■ 車を階段の手前に停め、ゆるい坂道を昇って墓地の中に入っていった。まだ虫が鳴いている。両脇には痩せた松の木がかしいでいる。
風は海の方からくる。白い波頭が僅かにみえた。
葉子は集合住宅の暮らしが気に入ったようだった。まだ上海にいる。皺だらけの老婆とともに買い出しに出かけ、しゃがみ込んでは女達と洗い物をした。自由市場の雑踏の中で、大きな口を開けて笑う姿をみていると、それでいいのだという気がしてくる。隣人の気配と人いきれのこもる集合住宅の闇の中で、私たちは膏薬を貼ったまま何度か交わった。
今頃、上海には江菫が着いているだろう。江菫は日本で働く北京からの留学生と恋に落ちていた。姉を訪ねるということで、一昨日成田を離れたのだ。
冴の骨の半分は上海に返すことにした。処理は走羽にまかせる。困惑した奴の顔を考えてもみたのだが、それよりすこし寒くなった。
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○「夜の魚」二部 外灘 完
・主要参考文献 後述
2005年8月 Archive
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■ 北沢の死体は確認されなかった。ハインドは浦東の高層ビルのひとつにぶつかりそこで炎上した。
「シャドウなのよ」
晃子が何時だったかそんなことを言っていた。その晃子は退院した奥山の部屋に足繁く通っている。吉川は借用したヘリを爆破されたことで暫くベトナム奥地に飛ばされている。本人は栄転だと主張していた。
一度だけ夢梁の部屋に案内されたことがある。壁に沢山の写真が飾ってあって、中に着飾った女達が写っているものがあった。何年か前の新年会の写真のようだ。金色の飾り付けが目立つ。
並んだ女達の一番後ろに、見覚えのある顔があった。眉を描き、くっきりした化粧をした冴の顔だ。白い中国服を着ている。微かに笑っている。夢梁に尋ねると、このシマの女達だと言う。冴は走羽の処にいたのだ。
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■ 上海の新聞やテレビには電視塔の一件は報道されなかった。沢山のヘリが忙しく上下し、死んだり傷ついた中国兵を片づけていた。天安門の時と同じだ。なかったことにするのだろう。黒い煙が空に昇ってゆく。
北沢のハインドに命中したのは、アメリカ製のスティンガー・ミサイルだった。アフガンにも投入され、多くのヘリや航空機を撃墜し、戦局を一変させたと言われる赤外線誘導方式の地対空ミサイルである。肩にかけ、相手の軌跡を予測しながら発射するらしい。
発射直後にハインドが旋回したこと、フレアを放射したことが至近での爆発に繋がった。フレアとはアルミ箔の細かな断片のようなもので、赤外線の誘導を拡散し妨害する。無数のフレアが燃えながら落ちてくるのを私はみた。
スティンガーを発射したのは走羽だった。
彼は夢梁を小型無線機で呼び、対岸の黄浦公園に逃れた。髪の短い朝鮮国籍の男と共に、アフガンから搬入していた寅の子のミサイルを発射したのである。
走羽とは携帯電話で一度話した。今は香港でほとぼりを冷ましている。残された覚醒剤を捌くつもりでもあるのだろう。
沢山の人間が死んだ。
地下のドームで私に親指を立てた若い男は、北沢の手下に射殺された。頭の後ろから拳銃で撃たれると弾は前面に放出し、顔がわからなくなる。旧日本軍もそのようにして密偵を撃ったのだと葉子の父が言っていた。
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六〇 水はいったいどうしたのだろう
■ 二ヶ月が過ぎた。
夜の横浜新道を葉山の方角に向かっている。
サンクのドアにはぽつりと穴が開き、ガムテープでそこを塞いでいる。病院が襲われた時、流れ弾が当たったのだ。
私は海のみえる高台に小さな墓地を買った。
冴の骨が半分だけ入っている。
千葉の方にも分譲霊園があると吉川は言う。奴の会社が持っているものらしい。
真壁から走羽に渡った小切手のうち一千万を私は貰うことにした。墓地を買い、残りは危険手当である。
あの後、私たちは上海の狭い集合住宅に連れてゆかれた。夢梁が中心となって世話をしてくれた。ごってりした膏薬をあちこちに塗られ、上海語しか喋らない老婆が毎日包帯を取り替えた。飯に肉や野菜をぶっかけたものを喰わされる。夜の小便は樽のようなものの中にする。それにも慣れた。
二週間ほど隠れていただろうか。葉子の父、成ケ沢が何度か尋ねてきた。老婆に義手の具合を自慢している。
銀色の眼鏡をかけた公安の男は一度だけ部屋を尋ねた。
私に資料を渡し、ここで読んでくれと言うと後は持ち帰った。
暫くして、日本では現役の閣僚のふたりが辞職した。
二三日の間、東方明珠広播電視塔の上空には銀色の戦闘機が低空で行ったり来たりしていた。Jian Ji 六型、ミグ一九戦闘機の中国版である。威嚇のつもりなのだろう。それも昼間だけだ。
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■ 五分ほどして、一艘のジャンクに引き上げられた。
中には吉川がいて、私をみるとウィスキーの小瓶を下腹から取り出して勧めた。
酒は塩の味がする。
ディーゼルエンジン付の小さな船には夢梁が乗っていた。小型無線機で何処かと連絡を取っている。
「生きていたんだからやらせてくれ」
吉川が葉子を口説いている。
「糖尿じゃなかったの」
私は夢梁の脚に触ってみた。白くて気持が良かった。
狭い船先で私たち三人は横になった。葉子の腹に頭を乗せ月をみあげた。誰の脚を抱いているのか、そんなことはどうでも良かった。
○「夜の魚」二部 外灘 E-了
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五九 秋月
■ 脚の方から落ちた。そのままかなり沈んだ。
葉子の手は離れた。
水が明るい。イロコイの破片が落下してくる。
濁った水の中を泳いだ。浮上する。
上空には爆発のガスがまだ残っていた。黒煙がひとかたまりになって、厚い雲のようにみえる。
葉子の顔を捜した。波間に白い顔がみえた。手を伸ばして近づく。
ハインドが空中に停止したままスポットを照射している。捜すつもりなのだ。
スポットは斜めに近づいてくる。
私は口を開け夜の空をみあげていた。
黒煙はゆっくりと去り、斑に糸を引いた雲の上に明るい月があった。
右手には旧租界地帯の建物がみえる。左の東方明珠は何本ものスポットを空に向け交差させている。空の赤い反射は炎上のせいだろう。
黄浦公園のあたりから一本の細い帯が伸びてくる。
鉛筆のような細いロケットだ。
ハインドの後部近くで光った。
打ち上げ花火を間近でみたような色と音だった。
ハインドは上昇し電視塔の方角に傾いてゆく。後部排気口の辺りがオレンジ色に燃えている。
暫くすると高層ビルの影から爆発音が届いた。
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五八 墜落
■ ハインドが目の前で急降下した。気が付くと浦東新区を一周し、電視塔が反対にみえる処まで出ていた。下は黄浦江だ。
軍用ヘリの馬力はすさまじい。
急降下から急旋回し、イロコイの前にその鼻先を向けた。ホバリングして空中に停止している。
私たちは黄浦江の上空数十メートルで向き合った格好になった。下は夜の黒い川だ。
ロシア人のパイロットが吉川に合図した。無線機のスイッチをスピーカーに流す。
「そろそろ遊びも終わりにしましょう」
北沢の声だ。鼻先の機関砲がこちらを向く。
赤い炎がみえた。衝撃とともにガラスが割れた。
「とびこめ」
私は大声を出した。ロシア人のパイロットが撃たれた。
次はロケットだ。バラバラになってしまう。
葉子の手を引き、イロコイのドアから外に飛び出た。
吉川が続いたかどうかはわからない。
長い声を引いて私たちは落下した。手と足がおかしな方向を向く。
川面が近づく。
その時、上空のイロコイが爆発した。
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■ 左右に流れる夜の高層ビルの光景を、私は綺麗だと思った。
私は操縦席の屈曲したガラスから前をみていた。巨大な軍用ヘリが排気口を赤く染め、ゆっくりと左右に傾いている。ハインドの双発イソトフ・ターボシャフトの低いエンジン音が聞こえる。
イロコイ側面のドアを開け、吉川がコルトを何発か撃った。吉川もコルトが好きなようだ。葉子もAR一六を撃った。拳銃弾はとどかず、小口径ライフルの弾はハインドの分厚い装甲に小さく火花を散らせた。
「テールローターも装甲されてんのか」
ライフルくらいではどうにもならない。イロコイの脚に吊ったロケットは、一発目の反動で斜めに傾いてしまっている。
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■ その時、展望台の背後から黒い影が飛び出てきた。
ヘリだ。私たちのイロコイの倍ほどの大きさがある。両側に翼のようなものが付いている。回転するローター音と低いエンジンの唸りが聞こえる。
髭づらのロシア人が大きな声を出した。
「なんで中国にハインドがあるんだよ」
私は吉川に毒づいた。
「知らねえよ」
Miー二四、ハインドは旧ソ連の攻撃用ヘリコプターである。アフガニスタンではゲリラ(ムジャ・ヒデン)討伐用に投入され、その強大な火力で空飛ぶ機械化歩兵戦闘車とたとえられた。西側の攻撃ヘリとは異なり、兵員を輸送することができる。機首に十二・七ミリ機銃、両翼に各種ロケット砲を装備していた。
独特の並列に並んだ丸い操縦席の中に、白っぽい服の男がみえた。
北沢だ。奴はハインドに乗って脱出をはかるつもりだ。
ハインドの機関砲が火を吹いた。
夜の闇の中で、それは一本の帯のようにみえた。
発砲は威嚇だった。ハインドはゆっくり旋回すると、浦東の高層ビルの方角にそのグロテスクな鼻先を向けた。
「おまえだってアフガンにいたんだろう、なんとかしろ」
吉川がロシア人に言う。機体を傾け、青と白の民間イロコイはハインドを追った。
低空では速度が出ない。それはハインドも同じだった。軍のレーダーを恐れてか、ビルの間を縫うように飛んでゆく。夜間ではあっても赤外線ノクトビジョンの搭載でパイロットには地形がみえているようだ。
幾つもの高層ビルをかすめた。
図体のでかいハインドがすれすれに傾くと、工事中のビルのパイプがパラパラ落下していた。風圧がすごいのだ。
ロシア人パイロットはハインドのすぐ後ろにイロコイをぴったりつけた。アフガン帰りというのも嘘ではあるまい。
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五七 ハインド
■ ヘリに乗り込んだ。私はヘリコプターに乗ったことがない。高いところは好きではないのだが、そうもゆかない。
速いエレベーターのように斜めに上昇する。
浦東公園の上空に戻った。走羽を援護しなければならない。
低い位置で捜したが走羽の姿はない。髪の短い男もいない。小型無線機で呼んでも応答はなかった。
半分程炎の上がった戦車の両脇に中国兵の姿がみえた。ヘリに向けて発砲してくる。
吉川が上海ビールの瓶で作った火炎瓶の先にライターで火を点けている。
「こんなもの作ってたのか」
「ヘリから投げるのは始めてだ」
ロシア人のパイロットが何かを言っている。操縦桿を引き、ヘリは上昇した。AKの銃弾で床に穴が開いた。
火炎瓶は下まで落ちる間に布の火が消えてしまう。横転し炎上する軽車両の傍で発火したものが一本あった。
「せっかく作ったんだからな」
吉川は葉子とともに火炎瓶を放っている。
目の前に東方明珠広播電視塔がある。高さ四百六十数メートル、ふたつに分かれた球形の展望台、その上の部分が丁度眼前にあった。
スポットが照射されている。展望台の窓から、こちらを指さしている女の姿がみえた。
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