2005年03月30日

「夜の魚」一部 vol.49

 
 
 
 
■ 私はウィスキーが飲みたかった。
 この頃量が増えている。飲みながら胃薬を噛んだりしている。矛盾しているがそんなものだ。
 フロントに電話をし、リザーブの小さな瓶を注文することにした。国産しかないというのだ。葉子が取りにゆく。
 私はベットに座り、小さなショーツの上からジーンズを履こうとする葉子の後姿を眺めていた。脇のホックのようなものを掴み、腰を二三度振っている。
 有線からマイルスが流れている。「昨日、夢をみたよ」という曲だ。ガーランドのピアノが淡々と響く。
 わかったような気もするが、だからどうしたとも思っている。
 何処かで都合が良すぎるような気がした。
 出来すぎたことにはほとんどの場合嘘が混じっている。しかも、それはもっとも本質的な部分についてである。
 私は、自分の仕事がどう旨く嘘をつくかで評価されるところがあることを思い出した。
 肝心なことを伝えないのは嘘をついたことにはならない、そうした言い方をする同業者もいた。
 トカレフは私の傍にあって葉子は追われている。
 横浜新道のランクルは記事にならなかった。
 調査を頼んだ晃子は襲われ、羽布団の倉庫で眠っている。
 吉川とは何物なのだ。葉子の父も。
 銀色の眼鏡をかけた奥山。あのセドリックは誰のものか。スタンドにいた残留二世の女はどうして鍵を持っていたのだ。
 暴力革命だって。ともかくよして貰いたい。
 私は何かに巻き込まれ、それが何なのかわからないことに苛立っていた。
 その苛立ちには奇妙な静けさが含まれている。
 眠っているだろう晃子のことがすこしだけ気になった。
 
 私たちは寝なかった。
 広く丸いベットの上で始めは離れ、それから背を向けて躯を斜めにした。
 葉子は錠剤を噛み、暫くして私にもたれてくる。
「それを飲むと眠れるのか」
「うん」
「随分、眠れるのか」
「うん。普通のひとが飲むと、お昼過ぎまでぼんやりしているんだって」
 葉子の横顔は幼女のようにみえた。
 ベットの下に敷いてあるビニールが擦れて音を立てる。
 隣なのか、時折女の細い声が聞こえてくる。
 遠くからだと、夜を渡る鳥の声のようにも思えた。
 葉子の寝息を確かめると、私は煙草を消し考えることをやめた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.48

 
 
 
 
■「北沢という男に昔の女が襲われた」
「細いナイフを使い、二ミリ程の深さで、胸と背中に長い印をつけながら楽しむんだ。その筋の者にしちゃ随分出来がいいじゃないか。女に始末までさせている」
 葉子は眼を開いた。女という言葉に反応したのだ。
「北沢の今の女のひとりなんだろう。よく仕込んである」
 そこで言葉を区切った。ビールをちびりと飲む。
 葉子は煙草に火をつけた。顔色は落とした照明に透けてみえる。
「昨夜は薬を飲んだのか」
 頷いた。
「いつから飲んでいるんだ」
「追われる頃から」
 葉子の声が別のものになった。低い部分が表にでている。
 
「抜けたのは四月。その時妊娠したのよ」
「銃は」
「いくつもあったわ」
「始めは知らなかった。横浜にもいくつか市民運動のようなものがあって、サークルはそこと連絡を取りあっていた。あなたは笑うでしょうけど、サークルはフェミニズムを研究するものなの。そこで従軍慰安婦のことが取り上げられていたのよ」
 私は薄く笑った。お嬢様のお遊びもいいかげんにして貰いたい。
「その運動をやっている人たちの中に、CPPと関係のある人がいたの。CPPは募金を横流ししていた。私達が集めてきたお金を何処かに持ってゆこうとした」
 懐かしい思い出を語るように葉子は言葉を並べていた。それからビールを一口飲み、グラスを置くと、
「あなたは晃子さんを愛しているの」
 と、唐突に尋ねた。丸い瞳をしている。私は答えなかった。
「その事務所は何処にあったんだ」
「今はもうないとおもう。横浜の税関の傍のビルだけど」
「トカレフは何処にあった」
「一度だけ金庫の中を覗いたら、四角い箱に入っていたわ。わたしが持ってきたのは北沢のサーブのトランクから」
 サーブに中国女か。なかなか良い趣味をしている。
「北沢ってのは背広を着るのか」
 不思議そうな顔で葉子はこちらをみる。
「そうね、一度だけみたことがあるわ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.47

 
 
 
 
■ 私はカマロのエンジンをかけた。アクセルを深く踏む。
 途中、ひとつ前のベンツを直線で抜き、そのまま尻が流れ、ハイビームのまま信号を無視した。羽をつけた四駆のセダンが並んだので幅寄せをした。
 奴はビビり、それ以後追ってこなかった。私は夜の峠をセカンド・レンジで走っていた。どうでもいいのだ。胸の底に、次第に凶暴な気配が溜まってくるのに気付いている。今までは一定の枠の中にいたのだ。
 小高い山をひとつ越えると空港の灯りがみえた。
 国を離れたいと願う男女は、このアジアにどれくらいいるだろう。
 私は芝浦のスタンドにいた髪を束ねた女のことを思い出していた。彼女はどうして日本にきたのだろう。国籍や国境とは何なのだろう。
 差別というのは何処の国にもある。
「ひとは生きてゆくために、海峡を渡る権利があるのだ」
 そんなことを誰だかが言っていた。
 半世紀前の戦争の時、大陸に残された日本人の数は数十万人だと言われる。
 彼等は難民ではないが、国策に則った移民だった。棄民という呼び方すらある。
 
 スタンドでガソリンを入れ、小便をし、カマロを国道沿いのモーテルに入れた。
 昔、国際線のスチュワーデスを成田まで迎えにいったことがある。空港の脇のホテルで食事をし、高速に乗らずにモーテルに入った。
「冗談でしょ、うちの運賃はパンナムより高いのよ」
 と、彼女は真剣に言う。一年半して彼女は成田の寮をでた。三田線の沿線に部屋を借り、自分で料理をつくろうと決めた。
「ねえ、自炊ってさ、どんなもの食べるのかしら」
 そんな電話が偶にかかる。フライトの後、時間はまちまちだ。
 
 モーテルのシャッターは半分しか閉まらなかった。
 カマロは丸い尻を出している。ここで眠り、明日は芝浦にゆこう。私はカツ丼を取った。葉子もそれに倣った。
 別々に風呂に入り、それからビールを抜いた。葉子は有線のチャンネルを廻している。
 ドアーズがかかった。次はディランだ。次第にうんざりした気分が濃くなってくる。
「そろそろ話して貰おうか」
 葉子は黙っている。表情がない。二分経った。煙草を消した。
 葉子の傍へゆき頬を叩いた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.46

 
        九 鳥の声
 
 
 
 
■ 小さなスタンドをつけ葉子は床にしゃがんでいる。
 片方の膝を抱えている。スタンドを眺めているようだ。私は低いソファに横になった。
 私たちは口をきかなかった。説明するのが億劫だった。
 こんな風に人生をあやまるんだ、といつものように考えた。
 スープをすすり、ひとりで夜を過ごしたい。傍に居る女を眺め、本気でそう思っていることに気付いている。
 いつの間にか私は眠っていた。
 ソファの上で朝を迎えた。薄い毛布がかかっている。髭がじゃりじゃりし、顔は粉を吹いている。そう若くもないのだ。
 
 昼が過ぎ、でよう、と言って外にでた。
 葉子がカマロを運転した。低い排気音が室内に篭る。
 県境の国道を過ぎ、低い屋根の続く工場地帯を抜ける。
 右に曲がって十分程ゆくと海の傍に小さな展望台があった。
 夏以外、誰も昇ることはないのだろう。手すりが白く錆びている。その先は平たい堤防になっていて、テトラポットが囲んでいる。空は黒くなりかかり波の音が大きい。
 空き缶を探したが近くにはなかった。
 私はトカレフを取り出した。コンクリの外れ、そのひび割れたところに照準をあわせる。十メートルない距離で八発撃って七発が外れた。
 銃声は乾いた板を踏み抜いたような音がした。
 こんどは掌が痺れることはなかった。
 黒くなった空の低いところを、スポットを点滅した飛行機が離陸してゆく。向こうが空港なのだろう。一体何ワットあるのか。空に二本の筋ができ、海の方角に向かっている。堤防の外れは葦なのか、背の高い枯草が生えていて風が吹くと忙しく揺れた。
「北沢って男はなんなんだ」
 葉子は答えない。
「横浜で何処にいった」
 葉子の髪が逆立っている。風は海からくる。
「北沢の子を孕んだんだろう」
 葉子が上を向いた。
 
 
 

2005年03月29日

「緑色の坂の道」vol.3074

 
       雨あとお月さん。
 
 
 
 
■ もうじき桜だという。
 世の中はそわそわと、私は漱石の「夢十夜」の書き出しを思い出す。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3073

 
       無駄な日 4.
 
 
 
 
■ 無駄というのは、ほとんど青春に似ている。
 ただ風景を眺めていた頃の記憶でもある。
 女がいることが、かろうじて自分を支えていた時期というものもあった筈だが、流れてしまえばその横顔も中の狭さも、何も視えていなかったことに近い。
 横顔で粉をかけてくる女の腰から下。
 それを征服してやろうと思うまだ残る若さ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3072

 
       無駄な日 3.
 
 
 
 
■ 漠然と酒の瓶を眺め、隣の外人の英語を単語だけ理解し、葉巻が三分の一になった頃合に戻る。
 勘定をしようとすると手持ちが足りない。
 端数をカードで、と頼んでみるがもちろん言ってみただけである。
 ツケという訳にもゆかないので、ええと、とサインをする。
 手持ちの金でラーメンを喰って、暫く歩いて、飽きた頃車を拾う。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.45

 
 
 
 
■ 橋の上から海がみえた。
 それは囲まれていて、何処に続くのかわからなかった。続いているのさえ俄には信じがたい。
 五速に入れっぱなしだとコーナーでふらつく。
 雑誌のこと、銃のこと、葉子との関係のこと。吉川に尋ねることはいくつもあった。何処かでそんなことをしても無駄だと思っている。
 私は晃子の胸の傷を思いだした。
 残るかもしれない、と彼女はひとことも言わなかった。
 どのような姿勢をとらされたのか、部屋には痕跡がなかった。
 晃子が省いた言葉のいくつかもあるのだろう。
 黒い道が続いている。次第に疲労が濃くなる。
 横浜のホテルに葉子は戻ってこなかった。弾は二発使われている。
 細かな雨になった。ワイパーが音を立てる。
 古くなった潮の匂いがして、葉子のいるビルに近づいた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.44

 
 
 
 
■ 私たちは紙コップで薄いコーヒーを飲んでいた。
 奥山が一度外に出て、幾つかのものと一緒に持ち込んだのである。
「わたしが資料室の端末を操作したことが知られたのね。アクセスの記録が残ることを忘れていたんだわ」
 晃子が言う。
「うちの社にもシンパはいる。裏で組織へ情報を流したり援助を行っているんだ。金が絡んでいる。フィリピンや中国ってのは、今じゃ共栄圏のひとつだからな」
 吉川が言うと、どうしてかもっともらしい。
 CPPは直接表面に出ないが、様々なかたちで日本の企業・団体に接近を謀っていると晃子が説明した。どのような形かは定かでない。公安も一定部分では掌握していて、慰安婦に関係する特定の団体が抗議行動をする場合、機動隊の車両が待機していることもあるという。背後に過激な組織が関与していることを薄々掴んでいるからだろうか。
 
 何本煙草を吸っても一定のところからはみえなかった。
 私は何を聞くべきかを忘れていた。吉川が箱を壊し、羽毛布団を取り出してきた。ドアの向こうで眠るという。
「大丈夫ですよ、あのひとは。見掛けよりも純情なんです」
 奥山が言う。なんだかそんな気もする。携帯電話を晃子に渡し、私は東金に戻ろうと思った。後のことを頼んで階段を降り、BMWに戻ることにした。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.43

 
 
 
 
■ 千葉へ続く背の高い橋がみえている。
 港は狭くなり、その脇にはクロームと模造大理石が貼られたビルが幾つも並んでいる。
 この辺りにビルができ始めたのはここ数年だ。中程はいつも空いている。夜になっても蛍光燈がつかない。倉庫はその一角にあった。隣接する比較的広い駐車場に車を駐め、四階までの階段を私達は昇った。吉川が晃子の荷物を持った。
「エレベーターの電気がないんだ」
 吉川が振り向きながら言う。中に入ると段ボールが無数に詰まれている。
「売れ残った羽毛布団だ。ここなら匂いもない」
 廊下のようなものを進み、一番奥の部屋の鍵を開けると、そこは整備された個室になっていた。見たところ、普段泊まるビジネスホテルよりまともかも知れない。簡単なソファとカーテンで仕切られた奥にベットがある。
「まあ、ここに居るしかない訳ね」
 晃子は黒いビニールのソファに座り脚を組んだ。もういいんだ、という顔をして窓を眺めた。芝の方角、タワーからはだいぶある。
「さっきの女は残留二世でね、北京の大学を出ている。結婚もしていたようだが、別れてこちらにきているんだ」
 吉川が説明する。スタンドの女のことを言っているのだろう。
「暫く前まで銀座でホステスをしていたが、今はそうした二世の連絡係のようなことをやっている」
「吉川さん、だいぶ通いましたね」
「うるせえんだよ」
 私は奥山のがっしりした腰のあたりを眺めていた。とりあえず、こいつに任せておけば良いだろうという気になった。
「それはそれとして、なんで銃の弾を持っているんだ」
「そんなものは幾らでも手に入る」
 吉川はうそぶいた。
「昔、俺はあの辺りで捕まったんだ」
 吉川は窓から細い運河のようなものを指さしている。誰もきいていない。もういいんだよ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.42

 
 
 
 
■「こいつはうちの社のものじゃない。だから安心していい」
 吉川はそう言った。
 私は階下にコーヒーを注文することにした。三角のカップで、濃いコーヒーが運ばれてくる。角砂糖がふたつ付いている。
「トカレフは丈夫ですが、消耗品だと考えた方がいいですね」
 奥山という男が言う。私達はコーヒーをすすった。胃の奥を探るような気分だった。
「実は、隠れる場所がいるんだ」
「どういうことだ」
 吉川が大きな目を光らせる。
「女なんだ。葉子じゃない」
 私はきしむ階段を降り、車に戻って晃子を案内した。吉川は暫く黙って晃子を眺めていた。
「北沢という男を知ってるか」
 話しかけても吉川には聞こえない。
「芝浦の倉庫はどうです。あそこなら管理用の部屋が空いている」
 奥山が促して、私たちは車に分乗することになった。
 山手通りを横切り、青山から広尾へと抜け道を通る。奥山の運転は危な気がなかった。丸くなる前のセドリックで先行する。
「どうでもいいけど、寒いのはごめんだわ」
 晃子は化粧したジプシーのような横顔で煙草を吸っていた。
 
 産業道路に入り、スタンドに寄る。
 モノレールの橋桁の間から店に入った。奥山は指を立て、三十リッター入れるよう指示している。
 髪を後ろで束ねた女がガラスを拭いている。断片的な言葉で、日本人でないことがわかった。夜は寒いのだが、短いスカートを履きタイアを確認している。三十手前くらいだろうか。金を払いながら奥山が何かを受け取っている。鍵のようだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.41

 
       八 スィング
 
 
 
 
■ 劇場の地下に車をとりにゆき、マンションまで引き返して晃子を乗せた。荷物は横にしてトランクに入れた。
 細い路地を曲がってビリヤード屋の傍に車を停める。晃子には暫く車の中にいてもらうことにした。
 二階にあがると吉川は既に来ていた。赤い玉を右手にもち、太い指先で廻そうとしている。彼は黒いスーツに蝶ネクタイをしていた。腹をつき出し、全てがわかっているといった様子を見せた。
「もうひとり連れて来た」
 壁の傍の古い椅子に、灰色のスーツを着た三十代の男が座っていた。私よりすこし年下のように思えた。髪をきちんと分け、度の強そうな銀色の眼鏡をかけている。
「拳銃と格闘技、それから哲学に詳しい」
「よろしく、奥山です」
 近づいて挨拶をする。どう判断するべきか暫く迷った。迷っている段階ではないことも知っている。
「俺は運転できないしな」
 吉川はその腹を無意識に撫でている。店に他の客はいない。一時のブームは去ったのだろう。台が三組あって、その上には真鍮の傘のスタンドがぶら下がっている。一階には髪をポマードで撫でつけた、その世代からすると背の高い店主がいて、いつもラジオを聴いていた。テレビでないのをいぶかると、あんな下品なもの見られますか、と笑われたことがある。
 
 
 

2005年03月28日

「緑色の坂の道」vol.3071

 
       無駄な日 2.
 
 
 
 
■ 暫くツマラナイ状態でいて、若いバーテンをからかう。
 彼はこれから仮眠室で休むのだという。
 エロ本ないと眠れないだろ。
 彼はこちらの顔色を数分の一秒眺め、そうなんすね、と答えた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3070

 
       無駄な日。
 
 
 
 
■ あるとき車を拾い、虎ノ門のホテルのロビーでぼけーっとしていた。
 灰皿がある一角は隅にあり、またいい灰皿を使っているのだが、30代の頃のようにひとつもらって帰るということはしない。
 ボーイがバケツを持って灰皿を洗いにくる。
 高校を出てすぐにこの世界に入ったかのような、横顔が幼い。
 なんとなく済まない気分になってバーへ入ってゆく。
 
 
 
■ 手持ちの金はそうないのだが、まあいいだろうという按配で一杯を飲む。
 スコッチ一杯よりも高い葉巻などを買って、カットしてもらう。
 カットには二種類あって、モチがいいものとそうでもないものとがある。
 どちらにしますか、と妙齢が尋ねるのだが、どちらでもいいような気がする。
 で、カウンターで、なんとなくツマラナイなという顔をして実際つまらない訳である。 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3069

 
       柄と品 2.
 
 
 
 
■ となるとつまりは、痩せ我慢ということになってゆく。
 持ち帰りの牛丼(今は難儀である)で、紅生姜いっぱいくれ、と言えるかどうか。
 それと同じ声色で、例えば銀座のクラブにいって、中ぐらいに高い奴と流せるかどうか。
 だって放っておけば凄いのがきてしまう。
 そうもゆくまい。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3068

 
       柄と品。
 
 
 
 
■ という言葉があって、ある種座右の銘にしている。
 と、銘とかいう単語が出てくるところが既にして野暮ではあるのだが。
 柄は少々悪くてもいい、が品性は悪くなるな。
 と言ったのは小津監督だったろうか。吉行さんも言っていた。
 
 
 
■ つまりまあ、なんと申しましょうか、眼の前にすぐに儲かるようなカラクリがあったとして、それに飛びついてはいけないということなのだろう。
 こっちおいで、と手招きされて、暴力バーに吸い寄せらるようなものである。
 やや違うな。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3067

 
       忘れて勉強せどりっく。
 
 
 
 
■ 星野さんは作詞家として名実ともに大家であって「三百六十五歩のマーチ」「男はつらいよ」「アンコ椿は恋の花」「夫婦坂」などなど、などなど、ここに書いても仕方がない程の膨大なヒット曲を作詞されている。
 若い頃、演歌というものをなんとなく敬遠していた私であったが、考えてみるとそれは単に精力が溢れていただけであって、思想的にどうこうという判別はつかなかった。
 通俗と呼ばれるものの強さというのは、ある種のルーティンもしくは刷り込みである。 白秋の歌も、字面を眺めてゆけば通俗の極みに似ている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3066

 
       なんだか、黄色いサクランボ。
 
 
 
 
■ この歌を星野哲郎さんが作詞されたのだとは気づかなかった。
 あれこれあるけど なんだか黄色いサクランボ。
 という論理の飛躍がすごい。
 通じてしまうのである。
 
 
 
■ 一連の経済的茶番は、様々なものを炙り出した。
 勝ち馬に乗るひと、身近にいることを誇るひと。
 多くのブログは匿名で事情通ぶりを発揮していた。
 ほとんど踏み絵に近いようなところもある。
 日比谷公園の前を走っていて、なんのことはないこれは演歌の世界なのだと気づく。
 そのセオリーを踏まえた者が最終的に着地してゆく。
 情というものは、ひとを動かしている。
 一方ではね。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.40

 
 
 
 
■ 私は台所に立ってお湯を沸かした。
 沸くまでの間、どうすべきかを考えた。コーヒーを入れると、私は東金の葉子に電話をした。吉川に連絡を取りたいのだと告げ、番号を聞いた。部屋を出ないよう葉子に言う。
 教えられた番号にかけてみる。七回ほど鳴って、割れたような声で吉川が電話に出た。名乗る。
「ちょっときてくれ、内ゲバなんだ」
「なに、ぞくぞくするじゃないか」
 吉川とは、マンションからすこし離れたビリヤード屋の二階で待ち合わせることにした。
 
 晃子が言う。
「わたしにいうことはないの」
「ある」
「なによ」
「手当したのか」
「シャワーも浴びてないわよ」
 ここを出ることにした。晃子は身仕度をする。ぱさりとガウンを降ろすと背中を向けて風呂場へ入った。傷を避けて流すのは難しいだろう。
 女の支度は時間がかかる。棚と冷蔵庫を開き、私は簡単な料理をつくることにした。タマネギのスープだ。
 隣の部屋で髪を乾かす音がする。車輪のついたスーツケースを持って、晃子がでてくる。
「あなたが持つのよ」
 私がうなづくと、晃子は濁ったスープをすすった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.39

 
 
 
 
■「今日の朝、警察の者だといって、男と女がきたのよ。帳面をひらひらさせるからドアを開けると、そのまま入ってきたわ」
「女の方は二十七位、色が白いから中国系にもみえたけど、顎の線の綺麗ななかなかの美人だった」
「男は三十代後半、傍によるとそれがわかったの」
 黒い筈の瞳が蒼くみえる。髪は乱れたままだ。
「男は細いナイフを出して、わたしを裸にしたわ」
 晃子は立ち上がり、ガウンの胸をはだけた。
 
 首の下から乳房のまるみを過ぎた辺りまで、二本の赤い筋がついている。胸の真ん中でそれは交差している。血痕はほとんどなく、そう深いものではない。
 後ろをむく。同じものが背中にもあった。こんどは背骨に平行に走っている。
「葉子は何処にいるんだ、と聞きながらゆっくりナイフでなぞってゆくのよ」
「女はそれをみていた」
 背中には肉がつきはじめていた。記憶の中に疼くようなものがあった。
「男は北沢と名乗っていた」
「またくる、と言ってそのまま帰ったわ。御丁寧に女が煙草の吸い殻まで持ち帰ってね」 ソファに座っている晃子の脚がぶらりと揺れた。長くヒールを履き続けた小指の爪が潰れている。
「コーヒーでも飲もうか」
「そこにあるわ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.38

 
 
 
 
■ 細い路地を抜け踏切を越えた。下北沢の劇場の地下に車を入れた。
 ネオンが並んでいる。その前に若い男女が座り込んでいる。自転車のサドルの上で口を吸っている。
 すこし歩く。駅から五分ばかりという。確かここだ。
 マンションの下にある公衆電話で晃子の部屋にかけてみる。
 応答はない。三度繰り返した。不思議な予感がする。不安が這いのぼってくる。
 エレベーターに乗った。鍵を持っていることを思いだした。チャイムを鳴らし二分程待った。返事がなく、鍵を開けてみる。玄関のつきあたりから右に曲がった小さな部屋に彼女はうずくまっていた。
 ふりむく。
 年齢より五歳年をとってみえた。尋ねても答えない。
 のろのろと立ち上がり、小さなソファに座ると、
「あなたって、大事な時にはいつもいなかったわね」
 と、低い声で言った。
 
 
 

2005年03月26日

「夜の魚」一部 vol.37

 
 
 
 
■ 馬鹿げているのは車だけではない。
 私はBMWを出した。高速の黒い二車線で四速、一八○まで出た。
 エンブレムは外されているが三二三だ。
 矢絣のラインも注意深く消されている。アルピナだろう。
 マルニイの後、BMWは四つ目になった。比較的マイルドなハンドリングに変わり一部のマニアを失望させた。
 首を傾けるだけでコーナーを過ぎるような神経質さは薄れたが、その分売り上げを伸ばした。八十年代の半ばから、チューンするメーカーが現れた。元々はプライベートでレースをする物好きのためのチューナーで、大振りなオーバー・フェンダーをつけ、スパ辺りでアルファと競っていた。
 この脚はビルシュではない。
 イタリアの赤いダンパーで、私も二十代の頃スカイラインにつけ遊んでいた記憶がある。収まりが硬くないのだ。
 湾岸から箱崎を過ぎた。とたんに空気の密度が濃くなる。
 二速に落とし、きついコーナーを曲がった。
 流れてはいるが一度にはゆかない。
 カムが変わっているのか、赤い部分から更に廻ろうとする。
「葉子の親父ってのは、何者なんだろう」
 元々は前後にある羽を外し、十数年前の車をこれだけに保っている。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.36

 
 
 
 
■ その頃、私はまだ半ズボンを履いていた。
 一九六七年十月八日、当時の首相による東南アジア訪問が企図された。
 そこには焦土作戦が展開されていたベトナムをも含んでいる。それに抗議していわゆる新左翼系学生が羽田に集結し、機動隊と衝突したのだった。多くの逮捕者を出し、ひとりの学生が死んだのだという。
 風化しつつあるが半ば伝説のようになっているその事件は、長ずるにつれ私も何度か耳にしたことがあった。
 
「そう、その時捕まった人達は普通に進学したり就職できなかったらしいの。父には義理を感じているようで、わたしが高校の頃、家にきて酔いながらそのことをくどいくらい話していたわ」
「君の親父さんは何をしているんだ」
「小さな会社をやってるわ」
「吉川は」
「赤坂にある大きな商社にいるのよ」
 
 亡霊に追いかけられているような気もする。その亡霊には実体があって、忘れた頃にかたちを変え執拗に甦ってくる。私は鞄を持ち、部屋を出ようとした。
「場所は何処なの」
「下北沢」
「カマロじゃ無理だわ」
 確かにそうだ。曲がりきれない。葉子は私に車の鍵を渡した。
「銃はダッシュボードじゃなくシートの下に置いて」
 下まで降りると銀色のBMWがあった。ふたつ前の型で、放射線状のホイルを履いている。
「カマロは親父さんのものか」
「すこしイジってあるみたい」
「馬鹿げてるよな」
「そうね」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.35

 
 
 
 
■ すぐに暗くなった。
 私は事務所に電話を入れ、母親が危篤で戻っていると言った。男と暮らし始めた事務の娘が声を出さずに笑った。思いつき、自宅の留守番電話を聞いてみる。床を拭くモップ交換のお知らせと電話料金の催促、そして晃子からの伝言が入っていた。ここ数年、自宅に電話などはなかった。
「つけられているようだわ、怖いのよ」
 時刻は午前一時過ぎ。多分昨夜だろう。私は東京に戻ることにした。その前に葉子に聞かねばならない。
「あの吉川という男は何なんだ」
「どうしたのそんな怖い顔をして」
「知ってる女が危ないんだ」
「恋人なの」
 私は答えなかった。黙って葉子をみていた。葉子が口を開く。
「吉川はね、羽田闘争の時に捕まったの。それを父が助けたのよ」
「羽田闘争だって」
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3065

 
       そう旨くはゆかないよ。
 
 
 
 
■ 漱石の小さな作品に、小さな娘と会話するところがあった。
 
「どうして井戸の中には水があるの」
「地面の下に水が流れているからだよ」
「じゃあ、どうして地面は落っこちちゃわないの」
「うん、そう旨くはゆかないよ」
 
 原文はどうなっていたのか本来は確かめるべきなんだろうが、億劫なのでやめる。
 それにしても、「そう旨くはゆかないよ」という台詞には、なかなか味がある。
 ここら辺の、何処か投げやりな気配ってのは、そう悪くはない。
 深夜、ちびちび酒を嘗めながら、独りディスプレイを眺めている大人の貴方には、説明せんでもいいとおもう。
 
 
○昔坂 vol.4
 
―――――――――――――――――――――――――――――
 
■ ま、いいんですけれども、夕方からサーバーが落ちていた。
 なんとなく挙動がおかしかったので、サポートに電話をしている最中、実は今障害が発生していまして、と窓口の若い男性がイウ。
 それは困ったことだなあと、メールなども使えなかった。
 大手のところを使っている筈なのだが、こういうことはまま起こる。
 
 
 
■ 実はこの緑坂だけで、70メガほどの容量を使っている。
 MTというのは結構燃費が悪いのだなと呆れているのだが、かといって無料のところへ移ろうという気は起きない。その理由は、各種制約があり契約内容が不安定だからである。 何時止めると言われても、文句は言えないのだ。
 そう旨くはゆかないよ。
 という按配で、昔坂を思い出していた。
 
 
 

2005年03月25日

「夜の魚」一部 vol.34

 
 
 
 
■ 明け方、薄い夢をいくつかみたがよく覚えていない。
 環状線の街灯が全て消え、その中をカーキー色の装甲車が走っている。その後ろには武装した兵士が大勢トラックに乗っていて、銃を肩に私の車を眺めている。
 気がつくと午後の半ば近かった。
「イビキが煩かったわよ」
「じゃ、味噌汁は」
 浅蜊の味噌汁とコーヒーを二杯づつ飲んだ。
「眠っている間に、買い物にいったんだ」
 葉子は薄い化粧をしている。明るい光の中で眺めると脚が伸びている。洗面所に立って使い捨ての剃刀を使った。どちらが夢か。鏡の中の顔に隈が出来ていた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.33

 
       七 スープ
 
 
 
 
■ 机に置いてある雑誌をもう一度眺めた。
 その時、確かに葉子はよろこんでいるかのようにみえる。葉子は何色なのか。色が混ざるのだとして、男だけの色ではないような気がした。
 
 葉子がドアの前に立っている。ぺたぺた裸足で階段を降りてきたのだ。
 唇が震えている。浴室につれてゆき、バスタブにお湯を張り葉子の躯を洗った。窓の外は風が吹いている。曖昧な気持のままそれを聴いている。
 タオルを使っていると、鞄の中で携帯電話が鳴った。アンテナを伸ばすと雑音が激しい。
「楽しんでいるか、そこは二三日大丈夫だろう」
 東銀座の男だった。
「おい、ありがたいオマケまでつけてくれたな」
「ビデオはもっと凄いぜ」
「おまえ、誰なんだ」
「ちょっとかして」
 横から葉子が電話を取った。
「吉川、父は何処にいるの」
 強い声で問いただしている。
「そう、そうなの」
 葉子は電話のスイッチを切った。
「どういうことなんだ」
「まって、ゆっくり話すわ」
 電話を低い椅子の上に置き、葉子はドライヤーを使った。背中を向け、指だけで短い髪を流している。
 いつもこうだ。まって、と言われ、待ってみると機会を失う。
 隣の部屋にベットがあった。薄い毛布がかかっていて、葉子はそこで寝ていたのだろう。私は横になった。ぬるいものに吸い込まれ、すぐに眠りに落ちた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3064

 
       大人の厄介。
 
 
 
 
■ 着地点を探しながらあれこれするのが大人だと言われるが、ま、そんなような気もする。
 奇襲には奇襲。
 すれすれには、再度すれすれ。
 最後のところでバランスを取ってゆこうとするのは、かなりくたびれるが、そういう綱渡りをして表現もなされてゆくのだろうと思っている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3063

 
       赤い灯をつけるな。
 
 
 
■ とかいうフランスの映画があって、先日ビデオで眺めた。
 何もしたくない夜などに、何をするかは難しく、ぼんやり酒を嘗めていた。
 それにしても、センスってのは何処からくるんだろうか。
 
 
○昔坂 vol.638
 
 

2005年03月23日

「夜の魚」一部 vol.32

 
 
 
 
■ 私は殴ることもせず、それを眺めていた。
 胸の底に溜まっている残忍さに私は気付いている。
 氷を足すよう葉子に言った。グラスに二杯目を注ぐ。
「昔、福島の原発をみにいったことがある。外れたところに飯場があって、そこに沢山の男や女が居た。その時、居酒屋で酒を注いでくれた男にこのあいだ会ったんだ」
「都庁の後ろにある公園だった。写真をとるので夕方までいると、箱を抱えて制服に追い立てられている。奴はまだ若いんだ。フィリピンの女と結婚していた」
「それで」
「それで、間に入った訳だ」
「女とは別れていた。奴は炉芯部の作業をしていた」
「じゃ、浴びる訳ね」
「そうだよ、躯がきかなくなってくるんだ」
「あなたは何をしにいったの」
「女を買いにさ」
 私は葉子にいう。
「窓を開けろよ」
 波の音がする。他には音がない。リゾート用に作られたこのビルは、コンクリの底から冷えている。
「どうするの」
「脱げよ」
 下からだ、と私は言った。
 ベランダに出るように。そこでしゃがむように。
 細いタオルで手首を後ろから縛り、もうひとつ目隠しを葉子にする。
「同じことをしようじゃないか」
 みるみる鳥肌が立ってくる。寒いというが、聞こえない。
 浴室に連れてゆき小便をした。頭からお湯をかけた。
 Tシャツが濡れている。葉子は息ができない。
 口をあけ、訴えるような顔で上を向いている。
 叫ぶようになってゆく。その声は多分海岸まで届いた。
 底のない水のようで、それからは一定の段階が続いている。
 屋上のコンクリの上に葉子は立っている。立ちながら、泣いているのがわかった。五分したら戻るように。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.31

 
 
 
 
■ 女は人のために泣くことはない。
 泣きながらそれがどういう効果を持つか知らずに計算をする。
 葉子は膝を折り、手で顔を隠している。
 声の調子が波のように変わる。窓を開けると波の音か、空気がざわついている。暫く眺めていると葉子は泣きやんでいた。葉子は煙草を吸う。唇をまるめて煙を吐き出す。
「おととし、アメリカとイギリスに留学したの。そこで薬と男を覚えたわ。戻ってきて、ボランティアの活動に入ったの。今の生活がイヤだったのね」
 
 何処かで嘘があると思った。
 女の嘘は躯から入る。
「この写真は二十一の時よ。ビデオだってそうだわ」
 声の調子が変わる。
「そう、なんでもした。一晩で五人と続けたこともあったし、黒人は最高だったわ。中国のひとは硬いの、あなたよりずっとね」
 目線のない葉子の写真には陰毛がなかった。
 野外と風呂場で、腹の出た男達の下に膝まづいていた。
 葉子の眼が座っている。笑いだし、グラスに酒をついで冷たい紅茶のように飲んでいる。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.30

 
        六 目線なし
 
 
 
 
■ 葉子は髪を切っていた。
 肩までのものを更に短く、ほとんど私と変わるところがなかった。驚いた様子もなく私を部屋に入れる。
「毎日、海をみていたわ」
 何もない部屋だ。サイドボードだけは大きく、古いウィスキーが何本か置いてある。
「冷蔵庫の氷だけど、飲むでしょ」
 一杯だけ貰うことにした。バカラのグラスは重い。鉛が入っているからだ。
「さてと、説明してくれよ」
「あなたはいつも女に説明を求めるの」
 葉子はきいた風な口をきいた。
 私は鞄から雑誌を取り出し机の上に置いた。
 カマロのシートにあった皮の鞄には、メモと一緒に一冊の雑誌とビデオが入っていた。高速の駐車場で中を開けたのだ。誰でもが買える雑誌で、投稿された写真が載っている。男が数人ひとりの女に絡んでいる。去年のものだが、御丁寧にその部分は折ってあった。目線もなく、髪の長い葉子だった。
 私はその部分を開いた。
 葉子は横を向いた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3062

 
       キリサメ東京。
 
 
 
 
■ 深夜、所用あって運河沿いの街をうろついていた。
 時間まで、路肩に停め、ぼんやりと音を聴いている。
 なんのせいか腰が僅かに痛いので、背中に低反発のクッションをあてた。
 界隈は代理店であったり放送局が集まる一角である。まだ整備されきっていず、水銀灯だけが白い。
 ワイパーを止めていると、細かな雨がウィンドに広がり視界を狭める。
 私は遠くを見たり、近くに焦点を合わせている。
 三月末までにやるべき仕事が指折り、その次のことも左手で指折り。
 だからどうしたんだろうな、と思いながら、黒い鞄を持った男たちが過ぎてゆくのを眺めている。
 
 
 
■ 十年というのは、あっという間だった。
 傾きながら先を急いでいた時期もあって、よくあれだけ徹夜が続けられたものだなと思う。
 女の部屋でぶったおれていたり、午前の首都高C2を流すなんてこともなくなった。
 男の友人にしか教えない、隠れ家のような店がひとつふたつあればいいということになる。
 女は連れてゆかないよ。
 
 
 

2005年03月22日

「夜の魚」一部 vol.29

 
 
 
 
■ 外は雨になっていた。駐車料金を二万もとられたことに腹を立てた。
 どうもZ28のようだ。信号で少しアクセルを踏むとそれだけで尻が流れている。
 品川埠頭の外れから湾岸線に乗る。キックダウンしないようゆるゆると車を走らせた。途中、人気のない駐車場で小便をし、何をしているのか自問した。手は洗わなかった。
 東金で高速を降り細い道をいくつか抜けた。
「ホルモン」という黄色い看板のある店で塩ラーメンを食べ、海の傍まで出た。玄関のタイルがいくつか剥がれたマンションが建っている。
 見上げると、ほとんど灯りはない。駐車場には銀色のセダンが一台駐まっていた。
 埃っぽいエレベーターに乗り、十二階までゆくとチャイムを押した。三度鳴らしノックをして名乗った。
 チェーンが開けられる。葉子はそこにいた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.28

 
 
 
 
■「ひとりで遊ぶってのも楽しいもんだぜ」
 男は顔を不器用に歪め、背中に手を廻すと畳まれたモロゾフの紙袋を私に差し出した。
「弾と鍵だ。車は西銀座の駐車場にある」
 痩せていないのが不思議だった。歯も白い。
「どういうことだよ」
「訳がわからないことって、まだあるんだぜ」
 そう言って男は黒い毛糸の帽子を目深にかぶった。それでも笑っているらしい。
 電光掲示板に、消費税率を上げる法案が衆院を通過したと流れていた。
 暫定、と続けて書かれている。この国が、生きているだけで税金のかかる仕組みになって随分になる。
 私は時計台の前、四丁目の交差点を渡り人混みを越えた。警官が立っている。階段を降り、黄色い電球の地下にもぐった。
 指定されたブロックを捜す。一番奥まった一角に車があった。
 
 クリーム色の、丸目のカマロだ。
 なんだか溜め息がでる。これでどうしろっていうんだ。
 重いドアを開け、それは案の定下がっていたが、エンジンをかけた。馬鹿みたいにでかい音がした。ハンドルは小さく、黄色い目玉、「ムーン」のホーンリングがついている。
 ボンネットの上にバルジがあり、蓋がしてある。ガラスの汚れから車自体は暫くここに置いてあったようだ。オイルが廻るまでの間、ウォッシャーでガラスを洗った。
 右手のシートの上に皮の鞄があった。外側のポケットに簡単な地図とメモ、携帯電話が入っている。中には充電器もあるようだ。
「東金に葉子はいる。アルピーヌもあるのだが貸してやらない。銃はそろそろ分解しろ」
 メモにはそうあった。こういうメモを残す男の年齢を当てるのは簡単である。あの頃の残りなのだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.27

 
 
 
 
■ 次の日の夜、私は感熱紙の指定に従い東銀座の地下道を歩いていた。
 この先どうなるのか、確かめてみようという気分になっている。
 昨夜受信したファックスには、時間と場所だけが活字で書かれていた。
 プラスチックの広告版に挟まれ、家のない男達が横になっている。ペットボトルを傍らに何本か置き、積み上げた週刊誌を真剣に読んでいる者もいた。
 五つ目の柱の角、段ボールを尻の下に敷き、口を開け天井を眺めている男がいる。いくつもの紙袋を廻りに置き、黒い帽子からはみ出た髪は見事に横を向いている。男の眼は大きい。
「あんただよ」
 呼ばれて傍によった。男は指を顔の前で動かしている。紫色の毛糸が太い指に絡んでいる。あやとりをしているのだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.26

 
 
 
 
■ 部屋に戻ると机の上に鍵をおいた。
 いくつもの迷いがある。
「ミントのアル・ヘイグ」と呼ばれる名盤が先程復刻された。彼はB級スタンダードを、独特の物言いで一定の水準にまで高めるのが旨かった。
 ドライブがかかる。アカルガナシイ音色で先を続ける。
 私は晃子から渡されたコピーの束をぱらぱらと捲った。
 社内のデーター・ベースから引っ張ってきたものが主で、晃子はサーチャーのようなことをやったのだろう。
 従軍慰安婦の問題は広範囲に及んでいて、打ち出された関連文献のリストだけでも相当な数になっていた。新聞では、韓国やフィリピンの抗議団体が、「民間募金ではなく政府の責任で」と主張していることが報じられている。非政府組織、民間基金などを使って補償をすることは戦争責任の回避に繋がるということらしい。
 抗議団体はいくつもある。そのどこがCPPと関係しているのか、どのような手口なのか、一読判断はつかなかった。そもそもCPPとは何なのか。
 私には関係がないと思おうとしたが、割り切れないものが残った。
 
 トカレフは私のところにあって弾倉は空だ。
 始めて銃を撃った。撃てるものだなと思う。
 横浜新道のランクルはまだ記事になっていなかった。単なる事故として扱われたのだろうか。唇を噛んでいた葉子の横顔が思い出される。
 煙草を何本も吸っている。
 舌がざらざらしている。棚の酒瓶に眼がゆくのだが、飲むべきか迷っていた。
 ベットの下に置いてある古いファックスが鳴いている。
 音を絞ってあるので遠くから聞こえてくる。
 カタカタと暫く揺れては静かになった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.25

 
 
 
 
■ 九年前、私はいつもそのような眼で彼女にみられていた。
 コンタクトを装着していると、泣いたような黒い瞳だ。
 半年程彼女と暮らしたが、私は別の女のところに入り浸り、次第に帰らなくなった。私達は別れ、二年ほど経つと彼女は年の離れた男と結婚をした。それも二年ほど続いたのだろうか。離婚をし、元の仕事を続けている。
「それが糸口なの」
 カチリと音をさせ、細いライターで煙草に火をつけた。
「ともかく、その葉子って娘が危ないわ」
 彼女はバックから鍵を出し、テーブルの上に置いた。
「部屋はふたつあるから」
 私はトカレフのことは言わなかった。葉子と寝たことも、拾った時に流産らしき按配だったことも。
 彼女は私をみつめ、
「彼女を愛しているんでしょ」
 と、言って笑った。名を晃子という。
 笑うと大きな眼の傍にくっきりした皺が入る。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.24

 
 
 
 
■ 夜になった。
 私は通信社に勤めている女の友人を待っていた。
 女も三十を過ぎると、ショールを肩に巻くようなことはしない。
 表通りから一本奥に入ったホテルの十五階まで昇り、ほの暗いボックスに座った。
 グラスに軽く口をつけ、彼女はいきなり言う。
「あなた、何に巻き込まれたか知ってるの」
「狙われたんだ」
「バカね、殺されるかもしれないのよ」
 確かにそうだった。
「CCPの幹部、エドゥアルト・キトリアーノがね、この間逮捕されたの。そこで、JRA、〈日本赤軍派〉と関係があることをフィリピン国軍は公表したわ」
「あの、〈赤軍〉か」
「そうよ。そこでね、重信房子と連絡を取り合っていること、九○年スイスで発覚した総額百六十万ドルの偽金づくりに関与したこと、八七年、香港を拠点に〈一般基金〉という資金づくりプロジェクトに参加したことなんかがフィリピン国軍の手によって公表された訳」
 彼女はそこまでを一息に言うと、探るようにこちらをみた。私は黙っていた。何を言って良いのか判断がつかないのだ。
 
「みなさいよ」
 彼女は一枚のコピーを渡す。
「タイのバンコク・ポスト。オランダ政府の対外援助金がフィリピンの労組を通じてCCPに流れた訳。オランダでは国会で問題になったわ。CPPのシソン議長はオランダに逃亡しているのよ」
「日本にもいるのか」
「あなた、鈍いところはちっとも変わらないわね。第一、その葉子って娘の口からでてるじゃない。CCPの今の資金獲得の対象は日本とオーストラリアなの」
 わかったような気がしたが、何処かで霞がかかっている。
「じゃ、なんでボランティアにかかわるんだ」
 彼女は呆れた顔で私をみた。
 中心には黒い瞳がある。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.23

 
       五 あやとり
 
 
 
 
■ 午後になって事務所を抜け出し、近くの図書館にいった。
 調べようにもとりとめがなく、どう繋がっているのかわからない。
 六本木の放送局、報道にいる友人に電話をした。
「革命だって、なに寝ぼけてんだよ」
 奴は千葉に家を持っている。新しいドイツ車で駅まで女房に送らせる。
 昔、万年筆の宣伝で名をはせた眼鏡の男が、暫く前迄レギュラー番組を持っていた。
 有名人が沢山出てきて、大人の漫画も放映されている。
 ゴルバチョフが監禁された旧ソ連のクーデターの際、モスクワにいた駐在員がくたびれたワイシャツに同じネクタイで報告をしていた。
 眼鏡の男がそれを揶揄する。
 テレビマンとしては失格だと番組の中で言う。
 若い駐在員は、明らかに不満な顔をしながら黙っていたことを思いだした。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3061

 
       紅梅。
 
 
 
 
■ これからという時が一番良く、まだ風は冷たく感じる。
 コートを脱いでも歩ける頃になると、額は長い睫のようになり、男を知った直後の若い娘に似て煩わしい。
 
 
・昔坂
vol.590
 

「緑色の坂の道」vol.3060

 
       傾く雨。
 
 
 
 
■「夜の魚」一部を、唐突に掲載している。
 これは初稿が94年。
 まだ、バブルの名残が街に溢れていた頃のお話である。
 読み返すと、プロットも背景になっている諸事実や条件も、今の眼からはとても青臭く思える。赤軍やCPPなどという存在は、果たしてなんと言えばいいのだろうと。
 だが小説というのは、そうした観点からだけ読まれるものではないので、手直しをせずそのまま載せている。
 例えば「埠頭は鉄と濁った暴力の後味が残っている」などという記述に、某かを感じる読者がいるとすれば、それでいいのだと思われる。
 
 
 
 
■ 表現というのはそのメディアに大きく依存するもので、Web上での表記の仕方というのは紙を想定したものとは異なる。
 改行や空白行もひとつの文章に近い意味を持つ。
 MTが最終的な媒体だとは決して思えないが、この場合にはこうして断片を積み重ねることになるのだろう。
 
 
 
■ 数日前の夜半、私は表に