2005年04月04日
「緑色の坂の道」vol.3075
春坂。
■ 曇った雨空を鳥がとんでいる。
薄桃色の花がその下にある。
私はといえば、鮭の切り身をほぐしている。
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2005年04月04日
春坂。
■ 曇った雨空を鳥がとんでいる。
薄桃色の花がその下にある。
私はといえば、鮭の切り身をほぐしている。
春坂 2.
■ 今までの緑坂 Mobable Type に不具合が出ていたので、修正を行ったついで、最も新しいバージョンに差し替えた。
移行はスムースにいったところもあり、そうでないところもある。
ま、こんなものだろうかというデザインに変更。
液晶画面だと、また違った色にみえている。
■ アーカイブが旨く動作しているので、過去のものが読める。
妙にHIT数が多いのはそのためなんだろう。
実は私は、ブログの双方向性というものをあまり信用していない。
ネットの匿名性と平等主義というものは、一方では評価されるところもあるが、何か大事なものを覆い隠してしまうことが遙かに多いような気がしている。
2005年04月05日
十 新しい石鹸
■ 昼過ぎにモーテルを出た。
昨夜買ったリザーブは三倍の値段がした。そういうものだろう。持って帰ることにした。途中、沿線のレストランで、トマトのスープとサンドイッチを食べた。
首都高速を天現寺で降りるといくつかの坂を昇る。
歩道に半分乗り上げてカマロを停め、自分の部屋に一旦戻ることにした。
風呂の壁に薄いカビがはえている。
浴槽の水を入れ替え、コーヒーを沸かし、留守番電話と郵便を整理して暫くぼんやりした。
「なんでこんなに汚い訳」
葉子が掃除を始めている。台詞まで同じだ。
携帯電話を呼び出すと、暫く鳴ってから晃子がでた。
「退屈で死にそうよ」
風呂に入ってからでかけることにする。下着を取り替えた。
芝浦の倉庫に着くと、葉子は部屋に入るのをためらった。構わずに入る。
「ドライヤーを忘れたのよ」
晃子は髪を縛っていた。口紅の色が新しい。昨夜も吉川がきて、ドアの外に眠っていたという。晃子が指さすと、「社に顔を出してきます」と書かれたメモがあった。字は旨い。
「あの人、昼間は普通のネクタイなのよ」
夜までは戻るまい。税関の傍のビルを確かめようと思っている。
ビルの名を葉子に尋ね、晃子を連れて外に出た。葉子は部屋に残った。
「二日ぶりに外にでたわ」
「風呂に入ったか」
「ええ、奥山さんが石鹸を持って来てくれたでしょ」
晃子はなんだか楽しそうだ。
「元町によってね。服をみるから」
■ 夜はまだ浅く、横羽線もとりあえず流れている。
横浜スタジアムの手前で高速を降り、税関のある方角に曲がった。
ビルは税関からすこし入った脇道にあった。五階建、二十年は経っているだろう。外側に細い階段がある。法律事務所と会計事務所、「公洋貿易」と書かれた会社の横浜支店がある。いくつかのプレートは空白になっていた。最上階を除くと灯りはついていない。階段を昇ろうとしたが、カメラがあることに気付いた。ダミーかも知れないがわからない。葉子が関係したという市民団体はどの階にあったのか。他の事務所と共同だったのかも知れない。
税関を離れ海岸通りに近づくと、運河沿いのホテルがみえた。夏の始め、そこで葉子を待っていたことを思いだした。
港のみえる丘の公園へ昇ってゆく急な坂道がある。その先は陸橋になっていて、片側に車を駐める場所があった。多摩ナンバーのホンダの後ろにカマロを駐め、晃子と元町を歩くことにした。
街は変わっていたが薄い匂いは同じだ。あれから十年が経っている。
「あそこにあるコート、これが終わったら買いなさいね」
晃子がショー・ウィンドーを指さす。紫の混じった伊製のウールだ。晃子には似合うだろう。
「バーゲンまで待ってくれよな」
「ふふ」
そういえばそんな笑い方はしなかった。
若さはいつも切実で、知らずに相手を追いつめていた。自分だけが夢をみていると思い上がっていたのだ。
輸入雑貨屋でワインを買った。これは旨いのだと晃子は主張する。コーヒーの豆も挽いて貰った。晃子は下着と化粧品を買い、私は煙草を吸いながら店の外の歩道で漠然と立っていた。荷物を渡されて持つ。
中華街の外れの店で、排骨炒飯と数品を頼んだ。
晃子は鳥肉が苦手だったことを思いだした。
「ねえ、あなた、昔はビールなんかついでくれなかったわよ」
晃子は笑っている。しかもよく食う。
カマロに戻り、すこし遠回りをすることにした。埠頭のひとつに入り車を停めた。ラジオが古い曲を流している。けれども、向こう岸はみえない。
「どうして別れたんだ」
「逆の理由。わたしが浮気をしたの」
産毛を風が撫でてゆくような気持だ。
「昔は金がなかった」
「今だって、そうじゃない」
すこし歩いた。コンテナの傍で唇をみたが、近づくとすこし怖かった。
「傷を嘗めて」
晃子が言う。ブラウスのボタンを外し、唇を胸に近づける。
塩だ。
十一 別の夢
■ 私たちは芝浦の倉庫に戻った。吉川がきていた。葉子は横を向いている。
前に晃子がコピーしたものの中にNPAの革命歌があった。
山岳地帯で生まれた一団がやってきた
私達の目的は ハポンを一掃すること
私達は新人民軍 皆さんの奉仕者
ここで言う、「ハポン」とは日本軍のことではない。マルコス、ないしはアキノに率いられた政府軍のことである。今日ではウエストポイントを卒業したラモスをも指しているのだろう。
アジア特有の大土地所有制度に対抗することを主たる目的として結成されたフクバラハップは、大戦の際抗日戦線を張った。戦後、親米政権に反乱を起こし、一時は二万五千の兵力を誇っている。しかし、六十年代に入り凋落を続け、わずか数百人にまでその数は減ってゆく。
当時、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れ始めていた。
文革とは、「造反有理」という名コピーを生み出した一大政治社会運動である。正しくは、「造反有理・破旧立新」というらしい。毛沢東の夫人、チァン・チン女史ら文革小組が若く過激な学生・労働者を組織し、当時の実権派を追放しようとした陰惨な権力闘争だった。
その頃、フィリピン共産党の内部では旧来の親ソ派と若い知識人や学生運動家からなる親中派が争っていた。
親中派の指導者が、ホセ・マリア・シソンである。シソンは国立フィリピン大学の出身で、マルコスと同じイコロス地方の裕福な地主の家柄に生まれた。
母校で政治学を教えるかたわら、詩人・ジャーナリストとしても次第に名を馳せるようになってゆく。
一九六七年八月、シソンは学生・ジャーナリスト訪中団の一員として北京を訪れた。そこで彼の毛沢東思想への傾斜が深まってゆく。それが翌年、毛沢東七五回目の誕生日になされたCPPの再建に繋がっていったとされている。
四ヶ月後、NPA、新人民軍が発足した。建軍された六九年だけでも政府軍との間に八十回の戦闘があったと記録にはある。
〈鉄砲から政権が生まれる〉
そのように信じていた沢山の若者が日本にもいた。二十数年前のことだ。
「俺だって、すこしはそう思ったんだ」
吉川が言う。彼の目蓋は重そうに垂れている。
■ 晃子と葉子は管理人室に眠った。
何を話しているのか知らない。
私と吉川は倉庫の外側にある階段に座り、煙草を吸いながら東京湾を眺めていた。小さなステンレスのカップにスコッチを垂らす。吉川が持ち込んだのだ。
「混ぜ物ばかりだ、酒も女も」
吉川が言う。
「馬場の学生の頃、俺は時々集会に出ていた。ヘルメットも被った」
「三度目に捕まった時、起訴されそうになったんだ。起訴されれば大学も終わりだ。まともに勤めることなんかできっこない」
私は黙って聞いていた。口に含んだ酒の味は、幾つものものが混ざりあっている。
「羽田の時、俺はまだ高校生だった。付属だからな、政治的な自覚が高かったんだな。その時もそうだがこんどは起訴されるって時に、葉子の親父さんが助けてくれた。紹介状を書いて貰い今の会社に入った」
どうしてそんなことを話すのか、いぶかしい気持が浮かんだが黙っていた。軽口には飽きていたし、誰にでもそんな夜はあるのだ。
「わかってやっていた訳じゃない。そういう時代だったんだ。大学にゆかなかった仲間は沖縄にいった。ドルが三百六十円だぜ。そこで女を買ったんだそうだ。なんだか羨ましくてな」
レインボー・ブリッジがみえる。風は重く湿っている。
文革の頃、千葉に橋が掛かるなんて誰が想像しただろう。
■「俺には娘がいるんだ」
吉川がぶっきらぼうに言った。私は吉川の横顔をみた。
「横浜の私立に通わせている。いい学校なんだぜ。片親だと入れなくてな、それまで籍は抜かなかった」
クリスマスの飾り付けのような細かな電球をつけた船が黒い海を横切る。中には畳が引いてあって、カラオケのセットがある。海の上で歌うのだ。私は吉川の娘のことをすこし思った。彼女も下校の時にはパールの入らないピンクの口紅を塗るのだろうか。
「おまえ、結婚したいと思ったことはないのか」
唇をすこし曲げ、吉川がこちらをみる。
「あったよ」
「俺達の頃はすぐに結婚をした。やるとすぐだ。仲間だけで実行委員会ってのをつくってな、会費制で歌をうたうんだ」
私は別のことを考えていた。長いこと、あらかじめ答えが出ているような気がしていた。余熱のようなものは根強くあったが、そこから先に進むことはなかった。吉川の言う、「まともに勤める」という言葉からすれば、私も随分逸れていることになるのだろう。それは時代のせいばかりじゃない。
「なんでおまえ、コピーなんか書いているんだ。ただ消費されるばかりだろう」
吉川が私に尋ねた。今まで同じようなことを何度も尋ねられた覚えがある。相手は違っていて、私の答もその時によって違うものになった。
「匿名ってのが好きなんだよ。信じてないんだ」
「何を」
「なんだろうな」
理解できない、という顔をして吉川は私の顔をみた。思想とか正義とか、そういった言葉に私はうんざりしていた。簡単には騙されまいと何処かで決めようとしているのかも知れない。
「あの晃子さんな」
吉川が唐突に言う。
「おまえの女だったのか」
「いや、古い友達だ」
私は嘘をついた。
「そうか。ものは相談だが」
吉川が私のカップに酒をつぐ。言い淀んでいる。彼は僅かに首を振り海の方角をみた。
「俺は惚れたみたいなんだ」
吉川は暫く黙っている。私もそれに倣った。
「似てるんだ」
「誰に」
「別れた時の、前の女房だよ」
■ 吉川の声がまた変わった。
「俺は馬鹿になって仕事をした。あんなものは夢だったんだ、俺はもう大人なんだ、と思ってな。マニラにもいったぜ。資本主義の尖兵としてな」
そこまでを一気に話した。
「戻ってくるとな、判を押せというんだ。わたしには別の夢があるんだといいやがる」
「太っていたか」
「いや、なんだか奇麗になっていた」
男と別れる前の女は例外なく奇麗になる。張り詰めた想いが内側から滲んでくるのだという。
そうだろうか。次の男のための準備かも知れない。
黒い海を船が横切ってゆく。オレンジ色の細かな電球がゆっくりと動いている。横浜から戻る車の中で、晃子がラジオを消してくれと言った。窓を閉め、カマロは流れに沿ってゆっくりと走っていた。シートにもたれ、晃子が古い歌を小さな声で歌っていた。晃子の声は低い。なんて歌なんだ、と尋ねると、水色のワルツっていうのよ、と答えた。私にはブルースのように思えた。
その時、遠くでタイアの割れる音がした。
あたりの空気が収縮し、密度ある水のようになった。
脇をみると吉川が横腹を押さえている。
押さえた掌から赤黒い色が広がっている。
血だ。
雨になった。
2005年04月06日
十二 狐眼
■ ドアの内側に転がった。
すこし離れたビルの非常階段に、つば広の帽子を被った細い人影がある。
更に撃ってくる。外れた。人影は消える。
吉川の背広の襟をつかみ、なんて重いんだと唸った。廊下へ引きずりこんだ。
私は管理人室へ走った。銃をつかんでいる。倉庫の内側の階段を降りた。
目眩がする。走るのはイヤだ。
駐車場に出ると、向かい側の赤いテールに人影が走るのがみえた。
女のようだ。
カマロのドアを開けようとする。葉子がそこにいた。助手席に葉子は転がる。
私はアクセルを踏んだ。すこし濡れた路面でカマロが斜めになった。
大きく首を振り、滅んでいった巨大な恐竜のようにあえいでいる。
黒いサーブだった。離されてゆく。
加速した。
全ての信号を無視し、直線では一四○でた。しかも飲酒だ。
羽田から川崎に入った。
焼肉屋の赤い看板を過ぎた。
左に曲がり、工場地帯の広い通りに入ってゆく。製油所だろうか、パイプラインが内蔵のように絡み合っている。
カマロのガラスに白い罅が入る。
女が撃ってきている。
雨が酷くなってきた。前がみえない。
陸橋を越えた。サーブは白い水煙を高くあげている。
路面に大きなワダチがあった。
ゆるい右カーブだ。
サーブの内側に入った。
窓を開け、釣り上がった眼の女が銃口を向けている。紐で止めているのか、風圧で帽子はひしゃげていた。
後ろに下がった。
先はT字路だ。
サーブの横腹が僅かにみえたような気がする。
私はカマロのアクセルを床まで踏んだ。
僅かなタイムラグの後、ボンネットの蓋が開いた。
吠えながら全身が震えた。
鈍い震動があって、ハンドルが軽くなった。
サーブの下腹がみえた。シャフトのない、のっぺりした腹だった。
回転するタイアが黒く光っている。奇麗だと思う。
ハンドルを左右に切り、踏み潰すように両足でブレーキをかける。ロックした。
カマロは尻から壁面のブロックにぶつかり、暫くすると止まった。
サーブは横になって太いコンクリの橋桁に頭を突っ込んでいた。
エンジンが車体に潜りこんでいる。
傍によってみる。男がハンドルに顔を押し付けていた。褐色の肌だ。
両手できちんとハンドルを持っているのが奇妙だ。
腰から下は潰れているのだろう。血はみえない。
その時、脇腹が攣ったような気がした。
振り向くと、女が光るものを持っている。細いナイフだ。
髪がほどけ、眼が赤くなっている。
女は脚を開き腰を屈め、片手を後ろに隠すと声を出さずに一度笑った。
私は動けなかった。
硬水のような恐怖があった。
次は頬か喉だろう。
背後で短い音がした。
二回続く。
ゆっくり女が倒れる。
葉子が背中から撃ったのだと気付いた。
私の腰のベルトが二つに切れていた。
自分の血というのは暖かい。
「どうして女がでてくるんだ」
「あんなの、中国の狐みたいなものよ」
葉子の肩を借り、車に戻った。
脚がぬるくなってゆく。雨と混ざる。
黒い箱のような工場から守衛が出てくるのがみえた。
ライトを消し、葉子はカマロを出した。
どうせ灯かないんだ。
春の速度。
■ 花咲く。こころかたむく。
水ぬるむ。触れてはいないけれども。
花より団子。
■ という随筆を正宗白鳥氏が書いていて、あまりに桜が奇麗だから、思わずむしゃむしゃと食べてしまったとある。
嘘か誠か、どちらでもいいのだが、二部咲きか三部咲きくらいの桜を下から見上げていると、満開の頃よりは好ましいような気もする。
■ 酒も、一杯目のそれには独特の味がある。
よく洗ったグラスにウイスキイを垂らし、そっと口を付ける時、なるほどこういうものであったのかと、何時もすこしだけ驚く。
酔いが廻ると、味はわからなくなる。
つまみを多用すると、つまみの味がしてくる。
グラスは少しづつ曇り、灰皿は溢れ、酒というよりは傍にいるなにか弾力のあるものに関心が向いてくる。
花より団子か。
人間は花ばかりでは生きてゆけない。
■ 当たり前のことを書くものではない。
前の段落の一番最後は、削除すべきである。
それは野暮ということで、一杯目の酒が始めて会う女性だとするならば、廻った酔いが、馴染んだものだと言うことになるのかしら。
しかし銘柄という問題もあって、一本何万円もするような酒をバーで頼むのは、人の金だからどうでもいいが、普段呑み付けているものが一番旨いのではないかとも時々思う。
スタンダードの裡から、自分の好みを捜す訳か。
女もスタンダードに限る。
と、私は何を言っているのだろう。
分からないが、桜の花がきれいだよ。
○昔坂 vol 11
93年4月
2005年04月07日
過去について。
■「君のカコなど、気にしないさ」
「大人だもん、いろいろあったに決まっているさ」
■ 健全な市民社会のためには、そのような錯覚というか男らしさというのは必要な気がする。
「洗えば流れる」
という文字を、一行のスクリーン・セーバーにしているひとがいて、そのひとは果たしてどちらの性なのでしょう。
○昔坂 vol 865
94年
溜まる。
■ どうも、不用意に漏らした言葉が一人歩きをしていて、現在の私の廻りには花が薄いことになっているらしい。
部分的に追求されもするが、正面から答える訳はない。
追いかければ逃げるという。
綱引きをすれば、困るという。
■ その綱を離して、何処か違う処にゆくという手もあって、軽くなった分だけ気配は伝わる。
なかなかそういう訳にはゆかないけれども、地面から離れ、属性もなく立っている姿をモデルにしたいものだ。
○昔坂 vol 866
94年
サクラが何よ。
■ と、マスクのまま歩いてゆく女がいた。
風が強く、眼をほそめている。
座間の狐。
■ 夜半、座間の奥で道に迷った。
煙草を買っている小柄な女性に道をきく。
彼女はスクーターに乗ってきている。
■ 246を探していると、スクーターが前をゆく。
三部咲きの桜の下で、彼女が手招きしている。
ここを曲がってゆくと右の方だから。
つまり、道案内をしてくれたのだと分かる。
私は手を振って礼を言ったが、彼女はその後煙草を吸った。
十三 十二月
■ ブラウスの胸元から白い谷間がみえている。
晃子が何かいいながらバスタオルで腹の上を押さえている。
このまま死ぬ訳はないとおもっていた。
寒気がする。顎の下が震える。
晃子が頬を叩いている。
なんて気丈な女なんだ。まるでオフクロみたいだ。
腹の中が熱い。
娘は泣くだろうか、奴と一緒に笑うのだろうか。
奴。そういえば中野のアパートに見舞いにきてくれたことがあった。チェックのスカートを履いて、女子大ってのは何処か野暮ったい。
その野暮ったさが良かったんだから、俺もプチブルだ。
あれは冬の始めだった。旨くゆかなかったけれど、奴が初めてだったせいだ。 多分初めてだったんだろう。次からは旨くいった。
俺をクンづけで呼びやがった。卒業するまでそうだった。
俺は何をしてたんだろう。今はなんだ。撃たれたのは始めてだ。
痛いのか寒いのかどっちかにして貰いたい。
眼をつぶっていることにする。
俺は三十女の柔らかい胸が好きなんだ。
■ 十二月になった。
地下鉄の階段を降りると、眼の黒い外国人がふたり昇ってきた。黒いナイロンのジャンパーを着ている。楽しそうでもない。
私は坂道を脚を引きずりながら歩いていた。
車のライトがぼやけてみえる。霧が出ている。一歩踏み出す毎に脇腹がひきつる。糸は抜いたが、まだ皮が薄いのだ。
私は神奈川の丘陵の上に立つ病院に入っていた。
そこは新・新宗教の団体が持っているもので、ぼんやり隠れているには都合が良かった。傷を整形するかと聞かれたが、更に期間が延びるので断った。
吉川はまだ入っている。
弾は脇腹から入り、肋骨を折って背中に抜けたのだ。至近距離ではなかったことと、二十二口径だったので軽く済んだ。
手配は全て奥山が行った。病院を選んだのも彼だ。
晃子が携帯電話で奥山を呼ぶと、セドリックのシートに炭酸カルシウムの袋を何枚も敷き、アンプルと錠剤を持って背広で現れた。
私は車の中で、奥山に渡された錠剤を薄いコーヒーで飲んだ。そこからの記憶がない。
吉川の重い躯をどのように運んだのか、今でもそれがすこし不思議だ。
気付くと傍には看護婦がいた。白衣ではなく薄い桃色の制服を着ていた。
■ 自分の部屋に戻ってコートを脱いだ。
白いコートは汚れやすい。それが良いのだとも思う。
病院の中で、吉川と話すことはなかった。
喫煙室に彼はこなかったし、その時はまだ起きられなかったのだろう。
私も吉川も、そう広くはない個室に入れられた。他が満員だったという訳でもない。払いをどうするんだと思ったが、どういう訳か保険で足りた。
葉子と晃子が時々見舞いにきた。病室で、持ち込んだコーヒーの豆を入れて飲んだ。電気の器具があったのだ。
看護婦は薄桃色の制服を着ている。ラインが二本入っている。
向こうにみえている巨大な練がここでは本体で、そこは有料の老人ホームになっている。湯沢にあるリゾート・マンションを平たくしたようにもみえる。全財産を献金すると最後まで面倒をみてくれる仕組みになっているらしい。信者が中心であると言う。
「君もそうなのか」
と、尋ねると、
「仕事だから」
と若い看護婦は笑った。
すこし安心するが、それがどうしてなのかはわからない。
遠桜。
■ あたしはなんにもしたくない。
とブツブツ言いながら仕事をしていた。
眠りが足りていないので身体が重い。
仕事場から見える庭には、数本のソメイヨシノが満開である。
茶などたてているひともいる。
すこし風が強い。
■ 桜というのは遠目に限ると私は思っているので、なるべく側にはよらない。
別のことを考えてしまうからだ。
それが何であるのか、机の上が運ばれた細かな土でざらりとしている。
花影。
昔、こういう恋文を書いたことがある。
■ 女性を美化できる歳ではなくなった。女性は女性として見ることができる。惚れているとはいえ、今そこにいるのは、随分素直な処もあるが、結局は我の硬い、未成熟のままに年をとったひとりの若い女性である。この先どう変わるのか分からないが、今の処、それ以上でもなければ、以下でもないと思っている。
背後にある苦い思いや、醒めた視線に気付くことなく、男を紋切型で捉え、また紋切を返してくる。それはこの先も続くものとおもわれた。
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■ 坂道はゆるやかに上って、小学校の正門に突当たると、その堀に沿って左右に分れる。あるいは松崎が二度と通ることのないかもしれない道である。心に悩みを抱いて、この坂を上下した日々の思い出が群がり起こった。
「吉野へ行ったってことは、行かなかったよりいいわ」
と、葉子は言ったことがある。自分を忘れることはあっても、吉野は忘れないだろう。
二人で吉野に籠もることはできなかったし、桜の下で死ぬ風流を、持ち合わせてはいなかった。花の下で見上げると、空の青が透いて見えるような薄い脆い花弁である。
日は高く、風は暖かく、地上に花の影が重なって、揺れていた。
もし葉子が徒花なら、花そのものでないまでも、花影を踏めば満足だと、松崎はその空虚な坂道をながめながら考えた。
(大岡昇平「花影」新潮社)
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■ この手紙が届く頃には、桜はもうあらかた散ってしまっていて、貧相な汚れた花弁しか残ってはいない。
午後から薄い雲が出て、足元が冷たくなった。
西の空に、次第に色を無くしてゆく雲を見送るようなさびしさである。
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■ 大岡氏の文章はとても美しかった。
葉子というのは昭和三十年代の銀座の女給で、松崎というのは大学の助教授である。
松崎には家庭がある。
いくつかの恋に似たものをくり返しながら、葉子は次第に歳をとり、しまいに一人の部屋で、自らの命を絶ってゆく。
この時期になるとこの作品を読み返すことが多い。
次第に容色の衰えてゆく葉子の姿を、大岡氏は、ぞっとするような冷静さをもって描写していた。
太股の肉が落ちてゆくこと。歩き方が変わってくるということ。
かかわる男達のずるさについても、それは同様である。
○昔坂 vol 13
93年4月
2005年04月10日
遠桜。
■ 窓を開けると薄桃色のかたまりが見えた。
樫の木の隣で風に揺れている。
明日にはその色を変え、しまいには緑がとってかわるのだろう。
短い間だが、時間の密度ということをすこしおもう。
○昔坂 vol 714
94年
2005年04月12日
十四 冬の動物園
■ 屋上の手前、病練の最上階に喫煙室があって、そこはガラス張りになっている。
夜になると、遠くランドマークタワーの灯りがみえている。
点滅している一本の帯は高速だろうか。何本かある。
ガウンを着て煙草を吸っていると晃子が昇ってきた。
「お酒飲めなくてさみしいでしょ」
私たちはビニールの椅子に座って汚れたガラスを眺めた。
離れたところに老人が座っている。老人のようにもみえるが、実のところいくつなのだかわからない。病院の中で、そうした男や女を何人もみかけた。生気なく、口の中でなにかを呟きながら廊下をゆききしている。
晃子は紫のスカートを履いていた。
「何十年かしたら、こうしてガラス越しに外を眺めているのかな」
「そんなに生きるつもりなの」
「どっちでもいいんだが」
水の溜まった灰皿に煙草を捨て、晃子が笑う。
「でもねえ、あなた、どうしてこんなことに巻き込まれたの」
外は風が強いようだ。ガラスに圧力がかかっている。
私にもわからなかった。葉子という女を拾い、横浜で再会し、その時に寝た。トランクにトカレフがある。
弾を買いにいったのは夏と秋のあいだで、新宿の外れの路地は油汗に香水を振りかけた匂いがした。肌色の違う女は髪を長くし、張り付いたスカートを履いて傍に立っていた。ボディ・スーツをつけなくても、僅かな肉の弛みしかない。
「悪い夢だったのかな」
「まだ、醒めていないようね」
晃子の口調はすこしも変わらない。
「傷はふさがったのか」
「みる?」
「そのうちな、ぜひ」
薄い桃色の制服を着た看護婦が昇ってきた。消灯だという。髪を上にあげピンでとめ、同じ色の帽子を被っている。
「あなた、ああゆうの好みでしょ」
パジャマを着ていると、どうも言われやすいようだ。
私は脇腹を撫でてみた。ガーゼの下で熱を持っている。
■ 病室で眠れない夜が多かった。
どうしてなのか、わかれば眠れるのだろうと思った。
午前二時に看護婦が廻ってくる。夜勤だけの担当がいるのだろうか、二日に一度は同じ顔をみる。
東北の生まれだという看護婦とすこし話した。紅葉が奇麗な土地だ。ここの他に時々バイトをしているのだという。
「そこでも制服を着るんですよ」
何処の店かを聞くのはやめた。
「いわゆる社交場だね」
「面白い言い方ですね」
病院の待合室に絵本があった。トイレの帰りに一冊借りてきた。お徳用になっているようで、消防車の絵と動物の絵が書いてある。
「トラック、スポーツカー、タンクローリー、パトカー」
それぞれに簡単な解説が載っていて、このような文を専門に書くひとがいるのだろう。
「めがねとかげ、カンガルー、ありくい」
動物の絵も載っていて、そこにも説明がある。
「夜おきていてながい鼻で地面をさがし、舌をのばしてありを食べます。長い毛が生えています」
「ありくい」が鼻の長い犬のように描かれている。ふりがなの振ってある説明文を読んでいると次第に不安な気持になってゆく。それは生理的なもので、長い毛と、舌の上で動いている無数の蟻のことを考えた。例えば山の中で死ぬということは、小さな虫などに食われてゆくことなのだと思った。
サーブの中で男が死んでいた。私がカマロで脇腹に突っ込んだからだ。
葉子が撃った女は中国女で、多分北沢の女のひとりだろう。晃子が襲われた時、傍でみていた女だ。私はその女に脇腹を裂かれた。
葉子は人を撃った訳だ。
当たり前のように人が死んでゆく。
それに対してほとんど嘆くような感情が起きない。
〈殺さなければ殺される〉というようなことを映画などでよく聞く。果たしてそうだったのかも覚えていない。吉川に義理があった訳でもない。
葉子の横顔は硬い意志に満ちていた。顎の線が蒼ざめ、いつか映画でみたポーランドの若者のようだった。彼等はファシストと戦った訳だが、こんどは何なのだろう。薬を飲んでいた葉子と銃を持った葉子が一本の線で結ばれない。そういえばカマロはどうしたんだろう。
私は夜の動物園にゆきたいと思った。
闇の中で、猛獣が叫んでいる声が聞けるのかもしれない。
花にまだ雨。
■ たまにJRなどに乗ると、カメラバックを持ったひとたちが目に付く。
桜の季節だからだが、ひとりはご老人で、ベストにハンチング姿だった。
ひとりは目を瞑って寝ている30代後半からの屈強な男で、彼は無精髭に白いTシャツを着ていた。髪の真ん中は比較的薄い。
彼は国産の大型カメラバックを持っていた。私も型番の違うものを使っているので、すぐに分かった。
中は機材で溢れているのだろう。
■ 花を追うようにして愛好家が集まる。
私はといえば、今年も桜を撮らなかった。
捻くれているからだが、ひとの居るところで桜というのは、どうも違うような気がしている。
簡単な酒場のグラフィック。
■ を依頼されていた。
ADカードその他なのだが、私は何時も、例えばこのサイトに載せるような仕事ばかりをしている訳ではなく、作品とは、ま、呼ばなくてもいいかなあ、というようなものをいくつか廻している。
ABSLOUT という旨いウォッカがあるが、その界隈だと思ってください。
酒関係の仕事が、数えるといくつかある。
■ ABSLOUTで使われているものと同じフォントで店の名を入れる。
同じ文字間隔を探すのに二時間かかった。
ベースが黒なので、ここは赤でしょうか。
というよりも、店の場所と価格帯を考えると、あまり上品にいっても仕方がない。
英国のパブも、日本にある老舗のホテルのバーなども、仔細に眺めると結構な色使いをしている。酒場の中にいると、眼が慣れて埋もれるのだ。
■ おおむねそれでゆこうとなった後、店の看板のロゴをと頼まれた。
こうなるとディスプレイ・デザインに限りなく近くなっていって、さてドウシタラヨカロ。
デジカメとビデオを持って、店の階段の辺りから、独りの客としてのイントロダクションを記録してくるのがいいのだろうか。
時間帯にもよるのだが、その中での看板であり、色使いなのだとも思っている。
HAIG.
■ 今掲載している「夜の魚」一部にも出てくるが、アル・ヘイグというピアニストが私は好きである。
いい時代のマンハッタン、そのラウンジで、ある意味では力なくピアノを弾いているという風情が、身体の重い花の頃合には適宜だ。
■ ところで「夜の魚」は「よるのうお」と読むのであって、決してギョではないのである。ギョというと、なんとなくデパートの7階の階段の辺りを思い出す。
まだ雨の坂。
■ 今ひとつ、バトルの文章を書き終わった。
ネット上でのそれではなく、実際のビジネスに関わるものである。
どうしてこんなことをしなければならないか、不思議だが、そういえば小学生のときの学習雑誌の付録に「不思議だがホントウだ」という特集があり、そうだよなあと感心していたことを覚えている。
■ トラブル・イズ・マイ・ビズニス。
「事件屋稼業」で深町が言う台詞である。
そりゃおまえ、津田スクールオブビジネスみてえなもんじゃないか。
と、インテリやくざの黒崎から突っ込みが入った。
ともいえるな。
十五 薔薇の原価
■ 次の夜、葉子が尋ねてきた。短いスカートを履いている。
肌の色が違ってみえた。一枚、靄のようなものがかかっている。
「吉川さんはどうしてた」
「なんだか痛い痛いと困らせていたわ」
私は吉川をさんづけで呼んでいた。撃たれたのだから、仕方ないだろうと思った。葉子に会うと大事なことがどうでもよくなる。葉子が話さなければそれでいいのだ、という気分が支配的になる。どうせわからないのだという投げやりな姿勢が引き出されてくる。問い詰めるには一定のエネルギーが必要だった。動機さえも。
「カマロはどうした」
「修理に出したわ」
修理して大丈夫なのだろうか。塗装の破片から車を割り出すことは簡単にできる。
「ううん、平気なの」
警察はどう処理したのか。死人が二人でている。いぶかしいことは他にもあった。輪郭が滲んでくるには先に進むしかないのだろうか。そんなことを漠然と思った。
看護婦が覗きにきて不思議に笑い、ドアを閉めた。
葉子が傍によった。自分の短い髪を手で撫でている。
「風呂に入っていないぜ」
「あなたの血が胸についたわ」
靄はやはり白く、それは男達のもので、その中に赤いものが疎らに混ざっている。
混ざるものは一定の重さを持ち、ゆっくりと曖昧になってゆく。
葉子は跪いた。
毛布が外される。私は自分も同じではないかと思いながら近づいてくる舌先を待っていた。
それから絵本のことを思いだした。
■ 退院して仕事に戻った。
「用があったらいつでも呼んでね」
葉子はそう言い残した。ポケベルを持ったローレン・バコールなんているものか。
入院費を払う時、奥山がきたかと尋ねたが、真ん中から分けた髪の長い会計担当は曖昧な笑顔でごまかした。
部屋に戻り、郵便と電話を整理し、次の日から事務所に出た。
入院は車の事故ということにしてある。
相も変わらずどうでもいいような仕事ばかりが溜まっている。ひところに比べればそれでも廻るようにはなっているが、それでも単価は切り詰められ、手持ちのコピーの引出しだけで充分だと思われた。勝負に出るような雰囲気が何処にもないのである。
私はキー・ボードの掃除を始めた。画面もそうだが、指に触れるところが汚れていることが気になることもある。
「やる気になったんですね」
事務の娘が言う。紫の混じった口紅を塗っている。
この娘もそろそろかな、と思いながら五つばかりを仕上げ、パソコンのファイルに落とした。あらかじめ形のあるところに事務的に入れる。写真も手持ちで済ませた。あまり凝ったものは近頃遡及力がない。
MOを事務の娘に渡し、夕方過ぎに外に出た。芝にある図書館に寄ることにする。
何を調べていいのかはっきりしている訳ではなかった。
適当に本棚を歩き、思い付くものを借りては隣のホテルまで歩いた。
そこから見上げるタワーは、成程こんなに大きいのだなと思える。地下で中華を食べ、一階のテラスでコーヒーを飲みながら、入り口に飾られている薔薇の種類についてすこし考えた。あちこちに掛かっている布に緑が多いのはクリスマスが近いからなのだろう。
■ 図書館ではビデオも貸していた。ふと思い出してそれを借りてきていた。一九八二年に作られたSF映画で、確かオランダの俳優が人造人間の役をしている。
いつだか葉子が、レプリカントって知ってる、と尋ねたことを覚えている。
知らないというと、その映画を観るよう強く言うのだ。
「わたしってね、ボーダーなんだって」
薬の出所の医師か、カウンセリングを受けたことがあるのだろう。ユングやロジャースの単一な流れでなく、複合的な立場の見解だとは後で知ることになる。
「境界」という言葉のつく本を二冊程借りた。
ひとつは、「周辺性」についての文学や哲学者の考察だった。目次を眺めると、「文明と異化」という小項目があって読むのをやめた。
後はナチズムについての古い新書版で、若い頃読んだ覚えがある。
旧ドイツの指導者達は、いわゆるゲルマン民族の周辺に位置するところから生まれていて、社会的にも文化的にも、「周辺人」であったと定義するものである。ドイツオリンピックの記録映画については、この仕事に入った頃ひとつの手本として先輩に教わった。広告の古典的な見本でもあるのだ。今にして思えばグロテスクな程に肉体を賛美しているのだが、その背後には薄い不安が滲んでいるようにも思える。
朱色の照明がガラス越しに入ってくる。「マージナル・マン」とその本の中では振り仮名があった。
三本煙草を吸い、外に出た。公園の傍の街路樹はプラタナスだ。幾つかは既に粉になっている。土に帰ることもなく、踏みしだかれ音を立てる。私は部屋に戻って白いベルモットを嘗めた。そう旨いものでもない。ソファを動かしてビデオを眺めることにした。
■ 途中までみた。
眼の大きな女に質問を加えてゆく場面があった。瞳孔の開き方で、彼女が人間ではないことがわかる。秘書ならそれで、慰安用ならまたそれ、目的に応じたアンドロイドが造られてゆく。戦闘用のもいる。
思いついて医局にいる友人に電話することにした。
「どうしたんだこんな時間に」
という声を古い馴染みで騙し、必用な文献をファックスで送って貰うことにした。
「近頃、内部だってアクセス料とられるんだぜ」
「わかったよ、銀座の黒い薔薇でも奢る」
「なんだそれ」
「社交場だ」
「わかんねえな、外にいる人のいうことは」
暫くするとその一部が送られてくる。専門用語はわからないが、「境界性人格障害」と題目にはある。
「後は明日だ」
下手な文字が見えたところで紙が止まった。
銀座の裏通りにゆくとタイル張りの低いビルがある。
「発明・形状記憶発毛」と書かれた看板の下に薔薇の種類があって、「ここは皆さんの社交場です。貴男の故郷の娘を呼んで話をしてください」と手書きで書かれている。
セットが幾らだったろう。油で汚れた調理場のドアの横にガラスのケースがあり、中にはボール紙で作られた日本地図が貼られていた。そこに沢山の虫ピンが刺さっている。
近づくと、出身県ごとに女の名前が区分してある。源氏名なのだが、ほんとうだろうかと疑う気分が起きる。ひらがなが多い。
反面、まだ舗装されていない頃の中学校のグランドが思い出される。
いつかは入ってみたいと思っていた。初恋を覚えている訳でもないのだが。
2005年04月14日
まだ雨の坂 2.
■ 主観的な女性の上司。
という題で緑坂を始めようとしたがやめにした。
いずれにしてもだ、春は骨盤が開くのだという。
2005年04月19日
十六 造花
■ 友人から送られた文献のリストは、そう多いものではない。
カーンバーグとかマスターソンとか、ついこの間と言っても良い位概念としては新しいものなのだそうだ。東京駅の傍の本屋で大抵は手に入る。
宗教関係のところにすこし、それから角の棚にすこし、定価を眺めては領収書は出ないだろうと諦めた。
夜になって八重洲の地下街で食事をし、それからボタンダウンのシャツを一枚買った。昨年のものらしいのだが半値になっている。近頃、腕にアームをしている。シャツがそのように造られている。階段のところに座り込んでいる袋を持った男達をちらりと眺め、外に出た。
部屋に戻りヒーターのスイッチを入れ本を捲った。
定義からしてよくわからない。
「突然裏返しになる」という記述があった。
「予定した路線にはすぐに乗るのだが、そこで喜んでいるとその下にある不安定なものが露呈されてくる」
「安定した対人関係が結びにくい」
「半分鬼であり、半分人間でもある」
「神経症と分裂病の境界に属する人格のありかた」
なんのことやらわからない。
私は、地下街の花屋で造花を一本買ってきた。背の高いグラスに差し、水を入れるべきかどうか迷った。水は入れず机の上に置いてみる。
壁に反射した光の中で、すこしくすんだ赤色の薔薇は静かに息をしているようにみえる。だが造り物なのだ。指で触れると乾いた音がする。
考えるのをやめてぼんやりしていた。小さなグラスに酒を垂らした。
ウィスキーは生で飲む。
その方が旨いからだ。嘗めていると水が欲しくなる。
黙っているとチェイサーをよこさない店が多いが、それがもともとの作法なのだろうか。
水の味も酒を左右する。私はフードのついたトレーナーを着ていた。
足が冷たいが、靴下を履くのははばかられる。
■ 電話が鳴った。昔すこし遊んだ女からで、今、恵比須の坂道で飲んでいるのだという。
「ブルー・マルガリータを四杯」
知らない酒だ。
「男かえたんじゃなかったのか」
「そうなの、切れ間ってところね」
何年か前のイブの頃、どう時間を合わせるのかで揉めたことがある。
パーティに出ようというのだが、私は仕事が詰まっていた。そのパーティで知り合った男と暫く付き合っていたようである。
ホテルの部屋を借りて集まることが、十年程前から暫くのあいだ流行った。
自室が狭いから、そうするのだろう。
坂道の途中にあるホテルは、二階のツインを全てそうした部屋に変えた。
飲んだり食事をしたりする訳である。充分宿泊できるだけの料金で、アール・デコ調の椅子に座っているのは豪華なような気もした。
その後、電車に乗らなくても良い場合ではあるが。
「今、どんなひととつきあっているのよ」
「四杯じゃないだろう」
随分酔っているようだ。知っている頃は髪を長くし、時々はモデルのような顔をしてピアノを弾いていた。才能だけでは入れない、名の知れた私立の音大を出ている。
私はぼんやりと話を聞いていた。ビデオのスイッチを入れ、音を消して眺めている。画面はいつも雨が降っているように思えた。
「代々木のツリーが変わったな」
■「きいてないでしょ」
成程そうなのか、と胸の中で細い針が微かに動いた。
昔寝たことのある女が平気な声で電話をしてくる。私は平気な顔で答えている。彼女は男が変わる度に夜中に電話をしてきた。半ば決まった心を確かめるかのように、いくつかの些細な不安を並べた。ひとの心に興味があった頃、私は距離を置いて相づちを打っていた。
「まあ、この辺にしておこうぜ。七味を入れ過ぎると食えなくなる」
「あなたのそういうところがキライだったのよ」
私は七味になることを承知していた。反面、昔の女と話していることで、現在に刺激を加えていることも自覚している。必要な時はそれで良かったのだろう。どういう訳かそうした構造が透けるようにみえた。普段そうした感覚が商品とコピーのあいだに薄い距離を置き、今のところ広告主から新鮮だと思われている部分のあることを思い出した。
電話に付き合っているのに疲れてくる。向こう岸の言い足りない勢いを押さえ、電話を切った。
二分経つと電話が鳴る。葉子だった。
「ポケベル、鳴らないわ」
「ああ」
ぬるいギネス。
■ 午前中から動かねばならないというのに、漠然としていた。
ただの、ぬるいギネスを嘗める。
酒場のロゴのデザインの参考になろうかと買ってきたのだが、棚の中に二本入ったままになっていた。
本当は瓶がいいのだが。
2005年04月20日
四月の雨。
■ 昨日、一日都内を車でうろつきまわっていた。
明るい時に眺めると、洗車すべきかと思うのだが、都心で車を洗うと2000円もするのでやめにする。どうせ雨が降るダロウ。
昔よくいっていたスタンドでは、スタンドの人たちの手があくと軽く車に水をかけてくれて、つまり手洗いの半分くらいをやってもらっていた。
サービスというか、なんというかである。
缶コーヒーなどをその人たちに奢る。
あれこれと詰まらない話をして、たまに仕事帰りの彼らを地下鉄の駅まで乗せたこともあった。
■ なにをしているか分からない若造を、年長者が面白がってくれていたのだろうと思う。
車ばかりを磨く時期というのは誰にでもあるもので、他に誇るものがないからなのだが、当時はガソリンと本代と安い酒で随分が消えた。
何を食って生きていたのか、やや不明である。
四月の雨 2.
■ まあそれはそれなのだが、バブル期に入るとスタンドがつぶれた。
従業員はちりじりになり、付近のいくつかへと流れる。
そこではそう暢気なこともしていられず、ガスを入れたらそそくさと帰らないといけないような空気になってしまう。
熊さんと勝手にあだ名をつけていたひとがいて、彼は中野に住んでいた。
中野から高輪、後に江南へ通っていたのだけれども、私よりもいくつか上だったろうか。
■ ある雨の夜、彼を乗せる機会があった。私も新宿へゆく用事があり、ついでにという按配である。
熊さん夫婦には子供がなく、確か奥さんも働いていたように他の誰かから聞いた覚えもある。
出身が何処なのか聞くことはなかったが、バッテリーが不意にあがった私の車へ、ケーブルを持ってきてくれるのは大体彼であった。
降りる際、来月からそこにはいなくなる、と彼は言った。
え、と聞き返したが、そこでどうするということは尋ねなかった。
ショルダーバックを持って、もそもそ降りてゆく。
じゃ、また。といってそれきりになった。
なんとなく、中学のときの友人と別れたような後味が残っている。
2005年04月21日
灰色およびバラ色のコンポジション。
■ 一日うろついていると、もういけない。
私は普段、東京駅の地下街で買った1000円のナイロン鞄を使っている。
それと、チャックの壊れたとあるブランド物。
昨日は、そこに大量の資料を詰め込んでいた。
■ それは途中で買ったデータ用のDVDやCDであったり、一眼デジカメのバックであったり、某所から借りてきたグラフィックデザインの書籍だったりする。
古本屋は三軒廻った。
昔の「LIFE」が一冊1000円程度で出ていて、これは笹塚の古本屋である。前にいったときは「ガロ」が結構出ていたのだが、今回は一冊もみあたらなかった。
70年代のそれは数冊手元に置いてもいいが、80年代以降のものは、まあどちらでもいいかなという気もしている。
吉祥寺にはマニアな古本屋があって、夜遅くまでやっているので時々利用する。
価格は高めでもあるのだが、本当に必要なときはそうも言っていられない。
青のある街角。
■ と、いう按配で、半日矩形のスペースから動けなかった。
いくつかの電話とFAXと、それからメールなどをする。
ネット時代とはいえ、まだFAXを使うことは多いが、ただ先様が電話と共有の場合、もしもし、と言っているのが申し訳ないこともある。
■ 夜になって一杯を嘗め、資料の整理を始める。
こうして書いている隣で、小さなスキャナが動いていて、ほとんどそれはコピー代わりなのだが、こうした無駄な時間が〆切前にはどうしても必要になるようだ。
それにしても背中が痛い。
十七 低い月
■「今度の土曜はなにしてるの」
「年賀状の宛名書きだよ」
「日曜は」
「できなかった分を書くんだよ」
今年は土曜日がイブだ。私はメンソールの煙草を吸った。近頃、部屋に置いておき、思い出しては吸うことがある。
「食事にゆこうよ」
「東金はごめんだ」
「いいじゃない、髪もだいぶ伸びたし」
「東金がか」
「そうじゃなくてね」
葉子は私を誘っている。私は半身になっている。
この数年、クリスマスについては随分静かになっていたのだけれども、今年は街の様子が違っている。眼の色を変えたかのように宝石売り場にシャツを出した若者達が並んでいた。耳に穴を開けるのだそうだ。耳だけでいいのか。
「予約したのよ」
そこで腹が立った。冗談じゃない、昔からクリスマスには餃子とビールで一杯やることになっている。部屋に帰ってから、小さなケーキをひとつ食うのだ。そう言うと、葉子は電話に溜め息をついた。
「だから、餃子を予約したの」
私はすこし酔っていた。いい年をして、ロウソクの炎に揺れる女の顔を眺めていても仕方ないと思っている。油の浮いた壁の前で、蛍光燈の光に青ざめた毛穴を茫然と眺めているのが好きだ。
葉子がBMWで迎えにくることになった。
■ 電話を切って、すこしだけぼんやりとした。
夢であり、ここにこうしていることが偶然の産物なのだということをその時は信じた。
雨の中、オランダの俳優が死んでゆくシーンがあった。
電池が尽きるように、アンドロイドは短い寿命を終える。
チップに人為的なバグを混ぜているのかも知れない。バグはどの機械にもあって、有機的な筈の私たちも例外ではない。
「ビタミン・サラダ・カルシウム・弁当」
という冗談を事務所で誰かが言っていた。新製品のネーミングにどうだろうか、ということなのだろう。
有効成分を、単体で採ることが日常的になっている。
地方の医学生は、コンビニで買ったコロッケをつまみ、カルシウムの錠剤を噛みながらジャズ喫茶のカウンターで猫の腹を撫でていた。
彼女は瞳の大きな肌の荒れた美人で、薬に溺れた頃のアート・ペッパーが好きだと言っていた。時々男を替え、寂しいからと八階建てのマンションで暮らしていた。今は眼科医になって港の傍の病院に勤めている。
私はビデオを止め、酒を嘗めた。内側に篭る気配が濃くなってきている。
そういえば、トカレフはどうしたのだろう。
あの時、流れる自分の血のぬるさに新鮮な驚きを覚えた。
赤い血は暫くすると黒く固まり、シャツを脱がされる時、かさぶたが剥がれて痛んだ。
■ 土曜日になった。
私は地下鉄を乗り継ぎ、表参道に出た。
明るい通りからとって返し、ガラス張りの店を何軒か越した。注意深く眺めていると店の名前が随分変わっている。
いつだったかこの辺りで高いシャツを買ったことがある。
モデルをしていたと思われる眉毛の濃い男が胸元をはだけ、ツータックのパンツで説明をしてくれた。
金を払い、むかし雑誌でみたことがある、というと露骨に嫌な顔をした。
稚児が古くなると店に廻されるのだと聞いた。
古いと言っても二十代半ばでしかない。
坂をまっすぐ降ることはせず、左に曲がり青山墓地の手前の陸橋に向かった。
タクシーの後ろに見覚えのあるBMWが停まっている。
エンジンを切ってスモールを灯けている。
葉子は陸橋の橋桁にもたれていた。
下はキラー通りだ。黒い皮のコートを着て、短いブーツを履いている。
その下はスカートなのか、灰色のようにも思える。
私は脚を引きずっていることに気付いた。片方が硬直し、踵だけが擦り減るような気持がする。
「よお」
と挨拶すると、葉子が指をさした。
まだ低いところに赤と茶色の月があった。
大きくて斑な模様がはっきりとしている。
上の方が欠け、ビルの間から昇ってきている。
「この世の終わりみたいだね」
葉子がそんなことを言う。
横を向くとタワーが立っている。
一番上のところだけがみえなくて、晴れてはいるがガスが出ているのだとわかった。
空の上も風がないのだろう。
2005年04月26日
赤色の四角で。
■ いくつかの〆切が重なり、身体が重い。
走っていると赤紫の色が流れ、躑躅の季節だ。
現場処理。
■ これをカタカナで書いて三回くりかえすと、キヨシローの歌になる。
オレは現場処理の男。
■ 私は思うのだが、現場で細かく寸法を取っている例えば看板の施工屋さんがいて、その人の仕事をある部分で尊敬していなければ、デザインなどはできないのだと思う。
接待も、その後の付き合いも想定されている訳ではないのだけれども。
2005年04月28日
外は緑さ。
■ バイク便で色校正が届く。
携帯が地下にあって繋がらない。
私はといえば、寝癖をたてながらへろへろである。
さっき資料につまづいた。
外は一日ごとに緑が増える。
十八 渇く
■「松明のごと、なれの身より火花の飛び散るとき」
葉子がベットの上で低い声を出した。
「なれ知らずや、わが身をこがしつつ自由の身となれるを
持てるものは失われるべき定めにあるを」
どこかに記憶がある。埃を払うと鈍い金属版が覗ける。
「銀座で映画をやっててね、観たのよ」
「灰とダイヤモンドか」
「ワイダってひとが書いたのかとおもってたわ。本を読んだら難しくて最後まで読めなかった」
「でも、はじめのところだけは覚えたの」
アンジェイェフスキだったと思う。小説の扉に、ノルビックの書いた詩が引用されている。
「灰の底ふかく、燦然と輝くダイヤモンドの残らんことを」
私は、「自由」という言葉につまづいている。葉子が口にすると、何か意味があるかのように思えた。
「自由になりたいのか」
私は葉子に尋ねた。
「ずっと、そう思っていたような気もするけど」
空調の音が低くしている。
部屋は乾き、窓からは隣にあるビルの灯りがみえている。葉子が予約したのは、恵比須にある人工的な街のホテルだった。
駅から続く水平のエスカレーターがあり、それはいつも警告の声を流している。
少しだけ開いた土の中に痩せた樹木が埋まっていて、そこには小さな電球が無数に纏わりついている。
照明を浴びた建物の前で、若い男女が写真を撮っている。座り込んでいる若者もいる。
人工的な街の中にあるデパートで酒とグラスを買い、部屋に潜り込むことにしたのだ。
「でも、自由って何かしらね」
私は葉子が撃った中国女のことを考えていた。
火花はトカレフの銃口から短い間、白く出ていた。
■ 葉子は髪が伸びていた。私はグラスを持っている。
触る気持が起きるのを待っていた。
「わたしってね、たいていのことは旨くゆくんだけど、肝心なことがわからないのよ」
葉子が言った。
「こうすればこの人はこう動く、ってこともすぐにわかってね、相手に応じて器用に使いわけることもできるの」
「誰でもそうじゃないか」
「でもね、そうしていると自分がなにをしたいのか、段々わからなくなってくるの」
私は持ち込んだワインで餃子を食べていた。新築のホテルの部屋でポリ容器に醤油を垂らし、上品な餃子をつまんでいるのは不思議だ。味はいまひとつ。
壁が薄いのだろう。建物全体が合金の上に薄い石を張ったような造りだった。沢山のひとの声が微かに響いている。
「よく予約できたな」
「父に頼んだの」
「親父さんは何処にいるんだ」
「上海」
「上海で何をしているんだ」
「ビールを売っているのよ」
また訳がわからない。
「卒業したら上海にゆくわ」
葉子はそう言う。
私たちは赤いワインを飲んだ。ぬるくなってきている。葉子は短いショーツ一枚になっていた。その上に備え付けのバスローブを羽織っている。
そう大きくはない胸がみえる。
まだ芯が残り、強く掴むとはじめのうちは痛がった。
■「撃った時、どんな気分がした」
私は尋ねた。葉子の眼が光り、フンと鼻が上をむく。耳が隠れる程伸びた髪が一度開き、躯を起こしてこちらを向いた。
悲しんでいる訳でもない。怖がってもいない。葉子の姿はとりとめがない。
私の座っている椅子の傍により、葉子は猫のように跪いた。
私のバスローブを開く。スイッチが切り替わったのだとわかった。
葉子が私を誘ったのはなんのせいか。
話したのは何処までが本当か。自分がわからなくなるという。ノルビックの詩を覚えたのは私が喜ぶとおもったのか。
女の敵は女だという。
目線で、あるいは隠された口紅の下で、若い女は毎日何人かの同性を殺している。
しかし、本当に銃を打つ訳ではない。そのように訓練されたひとがいることを私は知っている。撃たなければならない国に住んでいるひとも。中国の狐のような女は、北沢の女のひとりだった。葉子は北沢の子を孕んでいた。
空調の音が微かにする。
舌先が太股の内側を遊んでいる。
髪が触れる。
まだ一度にはゆかない。私は葉子を押しのけた。
「倉庫で晃子と何を話していたんだ」
口紅がとれている。鼻の廻りに細かい皺がよって唇を丸めた。不満なのだ。
「晃子さんは、あの女に会ったら殺してやるといっていたわ」
「それだけじゃないだろう」
「ええ、あなたのことを聞かれたのよ。…あなただって共犯じゃない。銃を使わなかっただけよ」
「そうだ」
後に続く言葉を捜したが、簡単ではなかった。
腹の底でなにか冷たいものが動くのがわかった。
■ 外に出ることにした。葉子はそれ程飲んでいない。
葉子は皮のコートを羽織った。口紅が赤い。地下の駐車場にゆきBMWを出した。葉子に運転をさせる。山手通りに曲がってゆく。
私は鞄からカセットを出し機械に入れた。
「なに」
「フルベンというじいさんが指揮するオペラだよ」
「芝浦にゆこう」
イブの夜の山手通りは混んでいた。千葉や多摩ナンバーが並び、渋谷からの坂を下るのに一時間かかった。
拍手の音が入っている。バス・バリトンの声が低く響いている。彼は悪役で、幽閉された囚人を謀殺することを命ずる。
「訳がわからないわね」
葉子は薄い不満を口にした。しかし、ボリュウムを絞ることはない。
私は何か別のことを考えていた。酔いは鈍いものに変わった。
私は葉子に心を読みとる能力があるのではないかと思っている。
今、ワイダをもってくるのは何故か。
葉子を眺めていると、切断された鮮やかな断片が印象に残る。そうしたシーンはいくつも思い出すことができる。しかし、それらは分断されていてひとつのものとして統合されることがない。
借りてきたビデオの中に鑑別診断をする場面があって、それは人間かそうでないのかを曖昧に区別する技術だった。友人から送られた文献のリストには、いくつもの質問形式が例文として載っていた。「ボーダーライン・スケール」と呼ばれるもので、該当するものが多い程疑わしいということになる。
「私は周囲の人や物事からいつも見放されているかんじがする」
「最初にあった時はその人はとても立派にみえるが、やがてガッカリすることが多い」
「他人は私を物のように扱う」
「残酷な考えが浮かんできて苦しむことがある」
「私の内面は空虚だとおもう」
確か、そのような質問が五十程度並んでいた。試みにテストしてみれば、恐らく私も該当の範囲だろう。
ポーランドには沢山の強制収容所があって、そこでは何十万というユダヤ人やジプシーが殺された。
人種、民族という曖昧な境界であったが、線を引き、ひとつの民族を地球上から根絶しようとする思想は何処から出てきたのだろう。
ベートーベンの、「フィデリオ」は難解で一般受けしないと言われる。
確かにロマンチックでもないし、誇張されてもいない。
暗く、聴いていると辛くなるかのようだ。
車が流れ出した。
葉子がセカンドで引っ張った。
舌先を伸ばしていた時の表情は微塵もない。葉子は自分を物のように扱っているのだと気付いた。
■ 桟橋の中に入った。
鍵をかけ忘れた柵があって、横に動かして車を入れた。
人影はない。
「この曲、聴いたことがあるわ」
オーケストラの演奏でクライマックスに近づいていた。曇った音は録音が古いせいだけでもない。音をすこし大きくした。黙って聴いている。
「なんだか、自由への渇望って感じの演奏ね」
葉子は人の心を読む。こちらが気付いていない偶然の出来事の意味を探る。カセットを持ってきたのはフトした弾みで、棚の端にあるものを選んでみた。それがフルベンだったのだ。演奏は一九五○年くらいのもので、当時のヨーロッパは大戦の痕が生々しく残っていた。ドイツはふたつに割れ、戦争の危険すら濃厚にあったという。
「わたしね、ローラって本を読んだことがあるのよ」
「フライパンで母親に焼かれた女の子の話」
「口も耳も、みんな不自由なの」
「ボランティアを始めた頃、読んだの」
幾分かは嘘が混じるのだろう。
しかし、別の意味を考えることにした。自分も焼かれているのだと示唆しているのかも知れない。半ば嘘が混じり、半ば切実で、その間を葉子は忙しく揺れている。揺れに耐えられなくなると、自分を物として扱おうとするのかも知れない。
「君は、マゾか」
「え」
「マゾッ気が強いだろう」
「うん」
「安心するのか」
「わからないけど、そうかも知れない」
サディスティックな部分も強いことはわかっている。並の男以上に冷静・確実に車や銃を扱うこともできる。頭の中には残酷な思い付きが浮かぶことも度々あるに違いない。
「じゃ、寝ようか」
ひとくぎりついたような気がした。