遥かかなたのお姐さんであった。
 昔、鶯谷でみかけたような気もした。
 彼女はどうしてこんなに色が黒いのか不思議である。
 その横には上から下までエルメスの人がいて、顔だけが平坦なのだが、かつての日活映画そのままに犬歯で長い煙草を咥えている。洋モクだ。
 歳の頃は、夜であれば25歳、実際はそれに10を加える。
 背の低い、青い背広を着た弁護士だろう方と共に喫煙室を出てゆく。
 
 
 
■ 苛々とニコチンを補給している男や女たちをサングラス(プラダ)越しに眺めている。
 これは何処かで見た光景なのだが、確か運転免許の講習や、あるいは免停の手続きの時の風情にも似ている。
 あるいは、外科で入った病院の、松葉杖をついて集まる喫煙室の空気だろうか。
 モータの廻る喫煙用機材の手前に、黒いシャツを着た四十代の男がいた。
 ちらちらと私を見るのだが、見ているのは私ではなく、自分の置かれた状態に対する確認であって、たまたま傍に私が立っていただけであった。
 彼の肌は黒い。かつてパンチだっただろう髪はすこし白髪で、忙しく眺める腕時計はプラスチックの液晶の黄色である。老眼が始まると使えないものだ。
 彼は一本を三回吸い、痰壷のような灰皿に投げ込んでは繰り返している。
 その日は台風が近く、ガラス越しに眺めると白い雲が、官庁街の隙間を忙しく盛り上がったり縮んだりしていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3361

 
        地裁のパンチパーマ。
 
 
 
 
■ 先の緑坂 3360 で、地裁で会いましょうというようなことを書いている。
 緑坂の読者は大抵が大人であるから、その意味も黒く分かってもらえるものだと考えているが、すこしばかりキツイものであったかも知れない。
 まだまだ日本の社会というのは、訴訟その他が仕事のシステムその中に組み入れられている訳ではない。
 かつて中央公論社から「訴訟社会アメリカ」という新書が出ていた。
 これは名著であるのだが、そこで語られていることは、あらゆるものが訴訟の対象になる米国の法律制度というものが果たして我が国で根付くだろうか、という問いである。
 
 
 
■ あるとき、私は東京地裁へゆくことがあった。
 妙齢関係の厄介ではないかと勘ぐるのは、ある意味で理由もあるのだが、そうではなく、つまり被告の立場ではないことを申し沿える。
 ま、東京で長いこと仕事をしていれば、そういう機会も出てきます。
 久しぶりに出かけた東京地裁の風情は、私が歳を重ねたからだろうか、駐車場の守衛が自分よりもまだ若く、そしてすこしの訛りがあることに気づくことから始まる。
 ここは午前九時に並んでください。九時半になるともう満員ですよ。
 グレーのサングラス(プラダ)をかけ、よたよたと綿のシャツを着ている私に告げる。 ありがとうございます。そうします。
 霞ヶ関の界隈は、青いチョッキを着た警邏の警官で溢れている。
 小さな日の丸を車に貼っていればそれで通るかというと、そうでもないんだな。
 
 
 

2005年09月10日

「緑色の坂の道」vol.3360

 
        甘く苦い島、再掲。
 
 
 
 
■ 別のMTに、「甘く苦い島」のオリジナルを掲載している。
 オリジナルとは、A4サイズのPDFで作成されたもので、全てにコピーがついたものを指す。
 初出は99年の読売新聞社、yominet.
 take1 と記載したものが、後に某プリンターメーカーから作品集としてまとめられたものを指している。全部で40数枚ほどになるだろうか。
 もちろん、編集を通過しているので、実際の枚数はもう少し多い。作品集としてまとめるに枚数制限があったためである。
 
 
 
■「甘く苦い島」は、このオリジナルを原型として、様々な形態に発展していった。
 JAZZミュージシャン、大石学トリオの演奏をバックに、Quick time 形式で画像と音楽とか融合したコンテンツもあった。これらは技術評論社のAcrobat 4.0の解説書籍に各社プラグインとともに同梱された。
 企業が主催する写真を展示するギャラリーや、もしくはIPPFなど各種展示場で、A3やB全にリサイズされたものが貼り出されもした。
 各種雑誌広告に使用されたものもいくつかある。
 詳しい経緯はおいおい書いてゆこうと思っている。
 
 
 
■ MTという形態がこうした作品をWeb上で展示するにふさわしいものかどうかは知らない。恐らくは不具合もあるだろう。
 商業版であるから、かつてはスライスをかけ四分割などして簡単に壁紙などにはできないようにしていたが、昨今、WebのページそのものをPDFにするなど、キャプチャーの技術が一般化しているため、その作業は省いた。
 かといって、著作権や使用権等を放棄している訳ではないのでご注意のほど。
 東京地裁の喫煙室に出かけるのはカンベンである。下の食堂もさびしい。
 こういうものも、英文で書かないと駄目なのかも知れないが。
 
 いずれにせよ、オリジナルを楽しんでいただければ幸いである。
 私はへろへろになりながら、タウリンも1000では効かねーよという按配で、作品の編集を続けている。
 それにしても、昨夜飲んだ発泡酒の黒い奴は不味かった。
 
●⇒ 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara」 Blog
 
 

2005年09月06日

「緑色の坂の道」vol.3359