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2005年03月01日

「緑色の坂の道」vol.3032

 
       三月の壁。
 
 
 
 
■ 外でヘリの音がするようになると、春が近い。
 ということもないのだが。
 WSのメンテはいいところまできたが、こんどは137ギガバイトの壁というものにぶつかって、つまりは133対応のI/Fボードが必要になった。
 テストで付けていたケース用静音ファンも、問題はなさそうなので、もう数個従来のものと交換することにする。
 Xp Pro は2000のそれと比べると重く、画面効果を全てOFFにする。
 ではなんのためにXpにするのかと言えば、それにしか対応していない画像関係のソフトがあるからである。デュアルブートで切り替えながら、しばし様子を眺めてゆく。
 
 
 
■ 仕事で使うPCというのは、どうも使いっぱなしにできなくて、こんな風に時間を使う。ほぼ一日電源を入れっぱなしにしていることもあって、かかっている負荷は通常の方よりも大きい筈で、IDEのコード類などは結構焼けていた。マザーはデュアルのサーバー用なので今のところ問題はないようだ。
 私はあまりHDDを信用していない。だから出来上がったデータは媒体に複数枚焼くことにしている。以前、「列島いにしえ探訪」の画像データが飛んで、その復旧に死ぬ思いをしたからである。大きなサイズのデータでは、RAIDもかなり怖い。
 一昨年だったか、次のWSの見積もりを出してみたことがあるが、ほぼ小型車一台分くらいで、しかもセッティングの時間と費用は含まれていなかった。
 DTPの時代に比べれば安価になったものだけれども、まだまだなんだよな、とか思う。
 
 
 
■ 今あるものを安定させ、確実に極めるという方向と、新しいものを暫時取り入れ、表現の幅を増やしてゆくというふたつの志向性があったとする。
 そのバランスをどう取ろうかと常に考える。
 それは写真の世界などにも言えることで、私のパターンではデジタル一眼に熱中するという風にはどうもなってゆかないようだ。
 小型のデジカメもあるが、ほとんどメモの代わりに使っている。
 いくつかあるカメラバックに積み込むものは、その時々でAFだったり、古い機械式のカメラだったりしていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3033

 
       桃の日。
 
 
 
 
■ オタク系自作マニアという人たちがいて、どちらかというと気分は分かる。
 彼らは口角泡を飛ばしてスペックの薀蓄を傾けるのだが、ひと昔前の土曜深夜のファミレスでの車自慢とやや似ていた。
 ニッチな市場(どこがだろう)というものがあって、特定の型番のキーボードはオークションで高く売れたりする。
 それにしても、この型番のエルメスのバックにプレミアがつくなどという話はあまり聞かない。
 あるのかも知れないが。
 
 
 
 
■ 甘木君が「北澤さんは長い物語を書くべきですよ」と、甲高い声で言う。
 まあなあ、そうなんだけどなあ。
 頭の隅にはそういう思いもあるのだが、果たして90年代以降、物語とは何かという問いがあってもいいような気もしている。
 
 
 

2005年03月02日

「緑色の坂の道」vol.3035

 
       チャッカリ・ルンバ。
 
 
 
 
■ 服部良一さんの曲を聴きながら、あれこれしていた。
 やや二日酔いのようである。
 服部さんの作曲されたポップス・歌謡曲は、終戦直後の、意味なく抜けるような空に似ている。もちろん私は生まれていないのだが、誰の書くものを読んでも、8月15日の空は青かったと言われていた。
 昭和26年、JOKR(今のTBS)が制作したラジオ劇「ウッカリ夫人とチャッカリ夫人」は人気を博し、佐野周二と久慈あさみの主演で映画化(新東宝)される。
 
 
 
■ 確か教養文庫に、日本映画女優一覧のものがあった。
 書棚から捜すという程もないのだが、この女優さんはとてもパーマが似合う。
 若い頃のコーチャン、越路吹雪さんにもちらりと似ていて、どうも二の腕が太そうであった。
 
 
 

2005年03月03日

「緑色の坂の道」vol.3036

 
       東京の屋根の下。
 
 
 
 
■ 鼻にかかった声で灰田勝彦さんが歌う。
 灰田さんは戦時中、戦意高揚の映画などにも出ていたが、彼ほど軍服の似合わない男はいなかった。
 戦争したくないなあ、という本音の一部が滲んでいたように思うのは、後の時代の穿ちすぎなのか、何時だったか美空ひばりさんの古いグラビアで、子役時代のひばりさんが灰田のおじちゃんと対談をしている。灰田さんは野球に凝っていて、自分のチームを持ったりしていた。ひばりさんの歯並びはまだ悪い。
 
 
 
■ なんにもなくていい 口笛ふいてゆこよ
 確かそんなことを言う。
 日比谷の辺りは焼け野原で、ごろごろとリヤカーが動く。
 それから10年少し、「銀座の恋の物語」のオープニングで、路面電車とともに裕次郎が人力車を牽く。
 車など指折り数える程しかいない。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3037

 
       ちょいと啖呵も切りたくなるわ。
 
 
 
 
■ 関川さんの本に映画についてのそれがある。
 見所は「秋津温泉」を巡る、関川さんらしい粘着質な論評である。
 昭和一桁世代がどんな風に戦後の波を泳いでいったかという、半ば精神と生活の戦後史のようなものと言えばいいだろうか。
 当時の映画人にはインテリが多く、どちらかといえば正統的な文学青年が流れ込んでいたような気配も感じるが、その辺り今は想像する以外にない。
 
 
 
■ 高峰秀子さんの歌う「銀座カンカン娘」の「カンカン」とはどういう意味かということが当時マスコミでも話題になった。
 パンパンに対してカンカンなんですよ、と答えたのは原作者の山本嘉次郎さんである。 有楽町のガード下には闇の女達、いわゆゆるパンパンの集団が集まっていて、中でも「ラクチョウのお時」と言えば少しばかり名が売れていた。
 カストリ雑誌の特集で、インタビューのようなものがあったけれども、それも資料の箱の中に入ったままになっている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3038

 
       インタラクチブ、舌かんで。
 
 
 
 
■ WSのオーバーホールはほぼ完了し、OSを入れたHDDも複製を二台ばかり作った。
 OSだけのために160とか200ギガは必要ないのだが、大きなディスクの方が相対的にアクセスが速いのでそちらに移行する。
 それ以外、緑坂に書いても仕方のない作業を延々とくりかえしていた。
 ビデオからの入力用に1394を入れたりする。
 有楽町の量販店の、ビデオ売り場の妙齢は、背が低いけれども一生懸命である。
 
 
 
■ 服部良一さんの妹、服部富子さんが歌う「銀座のお洒落娘」を流していると、なんとなく何処かへゆきたくなった。
 ネットの世界に長くひたり、先端であるとかそうでもないとかを言っていると、ある部分でバランスが崩れてくるような気がする。
 暫く前、インタラクティブなコンテンツがどうしたこうしたという言い方が流行った。
 それでなければこの先はどーしようもない、というものである。
 何時だったか、三鷹市の市役所で講演会があり、ある新聞社の方が致し方なく話されるという。
 私は茶色のベストを着て、電車に乗って出かけていった。遠い。
 少しでもという思いからなのだが、北澤さんインタラクチブって何ですかね、と市民の前で質問されたのには参った。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3039

 
       銀座の白い薔薇。
 
 
 
 
■ 数年前、安楽なスポーツカーが欲しくなって、バブル期の国産のある車種を狙ったことがある。CGのバックナンバーで調べたりした。この場合、後ろの羽のつかないものは案外ノーブルだろうかなどと考えた。最終型はほぼアメ車のようで、今でも結構な価格をつけている。
 
 
 
■ が、廻りから、それだけは止めておけと言われる。
 デザイナとして(いい歳をした)終わりだとも言う。
 そこまで言わなくても、という気もするのだが、世間というのはそういうものであって、誰一人賛成はしてくれなかった。
 買ったら乗らないよ、とまで言われる。
 
 

■ 車というのは単体で存在するのではなく、社会の中のひとつの風景と記号だという説がある。返還前の香港のメルセデスと言えば、足立ナンバーのタクシーと同じくらいに分かるひとには分かる。
 いわゆるプラチナ通りというところでは、地方都市の一家が住めるマンションひとつ分のベントレーが違法駐車をしていて、サングラスをした妙齢が運転席に乗り込んだりしていた。
 300円払えばいいのにな、と赤くなったメータを見て思った。
 
 

「緑色の坂の道」vol.3040

 
       夜来香。
 
 
 
 
■ 山口淑子さんが戦後初めて吹き込んだというこの曲はタンゴである。
 佐伯孝夫作詞。
「イエライシャン」と読むのだが、漢字の字面を眺めていてもある種の感じがある。
 春風に嘆くうぐいすが出てくるから、この時期の歌になる。
 
 
 
■ 仕事であれ私生活上であれ、継続的な人間関係が結びにくい時代になっているという実感がある。それだけ余裕がなくなっているからだが、それが社会の表層にまで滲み出し、その時の効率だけで行き場を決めるかのようなところがあるようだ。
 それに対応するにはある程度こちらもそれなりの姿勢を取らねばならず、いささかうんざりしながら先へゆく。
 
 
 
■ 午後から雲が出て肌寒くなった。
 さてゆるゆるとバランスを取るにはドウシタラヨカロー。
 フィルムを五本程持ち、短い旅に出るのがいいのであるが。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3041

 
      桃の日ときぬざや。
 
 
 
 
■ へたのところを指でちぎる。
 何かを考えながらなのだが、春は薄味がいい。
 
 
 

2005年03月04日

「緑色の坂の道」vol.3042

 
       雪中多情剣。
 
 
 
 
■ 昨夜、薄い頭痛がして早く休んだ。
 妙に静かな夜を過ごしたかと思うと、朝には一面の雪景色になっている。
 仕事場の窓ガラスに渦をまいて雪が吹きつけている。
 眼前の庭の樹木は短い間だけ白く粉をまぶしたようになっていた。
 三月に雪が降ることは珍しくもないが、のろのろと仕事をする。
 PCが作業をしているあいだ、壊れかけたソファの上で市川雷蔵について書かれた本をめくっていた。
 足元が冷たい。
 
 
 
■ 高輪警察所へ続く坂道には、柴田錬三郎さんの屋敷があった。
 柴田さんは、眠狂四郎、生みの親である。
 細い裏道を抜けると公園があって、そこには独りの浮浪者が永く住んでいたが今その姿はない。彼はまだ若かった。
 急な階段を昇ってゆくとプリンスの旧館があって、柴田さんはそのテイールームを普段打ち合わせの場所に使っていた。
 今となってはやや古いホテルの風情は、つまり無駄が多く、私はそこにあるバーへ時々黒ビールを飲みにいったことがある。
 背の高いところにある新館のそことは酒の味が違い、どちらかというと女性の姿は少なかった。
 いつぞや、ホテルのバーテンダーが集まるコンテストのようなものがあって、流れで私も顔を出した。クロークで順番を待っているとやや痩せた男が前にいる。互いに顔を見合わせて、あ、などと挨拶を交わしたのだが、彼は旧館のチーフであった。
 黒服を着ていないからすぐには分からない。が、明るいところで眺める姿は、やはりカウンターの中とはいささか異なっても見えた。
 
 
 
■ 冬のある日、外で打ち合わせを済ませて戻る。
 電車で動いた後、そのまま歩いて一杯を飲みにゆく。
 ひとりになりたいから、と言えば聞こえは良いが、何か無駄なことをしたかったのかも知れない。決して懐が暖かい訳でもなく、つまみなど一切取らないで暫く漠然としているだけなのだが、何かを持ち帰るのがいやだったような気もする。
 雷蔵が演じた、眠狂四郎のビデオは何本か片付けてある。
 何処といって密度ある傑作という訳でもないのだが、時々その黒い着流し姿や、鼻の下を僅かに伸ばすかのように話す、雷蔵の声を聞いてみたくもなるのだ。
 
 
 

2005年03月08日

「緑色の坂の道」vol.3043

 
       本日のウダツ。
 
 
 
 
■ 銀座裏に車を停め、うろうろとしていた。
 肉チャーハンデスネ、アリアトござました。
 という店で飯を食べる。
 なんとかNYというセレクトショップがあるが、そこには若い男達が入り口にいて、ドアを開けてくれる。
 今時白金のホテルでもやらないような、あざとい手法なのだが、それが気分がいいと言って妙齢中程には好評であるようだ。
 細身のスーツを眺める。この生地でこの価格は高い。
 
 
 
■ 丸の内のビルの並びが、ブランドショップで一杯になったのは何時からだろう。
 東京駅、内側と外側でこうも違うものかと、都会というのはそういうものだが、新しいかたちの幻想が生まれてもいるようで、視線はある特定の層を狙う。
 それが何処からきて何処へゆくのか。
 私は風邪をこじらせたようで、機嫌が悪い。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3044

 
       河馬の自己愛。
 
 
 
 
■ サイトを漠然と眺めていると、なんとなくそうした言葉が浮かんできた。
 河童に言われても、いたしかたないものだろうが。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3045

 
       ドリームランド。
 
 
 
 
■「夜の魚」一部を書いているとき、地下鉄サリン事件というのはまだ起きていなかった。予兆のようなものはあって、これからは新興宗教、あるいは新・新宗教の時代が来るだろうと感じていた。「夜の魚」の中で、狐のような中国女に撃たれた主人公が匿われるのが、その団体が経営する病院である。
 
 高橋和巳に「邪宗門」という小説がある。戦前ある新興宗教が、結局は軍部や政府に弾圧されてゆく過程を描いたものである。モデルは大本教だと言われるが、今ではこの小説を知るひとも少ない。
 反体制、革命のある種シンボルであるとして、オウム真理教を心情的に擁護した知識人は多い。社会的な生命を絶たれたひとも数人はいた。
 彼らは自らの叶わぬ夢を新しい世代に仮託しただけであって、パレスチナに憧れたかつての闘士の発想と寸分違わないでいた。あるいは精神世界の中で遊ぶ。
 
 
 
■ カルトの定義は様々にあるが、私は根っこのところに極めて強い自己愛があるのではないかという気がしている。
 となると、ネットの世界に非常になじみやすい。
 多くのブログないしは日記のようなものは、自己愛の増殖と連鎖である。
 厳しい評価を避け、昼間とは別の人間になろうとする。
 自らの顔写真や、小物類などを撮影して載せる。
 ある特定の人物がいたとして、そこに憧れ、今にも手が届くのではないかと錯覚させることがネットの匿名性と平等であるのかも知れない。
 そこを逆手にとって商売に繋げてゆくやり方もあり、私は否定するものではないが、そこに集まる彼らは、何処かで搾取されていることを知らないでいる。かといって被害者であるとは限らない。
 私は最近の若者や三十代の男たちが、タバコの吸い方を知らないことに驚く。
 火の点いたものを振り回したり、持ったまま椅子やテーブルの傍に手を置く。
 これは何故なのかと考えると、他人に対する想像力が乏しいのである。
 これは自分にとっても他人にとっても毒なのだという自覚だろうか。
 煙草や酒は、毒であるから大人の嗜好品なのだ。
 もちろん、何かモノを書くということもである。
 
 
 

2005年03月11日

「緑色の坂の道」vol.3046

 
       ドリームランド 2.
 
 
 
 
■ 漠然とした予感なのだが、今、ある種経済的な茶番のように起きていることは、私にはオウム以後、この国が至ったひとつの段階ではないかという気がしている。
 ある要素が拡散し、違う側面から社会の表面に滲んできたと言ってもいい。
 新しい玩具を与えられた子供が、これでこんなこともできると喜ぶ。
 流れるように自説を語り、技術が万能であるかのように錯覚しているのだが、ネットあるいは特定の経済原則からしか社会や人間を眺めることができない。
 空想的な技術万能主義とは、終末論の裏返しでしかないだろう。
 だが、技術というのは基本的に万人に開かれたものであって、特定の個人でなくても誰かが行うことは可能である。いずれそのアイディアは、保守的といわれている大人たちが実装してゆく。これが資本主義の鉄則だからである。
 
 
 
■ メディア論というのは、つまるところ世界をどう眺めているかという視座の問題である。メディアだけが単独に存在する訳ではなく、その国の経済的な側面や文化・歴史などに大きく規定されている訳だが、分かりやすい例を挙げれば、IT革命と呼ばれているものの成果は、グローバリズムの道具にもなればそれに相対する動きに使われることもあって、その意味では等価である。つまり、インフラのひとつなのだ。
 
 
 
■ 説明するのは厄介なので止めるが「空白の10年」の後、もうひとつ駒が進む。
 能力はあっても正規の雇用になれない男や女たちが溢れ、経済の流動弁として機能して久しい。「フリーター漂流」という番組が国営放送であったけれども、その制作に関わった誰かも、おそらくは似たような立場だったのだろうと思われる。
 フリーターも個人資産あれこれのひとも、この時代には「市民」と呼ばれる。
 ネットの匿名性と平等はその差異を極限まで隠蔽してしまう。
 何時だったか私は、リストラをされた知人の家にいった。
 半年も掃除をしていない黒ずんだトイレの棚に、今は別居中だという家族の残した生理用品があった。PCを眺めると、娘さんのアカウントが残っている。高校生の息子と釣りにいった時の写真が何枚か壁に飾ってあった。
 このテーブルは、かつて家族が食事をしたところなのかと思うのだが、その上でUSBのケーブルを繋いだりして、インスタント・コーヒーのおかわりをした。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3047

 
       ドリームランド 3.
 
 
 
 
■ 前の緑坂は、掲載すべきかどうか暫く迷った。
 題材がデリケートだからだが、今日は薄い雨になっている。
 
 
 
■ いずれにしても、春先は駒がひとつ進む。
 舵取りのようなものがあって、青瓶のコピーを思い出す。
 
「長い旅を続けていると、何処なのかを忘れる。
 夢も古びてくる」
 
 
 

2005年03月12日

「緑色の坂の道」vol.3048

 
       ドリームランド 4.
 
 
 
 
■ 手元に「ナチ・ドイツと言語」(宮田光雄著:岩波新書)という本がある。
 やや長いが引用させていただく。

 ナチ・ドイツの『第三帝国』は、ヴィマール共和国の政治的・経済的な失敗から生まれたというだけではない。むしろ、敗北と苦難の中から、ふたたび人々に名誉感情と自己意識とを回復してくれる『救済者』にたいする民衆的待望から生まれてきたのであった。そこでは『救済』は、古い腐敗した世界が没落し、腐敗をもたらした『悪い敵』が絶滅させられることによってのみ可能になる、と信じられた。このような危機は世界的であり、事を決する最終的な時は目前に迫っている、という漠然とした予感が広がっていった。
人々の待望した未来像には、ある種の擬似宗教的なイメージがまとわりついていたことは否定できない(前掲:5頁)。
 
 
 
■ 既に1933年、ウィーンの政治学者エリック・フェーゲリンはその著書「政治的宗教」の中で、政治の世界におけるメシアニズムを指摘している。簡単に言えば英雄待望論、カリスマを待つ社会的な心情、その空気である。
 ナチの思想の背景には、弱肉強食を是とした社会的ダーウィニズムがあった。
 全てを野放図な市場原理にまかせ、勝者だけが生存に値するというそれは、水面下で畢竟過剰な民族意識につながってゆく。
 
 
 
■ 私は今の日本は、ある種の戦前ではないかという疑いを持っている。
 あれから60数年経っているのだから、個々の顕れ方や段階は違っているが、大雑把にいって社会に漂うある種の閉塞感の総量は、いかばかりだろうと考える。
 伝統的な体制から零れ落ちたかのようにみえる、無数のひとたちがいる。
 それはフリーターであったり派遣の立場だったり、あるいは煩雑な立場の変更と再編成に右往左往せざるを得ない組織人であったりする。
 いつの間にか明白な階層が生まれていて、これ以上はいけないということがはっきりと分かる。果たしてこの上というものが何なのか、それも不分明になった。足元が崩れる。
 フェーゲリンの「政治的宗教」を、仮に経済に置き換えて読み解くことが可能だとすれば、経済活動のある部分が、擬似宗教の匂いを放つようになって実は久しいのではないか。
 加えれば、そこには常に投機的なものが常駐していて、多くのひとは自らの閉塞感と空洞から惹かれてゆく。
 ネットの世界の擬似平等感が拍車をかける。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3049

 
       春猫。
 
 
 
 
■ まだ咲かぬ桜の下に野良がいて、発情するのを忘れたか。
 私を眺めてあくびをした。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3050

 
       You Go To My Head.
 
 
 
 
■ ワスラレヌ君。
 と訳すのだそうだ。
 そんなものかな、そうかもしれぬ。
 まだ葉のつかぬ樹木の後ろに、揺れる水が光る。
 私は窓を拭いてもらおうと考えた。
 
 
 

2005年03月15日

「緑色の坂の道」vol.3051

 
       厄介クンどうも。
 
 
 
 
■ かつて、吉行さんのことを、村松さんが「セビロを着た厄介」と評していた。
 メンドウなのでフルネームを廃している。
 そういう吉行さんは、ほとんどネクタイをすることはなく、やや膝の出た上等な背広に黒いシャツを着ていたと、山口さんの「男性自身」には書いてある。
 だからどうしたということはないが、ややだらだらっという風情がなかなかのものだったのだろうと思われる。
 
 
 
■ 実を言うと、私はここ数日かなりの厄介が待ち構えていて、どちらかといえばこういうことをしている場合ではないのだが、考えても無駄なので酒を嘗め始めた。
 手元にあるジンを眺めると、アイルランドで労務者が茶色の袋に入れたまま飲んでいる銘柄である。
 はじめ、冷蔵庫から黒ビールを取り出したのが、麦芽の入った奴が既になく、発泡酒にインクを垂らしたようなものでいただけない。
 舌先にちりちりくるので、それならばとジンストに流れているという按配。
 車を洗っていないが、まあいいとする。
 
 
 

2005年03月17日

「緑色の坂の道」vol.3052

 
       余所者。
 
 
 
 
■「ドリームランド」と題した緑坂を読んで、これはなんのことかわからないという指摘を何通かもらった。いわく難解であると。
 ただ、一通り無駄な時間を費やしてきた人にはすぐに分かるだろうと思っている。
 ここまで書いていいんですか。
 と尋ねられたこともあったが、これには微妙な計算があって、全体としてはこの段階でおおよその立場を明らかにしておいた方が良いという気分もあった。
 私は広告屋であるが、クライアントの多くはこちらを指名してきたものでもある。
 これがどういう意味かというと、以下略。
 
 
 
■ 作家性というのは、半ば毒を含んでいる。
 時代を切り取る。と言えば聞こえはいいが、それにはどこか冷ややかで、しかも最後には常識的でなければならない。
 常識的とは何かというと、簡単に言えば自分が余所者であるという自覚だと私は何処かで思っている
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3053

 
       ザラリひょうたん。
 
 
 
 
■ 高田保さんに「ぶらりひょうたん」という随筆の連作があった。
 ほぼそれとは関係がなく、私は久しぶりにザラリという気分になっていた。
 例えば契約書があったとして、最低限それが守られない。
 メールでの合意事項は勿論のこと。
 畢竟、自分の方の都合を相手におしつけようとしてくる。
 そして、都合の悪いことを全て部下のせいにしたりもした。
 仔細は省くけれども、今、そういうことが普通に起きる時代になっている。
 大きな会社だからこそ、中では功を焦らねばならない。
 
 
 
■ 目黒から首都高に乗り、僅か15分で目的のランプに着く。
 地下の駐車場に入れるのだが、このビルも既に古い。その分、スロープに余白があって微かにカビと排気ガスの匂いがした。
 時間までの間、椅子のしっかりした喫茶店でコーヒーを飲んだ。
 喫煙の席には50代から60代だろうか、熟年と呼ばれる背広姿の男性三人が集まり、世間話をしている。年金の話も聞こえたりして、彼らは顧問か非常勤であるのかも知れない。 白髪と、痩せて襟の開いたワイシャツが目に付いた。
 私はテーブルの席にいて、遅いランチを取っている短いスカートの妙齢と眼があう。
 それから外を眺めると、水の出ていない噴水が乾いていた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3054

 
       春雷。
 
 
 
 
■ 海の向こうで稲妻が光った。
 私はカメラを持たないが、それでもいいのだろうと思われた。
 風がなま暖かい。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3055

 
       春雷 2.
 
 
 
 
■ 目の前を大型のスクーターが走る。
 先にゆかせようと、私はアクセルを緩めている。
 何時の間にか、守るものができてきているのだろうか。
 その通りなのだが、さてそれは何なのかと自問した。
 
 
 
■ 春先というのは様々なものがまだ定まらない。
 ゆきつ戻りつしながら、季節が移るのだけれども、自分の腹だけは決めておかなければならなくて、さて何処に着地しようかとも考える。
 譲れないものがあったとして、それは自分がこの姿勢で居られるかという根幹に関わるものだったりする。
 今まで、数えるとそうした場面というのは何度かあった。
 負けることもあり、そうでないこともいくつかはある。
 全く、小説がハードボイルドだとして、日々の凌ぎってのも案外にそうなのかも知れない。
 私は普段よりも慎重に車を転がす。
 青山墓地界隈で、少しばかり花の気配もあった。
 
 
 
■ 夜半、一通のメールが届いた。
 一番嫌な役割をまわされた立場のひとからで、まだ会社にいたのである。
 ほぼ泣いていたのではないかと思われた。
 その夜、何が起きていたのか大体の想像はつくのだけれども、こちらの気持は静まる。 そして、一杯の酒を嘗め始めた。
 
 
 

2005年03月18日

「緑色の坂の道」vol.3056

 
       春雷 3.
 
 
 
 
■ 薄く雨になった。
 庭の先にあるテラスレストランでは、庇を伸ばし、机の上を拭いているひとがいる。
 埃が黒く湿る。
 
 
 
■ 打ち合わせを済ませ、戻ってくるとかなりくたびれた。
 ボブ・ジェームスの Ivory Coast をかけて、気分はアカル哀しい。
 全くの別件で弁護士事務所に電話をする。資料をFAXし、説明のメールを書く。
 あれこれたたかう。
 
 
 
■ 一般に、ルールとか信頼関係とかを構築・維持することが困難な世の中になっている。数字を出さなければならない中間層にそれが顕著であるかも知れない。
 部下や現場にその責を負わせる。モノが言えない立場というのはあるもので、彼らは捨てきれぬ想いをどこで消化するのだろう。
 
 ハードボイルドというのは、端的に言えば浪花節である。
 大体ぼろぼろになったところから始まる訳だが、物事には一定の予感のようなものがあって、その場で腹を決めている訳では、多くの場合にはない。
 
 
 

2005年03月19日

「緑色の坂の道」vol.3057

 
       そこにいるだけのあいだ。
 
 
 
 
■ 仕事場の出窓から眺めると、屋上に日本庭園が広がっている。
 個人所有のもので、もちろん他のひとは入ることはできない。
 時々職人が、手入れをしていていた。
 私は寝癖を立てたままそれを見下ろしている。
 こんなところにセンサーが、と思うようなこともあったが、さすがにエレベータの中にはついていない。
 
 
 
■ 急速に再開発が進められているこの地域は、セントラルパークの左右に並ぶ通りをただミニチュアにしたようなものである。
 休日には地下鉄で通ってきた奥様たちが散歩に励む。
 古くからの骨董品屋がひとつふたつ。立原正秋さんの小説に出てきたような覚えもあるが、全体としてはアメリカのある文化を模しているのだと思われた。
 下に遅くまでやっているスーパーがあって、その上は独身OL用のワンルームになっている。何時までも埋まらないところをみると、設定が高すぎるのかも知れない。
 いくつか家具屋があって、県外ナンバーの若夫婦が買い物にきている。小物類はいいとして、それ以外の大物は、材質とデザイン・価格のバランスが取れていないかのようにも思われた。
 
 
 
■ 新しい層のようなものが生まれていると一部では言われる。
 東京の軸足が変わった。ということなのだが、私はその中に片足を突っ込んでいる。
 突っ込みながら眺めてもいる。
 苦々しいとも馬鹿らしいとも思うのだが、一方で表現というのは時代とともにあるという気分も濃い。
 表現も個人も、一定の制約の中にあるのが現実だが、自分の根幹に関わることをないがしろにしたり、されたりした場合にはやむを得ず対処することにもなってゆく。
 現実のやり取りと結末は、そう格好のいいものではないけれども、ただ後ろに下がるというだけでは、何ひとつ表現などはできないのだと考えている。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.1

 
       序
 
 
 
 
■ 本牧の外れの引込線から右に曲がるとその先は行き止まりだ。
 背の高いコンクリの壁をよじ登ると、黒く粘る海が見える。
 海とはいっても実感はない。薄い雨に雲が浮かんでいた。
 壁の横にぽつりぽつりと車が駐まり、車高を落とした白いセダンのボンネットの上に若い男が座っている。
 光るものを持っていて、近づくと、釣り竿を照らす電灯のようだ。
 伸びかかったパーマの頭を斜めに、バンパーに右足をのせ、考える格好で竿の先を照らしている。標識が半分取れかかっていて、「国際埠頭」と書いてある。
 海は見えない。
 音楽もきこえない。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.2

 
       一 ALL OF YOU.
 
 
 
 
■ 葉子という女を拾ったのは梅雨の切れ間の日曜の夜だった。
 私は仕事を終え、部屋に戻るところだった。車を停め、煙草を買おうと歩道を渡った。
 バスを待っているのか、若い女が緑色の看板にもたれている。
 とうにバスの時間は過ぎていた。廻りに人影はない。
 販売機の前で腰を屈めると、そのまま女の姿が崩れてゆくのがみえた。
 送ることになったのだけれど、びっしりと汗をかいている。
「ごめんなさい、よくあるの」
 バス停で倒れることを指すのか知らない。
 湿度のなかに青い匂いが混ざっている。
 常緑樹が花をつけている。
 彼女は私の部屋のベットに横になることになった。
「シーツをかえたのね」
 納得したでもなく、彼女は寝息を立てた。
 薄く体臭がする。足首が汚れている。何日か街を歩いていたかのようでもある。暫く眠っていなかったのだろう。
 私は白いベルモットを一杯嘗め、目覚ましを傍に置き、暫くぼんやりして壊れかけたソファに躯をまるめた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.3

 
 
 
 
 
■ 翌朝、事務所への出がけに眺めるとまだ眠っている。不思議な匂いがするので毛布を剥いでみると、腰のあたりに血が滲んでいる。私は紙幣を置き、鍵をポストに入れるようメモすると部屋を出た。
 夕方仕事を終え、部屋に戻るとシーツが干してあった。
「乾燥器のつかいかたがわからないのでヒモをはります」
「お金は借りてゆきます。葉子」
 鍵がないのだ。
 部屋の端から端にナイロンの紐が張られていた。シーツが垂れ下がっている。灰皿は洗ってあり、ベランダのアルミ缶がひとつの袋にまとめられている。私は小さなグラスでのろのろ酒を嘗め、まだ湿るシーツを眺めては眠ることにした。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.4

 
 
 
 
■ それから二週間程、何事もなく過ごした。
 途中、近くの事務所の社長から車を譲ると言われ、試乗することになった。彼は官能的な映像をつくる、ダブルのブレザーがそう気障にはみえない四十代の男で、何台かの車を持っている。
 私の仕事は広告の文案、コピーを考えることで、今の事務所に移ってから五年が経つ。彼からはこのところしばしば仕事の依頼があった。事務所を通すこともあり、そうでないこともあった。広告のコピーとはいっても、それだけが独立している訳ではなく、デザインや写真の領域との区別は曖昧である。事務所の若い者に指示するより自分でやった方が早いこともあるが、今の事務所の規模では、基本的に一人で済ませることも多かった。そうでなくては儲けにならないのである。
 
 彼の車の中に、小豆色に塗られたアルファのGTVがあって、背中の丸みが昔憧れたベレットに似ている。地下の駐車場で、彼の秘書だという光り物を幾つも身につけた若い女から鍵を受け取ると、私はエンジンをかけた。すこしバラつくものの、ウェーバーのポンプはカチカチ音をさせ、これなら一台で済ませることもできるかと薄い期待をした。
 ダウン・ドラフトの吸気音が響いている。通りを抜け、深夜の首都高速を一周する。右の後ろがすこし抜けているようだ。シンクロもセカンドが緩いだけで鳴る事はなかった。銀座裏の橋をくぐり、産業道路の上で国産のRに抜かれた。
 
 雨が降り始めた。回転式のレバーを廻し、窓を閉めた。
 室内に甘い匂いが漂っている。
 生きたものの匂いだ。
 芝で高速を降り、まだ明るいタワーの下で後ろを捜してみた。
 プラス2のシートの下、背もたれの背後に、むき出しの薔薇の花束があった。緑色のリボンで結ばれ、ダージリンのような色をしている。小さなカードが挟まっていた。花の息か、次第に窓が曇ってくる。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.5

 
 
 
 
■ 何日か過ぎた。
 私は自分の古い車で芝浦の桟橋にでかけた。
 出来ていないビルがあり、その前は浮き彫りの商標が描かれた平たい倉庫になっている。痩せた五十がらみのガードマンがいて、近づくと赤い電灯を彼は左右に振る。
「寒いね」
「そりゃ、雨だからね」
 階段を昇ると狭い海があって、向こう岸にはガラスのようなものが光っている。
 あの夜、薔薇の花はロシア大使館の前の制服に預けてきた。
「いやでしょうけど」
 というと、くすんだ笑いを浮かべ、私が何者なのか調べることもなかった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.6

 
 
 
 
■ 十日程過ぎただろうか。予定していた仕事が流れ、坂道を戻ってきた。
 青焼き段階まで進んだ連作ポスターで、突然のキャンセルだった。これまでの経費の払いをどうするか、雨の前の気分で夜の空を眺めた。
 雲があり、部分が鈍く光っている。朱色であって、なにものかの反射だということはわかっている。破格のアルファを断った際、ある程度予測はついたことだ。
〈心の友へ〉と、細い万年筆でカードには書かれていた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.7

 
 
 
 
■ 部屋に戻り、壊れたソファに横になった。暫く眠ったのか、遠くで虫が鳴いている。電話なのだ。受話器を一度落とし、もう一度拾うと、どこか覚えのある声がする。葉子だ。そう名乗っている。海岸通りにいて雨が降っているという。
 私はポロシャツに着替え、車に急いだ。天現寺まで廻り首都高速に乗った。
 蒼白い塔が左手にみえている。近づいてゆくと、夢をみているような錯覚に陥る。夏のタワーだ。ちらりと海がみえ、高速一号線に入る。
 鈴が森で事故があった。赤い発煙灯が何本も落ちている。白い煙が低く広がっている。遠くまで見通せない。そう思うと雨に入った。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.8

 
 
 
 
■ 横羽は路面が荒れている。ダン、ダンと繋ぎ目で車が揺れる。煙草を吸っていないことに気付いた。どのへんだろう、黒い雲の後ろでちらちら炎がみえた。
 横浜駅を過ぎると高速コーナーが続く。ステアリングを傾け、減ってきたタイアがいつ流れるか神経を払っている。トンネルに下ってゆく。夜の中にまっすぐな光があって、なんなのか理解できない。前をゆく新型がブレーキを踏み、かわそうとすると後ろが流れた。車は横になって壁面が近づく。
 光は海沿いの公園からの夜を照らすスポットだと気付いている。
 
 
 

2005年03月20日

「夜の魚」一部 vol.9

 
        二 夏のはじめ
 
 
 
 
■ 葉子はニュウ・グランドホテルの回転ドアの前に立っていた。
 雨ではあるが、その上にはテントがあり、ところどころ切れた細かい電球が垂れ下がっている。平日の深夜、海岸通りにはほとんど人影がなかった。
 ドアの前で私は車から降りなかった。手を振って軽やかに立つことができたら、などと煙草を捜しながらすこし思った。
「かわらないわね」
 葉子はそう言って助手席に脚を揃える。
「こりないわね」
 と、呟いているようにきこえる。
 
 本牧の外れ、埠頭の引込線を越え、破れた鉄条網を足で踏むと堤防にでられる。
 昼の熱を保ち、粘るような海があって、運河を広くしただけのようにもみえている。
 向こうには時折炎が見え隠れし、その脇を通ったのかと思った。
「メンソールじゃないのね」
 私の煙草を一本くわえ、葉子は唇の端で火をつけた。
「妊娠してると、欲しくないんだよな」
 少年が呟いているようにきこえた。爪先を眺めると新しいヒールである。
 葉子は膝を肩よりもひらき、右手を海へ突き出した。
 手首を左手でつかんで胸の上まで持ち上げ、片目をつぶっている。
 狙いは、対岸の炎のようでもある。
 まだ撃たない。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.10

 
 
 
 
■ ニュウ・グランドのロースト・ビーフはそのものの色をしている。
 ほとんど味はなく、こうなのだと言われれば納得をしてしまう。
 内側が古くなった桃色で、一番端の部分は紫にも似ている。胡椒なのか、つぶつぶがみえている。
 運河沿いのホテルに私達は入ることができた。
 すり切れた絨毯が引いてある。昔は色がついていたのだろう。フロントで前金を払うと、広くて鈍いエレベーターに乗った。
「こっちは下士官のホテルなのよね」
 進駐軍がいた頃の話だ。
 一本運河を越えるとめっぽう格が落ちた。
 連れ込んだ女もそうだったのかはわからない。
 誰に聞いたのか、そんなことをよく知っているなと私は思った。
 
 雨の多い夏が過ぎてゆく。
 部屋は湿っていて、色の褪せた厚いカーテンが掛かっている。
 机のようなテレビがあって、チャンネルはダイアルを廻すようになっていた。上には埃と造花がある。
「ねようか」
 私は葉子の足首を眺めた。糞かき棒のようではなかった。いつかとは別人のようだ。
「いつも、おんなの人の前でおしっこをするの」
 堤防からする小便は片方で光っている。
 音がきこえるのだが、遠すぎて風のようでもある。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.11

 
 
 
 
■ 二日目になった。
 金がなくなった。葉子が何枚かの紙幣とカードを渡してきた。私は眠り、そのあいだウィスキーと乾いたパンを葉子は持ち込んだ。
「ちがってる」
 と、薄い涙を浮かべている。
 途中、なにかひっかかるようなものがあって、それを越すとすこし広い空間に辿りつく。硬いものがあって、その先はいくつかに割れている。割れたものどうしが触れ合っていると、どうしたらいいのかわからない。
 痛みのようだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.12

 
 
 
 
■ うたたねを過ぎると、私は自宅の留守番電話をきいてみた。
「残念だね、君ならわかるとおもったんだが」
 社長の声が吹き込まれている。
「食事だけのつもりだったんだがね」
 嘗めるような映像の秘密はおそらくそういうことで、決して諦めない白いシャツの襟のかたちに似ている。私はむせるような薔薇の匂いを思いだした。
 
「車の鍵を貸してよ」
 夕方が過ぎ、葉子がそう言う。
「下着も買ってくるわね」
 私は車を出し、伊勢崎町の角で運転を替わった。
 シートを前に出し、黒いゴムで髪を束ねている。ヒールを脱ぎ、助手席の下に放り投げた。カセットを眺め、サンボーンじゃ間が抜けているわね、と言う。私は言い訳をしかかった。
「先に帰ってて」
 言い放すと、いきなり車線に割り込んだ。後ろのタクシーが怒る暇さえなかった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.13

 
 
 
 
■ 蛍光燈を四隅に張り付けたようなビルが右手に立っている。
 私は車に上着を忘れたことに気付いた。仕方なく目の前にある牛丼屋に入ることにした。シルダク、と叫んでいる若い男がいる。波を打った大味な牛肉を半分だけ食べ、私は店を出た。
 ブルーノートのジャケットが何枚か飾ってある階段をみつけた。
 重苦しい音なんだろう、と階段を降りドアを開けた。客はいなく、使い込まれた音が流れている。チョッキを着た白髪の店主がグラスを拭いている。私はジン・ライムを頼んだ。すこしだけ甘く、高校生になったような気分だった。真空管、多分マランツだろう、アイク・ケベックのボサノバが流れ、そういえば夏も終わるのだな、と同じものを二杯飲んだ。
 歩いてホテルの部屋に戻り、風呂に入った。
 
 どうしてここにいるのだろう。私は何をしているんだろう。そういえば事務所に連絡をしていない。この部屋にはベットがふたつあって、そのひとつだけを使った。暫く前まで抉るようなかたちで重なっていたことを思いだし、不思議な気持になった。
 十二時を廻ったが葉子は戻らない。
 備えてある厚いグラスで、私は持ち込んだウィスキーを嘗めた。グラスには紙が被さっていて、紙には細かな皺が寄っている。
 カーテンを開けても外はみえない。みえるのはコンクリの橋桁で、部分的に青い照明があたっている。雲の反射なのか、その上の空は鈍い灰白色をしている。
 枕の上に長い髪の毛が一本落ちていた。拾ってみる。暫く指先で遊んでから捨てることにした。煙草を消して横になった。そのまま曖昧になってゆく。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.14

 
 
 
 
■ 葉子は戻らなかった。
 昼近くになった。のろのろチェックアウトを済ませることにする。
 フロントにゆくと車の鍵を出された。いぶかると、今朝がた預けられたのだという。
「荷物はトランクだそうです」
 開けると、宅急便の紙袋がある。持とうとするが、不思議に重い。
 私は車を出し、路地の方角に曲がろうとする。通りは汗ばんで、曇ってはいるがそう混んでもいない。ブロックの前に車を置き、大桟橋の横の路地から埠頭の奥へ歩くことにした。
 埠頭は鉄と濁った暴力の後味が匂っている。
 煙草を吸ってみようと思うのだが、何故だか思いとどまった。一台のユンボの脇を通り抜け、明るい通りに出ると警官が立っている。
 水上警察だ。軽く会釈して看板を眺めると、「行方不明の人を捜す月間」と書いてある。看板にはビニールがかかっていて画鋲でとめてある。
 紙袋の中には弾倉を別にしたトカレフがあった。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3058

 
       ご休憩。
 
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3059

 
       隙をみせないで。
 
 
 
 
■ 夜になって雨になった。
 二日酔いで、一歩も外に出なかった。
 伊集院静氏の「乳房」という小説を読んだ。
 風呂に入り、髭を剃ったのだが、しくじって血がすこし出た。
 
 
 
■ 桜はもう終わりだろう。
 鎮痛剤をかじりながら、薄い酒を嘗めている。
 女の耳のかたちというのを、時折思い出すことがある。
 側にあるからだが、小さかったり、ふくよかだったり、中の三角に尖っている処が妙に目立ったり、眺めていると不思議に納得してしまうこともある。
 十代の少女が、思いの他したたかな耳朶をしているのに気付くと、このように再生産されてゆくのだと思うこともある。
 
 
 
○緑坂 vol.18 93年 再掲。
 

「夜の魚」一部 vol.15

 
       三 九月
 
 
 
 
■ 私は日常に戻った。
 夏はゆるゆると過ぎ、短い女と別れた。エアコンのフィルターが汚れている。冷蔵庫の扉に磁石があって、間に紙が挟んである。燃えないゴミは木曜なのだ。
 九月になった。取材にゆくひとを送りに空港まで出た。
 長い橋桁を渡ると、見通せる食堂がある。夜なので、蒼い光が繋がっている。
「でね、こんどはさ」
 彼も彼女も、とりあえずのコンセプトということを語っている。皿は奇麗だが、輸入された牛の内蔵を混ぜ合わせたハンバーグを食べている。
 部屋に戻り、ソファの上で紙袋を開いた。袋はビニールコーティングしてあり、中にはハンド・タオルに包まれた拳銃がある。
 弾倉を開くと、二発使われていた。思ったよりも硬いスプリングを親指
で押しのけ、銃弾のひとつを取り出してみた。先は鈍い鉛になっている。弾を指先で暫く廻してから、唇に挟んでみた。案外に重い。舌を尖らせると曇った味がする。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.16

 
 
 
 
■ 私は街に出ることにした。
 足りるかどうか、あるだけの現金を持ち、麻のズボンを履いて車を拾った。
 波止場にて、粗いシャツを着ていたマーロン・ブランドは頬に脱脂綿をつめ、家族の愛について眼の下に隈を入れた。
 ニューヨークの歌姫と呼ばれたヘレン・メリルはそれから太り、ママ・コルシオーネと呼ばれることになる。
 表には出ないけれども、民族という境界というのは確かにある。
 盛り場に行って、立っている看板の文字を眺めてみると良い。近くには眼光の鋭い若い男が立っていて、スーツのズボンでは入ることが出来ない。乱れた英語を使い、すくめるような視線に耐え、私は店に入る。
 強い香水の匂いが漂い、それは半ば黒い肌の色を隠すもののようにも思われた。
 有線が入っているのだろう。ダイナ・ワシントンが澄んだ声で歌っている。
 安いスカーフを腰に巻いた女が傍による。
 私は色のないテキーラを頼むことにした。
 男達の視線がすこしだけ他に逸れる。フロアの中では、靴クリームのような肌色をした男と女が手を振り腰を揺らしている。
 新宿。その外れの街で、私は弾を買うことはできなかった。
 そもそも、何の為に買おうとするのかわからなかった。
 
 
 

2005年03月21日

「夜の魚」一部 vol.17

 
       四 天国
 
 
 
 
■ 月が高くなった。上着を手に持つことがなくなった。
 週の半ば、私は自室でクライアントの社内報の代筆をしていた。ディスプレイの横に置いた飲みかけの缶ビールが温くなった頃、部屋のチャイムが鳴った。
 出てみると葉子である。
「部屋の鍵をかえしにきたの」
 そう言って立っている。怒ったような瞳をしている。
「即物的な話だな」
「髪を切ったのよ」
 背中まであった髪が肩までになっていた。葉子を部屋に入れ、コーヒーを沸かそうと台所に立ったが紙がなかった。棚からエスプレッソ用の器具を捜した。古く、粉を吹いている。
「で、どうしたっていうんだ」
 私は苛立っていた。片方では抑えようともしている。葉子は答えない。
「若い女の思わせぶりにはウンザリだな」
「気持はわかるわ、でも」
「でも、なんだ」
「巻き込みたくなかったのよ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.18

 
 
 
 
■ その夜、私は葉子からいくつかの話を聞いた。
 歳は二十三の終わりで、実家は藤沢と鎌倉の間にある。神奈川県の丘陵にある四年制の女子大に籍があるという。家族については言葉を濁していた。私も聞かなかった。
 トカレフについて尋ねることはしなかった。どうしてか、今はその方が良いと思ったのだ。曖昧なかたちのまま夜は過ぎてゆく。
 シーツに、何かきらきらしたものが残っている。銀色の鱗のようだ。葉子は私のパジャマの上だけを羽織っている。
 
「従軍慰安婦って、知ってる」
「ああ」
「そうした問題を扱うサークルに入ってたの」
「ボランティアか」
「そう馬鹿にしないで。裕福だから考える余裕もあるんだわ」
 葉子は週末まで部屋にいた。乾燥機の使い方は覚えたようだ。私は仕事にでかけたが、サイズの違う靴を履いているような気分だった。すこしづつ部屋は整理される。布団も干されている。機械の廻りと机の上はそのままになっている。
「電話があったのよ」
「でるとね、あなた誰、と聞かれるの」
 葉子はピル・ケースを開けている。台所でわからないように後ろを向いている。なんなのだ、と尋ねると、
「アップジョン。眠るためなの」
 と、答えた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.19

 
 
 
 
■ 日曜の夜なかば、葉子を送るため、第三京浜に乗った。
 雲は斑であり、風が吹いている。
 フロントフォークを伸ばしたハーレーが、芯のないマフラーで隣に並んだ。高圧縮の新しいエンジンだ。国産のゴーグルに旧ナチのヘルメットを被っている。
 昔、透明なチューブの中に麻薬をつめ、キャプテン・アメリカは南部へ向かった。撲殺された弁護士をニコルソンが演じた。
 架空の好況の後、暴力の気配が街に戻っている。
 終点のパーキングでジャガイモのようなものを食べ、缶コーヒーを飲んだ。葉子と運転を替わる。トンネルを幾つか越えた。道は比較的空いている。
「これ、ツェッペリンでしょ」
 ジミー・ペイジのギターは、まだ静かだ。
 その時、車が前につんのめった。
 振り向くと、ライトを消した山のような影がガラスの後ろにあった。メッキされたアニマル・バンパーがみえる。
 ランクルだ。
 葉子は加速した。
 ハイビームにし、ハザードを入れた。フロントにぶら下げたシビエのスポットをつける。なんでスイッチがわかるんだ。一度乗っている。
 降りてゆく坂道である。速度が乗る。一泊六千八百円とかかれた赤いネオンを過ぎた。振り向くと、四角い眼のランクルが車の屋根を照らしている。引きずる音は、外れたバンパーがアスファルトに擦れているのだろう。
 前に丸いテールランプのセダンがふさがる。
 ガツンとブレーキを踏み、セダンを避けた。そのままゆけるかと思ったがランクルも脚が硬い。ついてくる。前は黒い。
「窓を開けて」
「後ろの袋に銃を入れたでしょ」
 そうだ、捨てようと思い銃を入れた袋を持ってきたのだ。
「弾倉は」
「脇のレバーを引いて」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.20

 
 
 
 
■ 私は吉田健一氏の本が好きだった。履歴書の欄に書いたこともある。受けが良いのではないかと思ったからだ。彼の父親がつくった坂道で私は銃を持っている。
「撃つのよ」
「え、どうやって」
「いいから、映画でみたことあるでしょっ」
 窓から頭を出し、両手でトカレフを持ち、眼をつぶって引き金を引いた。目蓋の裏が白くなる。窓枠に頭をぶつけた。続けて絞ると後頭部が寒かった。頭をひっこめ、そこで眼を開けると赤い火花がみえた。
 ランクルのライトの片方が消え、小さなテールランプが黒いコンクリの壁面に放物線を描いている。横転してゆくらしい。
 葉子はスイッチに触り窓を閉めた。
「あたったのか」
「撃ったのは、壁と空よ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.21

 
 
 
 
■ 坂の終点で料金を払い、暫く走って葉山の海岸に車を入れた。
 海自体は静かであり、軽い鉛のようにもみえた。葉子は煙草を欲しがった。二口ほど吸って溜息をつく。
「触ってみて」
 胸元から手を入れると油を塗ったように湿っている。
「いったいどうなってんだ」
 私たちは車を降りた。雲の影から月が出ていた。折れたのは安っぽいバンパーではなく、突き出したマフラーだった。くの字に曲がって垂れ下がっている。
「CPPっていうのがあるのよ」
「なんだって」
 フィリピン共産党を名乗る武装集団がある。
 もともとは一九三○年に創立されたフィリピン共産党、PKPに端を発する。PKP自体は非合法とされながらも当時の米軍ないしは日本軍に対し、ゲリラ活動で抵抗を続けていた。
 しかし、戦後のCIAによる弾圧の中で、PKP自体は旧ソ連にならい、マルコスとも手を繋ぎ国民の支持を失ってゆく。一九六八年、シソンを中心として新しいフィリピン共産党、CPPが再建される。毛沢東の誕生日、十二月二十六日のことだった。
 葉子はそこまでを一気に話した。
「習ったのか」
「調べたのよ」
「それがなんでランクルなんだ」
「CPPは日本にも入ってきてるの。CPPの武装組織がニュー・ピープルズ・アーミー、NPAというのよ」
「さっきのランクルがそうだっていうのか」
「そう、CPPは毛沢東思想に固まった暴力革命を至上とする組織なの」
「革命だって」
「そうよ」
 月が隠れ、私には葉子が遅れてきた紅衛兵のようにみえた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.22

 
 
 
 
■ 私達は口をきかなかった。
 そんな理不尽なことで狙われるのはまっぴらだった。
 細い道をいくつか越え、小さな駅の前に出た。不動産の看板が目立っている。
「ここでいいわ」
 葉子が車を降りた。泣いた後のような眼をしている。唇を噛んでいる。泣いた訳でもない。私は言われるまま葉子を降ろし、ガラガラ鳴る車をだらしなく東の方角にむけた。
 途中、自動販売機で短い缶を買い、一気に飲んだ。車に戻ってから思い出し、タオルでトカレフを拭い、丸く口をあけたプラスチックのゴミ箱に捨てようとしてとどまった。
 手首が痺れ、親指の付け根の皮が剥けている。
 私は部屋に戻って眠れなかった。
 単気筒の音がして、新聞がくる。カーテンが白くなって、床の埃が目立つ。葉子がかじっていた薬がその時は本当に欲しくなった。
 私は怯えているのだと思った。
 
 
 

2005年03月22日

「緑色の坂の道」vol.3060

 
       傾く雨。
 
 
 
 
■「夜の魚」一部を、唐突に掲載している。
 これは初稿が94年。
 まだ、バブルの名残が街に溢れていた頃のお話である。
 読み返すと、プロットも背景になっている諸事実や条件も、今の眼からはとても青臭く思える。赤軍やCPPなどという存在は、果たしてなんと言えばいいのだろうと。
 だが小説というのは、そうした観点からだけ読まれるものではないので、手直しをせずそのまま載せている。
 例えば「埠頭は鉄と濁った暴力の後味が残っている」などという記述に、某かを感じる読者がいるとすれば、それでいいのだと思われる。
 
 
 
 
■ 表現というのはそのメディアに大きく依存するもので、Web上での表記の仕方というのは紙を想定したものとは異なる。
 改行や空白行もひとつの文章に近い意味を持つ。
 MTが最終的な媒体だとは決して思えないが、この場合にはこうして断片を積み重ねることになるのだろう。
 
 
 
■ 数日前の夜半、私は表に出て車を拾った。
 まだやっているだろうか、と思いながら大使館脇のホテルの酒場へゆく。
 カウンターの隣には、ワインとウィスキーの銘柄を語っている大人のカップルがいて、彼はかなり大きな組織の、それなりの立場である。否応無くそうした気配が滲んでいるのだが、だからどうしたということはない。
 私はその隣で、ギネスを嘗めていた。
 残ったボトルを前にグラスをもらうと、若いバーテンがギネスがチェイサーですかと尋ねた。そうしたことはしないので、水にしてもらう。
 乾いた豆をつまみながら、暫くぼんやりとする。
 その内、小さく携帯が鳴る。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3061

 
       紅梅。
 
 
 
 
■ これからという時が一番良く、まだ風は冷たく感じる。
 コートを脱いでも歩ける頃になると、額は長い睫のようになり、男を知った直後の若い娘に似て煩わしい。
 
 
・昔坂
vol.590
 

「夜の魚」一部 vol.23

 
       五 あやとり
 
 
 
 
■ 午後になって事務所を抜け出し、近くの図書館にいった。
 調べようにもとりとめがなく、どう繋がっているのかわからない。
 六本木の放送局、報道にいる友人に電話をした。
「革命だって、なに寝ぼけてんだよ」
 奴は千葉に家を持っている。新しいドイツ車で駅まで女房に送らせる。
 昔、万年筆の宣伝で名をはせた眼鏡の男が、暫く前迄レギュラー番組を持っていた。
 有名人が沢山出てきて、大人の漫画も放映されている。
 ゴルバチョフが監禁された旧ソ連のクーデターの際、モスクワにいた駐在員がくたびれたワイシャツに同じネクタイで報告をしていた。
 眼鏡の男がそれを揶揄する。
 テレビマンとしては失格だと番組の中で言う。
 若い駐在員は、明らかに不満な顔をしながら黙っていたことを思いだした。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.24

 
 
 
 
■ 夜になった。
 私は通信社に勤めている女の友人を待っていた。
 女も三十を過ぎると、ショールを肩に巻くようなことはしない。
 表通りから一本奥に入ったホテルの十五階まで昇り、ほの暗いボックスに座った。
 グラスに軽く口をつけ、彼女はいきなり言う。
「あなた、何に巻き込まれたか知ってるの」
「狙われたんだ」
「バカね、殺されるかもしれないのよ」
 確かにそうだった。
「CCPの幹部、エドゥアルト・キトリアーノがね、この間逮捕されたの。そこで、JRA、〈日本赤軍派〉と関係があることをフィリピン国軍は公表したわ」
「あの、〈赤軍〉か」
「そうよ。そこでね、重信房子と連絡を取り合っていること、九○年スイスで発覚した総額百六十万ドルの偽金づくりに関与したこと、八七年、香港を拠点に〈一般基金〉という資金づくりプロジェクトに参加したことなんかがフィリピン国軍の手によって公表された訳」
 彼女はそこまでを一息に言うと、探るようにこちらをみた。私は黙っていた。何を言って良いのか判断がつかないのだ。
 
「みなさいよ」
 彼女は一枚のコピーを渡す。
「タイのバンコク・ポスト。オランダ政府の対外援助金がフィリピンの労組を通じてCCPに流れた訳。オランダでは国会で問題になったわ。CPPのシソン議長はオランダに逃亡しているのよ」
「日本にもいるのか」
「あなた、鈍いところはちっとも変わらないわね。第一、その葉子って娘の口からでてるじゃない。CCPの今の資金獲得の対象は日本とオーストラリアなの」
 わかったような気がしたが、何処かで霞がかかっている。
「じゃ、なんでボランティアにかかわるんだ」
 彼女は呆れた顔で私をみた。
 中心には黒い瞳がある。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.25

 
 
 
 
■ 九年前、私はいつもそのような眼で彼女にみられていた。
 コンタクトを装着していると、泣いたような黒い瞳だ。
 半年程彼女と暮らしたが、私は別の女のところに入り浸り、次第に帰らなくなった。私達は別れ、二年ほど経つと彼女は年の離れた男と結婚をした。それも二年ほど続いたのだろうか。離婚をし、元の仕事を続けている。
「それが糸口なの」
 カチリと音をさせ、細いライターで煙草に火をつけた。
「ともかく、その葉子って娘が危ないわ」
 彼女はバックから鍵を出し、テーブルの上に置いた。
「部屋はふたつあるから」
 私はトカレフのことは言わなかった。葉子と寝たことも、拾った時に流産らしき按配だったことも。
 彼女は私をみつめ、
「彼女を愛しているんでしょ」
 と、言って笑った。名を晃子という。
 笑うと大きな眼の傍にくっきりした皺が入る。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.26

 
 
 
 
■ 部屋に戻ると机の上に鍵をおいた。
 いくつもの迷いがある。
「ミントのアル・ヘイグ」と呼ばれる名盤が先程復刻された。彼はB級スタンダードを、独特の物言いで一定の水準にまで高めるのが旨かった。
 ドライブがかかる。アカルガナシイ音色で先を続ける。
 私は晃子から渡されたコピーの束をぱらぱらと捲った。
 社内のデーター・ベースから引っ張ってきたものが主で、晃子はサーチャーのようなことをやったのだろう。
 従軍慰安婦の問題は広範囲に及んでいて、打ち出された関連文献のリストだけでも相当な数になっていた。新聞では、韓国やフィリピンの抗議団体が、「民間募金ではなく政府の責任で」と主張していることが報じられている。非政府組織、民間基金などを使って補償をすることは戦争責任の回避に繋がるということらしい。
 抗議団体はいくつもある。そのどこがCPPと関係しているのか、どのような手口なのか、一読判断はつかなかった。そもそもCPPとは何なのか。
 私には関係がないと思おうとしたが、割り切れないものが残った。
 
 トカレフは私のところにあって弾倉は空だ。
 始めて銃を撃った。撃てるものだなと思う。
 横浜新道のランクルはまだ記事になっていなかった。単なる事故として扱われたのだろうか。唇を噛んでいた葉子の横顔が思い出される。
 煙草を何本も吸っている。
 舌がざらざらしている。棚の酒瓶に眼がゆくのだが、飲むべきか迷っていた。
 ベットの下に置いてある古いファックスが鳴いている。
 音を絞ってあるので遠くから聞こえてくる。
 カタカタと暫く揺れては静かになった。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.27

 
 
 
 
■ 次の日の夜、私は感熱紙の指定に従い東銀座の地下道を歩いていた。
 この先どうなるのか、確かめてみようという気分になっている。
 昨夜受信したファックスには、時間と場所だけが活字で書かれていた。
 プラスチックの広告版に挟まれ、家のない男達が横になっている。ペットボトルを傍らに何本か置き、積み上げた週刊誌を真剣に読んでいる者もいた。
 五つ目の柱の角、段ボールを尻の下に敷き、口を開け天井を眺めている男がいる。いくつもの紙袋を廻りに置き、黒い帽子からはみ出た髪は見事に横を向いている。男の眼は大きい。
「あんただよ」
 呼ばれて傍によった。男は指を顔の前で動かしている。紫色の毛糸が太い指に絡んでいる。あやとりをしているのだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.28

 
 
 
 
■「ひとりで遊ぶってのも楽しいもんだぜ」
 男は顔を不器用に歪め、背中に手を廻すと畳まれたモロゾフの紙袋を私に差し出した。
「弾と鍵だ。車は西銀座の駐車場にある」
 痩せていないのが不思議だった。歯も白い。
「どういうことだよ」
「訳がわからないことって、まだあるんだぜ」
 そう言って男は黒い毛糸の帽子を目深にかぶった。それでも笑っているらしい。
 電光掲示板に、消費税率を上げる法案が衆院を通過したと流れていた。
 暫定、と続けて書かれている。この国が、生きているだけで税金のかかる仕組みになって随分になる。
 私は時計台の前、四丁目の交差点を渡り人混みを越えた。警官が立っている。階段を降り、黄色い電球の地下にもぐった。
 指定されたブロックを捜す。一番奥まった一角に車があった。
 
 クリーム色の、丸目のカマロだ。
 なんだか溜め息がでる。これでどうしろっていうんだ。
 重いドアを開け、それは案の定下がっていたが、エンジンをかけた。馬鹿みたいにでかい音がした。ハンドルは小さく、黄色い目玉、「ムーン」のホーンリングがついている。
 ボンネットの上にバルジがあり、蓋がしてある。ガラスの汚れから車自体は暫くここに置いてあったようだ。オイルが廻るまでの間、ウォッシャーでガラスを洗った。
 右手のシートの上に皮の鞄があった。外側のポケットに簡単な地図とメモ、携帯電話が入っている。中には充電器もあるようだ。
「東金に葉子はいる。アルピーヌもあるのだが貸してやらない。銃はそろそろ分解しろ」
 メモにはそうあった。こういうメモを残す男の年齢を当てるのは簡単である。あの頃の残りなのだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.29

 
 
 
 
■ 外は雨になっていた。駐車料金を二万もとられたことに腹を立てた。
 どうもZ28のようだ。信号で少しアクセルを踏むとそれだけで尻が流れている。
 品川埠頭の外れから湾岸線に乗る。キックダウンしないようゆるゆると車を走らせた。途中、人気のない駐車場で小便をし、何をしているのか自問した。手は洗わなかった。
 東金で高速を降り細い道をいくつか抜けた。
「ホルモン」という黄色い看板のある店で塩ラーメンを食べ、海の傍まで出た。玄関のタイルがいくつか剥がれたマンションが建っている。
 見上げると、ほとんど灯りはない。駐車場には銀色のセダンが一台駐まっていた。
 埃っぽいエレベーターに乗り、十二階までゆくとチャイムを押した。三度鳴らしノックをして名乗った。
 チェーンが開けられる。葉子はそこにいた。
 
 
 

2005年03月23日

「緑色の坂の道」vol.3062

 
       キリサメ東京。
 
 
 
 
■ 深夜、所用あって運河沿いの街をうろついていた。
 時間まで、路肩に停め、ぼんやりと音を聴いている。
 なんのせいか腰が僅かに痛いので、背中に低反発のクッションをあてた。
 界隈は代理店であったり放送局が集まる一角である。まだ整備されきっていず、水銀灯だけが白い。
 ワイパーを止めていると、細かな雨がウィンドに広がり視界を狭める。
 私は遠くを見たり、近くに焦点を合わせている。
 三月末までにやるべき仕事が指折り、その次のことも左手で指折り。
 だからどうしたんだろうな、と思いながら、黒い鞄を持った男たちが過ぎてゆくのを眺めている。
 
 
 
■ 十年というのは、あっという間だった。
 傾きながら先を急いでいた時期もあって、よくあれだけ徹夜が続けられたものだなと思う。
 女の部屋でぶったおれていたり、午前の首都高C2を流すなんてこともなくなった。
 男の友人にしか教えない、隠れ家のような店がひとつふたつあればいいということになる。
 女は連れてゆかないよ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.30

 
        六 目線なし
 
 
 
 
■ 葉子は髪を切っていた。
 肩までのものを更に短く、ほとんど私と変わるところがなかった。驚いた様子もなく私を部屋に入れる。
「毎日、海をみていたわ」
 何もない部屋だ。サイドボードだけは大きく、古いウィスキーが何本か置いてある。
「冷蔵庫の氷だけど、飲むでしょ」
 一杯だけ貰うことにした。バカラのグラスは重い。鉛が入っているからだ。
「さてと、説明してくれよ」
「あなたはいつも女に説明を求めるの」
 葉子はきいた風な口をきいた。
 私は鞄から雑誌を取り出し机の上に置いた。
 カマロのシートにあった皮の鞄には、メモと一緒に一冊の雑誌とビデオが入っていた。高速の駐車場で中を開けたのだ。誰でもが買える雑誌で、投稿された写真が載っている。男が数人ひとりの女に絡んでいる。去年のものだが、御丁寧にその部分は折ってあった。目線もなく、髪の長い葉子だった。
 私はその部分を開いた。
 葉子は横を向いた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.31

 
 
 
 
■ 女は人のために泣くことはない。
 泣きながらそれがどういう効果を持つか知らずに計算をする。
 葉子は膝を折り、手で顔を隠している。
 声の調子が波のように変わる。窓を開けると波の音か、空気がざわついている。暫く眺めていると葉子は泣きやんでいた。葉子は煙草を吸う。唇をまるめて煙を吐き出す。
「おととし、アメリカとイギリスに留学したの。そこで薬と男を覚えたわ。戻ってきて、ボランティアの活動に入ったの。今の生活がイヤだったのね」
 
 何処かで嘘があると思った。
 女の嘘は躯から入る。
「この写真は二十一の時よ。ビデオだってそうだわ」
 声の調子が変わる。
「そう、なんでもした。一晩で五人と続けたこともあったし、黒人は最高だったわ。中国のひとは硬いの、あなたよりずっとね」
 目線のない葉子の写真には陰毛がなかった。
 野外と風呂場で、腹の出た男達の下に膝まづいていた。
 葉子の眼が座っている。笑いだし、グラスに酒をついで冷たい紅茶のように飲んでいる。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.32

 
 
 
 
■ 私は殴ることもせず、それを眺めていた。
 胸の底に溜まっている残忍さに私は気付いている。
 氷を足すよう葉子に言った。グラスに二杯目を注ぐ。
「昔、福島の原発をみにいったことがある。外れたところに飯場があって、そこに沢山の男や女が居た。その時、居酒屋で酒を注いでくれた男にこのあいだ会ったんだ」
「都庁の後ろにある公園だった。写真をとるので夕方までいると、箱を抱えて制服に追い立てられている。奴はまだ若いんだ。フィリピンの女と結婚していた」
「それで」
「それで、間に入った訳だ」
「女とは別れていた。奴は炉芯部の作業をしていた」
「じゃ、浴びる訳ね」
「そうだよ、躯がきかなくなってくるんだ」
「あなたは何をしにいったの」
「女を買いにさ」
 私は葉子にいう。
「窓を開けろよ」
 波の音がする。他には音がない。リゾート用に作られたこのビルは、コンクリの底から冷えている。
「どうするの」
「脱げよ」
 下からだ、と私は言った。
 ベランダに出るように。そこでしゃがむように。
 細いタオルで手首を後ろから縛り、もうひとつ目隠しを葉子にする。
「同じことをしようじゃないか」
 みるみる鳥肌が立ってくる。寒いというが、聞こえない。
 浴室に連れてゆき小便をした。頭からお湯をかけた。
 Tシャツが濡れている。葉子は息ができない。
 口をあけ、訴えるような顔で上を向いている。
 叫ぶようになってゆく。その声は多分海岸まで届いた。
 底のない水のようで、それからは一定の段階が続いている。
 屋上のコンクリの上に葉子は立っている。立ちながら、泣いているのがわかった。五分したら戻るように。
 
 
 

2005年03月25日

「緑色の坂の道」vol.3063

 
       赤い灯をつけるな。
 
 
 
■ とかいうフランスの映画があって、先日ビデオで眺めた。
 何もしたくない夜などに、何をするかは難しく、ぼんやり酒を嘗めていた。
 それにしても、センスってのは何処からくるんだろうか。
 
 
○昔坂 vol.638
 
 

「緑色の坂の道」vol.3064

 
       大人の厄介。
 
 
 
 
■ 着地点を探しながらあれこれするのが大人だと言われるが、ま、そんなような気もする。
 奇襲には奇襲。
 すれすれには、再度すれすれ。
 最後のところでバランスを取ってゆこうとするのは、かなりくたびれるが、そういう綱渡りをして表現もなされてゆくのだろうと思っている。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.33

 
       七 スープ
 
 
 
 
■ 机に置いてある雑誌をもう一度眺めた。
 その時、確かに葉子はよろこんでいるかのようにみえる。葉子は何色なのか。色が混ざるのだとして、男だけの色ではないような気がした。
 
 葉子がドアの前に立っている。ぺたぺた裸足で階段を降りてきたのだ。
 唇が震えている。浴室につれてゆき、バスタブにお湯を張り葉子の躯を洗った。窓の外は風が吹いている。曖昧な気持のままそれを聴いている。
 タオルを使っていると、鞄の中で携帯電話が鳴った。アンテナを伸ばすと雑音が激しい。
「楽しんでいるか、そこは二三日大丈夫だろう」
 東銀座の男だった。
「おい、ありがたいオマケまでつけてくれたな」
「ビデオはもっと凄いぜ」
「おまえ、誰なんだ」
「ちょっとかして」
 横から葉子が電話を取った。
「吉川、父は何処にいるの」
 強い声で問いただしている。
「そう、そうなの」
 葉子は電話のスイッチを切った。
「どういうことなんだ」
「まって、ゆっくり話すわ」
 電話を低い椅子の上に置き、葉子はドライヤーを使った。背中を向け、指だけで短い髪を流している。
 いつもこうだ。まって、と言われ、待ってみると機会を失う。
 隣の部屋にベットがあった。薄い毛布がかかっていて、葉子はそこで寝ていたのだろう。私は横になった。ぬるいものに吸い込まれ、すぐに眠りに落ちた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.34

 
 
 
 
■ 明け方、薄い夢をいくつかみたがよく覚えていない。
 環状線の街灯が全て消え、その中をカーキー色の装甲車が走っている。その後ろには武装した兵士が大勢トラックに乗っていて、銃を肩に私の車を眺めている。
 気がつくと午後の半ば近かった。
「イビキが煩かったわよ」
「じゃ、味噌汁は」
 浅蜊の味噌汁とコーヒーを二杯づつ飲んだ。
「眠っている間に、買い物にいったんだ」
 葉子は薄い化粧をしている。明るい光の中で眺めると脚が伸びている。洗面所に立って使い捨ての剃刀を使った。どちらが夢か。鏡の中の顔に隈が出来ていた。
 
 
 

2005年03月26日

「緑色の坂の道」vol.3065

 
       そう旨くはゆかないよ。
 
 
 
 
■ 漱石の小さな作品に、小さな娘と会話するところがあった。
 
「どうして井戸の中には水があるの」
「地面の下に水が流れているからだよ」
「じゃあ、どうして地面は落っこちちゃわないの」
「うん、そう旨くはゆかないよ」
 
 原文はどうなっていたのか本来は確かめるべきなんだろうが、億劫なのでやめる。
 それにしても、「そう旨くはゆかないよ」という台詞には、なかなか味がある。
 ここら辺の、何処か投げやりな気配ってのは、そう悪くはない。
 深夜、ちびちび酒を嘗めながら、独りディスプレイを眺めている大人の貴方には、説明せんでもいいとおもう。
 
 
○昔坂 vol.4
 
―――――――――――――――――――――――――――――
 
■ ま、いいんですけれども、夕方からサーバーが落ちていた。
 なんとなく挙動がおかしかったので、サポートに電話をしている最中、実は今障害が発生していまして、と窓口の若い男性がイウ。
 それは困ったことだなあと、メールなども使えなかった。
 大手のところを使っている筈なのだが、こういうことはまま起こる。
 
 
 
■ 実はこの緑坂だけで、70メガほどの容量を使っている。
 MTというのは結構燃費が悪いのだなと呆れているのだが、かといって無料のところへ移ろうという気は起きない。その理由は、各種制約があり契約内容が不安定だからである。 何時止めると言われても、文句は言えないのだ。
 そう旨くはゆかないよ。
 という按配で、昔坂を思い出していた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.35

 
 
 
 
■ すぐに暗くなった。
 私は事務所に電話を入れ、母親が危篤で戻っていると言った。男と暮らし始めた事務の娘が声を出さずに笑った。思いつき、自宅の留守番電話を聞いてみる。床を拭くモップ交換のお知らせと電話料金の催促、そして晃子からの伝言が入っていた。ここ数年、自宅に電話などはなかった。
「つけられているようだわ、怖いのよ」
 時刻は午前一時過ぎ。多分昨夜だろう。私は東京に戻ることにした。その前に葉子に聞かねばならない。
「あの吉川という男は何なんだ」
「どうしたのそんな怖い顔をして」
「知ってる女が危ないんだ」
「恋人なの」
 私は答えなかった。黙って葉子をみていた。葉子が口を開く。
「吉川はね、羽田闘争の時に捕まったの。それを父が助けたのよ」
「羽田闘争だって」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.36

 
 
 
 
■ その頃、私はまだ半ズボンを履いていた。
 一九六七年十月八日、当時の首相による東南アジア訪問が企図された。
 そこには焦土作戦が展開されていたベトナムをも含んでいる。それに抗議していわゆる新左翼系学生が羽田に集結し、機動隊と衝突したのだった。多くの逮捕者を出し、ひとりの学生が死んだのだという。
 風化しつつあるが半ば伝説のようになっているその事件は、長ずるにつれ私も何度か耳にしたことがあった。
 
「そう、その時捕まった人達は普通に進学したり就職できなかったらしいの。父には義理を感じているようで、わたしが高校の頃、家にきて酔いながらそのことをくどいくらい話していたわ」
「君の親父さんは何をしているんだ」
「小さな会社をやってるわ」
「吉川は」
「赤坂にある大きな商社にいるのよ」
 
 亡霊に追いかけられているような気もする。その亡霊には実体があって、忘れた頃にかたちを変え執拗に甦ってくる。私は鞄を持ち、部屋を出ようとした。
「場所は何処なの」
「下北沢」
「カマロじゃ無理だわ」
 確かにそうだ。曲がりきれない。葉子は私に車の鍵を渡した。
「銃はダッシュボードじゃなくシートの下に置いて」
 下まで降りると銀色のBMWがあった。ふたつ前の型で、放射線状のホイルを履いている。
「カマロは親父さんのものか」
「すこしイジってあるみたい」
「馬鹿げてるよな」
「そうね」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.37

 
 
 
 
■ 馬鹿げているのは車だけではない。
 私はBMWを出した。高速の黒い二車線で四速、一八○まで出た。
 エンブレムは外されているが三二三だ。
 矢絣のラインも注意深く消されている。アルピナだろう。
 マルニイの後、BMWは四つ目になった。比較的マイルドなハンドリングに変わり一部のマニアを失望させた。
 首を傾けるだけでコーナーを過ぎるような神経質さは薄れたが、その分売り上げを伸ばした。八十年代の半ばから、チューンするメーカーが現れた。元々はプライベートでレースをする物好きのためのチューナーで、大振りなオーバー・フェンダーをつけ、スパ辺りでアルファと競っていた。
 この脚はビルシュではない。
 イタリアの赤いダンパーで、私も二十代の頃スカイラインにつけ遊んでいた記憶がある。収まりが硬くないのだ。
 湾岸から箱崎を過ぎた。とたんに空気の密度が濃くなる。
 二速に落とし、きついコーナーを曲がった。
 流れてはいるが一度にはゆかない。
 カムが変わっているのか、赤い部分から更に廻ろうとする。
「葉子の親父ってのは、何者なんだろう」
 元々は前後にある羽を外し、十数年前の車をこれだけに保っている。
 
 
 

2005年03月28日

「夜の魚」一部 vol.38

 
 
 
 
■ 細い路地を抜け踏切を越えた。下北沢の劇場の地下に車を入れた。
 ネオンが並んでいる。その前に若い男女が座り込んでいる。自転車のサドルの上で口を吸っている。
 すこし歩く。駅から五分ばかりという。確かここだ。
 マンションの下にある公衆電話で晃子の部屋にかけてみる。
 応答はない。三度繰り返した。不思議な予感がする。不安が這いのぼってくる。
 エレベーターに乗った。鍵を持っていることを思いだした。チャイムを鳴らし二分程待った。返事がなく、鍵を開けてみる。玄関のつきあたりから右に曲がった小さな部屋に彼女はうずくまっていた。
 ふりむく。
 年齢より五歳年をとってみえた。尋ねても答えない。
 のろのろと立ち上がり、小さなソファに座ると、
「あなたって、大事な時にはいつもいなかったわね」
 と、低い声で言った。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.39

 
 
 
 
■「今日の朝、警察の者だといって、男と女がきたのよ。帳面をひらひらさせるからドアを開けると、そのまま入ってきたわ」
「女の方は二十七位、色が白いから中国系にもみえたけど、顎の線の綺麗ななかなかの美人だった」
「男は三十代後半、傍によるとそれがわかったの」
 黒い筈の瞳が蒼くみえる。髪は乱れたままだ。
「男は細いナイフを出して、わたしを裸にしたわ」
 晃子は立ち上がり、ガウンの胸をはだけた。
 
 首の下から乳房のまるみを過ぎた辺りまで、二本の赤い筋がついている。胸の真ん中でそれは交差している。血痕はほとんどなく、そう深いものではない。
 後ろをむく。同じものが背中にもあった。こんどは背骨に平行に走っている。
「葉子は何処にいるんだ、と聞きながらゆっくりナイフでなぞってゆくのよ」
「女はそれをみていた」
 背中には肉がつきはじめていた。記憶の中に疼くようなものがあった。
「男は北沢と名乗っていた」
「またくる、と言ってそのまま帰ったわ。御丁寧に女が煙草の吸い殻まで持ち帰ってね」 ソファに座っている晃子の脚がぶらりと揺れた。長くヒールを履き続けた小指の爪が潰れている。
「コーヒーでも飲もうか」
「そこにあるわ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.40

 
 
 
 
■ 私は台所に立ってお湯を沸かした。
 沸くまでの間、どうすべきかを考えた。コーヒーを入れると、私は東金の葉子に電話をした。吉川に連絡を取りたいのだと告げ、番号を聞いた。部屋を出ないよう葉子に言う。
 教えられた番号にかけてみる。七回ほど鳴って、割れたような声で吉川が電話に出た。名乗る。
「ちょっときてくれ、内ゲバなんだ」
「なに、ぞくぞくするじゃないか」
 吉川とは、マンションからすこし離れたビリヤード屋の二階で待ち合わせることにした。
 
 晃子が言う。
「わたしにいうことはないの」
「ある」
「なによ」
「手当したのか」
「シャワーも浴びてないわよ」
 ここを出ることにした。晃子は身仕度をする。ぱさりとガウンを降ろすと背中を向けて風呂場へ入った。傷を避けて流すのは難しいだろう。
 女の支度は時間がかかる。棚と冷蔵庫を開き、私は簡単な料理をつくることにした。タマネギのスープだ。
 隣の部屋で髪を乾かす音がする。車輪のついたスーツケースを持って、晃子がでてくる。
「あなたが持つのよ」
 私がうなづくと、晃子は濁ったスープをすすった。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3066

 
       なんだか、黄色いサクランボ。
 
 
 
 
■ この歌を星野哲郎さんが作詞されたのだとは気づかなかった。
 あれこれあるけど なんだか黄色いサクランボ。
 という論理の飛躍がすごい。
 通じてしまうのである。
 
 
 
■ 一連の経済的茶番は、様々なものを炙り出した。
 勝ち馬に乗るひと、身近にいることを誇るひと。
 多くのブログは匿名で事情通ぶりを発揮していた。
 ほとんど踏み絵に近いようなところもある。
 日比谷公園の前を走っていて、なんのことはないこれは演歌の世界なのだと気づく。
 そのセオリーを踏まえた者が最終的に着地してゆく。
 情というものは、ひとを動かしている。
 一方ではね。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3067

 
       忘れて勉強せどりっく。
 
 
 
 
■ 星野さんは作詞家として名実ともに大家であって「三百六十五歩のマーチ」「男はつらいよ」「アンコ椿は恋の花」「夫婦坂」などなど、などなど、ここに書いても仕方がない程の膨大なヒット曲を作詞されている。
 若い頃、演歌というものをなんとなく敬遠していた私であったが、考えてみるとそれは単に精力が溢れていただけであって、思想的にどうこうという判別はつかなかった。
 通俗と呼ばれるものの強さというのは、ある種のルーティンもしくは刷り込みである。 白秋の歌も、字面を眺めてゆけば通俗の極みに似ている。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3068

 
       柄と品。
 
 
 
 
■ という言葉があって、ある種座右の銘にしている。
 と、銘とかいう単語が出てくるところが既にして野暮ではあるのだが。
 柄は少々悪くてもいい、が品性は悪くなるな。
 と言ったのは小津監督だったろうか。吉行さんも言っていた。
 
 
 
■ つまりまあ、なんと申しましょうか、眼の前にすぐに儲かるようなカラクリがあったとして、それに飛びついてはいけないということなのだろう。
 こっちおいで、と手招きされて、暴力バーに吸い寄せらるようなものである。
 やや違うな。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3069

 
       柄と品 2.
 
 
 
 
■ となるとつまりは、痩せ我慢ということになってゆく。
 持ち帰りの牛丼(今は難儀である)で、紅生姜いっぱいくれ、と言えるかどうか。
 それと同じ声色で、例えば銀座のクラブにいって、中ぐらいに高い奴と流せるかどうか。
 だって放っておけば凄いのがきてしまう。
 そうもゆくまい。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3070

 
       無駄な日。
 
 
 
 
■ あるとき車を拾い、虎ノ門のホテルのロビーでぼけーっとしていた。
 灰皿がある一角は隅にあり、またいい灰皿を使っているのだが、30代の頃のようにひとつもらって帰るということはしない。
 ボーイがバケツを持って灰皿を洗いにくる。
 高校を出てすぐにこの世界に入ったかのような、横顔が幼い。
 なんとなく済まない気分になってバーへ入ってゆく。
 
 
 
■ 手持ちの金はそうないのだが、まあいいだろうという按配で一杯を飲む。
 スコッチ一杯よりも高い葉巻などを買って、カットしてもらう。
 カットには二種類あって、モチがいいものとそうでもないものとがある。
 どちらにしますか、と妙齢が尋ねるのだが、どちらでもいいような気がする。
 で、カウンターで、なんとなくツマラナイなという顔をして実際つまらない訳である。 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3071

 
       無駄な日 2.
 
 
 
 
■ 暫くツマラナイ状態でいて、若いバーテンをからかう。
 彼はこれから仮眠室で休むのだという。
 エロ本ないと眠れないだろ。
 彼はこちらの顔色を数分の一秒眺め、そうなんすね、と答えた。
 
 
 

2005年03月29日

「夜の魚」一部 vol.41

 
       八 スィング
 
 
 
 
■ 劇場の地下に車をとりにゆき、マンションまで引き返して晃子を乗せた。荷物は横にしてトランクに入れた。
 細い路地を曲がってビリヤード屋の傍に車を停める。晃子には暫く車の中にいてもらうことにした。
 二階にあがると吉川は既に来ていた。赤い玉を右手にもち、太い指先で廻そうとしている。彼は黒いスーツに蝶ネクタイをしていた。腹をつき出し、全てがわかっているといった様子を見せた。
「もうひとり連れて来た」
 壁の傍の古い椅子に、灰色のスーツを着た三十代の男が座っていた。私よりすこし年下のように思えた。髪をきちんと分け、度の強そうな銀色の眼鏡をかけている。
「拳銃と格闘技、それから哲学に詳しい」
「よろしく、奥山です」
 近づいて挨拶をする。どう判断するべきか暫く迷った。迷っている段階ではないことも知っている。
「俺は運転できないしな」
 吉川はその腹を無意識に撫でている。店に他の客はいない。一時のブームは去ったのだろう。台が三組あって、その上には真鍮の傘のスタンドがぶら下がっている。一階には髪をポマードで撫でつけた、その世代からすると背の高い店主がいて、いつもラジオを聴いていた。テレビでないのをいぶかると、あんな下品なもの見られますか、と笑われたことがある。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.42

 
 
 
 
■「こいつはうちの社のものじゃない。だから安心していい」
 吉川はそう言った。
 私は階下にコーヒーを注文することにした。三角のカップで、濃いコーヒーが運ばれてくる。角砂糖がふたつ付いている。
「トカレフは丈夫ですが、消耗品だと考えた方がいいですね」
 奥山という男が言う。私達はコーヒーをすすった。胃の奥を探るような気分だった。
「実は、隠れる場所がいるんだ」
「どういうことだ」
 吉川が大きな目を光らせる。
「女なんだ。葉子じゃない」
 私はきしむ階段を降り、車に戻って晃子を案内した。吉川は暫く黙って晃子を眺めていた。
「北沢という男を知ってるか」
 話しかけても吉川には聞こえない。
「芝浦の倉庫はどうです。あそこなら管理用の部屋が空いている」
 奥山が促して、私たちは車に分乗することになった。
 山手通りを横切り、青山から広尾へと抜け道を通る。奥山の運転は危な気がなかった。丸くなる前のセドリックで先行する。
「どうでもいいけど、寒いのはごめんだわ」
 晃子は化粧したジプシーのような横顔で煙草を吸っていた。
 
 産業道路に入り、スタンドに寄る。
 モノレールの橋桁の間から店に入った。奥山は指を立て、三十リッター入れるよう指示している。
 髪を後ろで束ねた女がガラスを拭いている。断片的な言葉で、日本人でないことがわかった。夜は寒いのだが、短いスカートを履きタイアを確認している。三十手前くらいだろうか。金を払いながら奥山が何かを受け取っている。鍵のようだ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.43

 
 
 
 
■ 千葉へ続く背の高い橋がみえている。
 港は狭くなり、その脇にはクロームと模造大理石が貼られたビルが幾つも並んでいる。
 この辺りにビルができ始めたのはここ数年だ。中程はいつも空いている。夜になっても蛍光燈がつかない。倉庫はその一角にあった。隣接する比較的広い駐車場に車を駐め、四階までの階段を私達は昇った。吉川が晃子の荷物を持った。
「エレベーターの電気がないんだ」
 吉川が振り向きながら言う。中に入ると段ボールが無数に詰まれている。
「売れ残った羽毛布団だ。ここなら匂いもない」
 廊下のようなものを進み、一番奥の部屋の鍵を開けると、そこは整備された個室になっていた。見たところ、普段泊まるビジネスホテルよりまともかも知れない。簡単なソファとカーテンで仕切られた奥にベットがある。
「まあ、ここに居るしかない訳ね」
 晃子は黒いビニールのソファに座り脚を組んだ。もういいんだ、という顔をして窓を眺めた。芝の方角、タワーからはだいぶある。
「さっきの女は残留二世でね、北京の大学を出ている。結婚もしていたようだが、別れてこちらにきているんだ」
 吉川が説明する。スタンドの女のことを言っているのだろう。
「暫く前まで銀座でホステスをしていたが、今はそうした二世の連絡係のようなことをやっている」
「吉川さん、だいぶ通いましたね」
「うるせえんだよ」
 私は奥山のがっしりした腰のあたりを眺めていた。とりあえず、こいつに任せておけば良いだろうという気になった。
「それはそれとして、なんで銃の弾を持っているんだ」
「そんなものは幾らでも手に入る」
 吉川はうそぶいた。
「昔、俺はあの辺りで捕まったんだ」
 吉川は窓から細い運河のようなものを指さしている。誰もきいていない。もういいんだよ。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.44

 
 
 
 
■ 私たちは紙コップで薄いコーヒーを飲んでいた。
 奥山が一度外に出て、幾つかのものと一緒に持ち込んだのである。
「わたしが資料室の端末を操作したことが知られたのね。アクセスの記録が残ることを忘れていたんだわ」
 晃子が言う。
「うちの社にもシンパはいる。裏で組織へ情報を流したり援助を行っているんだ。金が絡んでいる。フィリピンや中国ってのは、今じゃ共栄圏のひとつだからな」
 吉川が言うと、どうしてかもっともらしい。
 CPPは直接表面に出ないが、様々なかたちで日本の企業・団体に接近を謀っていると晃子が説明した。どのような形かは定かでない。公安も一定部分では掌握していて、慰安婦に関係する特定の団体が抗議行動をする場合、機動隊の車両が待機していることもあるという。背後に過激な組織が関与していることを薄々掴んでいるからだろうか。
 
 何本煙草を吸っても一定のところからはみえなかった。
 私は何を聞くべきかを忘れていた。吉川が箱を壊し、羽毛布団を取り出してきた。ドアの向こうで眠るという。
「大丈夫ですよ、あのひとは。見掛けよりも純情なんです」
 奥山が言う。なんだかそんな気もする。携帯電話を晃子に渡し、私は東金に戻ろうと思った。後のことを頼んで階段を降り、BMWに戻ることにした。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.45

 
 
 
 
■ 橋の上から海がみえた。
 それは囲まれていて、何処に続くのかわからなかった。続いているのさえ俄には信じがたい。
 五速に入れっぱなしだとコーナーでふらつく。
 雑誌のこと、銃のこと、葉子との関係のこと。吉川に尋ねることはいくつもあった。何処かでそんなことをしても無駄だと思っている。
 私は晃子の胸の傷を思いだした。
 残るかもしれない、と彼女はひとことも言わなかった。
 どのような姿勢をとらされたのか、部屋には痕跡がなかった。
 晃子が省いた言葉のいくつかもあるのだろう。
 黒い道が続いている。次第に疲労が濃くなる。
 横浜のホテルに葉子は戻ってこなかった。弾は二発使われている。
 細かな雨になった。ワイパーが音を立てる。
 古くなった潮の匂いがして、葉子のいるビルに近づいた。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3072

 
       無駄な日 3.
 
 
 
 
■ 漠然と酒の瓶を眺め、隣の外人の英語を単語だけ理解し、葉巻が三分の一になった頃合に戻る。
 勘定をしようとすると手持ちが足りない。
 端数をカードで、と頼んでみるがもちろん言ってみただけである。
 ツケという訳にもゆかないので、ええと、とサインをする。
 手持ちの金でラーメンを喰って、暫く歩いて、飽きた頃車を拾う。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3073

 
       無駄な日 4.
 
 
 
 
■ 無駄というのは、ほとんど青春に似ている。
 ただ風景を眺めていた頃の記憶でもある。
 女がいることが、かろうじて自分を支えていた時期というものもあった筈だが、流れてしまえばその横顔も中の狭さも、何も視えていなかったことに近い。
 横顔で粉をかけてくる女の腰から下。
 それを征服してやろうと思うまだ残る若さ。
 
 
 

「緑色の坂の道」vol.3074

 
       雨あとお月さん。
 
 
 
 
■ もうじき桜だという。
 世の中はそわそわと、私は漱石の「夢十夜」の書き出しを思い出す。
 
 
 

2005年03月30日

「夜の魚」一部 vol.46

 
        九 鳥の声
 
 
 
 
■ 小さなスタンドをつけ葉子は床にしゃがんでいる。
 片方の膝を抱えている。スタンドを眺めているようだ。私は低いソファに横になった。
 私たちは口をきかなかった。説明するのが億劫だった。
 こんな風に人生をあやまるんだ、といつものように考えた。
 スープをすすり、ひとりで夜を過ごしたい。傍に居る女を眺め、本気でそう思っていることに気付いている。
 いつの間にか私は眠っていた。
 ソファの上で朝を迎えた。薄い毛布がかかっている。髭がじゃりじゃりし、顔は粉を吹いている。そう若くもないのだ。
 
 昼が過ぎ、でよう、と言って外にでた。
 葉子がカマロを運転した。低い排気音が室内に篭る。
 県境の国道を過ぎ、低い屋根の続く工場地帯を抜ける。
 右に曲がって十分程ゆくと海の傍に小さな展望台があった。
 夏以外、誰も昇ることはないのだろう。手すりが白く錆びている。その先は平たい堤防になっていて、テトラポットが囲んでいる。空は黒くなりかかり波の音が大きい。
 空き缶を探したが近くにはなかった。
 私はトカレフを取り出した。コンクリの外れ、そのひび割れたところに照準をあわせる。十メートルない距離で八発撃って七発が外れた。
 銃声は乾いた板を踏み抜いたような音がした。
 こんどは掌が痺れることはなかった。
 黒くなった空の低いところを、スポットを点滅した飛行機が離陸してゆく。向こうが空港なのだろう。一体何ワットあるのか。空に二本の筋ができ、海の方角に向かっている。堤防の外れは葦なのか、背の高い枯草が生えていて風が吹くと忙しく揺れた。
「北沢って男はなんなんだ」
 葉子は答えない。
「横浜で何処にいった」
 葉子の髪が逆立っている。風は海からくる。
「北沢の子を孕んだんだろう」
 葉子が上を向いた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.47

 
 
 
 
■ 私はカマロのエンジンをかけた。アクセルを深く踏む。
 途中、ひとつ前のベンツを直線で抜き、そのまま尻が流れ、ハイビームのまま信号を無視した。羽をつけた四駆のセダンが並んだので幅寄せをした。
 奴はビビり、それ以後追ってこなかった。私は夜の峠をセカンド・レンジで走っていた。どうでもいいのだ。胸の底に、次第に凶暴な気配が溜まってくるのに気付いている。今までは一定の枠の中にいたのだ。
 小高い山をひとつ越えると空港の灯りがみえた。
 国を離れたいと願う男女は、このアジアにどれくらいいるだろう。
 私は芝浦のスタンドにいた髪を束ねた女のことを思い出していた。彼女はどうして日本にきたのだろう。国籍や国境とは何なのだろう。
 差別というのは何処の国にもある。
「ひとは生きてゆくために、海峡を渡る権利があるのだ」
 そんなことを誰だかが言っていた。
 半世紀前の戦争の時、大陸に残された日本人の数は数十万人だと言われる。
 彼等は難民ではないが、国策に則った移民だった。棄民という呼び方すらある。
 
 スタンドでガソリンを入れ、小便をし、カマロを国道沿いのモーテルに入れた。
 昔、国際線のスチュワーデスを成田まで迎えにいったことがある。空港の脇のホテルで食事をし、高速に乗らずにモーテルに入った。
「冗談でしょ、うちの運賃はパンナムより高いのよ」
 と、彼女は真剣に言う。一年半して彼女は成田の寮をでた。三田線の沿線に部屋を借り、自分で料理をつくろうと決めた。
「ねえ、自炊ってさ、どんなもの食べるのかしら」
 そんな電話が偶にかかる。フライトの後、時間はまちまちだ。
 
 モーテルのシャッターは半分しか閉まらなかった。
 カマロは丸い尻を出している。ここで眠り、明日は芝浦にゆこう。私はカツ丼を取った。葉子もそれに倣った。
 別々に風呂に入り、それからビールを抜いた。葉子は有線のチャンネルを廻している。
 ドアーズがかかった。次はディランだ。次第にうんざりした気分が濃くなってくる。
「そろそろ話して貰おうか」
 葉子は黙っている。表情がない。二分経った。煙草を消した。
 葉子の傍へゆき頬を叩いた。
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.48

 
 
 
 
■「北沢という男に昔の女が襲われた」
「細いナイフを使い、二ミリ程の深さで、胸と背中に長い印をつけながら楽しむんだ。その筋の者にしちゃ随分出来がいいじゃないか。女に始末までさせている」
 葉子は眼を開いた。女という言葉に反応したのだ。
「北沢の今の女のひとりなんだろう。よく仕込んである」
 そこで言葉を区切った。ビールをちびりと飲む。
 葉子は煙草に火をつけた。顔色は落とした照明に透けてみえる。
「昨夜は薬を飲んだのか」
 頷いた。
「いつから飲んでいるんだ」
「追われる頃から」
 葉子の声が別のものになった。低い部分が表にでている。
 
「抜けたのは四月。その時妊娠したのよ」
「銃は」
「いくつもあったわ」
「始めは知らなかった。横浜にもいくつか市民運動のようなものがあって、サークルはそこと連絡を取りあっていた。あなたは笑うでしょうけど、サークルはフェミニズムを研究するものなの。そこで従軍慰安婦のことが取り上げられていたのよ」
 私は薄く笑った。お嬢様のお遊びもいいかげんにして貰いたい。
「その運動をやっている人たちの中に、CPPと関係のある人がいたの。CPPは募金を横流ししていた。私達が集めてきたお金を何処かに持ってゆこうとした」
 懐かしい思い出を語るように葉子は言葉を並べていた。それからビールを一口飲み、グラスを置くと、
「あなたは晃子さんを愛しているの」
 と、唐突に尋ねた。丸い瞳をしている。私は答えなかった。
「その事務所は何処にあったんだ」
「今はもうないとおもう。横浜の税関の傍のビルだけど」
「トカレフは何処にあった」
「一度だけ金庫の中を覗いたら、四角い箱に入っていたわ。わたしが持ってきたのは北沢のサーブのトランクから」
 サーブに中国女か。なかなか良い趣味をしている。
「北沢ってのは背広を着るのか」
 不思議そうな顔で葉子はこちらをみる。
「そうね、一度だけみたことがあるわ」
 
 
 

「夜の魚」一部 vol.49

 
 
 
 
■ 私はウィスキーが飲みたかった。
 この頃量が増えている。飲みながら胃薬を噛んだりしている。矛盾しているがそんなものだ。
 フロントに電話をし、リザーブの小さな瓶を注文することにした。国産しかないというのだ。葉子が取りにゆく。
 私はベットに座り、小さなショーツの上からジーンズを履こうとする葉子の後姿を眺めていた。脇のホックのようなものを掴み、腰を二三度振っている。
 有線からマイルスが流れている。「昨日、夢をみたよ」という曲だ。ガーランドのピアノが淡々と響く。
 わかったような気もするが、だからどうしたとも思っている。
 何処かで都合が良すぎるような気がした。
 出来すぎたことにはほとんどの場合嘘が混じっている。しかも、それはもっとも本質的な部分についてである。
 私は、自分の仕事がどう旨く嘘をつくかで評価されるところがあることを思い出した。
 肝心なことを伝えないのは嘘をついたことにはならない、そうした言い方をする同業者もいた。
 トカレフは私の傍にあって葉子は追われている。
 横浜新道のランクルは記事にならなかった。
 調査を頼んだ晃子は襲われ、羽布団の倉庫で眠っている。
 吉川とは何物なのだ。葉子の父も。
 銀色の眼鏡をかけた奥山。あのセドリックは誰のものか。スタンドにいた残留二世の女はどうして鍵を持っていたのだ。
 暴力革命だって。ともかくよして貰いたい。
 私は何かに巻き込まれ、それが何なのかわからないことに苛立っていた。
 その苛立ちには奇妙な静けさが含まれている。
 眠っているだろう晃子のことがすこしだけ気になった。
 
 私たちは寝なかった。
 広く丸いベットの上で始めは離れ、それから背を向けて躯を斜めにした。
 葉子は錠剤を噛み、暫くして私にもたれてくる。
「それを飲むと眠れるのか」
「うん」
「随分、眠れるのか」
「うん。普通のひとが飲むと、お昼過ぎまでぼんやりしているんだって」
 葉子の横顔は幼女のようにみえた。
 ベットの下に敷いてあるビニールが擦れて音を立てる。
 隣なのか、時折女の細い声が聞こえてくる。
 遠くからだと、夜を渡る鳥の声のようにも思えた。
 葉子の寝息を確かめると、私は煙草を消し考えることをやめた。