2005年7月 Archive

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■ 聞き覚えのある声と言葉だ。上海語である。
「よお、どうしたんだ。こんな時間に」
「今ね、オオサカのホテルにいるの。コウベの知り合いはみつからなかった」
 江菫の声だ。そんなことだろう、と私は思った。
 もともと、神戸・三宮界隈の南京街には、中国人をはじめとする外国人が沢山住みついていた。裏通りは「ドロボー横町」などの名称がつき、怪しげな日本語を話す外国人が夜になると露店を開いていた。南京街は神戸のカスバと呼ばれ、小高い丘の上に立つと、波止場に停泊する香港からの貨物船が何時もみえていたのだという。
 経済成長とともに地下街ができ、「タウン」などと呼ばれる。波止場はポートピアと名前を変えた。路地が消え、街全体からいかがわしい部分が急速に消え失せる。その事情はどの港町も同じだ。
 
 いかがわしさのない国際都市なんてのは、パンツを二枚履いた若い女のようだ。清潔そうにみえるが奧が臭い。
「明後日ね、トウキョウにゆくわ。よかったら電話してもいいかしら」
「君のビザは短期か」
「え、そう」
 留守番電話に吹き込む方法を教え、私は電話を切った。
 江菫がくるのか。困りもしないが、それで良いという訳でもない。
 江菫は来日の目的をはっきり言わなかった。おそらく、短期滞在ビザで働くつもりでいるのだろう。
 短期ビザは、最長百八十日までの滞在を許可している。現在の日本には、常時二万五千人余の英国領香港籍を含む中国系の人々が短期滞在していると言われる。その全てが観光であるとも思えないが、この数字を多いとみるかは微妙なところだ。
 働くつもりなら吉川に聞いてみるか。
 考えが流れ始め、私は奥山がベットの上で渡したメモのことを思い出した。メモにある番号は、おそらく女だろうと思った。
 ようやく立ち上がった画面を消し、もう一台の電源も落とすと、私は事務所を出ることにした。明日、連絡をしてみるつもりになっている。

 
 
 
 
■ 午前二時を廻った。
 私はハード・ディスクにMOからデーターを移していた。
 その夜、私はとある容器メーカーのコピーを考えていた。プラスチック容器専門の会社である。その会社は、一リットルのペットボトルから、ポンプ式の様々な容器まで、およそ生活に関与するプラスチック製の容器ならそのほとんどを製造していた。上海にゆく前から、何か適当なものがあったら社内用のポスターに幾つかを考えてみてくれ、と担当者に言われていたのだ。
 素案の文面を幾つもベタ打ちし、手持ちの写真と組み合わせてイメージを作る。片一方の機械は懸命にデーターを移している。光磁気ディスクの回転音はかなり耳に触るものだ。
 
 私は上海の東方明珠広播電視塔の夜景を使うことにした。
 電視塔は高さ四百六十数メートル、二十一世紀にむけ中国開放政策の拠点となる浦東新区総合開発地域のシンボルである。
 旧租界地帯に並ぶ一九二○年代の建築物に照明があたっている。向こうに電視塔がみえている。当時の短い狂乱と今の時代とが奇妙にシンクロしているようにも思われる。
 通りには沢山の人が歩いていたが、写真には映らない。シャッターを開放して撮ってみたのだ。ピントも甘くあまり出来が良いものとは言えないが、どこか泥臭い近未来の都市の風景がそこにはあるように私には思えた。
 写真を加工するソフトで、画面の一番手前に一本のペットボトルを置いてみる。透明なボトルで、三分の二程水が入っている。これは昔スタジオで撮ったものだ。ボトルの中で水が僅かに波打っている。
 重ねてみると、光の具合が背後の写真と異なっていた。ボトルだけが浮いてしまっている。ボトルだけのデーターを取り出し、触っていたら機械が突然ハングした。メモリが不足したようだ。仕方なくリセットする。フォントを登録しすぎたのか、立ち上がるのに時間がかかる。
 私は煙草を吸うことにした。今日二箱目を開けた。
 実撮影しなければ無理なのかも知れない。どの場所で撮るべきか、私はぼんやりと記憶を辿った。
 電話が鳴る。ファクスかと思うと、そうではなかった。

 
       十 梅雨寒
 
 
 
 
■ 薄い風邪が躯に入り込み、なかなか抜けなかった。
 翌々日、私はのろのろと自分の部屋を片づけ、下北沢の晃子のマンションに車をとりにいくことにした。あの夜、晃子は私だけを降ろし、吉川とともに坂を降りていったのだ。
 ぽつぽつ雨の降る午後、学生ばかりが歩く街を抜け、私は駐車場に歩いた。近頃、空き地に時間制の駐車場ができている。車は晃子のマンションから五十メートル程離れたところにあった。
 私は傘を持たなかった。頭がすこし濡れた。
 フェンダーの裏に、磁石で張り付いたキー・ボックスがある筈だ。晃子にそこに鍵を入れておくよう言った覚えがある。
 捜したが、四隅にはない。右手が泥で真っ黒になった。
 
 これだから女ってのは、と煙草を取り出し呆れることにした。
 一本を吸っていると雨が本格的になった。躯をかがめ、真剣に捜すことにした。リアのバンパーの下、マフラーが出ている鉄板の折り返しにキー・ボックスはあった。なんのつもりか、と一人で腹を立てていると、ボディと磁石の間に紙が挟んである。
「バチよ」
 と、女文字で書いてあった。
 なんのバチなのか心あたりはない。
 しかし、そう言われるとそうなのかという気分も浮かんでくる。ファンを廻し、車の中で頭を乾かした。また風邪をひくんだ。
 私は世田谷の細い道を、代々木上原の坂道にむかってのろのろ進んだ。
 表参道の終点で信号を待っていると、通りに向かい並んでお茶を飲ませる店がある。若者やそうでもない者が脚を組み、信号待ちをしている車の列を眺めている。彼らは楽しいのだろうか、よくわからない。
 私は自分の事務所に寄ることにした。同じ港区でも山手線の外側は雰囲気が全く異なる。事務所のあるマンションは古いアパートを取り壊して建てられたもので、ほとんどがワンルームである。築二年と聞いているが三分の一程が空いたままだった。
 裏手の駐車場にサンクを駐め、私は事務所に入った。溜まった郵便を整理して過ごすことにした。

 
 
 
 
■ 奥山が狙撃されたのは一ヶ月ほど前のことだった。
 臨海副都心に乱立する高層ビルの工事現場で、中国ルートの覚醒剤が取引されているという情報をつかんだ。夜になると外資埠頭から小型の船が入り、外国人の乗った車が閉鎖された現場に入ってゆくのをみた者がいるという。奥山は晃子に連絡をした。なにか接触のようなものはないか、ということである。
 
「なんだか奇妙な気分がしたことを覚えているわ」
「出来過ぎているということだな、今時そういった目立つやり方で粉を入れる奴はいない」
 吉川が補足した。
 奥山は埠頭に張り込んだが、結局小型の船らしきものは入ってこなかった。朝になり、二十五歳の相棒を車において奥山が小便に立った。相棒がエンジンをかけようとすると爆発が起こった。
「駆け寄った奥山が背後から撃たれたんだ」
 張り込んでいた車はずっと見張られていたらしい。狙撃地点は七十メートル程離れたところにある四階建て倉庫の二階からだった。吸い殻とハンバーガーの包み紙が残っていたという。
「麻取も舐められたものさ、わざわざそんなものを残してゆく。だいたい、車に爆薬を仕掛けられても気付かなかったんだからな」
 
「罠か」
 私は吸っていた煙草を灰皿に捻った。
「罠だ」
 
 吉川が繰り返す。これは復讐だろう。誰の、と言えば北沢に決まっている。私は奥山の震える右手を思い出していた。
「手術はかなり難しかった。右肺が完全に潰れていたんだからな。これくらいの穴が開いていたんだとよ」
 吉川は右手の拳を握ってみせる。指は太い。
 私は胸のポケットに仕舞ったメモのことを思った。奥山が渡した奴だ。
 私は三杯、吉川は五杯、ギムレットばかりを飲んだ。奥山が好きなのかどうかは知らない。晃子はジン・リッキーを半分だけ口にし、氷の溶けるままにしている。
 店を出るとき足下がよろけた。吉川は入り口のドアにぶつかった。
 
 古いルノー・サンクで横須賀横浜道路を上る。横浜新道から第三京浜に入ろうとする。時計をみると午前一時を廻っている。夜の雲がいくつにも流れ、その後ろから細い月が時折みえては隠れた。
 私は何も考えなかった。
 晃子は黙ってハンドルを触っている。すこし窓を開け、ラジオをつけた。アルト・サックスの音がする。
 細くて明るい。ソニー・クリスだろう。「サニー」と私は口の中で言ってみた。

 
 
 
 
■ 事件の後、暫くのあいだ奥山は晃子の身辺を護衛していた。
 携帯電話を一台持たせ、その短縮番号が奥山直通になっていたという。
「勿論、捜査の必要からそうしていたのよ。北沢やその仲間から、接触があるかも知れないじゃない」
 それはそうだ。しかし晃子は肝心なことを省いている。
「それだけじゃないだろう」
 私は尋ねてみた。
 
 晃子が黙る。私は吉川の顔をみた。持ち上げた彼のグラスが暫く止まった。吉川は残った酒を頭を後ろに傾け、一度に飲んだ。
「苦い酒だな」
 吉川が口にする。彼はもう一杯をバーテンに頼んだ。
「まあ、気持ちの面ではね、それ以上じゃないわ」
 晃子がぽつりと言う。なるほど、と思った。 晃子は奥山に好意を持ったのだ。
 吉川は三杯目を飲んでいる。私も続けて貰うことにした。
「奥山とは十年来のつきあいだ。大学の後輩にあたる。だが、奴は途中でやめ、別の大学の薬学部に入り直した。なんで麻取になったのか、そう言えば聞いたこともなかったな」 吉川が話し始めた。

 
 
 
 
■ 晃子は高速神奈川三号狩場線に入った。
 道は比較的空いていて、晃子は時折百二十程を出した。三人乗っているとこの辺りが限界なのだろう。
 ミシュランの細いタイヤはコーナーの度に捻れ、路面からのノイズを遠慮なく室内にまき散らした。路面のワダチを越えると、メーターのあたりからミシミシと軋む音がする。ストロークの長いサスペンションは、二度ほど揺れて車体を収める。フランス車の乗り心地はなんだか不思議なものだ。頼りないくせに芯がある。
 
 晃子は横須賀の方角に曲がった。通称ドブ板通りの路地にサンクを駐め、〈北北西〉と書かれたネオンの店に入ろうとする。
「汚ねえ店だな」
 吉川がひとことを挟む。
「あら、いやなら帰ってもいいのよ」
 私たちはドアの中に入った。ほの暗い店の中にはカウンターとスツールだけがあって、酒の瓶が背後の棚に幾列も並んでいる。
 カウンターの真ん中に私たちは座った。
 ひび割れた壁に、額に入ったケーリー・グラントの写真があった。彼は真剣に走っている。その隣にはモノクロの裕次郎が酒場のカウンターの中にいる写真があった。痩せていて若い。
「俺は待ってるぜ、だな」
 吉川が説明する。飾ってある写真はそれだけだった。
「わたしはジン・リッキー。ふたりは、そうねギムレットでも貰おうかしら」
 晃子が蝶ネクタイをしたバーテンに注文する。
 煙草を一本吸っていると、グラスが目の前に置かれる。コースターに書かれた文字を読むと、〈YOKOHAMA〉とある。もともと馬車道に店があったらしい。グラスに口をつけた。甘くもない。
 私は晃子に尋ねることにした。
「随分くわしいじゃないか。何があったんだ」
「ええ」
 晃子は話し始める。

 
       九 サニー
 
 
 
 
■ 歩道で煙草を一本吸った。
 水銀灯の下で奥山の渡したメモを眺めた。電話番号が書いてある。ここに掛けろということか。私はメモをたたみ、胸のポケットに仕舞った。
 晃子と吉川がビルから出てくる。
「ハメただろ」
 私は晃子に言った。
「ま、そういうこと」
「説明してくれんだろうな」
 晃子はすこし笑う。サンクの鍵をじゃらつかせる。
「ドライブでもしましょうか、これで」
 指さしてドアを開け、エンジンをかける。吉川が後ろに乗り込み、私も晃子の脇に座った。シートをもっと前に出せと吉川がうるさい。
「でぶなのよ」
 晃子が言う。
「これでも三キロ痩せたんだ」
 吉川は言い訳をしている。

 
 
 
 
■ 昨年の事件の後、私は水上警察の四階にある取り調べ室で、数十人の写真をみせられていた。この中に北沢がいるかどうか、特定することが目的である。終いには端末のある部屋に招かれ、本庁のコンピューターから送られてくる画像データーを確認することになった。画面の下半分に氏名や所属、前科の有無などが記載されていて、担当官は「失礼」と言ってからその部分を紙で隠し、セロテープでとめ、私にはみえないようにしていた。
 まる一日付き合ったが北沢の顔は残っていない。
「公安は持ってないらしいな」
 そんなことを担当官が話していたことを覚えている。
 私は電話の男に言った。
「北沢が絡んでいる訳ですね」
「そう、奴は今上海にいるという情報が入っている。あなたもこの頃むこうに渡っているらしいし、葉子さんもそうですね」
「葉子のことも調べたのですか」
「北沢は彼女に接近をはかるだろう」
 私は、この男はさすがにプロだと思った。ひとの気持の微妙な部分を巧くついてくる。それも、こちらが自発的に動くように仕向ける。
「私はただの広告屋にすぎない」
 私は反論をしてみた。電話口で男が薄く笑う気配がする。暫くの間があり、初老の男は言う。
 
「しかし、あなたは横浜港に飛び込んだではないですか」
「警察に協力をしたつもりはないんだ」
「まあ、後日再度連絡をします。ぜひ協力をして戴きたい。では」
 二秒たって電話は切れた。指先でフックを押したのだろう、音がしなかった。
 私は正面にある端末の画面をみつめた。どう考えるべきか、すこし時間が必要なのかも知れない。キー・ボードのエンターキーを押し、プロンプトをひとつ増やす。ドアを開け、奥山のいる部屋に戻った。
 晃子と吉川が私をみる。私は奥山のベットの傍に寄った。彼の左手を握る。
「頼みます」
 奥山が言う。右手で、私に一枚のメモを渡そうとする。
 私は胸の中に奇妙な感情が沸いてくるのがわかった。メモを受け取る。
「生きていてよかった。今度酒を飲もう」
 そう言って彼の傍を離れた。入り口の方に歩き、ドアを開け外に出た。

 
 
 
 
■ 私はこのふたりが随分詳しく知っていることに気付いた。
 いぶかしい気分をどうあらわすか考えていると、背の高い婦警が私に近づいてきた。奥の部屋に入れと私を促す。私は吉川と晃子の顔を一瞬眺め、戸惑いながら婦警に従うことにした。
 部屋にはスチールの机があり、古い端末が一台乗っている。端末に電源が入っていて、どこかに繋がっているらしい。画面には緑色のプロンプトが出ている。その脇にビジネス・ホンがあって保留のランプが点滅していた。
「二番です」
 婦警はそう言ってドアを閉めた。私はそっと受話器を取り上げた。
「突然で失礼ですが」
 私の名が呼ばれた。初老の男の声だ。
「わたしは麻薬に関係する所轄官庁の者です。今は名乗れません。唐突ですが、あなたに協力して貰いたい」
 低いが、意志のある声が聞こえる。頭だけで渡ってきたキャリアには出せない種類の声だ。キャリアと付き合いがある訳でもないのだが、そう思えた。何度か修羅場をくぐった者だけが持つ不思議な迫力が声にはあった。
 私は黙っていた。男は続ける。
 
「昨年の横浜港での事件はほんの一端だったんです。今も中国や香港から、大量の覚醒剤や大麻が日本に流れてきています。それに伴い、多くの武器も持ち込まれています。拳銃だけではない。今回奥山狙撃に使われたライフルはスナイパーが使う特殊なものでした。プラスチック爆弾は主に米軍が使っているものです。多国籍なんですね」
「それがどうしたっていうんですか」
 私は男に尋ねた。
「どうもしません。この一年の間に日本はとっても物騒な国になった。様々なツケが廻ってきたんでしょう」
「警察は何をしているんですかね」
 
「皮肉はともかく、あなたは彼の顔を間近でみている」
「え」
「北沢と呼ばれる男ですよ。彼の顔を知っているのはあなたと葉子さんだけだ」

 
 
 
 
■ 看護婦が会話を制止した。奥山が横になる。
 制服を着た婦人警官はドアの前に立っている。その奥にはもうひとつ部屋がある。婦警は百七十センチ程あるだろうか。横を向いた腰のあたりが硬そうだ。普通、婦警は拳銃を持たないが、バックルにニューナンブを装着し、肩の脇から吊っていた。婦警ではないのかも知れない。
「奥山さんは死んだことになっているの。そう発表されたわ。勿論身分は隠されていたけど」
 晃子が説明する。それでこのビルに移送されたのだろう。
「車が爆破されたのは外資定期船埠頭の入り口だった。長いこと開発に躍起になっていただろう、例の臨海副都心のすこし先にある埠頭だ。奥山と若い相棒は、中国からの覚醒剤ルートを追っていた」
 吉川が言う。
「巧妙な仕掛けだった。イグニッションを廻しエンジンをかける回数をカウントする。一定の回数になると起爆するセンサーが付いていたんだ。勿論、プラスチック爆弾だ。相棒は腰から上がなくなっていたらしいぜ」
「素人じゃないわ」
 晃子がのめり込むように言った。

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