2005年12月16日
「緑色の坂の道」vol.3571

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■パーソナルアドカード 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
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「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
■「ティファニーで朝食を」の設定が1943年。
そのときホリーは20歳になったばかりだった。
カポーティは作中で暗示するにとどまるが、ホリーは1930年代の不況に家族が離散した後取り残された白人小作農家の子供である。
訳者の龍口氏はそれを「捨て子」と表現しているが、そこに親の意思があったかどうかは定かではない。
弟は軍にゆくしかなく、その後戦死する。
そして姉はと考えてゆくと、なんのことはない。
例えば日本でも昭和初期、冷害のために身売りをせざるを得なかった東北の娘達と随分のところで重なっていることに気がつく。
■ ある晴れた朝、目を覚まし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね。(前掲:58頁)
これは、本作の中で最も有名な台詞だろう。
もちろん、ティファニーの中で食事をすることはできないが、例えば東京にある同名のそこから窓の外を眺めると、不当というべきか都会だからというべきか、オレンジ色の牛飯の看板が目に入ったりする。
私は何年か前、若いカップルでごったがえすそこで憮然としていた覚えがある。
ちょうどクリスマスが近かった。
NYの本店では、確か売り子の人たちはガラスケースをあける権利を持っていず、高額な商品を見せてもらうにはいちいちフロアの責任者が鍵をあけなければならない、という話を読んだ覚えがある。本当かどうか確かめてはいないが、何ティファニーに限ったことではない。
十何年。わしが望むのは、あの娘が金持になっていてくれればいいってことだけだよ。(前掲:16頁)
NYの街角のバーの親父、ジョー・ベルはそういう。
ホリーをアフリカで見かけたという噂を耳にして、二人の男は酒を飲む。
半ばロマンチックな設定なのだが、金持にというところが俄かに具体的だった。
―――――――――――――――――――――――――
■ 随分と長く、この作品に絡んで書いてきた。
当初、軽いお伽話かと思って読んでいたのだが、どうもそうでもなく、魅力的だがとても厄介な妙齢に知り合ったかのような気分もある。
それはNYやアメリカについても同じだった。
先の緑坂に記載した、農業安定局 FSA の記録がアメリカのサイトで公開されている。
私はあまり外部にリンクを貼らないのであるが、この場合は例外として紹介してみることにする。
・「アメリカン・メモリー」
・その中の「Documenting America」
・例えばドロシア・ラングの「MIGRANT MOTHER, NIPOMO,CALIFOLNIA,1936」
・同様に当時のNYを記録したものはこちらである。撮影ウォーカー・エバンス。
ここからまた、いくつもの物語も読めるのだが、別の機会に書くことにしたい。
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摩天楼まで。
■ NYについて触れる時、結局は1920年代から30年代にかけての狂乱と、大恐慌を背景にしなければならないのだろうという感触を私は持っている。
例えばクライスラー・ビルの完成は1930年。
直後にエンパイヤ・ステート・ビルが完成するが、そのときは1929年の「暗黒の木曜日」以来の未曾有の株価低落は既に始まっている。
■ 第一次大戦後、アメリカは好景気の波に乗る。JAZZエイジと呼ばれるそれである。
失業者は減ったものの所得の格差は広がり、全体の42パーセントの年収は1000ドルにも満たなかった。ブルッキンズ研究所の報告によれば、トップにいる1パーセントの更に10分の1が、底辺を形成する42パーセントと同じ収入を得ていた。
当時のNYには貧民窟に暮らすひとびとが200万人いたとされている。
そして1929年の大恐慌がくる。
この恐慌については、別に何度も書かなければならないものだろう。
30代大統領、クーリッジは得意の名言を吐く。
「人々がどんどん職場から放り出されると失業が生じる」
「この国はうまくいっていない」
市場経済主義者というのは、外から物を言うのが得意であった。
■ 一方、1930年代にはオクラホマで大量に難民が発生していた。
小作農は土地を奪われ、25万、30万人とカリフォルニアに流れこんでゆく。スタインベックの「The Grapes of Wrath」にはこの間の事情が克明に描かれている。
小作農の中には、第一次大戦に従軍した兵士たちも多かった。
彼らは「オーキー」と呼ばれたが、当時の白人小作農たちの生活を、ニューディール政策の下、農業安定局(FSA。1937年に再移民局より改名)に雇われた写真家たちは膨大な記録に残している。
FSA、ストライカーの総括の下、ウォーカー・エバンス、ドロシア・ラングなど、5人の写真家が雇われた。後に画家となる、ベン・シャーンなどの名もある。
アメリカ南西部の農民達の窮状調査。
この活動はニューディール政策の宣伝の意味が強かったのだが、写真史の世界では「アメリカン・ドキュメント」と呼ばれ、20世紀初頭、ルイス・ハインなどによって始まった社会的ドキュメンタリーの延長線上にあった。
FSAの活動は、第二次大戦最中まで続けられたが、のべのネガ枚数は20~27万枚に及ぶという。
それはドキュメントというにとどまらず、ある種アメリカのイコンになっていた。
最も有名なそれは、ドロシア・ラングの「MIGRANT MOTHER, NIPOMO,CALIFOLNIA,1936」であるかも知れない。
が、これは誰が撮ったものだろう。
金網に手をかけるひとりの少女の写真があって、彼女は笑っていたりもする。
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12月になって。
■ このところ会合が続き、薄い疲れが溜まっている。
先週までまだ青かったこちら側にある銀杏が急に色づき、もうじきばらばらと銀杏を落とす音が響くだろう。隣接したところにある教会で、今日も誰かが挙式をあげていた。
さてNYはといえば、随分寒くなっているに違いない。
■「ティファニーで朝食を」の中で、カポーティはヘミングウェイの名前を出していた。
いわゆる第一次大戦後の「ロスト・ジェネレーション」を意識し、ある面ではそれを継承しているともいえるが、元々映画のための作品でもあったから、半分はからかっているようなところもある。
文学史では有名な話だが「失われた世代」という呼び方は、ガートルード・スタインという女性が命名したことになっている。
彼女は広い意味でのパトロンヌで、パリに遊ぶ作家達のサロンの中心・女王的存在でもあった。
「You are all a lost generation.」
パリにいたヘミングウェイ達に向かって、「あなたたちはみんな、失われた世代なのよ」と言ったことになっているのだが、「陽はまた昇る」(1926)の序文にはそう記載されている。
この場合の lost という言葉には、「途方にくれた、どうしていいか分からない」という意味があり、今英語でそれを口にしてみると、案外すんなり入ってくるようなところもあって心地よい。が、半分はいい気なものだという気持もある。
■「失われた世代」について書くと長くなるので避けたいものだが、結局彼らは「自由」や「民主主義」「栄光」や「犠牲」といった抽象的な愛国心や概念、いわゆる人道主義というものが、第一次大戦という総力戦でずたずたに引き裂かれてしまったという挫折感をもとにしている。
例えば1916年、ドイツ軍がヴェルダン突破をくわだてた際には、セーヌ川沿いのフランス=イギリス連合国側は、数キロ前進のために死者60万人を出した。
60万の死者というのは、にわかに信じられない数だが、全くレマルクの書く通りの世界が広がる。いわゆる「シカゴの屠場さながら」(武器よさらば)だった。
当初アメリカでは、この戦争は不人気だった。
しかし「防諜法」などの成立を経て、国家的規模で戦争協力へのプロバガンダが繰り広げられてゆく。アメリカ防衛協会の設立。徴兵制の採択。
そのような中、ドス=パソスやカミングスら、若い作家・詩人志望者たちが競って従軍してゆく。当時、「野戦衛生隊」という組織があり、ハーバードやイェール、ブリンストン大学の卒業生の多くが「紳士志願兵」としてフランス軍に従軍した。
これは正式な徴兵制を逃れる手でもあったのだが、例えばヘミングウェイは1918年、アメリカ赤十字野戦病院の輸送車運転手としてイタリヤに渡る。
フィッツジェラルドも米軍の少尉任官試験を受けて三ヶ月の訓練を経るが、彼の場合は従軍を思いとどまっている。
戦争の後、ドルの価値は高まる。20年代、アメリカは空前の好景気を迎えた。
その金でパリに遊んでいたヘミングェイ達は、自分達が信じていたピューリタン的人道主義を疑うところから作家活動を始めてゆく。
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月の河。
■ 美人は10年しかもたない。
ということを誰かが書いていた。
エリオットの詩集でもめくろうかという気にもなる。
■ オードリー・ヘプバーンは1993年1月20日午後7時、癌のために亡くなった。
晩年はユニセフの国際親善大使として、アフリカ奥地で精力的に活動し、その名声を第三世界の飢餓の救済、その広報活動に費やした。
とは言っても、いわゆる南北問題を社会・政治的な立場から語った訳ではない。
存命の頃の映画雑誌などを見ると、オードリーは貴族の血を引いていることが強調されている。「ローマの休日」で一躍世界にデビューした彼女には、そういう物語が必要だったのかも知れない。
が、オードリーの父は大戦中、黒シャツを着てナチズムに傾斜していた。投獄もされる。母親も親派だったという記録もあり、戦後そのことは永くタブーとされていた。
必ずしも精神的に恵まれた少女時代ではなかったというのが一般的な見方である。
第二次大戦から僅か8年。1953年に制作された同作は、監督のウィリアム・ワイラーをして「これからは胸のない女性の時代になる」と言わしめたが、スクリーンの上ではご存知の通り、一部でしかそれは実現しなかった。
「麗しのサブリナ」で共演した、ウィリアム・ホールデンとの恋。
初めての結婚は54年、俳優メル・ファーラーと。スイスでの挙式は有名である。
メル・ファーラーはある種の才人で、脚本も書けば演出もする。オードリーとは四回目の結婚だったが、その後もカトリーヌ・ドヌーブなどと浮名を流した。
流産と何度かの恋。出産と育児。
■ オードリーの子供時代の写真を眺めていると、理不尽なことだが私は、「アンネフランク」を思い出してしまった。
つまり、戦争の匂いが薄く漂うのである。
「ティファニーで朝食を」の主人公ホリーが、NYのアパートの階段で歌う。
演じるオードリー。
かつてバレーをやっていたというその脚は、今冷静に眺めるとやや膝が目立ち、ふりむいた時の首筋は、32歳という年齢しては筋がはっきりしている。
映画は原作に比べお伽話に翻訳されてもいたが、やはり何処かしら苦いものは残っている。
この小説は、誤解を恐れずに言えば一種の「花柳小説」ではなかろうか。
我が国では荷風や川端康成が描いたそれ。
あるいは「花影」などで大岡昇平さんがその系譜を継いだようなものに近い。
芸子は女給になり、そしてホステスと呼ばれるようになったが、NYではまた別のかたちを取っている。
2005年12月05日
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ドライベルモット。
■ NYの街角にはいくつものバーがあって、そこには一癖もふた癖もある親父がいるという。
私は馴染んだことはないが、ヤンキーズの試合ならテレビで見た。
彼らは雇われている訳ではなく、結構勝手にやっているものだから、その歳まで独身だったりすることもある。パリ解放と等しく、離婚していたのかも知れないが。
1956年ジョー・ベルは67歳だった。
ホリーがアフリカ、東アングリアにいたのかも知れないという噂を聞き、ポールを呼び出して作った酒が「ホワイト・エンジェル」である。パーティパンチとは異なる。
ジンとウォッカだけでつくるのか、それでどうしろというんだ。
■ どうもしない。
ただ酔えばいいのだという気分の時、マティニに入っているオリーブが邪魔になることが時々ある。
ジャック・レモン主演の「アパートの鍵貸します」の中で、時間の経過をはかるのに、オリーブを刺してあった楊子を並べる場面があって、つまりはまあ、泥酔ですな。
今回「ティファニーで朝食を」を再読すると、ところどころに酒と煙草、多くは葉巻だが、が効果的に使われていることに気がついた。
マティニを三杯飲んで随分と千鳥足になっている場面。マンハッタン。軽くバーボンを注いでいるところ。お祝いにはシャンパンで。
仮にシャンパンが余ったら、葡萄酒のかわりに肉料理に使うといい。クリスマスにあける、安手のものでは味が出ない。消えてなくなりそうなものほど、無駄があってもいいのだろう。
映画の中で「私」こと売れない小説家ポールは、妙齢本格派の燕のような設定になっている。何で食べているのか、そのリアリティを出そうとしたからだろう。
ポールを演じたジョージ・ペパードは当時33歳。
「ローマの休日」のグレゴリー・ペック程の背丈と見た目の知的さには欠けるが、笑うといかにもハリウッド伝統の色男として、オードリーのエスコート役には相応しかった。
彼もアクターズ・スタジオで演技の勉強をしている。ロマンスからハードボイルドまで、演技の幅は広い。
服装の好みもよかった。
例えば原作で、ポールがブルックリン近くで地下鉄に乗っているという記述がある。
就職の面接に出向き、それがはかばかしくなく、また43年というのは第二次大戦の最中であるから、ふらふらしている男には徴兵の声もかかっていたのだ。
プレスの効いたヘリンボーンなど着れる訳はないのだが、そこは映画の世界であろうか。まずは絵にならなければ仕方がないのだ。
■ ここで緑坂妙齢読者のために薀蓄をすこし。
マティニとは、いわゆるカクテルの中の定番と言われるもので、「マルチニ」「マティーニ」「マテニ」など、いくつもの発音がある。
基本はジンとドライベルモット。
バーテンダーというのは、客の顔をみて作るものであるから、放っておくとジンはその店で何時も使っているものになる。ベルモットも同じだ。
貴女はそういうことはないと信じているものの、甘いそれが次第にまとわりつくように感じた場合、まずはベルモットの銘柄を変えてもらう。
どれ、と商品名を口にするのは品がないので、すこし甘くないものなどと言う。
それで、イタリアのものではない緑色の瓶が出てきたらその店はとりあえずである。
ジンは何にしますか、などと聴かれても、レディは答えてはいけない。
まして「ジンの濃縮くれ」などと言ってはいけないのである。
2005年12月04日

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融ける雪のように。
■ と、ここまで書いて、私はすこしうんざりしているようだった。
十二月だからからも知れない。
もっと軽く触れておけばよかった、という気もしないでもない。
東京は銀杏が色づいている。
神宮の辺りには、まだ、日のある時間に近寄ってはいなかった。
外苑西通りの外れ、プラチナ通りと呼ばれるその辺りを広尾方面に下った。趣味のいい名前ではない。午後の日差しは金色であり、銀杏の背が思ったよりも高いことに気がつく。ビルの影になっている樹だけが、まだ緑色のままだったりした。
一本違うだけなのにこうして差がつくのだ。と思いながら、車のガラスは汚れている。
■ こうなったのも、ただ悲しみが原因なんですよ。
と、ブラジル人の外交官、ホセは言う。ホリーは彼と同居しそのうちに妊娠する。
小説で「私」ことポールとホリーは、決して恋人同士にはならなかった。寝なかったのである。
一般に、今付き合っている男のことをいちいち報告してくる女性というのはいるものだ。過去の男の数をホリーのように正直に告げる。だがそれも、数え方次第である。
聞いている男友達は、大抵、彼女に一定の部分で振り回される。
それを半分は楽しんでいるようなところもあって、手のかかる猫の相手をしているような気分にもなる。
何故一歩を踏み出さないのかと自問しても、はっきりした答えは出てこない。
まだ自分が何者でもないとき、つまりはやや長い青春の終わりなどにそうした女友達は際立つ。
ホリーは自らの性格から事件に巻き込まれる。新聞沙汰になり取調べを受ける。
そして遊園地で落馬し、流産してしまう。
体面を気にするホセはブラジルに去っていった。実は本国に家族もあったのだ。
NYには雑多な人種が住んでいるが、アメリカ社会におけるブラジルなど中南米の人々の位置づけは微妙であり、場合によると黒人よりも屈折した立場にあるものだという指摘を、80年代にNYに住んでいた大学の教員が書いていた。
■ 女は口紅をさしてからでないと、こういう手紙は読まないことにしているのよ。
(前掲:139頁)
ホセからの手紙を預かってきたポールの前で、ホリーは強がりをいう。
それから拳を口の中に入れて泣くのをこらえる。
女性の会話の旨い作家というのがいて、その理不尽さ、感情の脈絡のなさ、可愛さ、愚かさなどを端的に書き留める。
ヘミングウェイやフィッツジェラルド、あるいはチャンドラーなどもそうだろうか。
今いくつか覚えている台詞を書き写そうとも思ったが、それも野暮なことだろう。
車はスパニッシュ・ハーレムの路傍にとまった(略)。歩道には果物の皮だの新聞紙の屑などがいっぱい散らかっていて、それが風に舞っていた。雨はやんだが、風はまだ強く、ところどころ雲の切れ目から青空がのぞいていた。
(前掲:152頁)
この場面の短い風景描写は美しい。
小説の終わり近く、ホリーが飼っていた猫を放そうとする。
映画ではこの後、ホリーとポールは雨の中でキスをするのだが、小説はよりリアルに何事も起こらない。彼女はひとりブラジルへ旅立つ。
それから10数年を経て、こんどはアフリカで彼女をみかけたという噂を耳にする。
2005年12月02日

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透明な子。
■ カポーティは1924年に南部の町、ニューオリンズに生まれた。
「サンダーバード号で見た南部」という作中の書名はそんなところから来ているのかも知れないが、NYでは一時ある種の遊び人として浮名を流す。
本作は、カポーティが交際したこともあるマリリン・モンローをイメージして書かれたものだったという。マリリンも若くして一度目の結婚をしている。
モンローといえば「バス停留所」などにもあるように、流れ者の気のいい踊り子という役柄がとても似合う。
昔「鬼怒川マリリン」というストリッパーが日本にもいたという嘘もあるが、そのような伝説や亜流が生まれてもおかしくはない。日劇マリリン。北千住マリリン。
遺作「荒馬と女」なども、そうした役柄だった。
それらの個性は、手繰ってゆくとかなりの部分が彼女の生育歴から来ているものだが、ハリウッドやNYというのはアメリカの中でも特別な場所、ある意味でアメリカではないのだという指摘もあって、半ばはその通りかも知れないと私も思う。
■「ティファニーで朝食を」の原作にはこんな場面がある。
ホリーと作家の卵ポールが南京町、つまりチャイナタウンからブルックリン・ブリッジをぶらぶらと歩き、夜景を眺めながらホリーが言う。
今から何年も何年もたったあと、あの船のどれかがきっとあたし、いいえあたしとあたしと九人のブラジル人の子供を、またこのニューヨークへつれて帰ってくれるとおもうわ(略)あたしニューヨークが大好きなのよ。樹だって通りだって家だって、何ひとつほんとにあたしのものというわけじゃないけど、でもやっぱり、なんとなくニューヨークが自分のもののような気がするわ。だってこの街は、ぴったりわたしの性に合ってるんだもん(前掲:120頁)。
NYが自分のもののような気がする。
という台詞は、この街の特質を正確にあらわしている。
夢と希望、それからなんだろうか。
ふと思い出すと、例えばこの会話は、銀座のデパートの屋上で、浅岡ルリ子が裕次郎に語ってきかせているかのような印象も受ける。昭和30年代初めの日活映画。
ポールは裕次郎ほどヒーローではないので、脇を固めていた役者が相応しいのかも知れないが、すぐに名前が思い出せない。
推測であるが、当時の日活の監督も脚本家も、おそらくは本作に眼を通していたに違いない。ホリーという女性の造形は、戦後の一時期のある層や事象と重なっているかのように私には思えている。
■ このとき、ホリーはブラジル人の外交官との結婚を夢見ていた。
弟が戦死した後、彼女は半分壊れてしまったのだ。
素肌にレインコートをひっかけたまま、ドラックストアに買い物にいったりもする。
不安を隠しながら、つとめて明るく話しているときの若い娘の声。
この結婚は実らないのであるが、ホリーはブラジル人の彼のために自分が処女であればほんとうによかったのにと、ポールに言う。
そのときは本当にそう思っているのである。

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野生の馬。
■ 冬になると、ストーンズが聴きたくなる。
新しいものではなく、いくつかのバラードの入ったそれで、低く流しながら表参道の交差点手前で信号を待っている。街はクリスマスの飾り付けで赤く、そして青い。
「WILD HORSES」という曲があり、イントロだけで十分な気がしていた。
ストーンズの場合、イントロがほぼ全てというところもある。
■「ティファニーで朝食を」でよく引かれるのが、「決して野生の動物をかわいがってはいけないわ」という台詞である。
新潮文庫版の背表紙にはこんな風に書いてある。
「名刺の住所は『旅行中』、かわいがっている捨て猫には名前をつけず、ハリウッドやニューヨークが与えるシンデレラの幸福をいともあっさりと拒絶して、ただ自由に野鳥のように飛翔する女ホリー・ゴライトリー。原始の自由性を求める表題作(以下略)」
(1968年版:54刷より)
映画の影響か、女性読者を意識した紹介文である。
ホリーを高級コールガールとは決して呼ばず、「プレイガール」などと記している映画案内なども多い。訳者の龍口氏も解説の中でわざわざ一節をそうしたホリーへの評価について割いていた。
■ ホリーは14歳の時に結婚をした。
両親が死んで、弟とともに彷徨っていたところをテキサスの獣医に拾われたのである。 納屋に卵を盗みに入ったときは、あばら骨が指で数えられるほどだった。
いやまったく、そのときの彼女は山家の娘とも渡り者のオーキーともなんとも見当がつかなかったでがすよ。(前掲:97頁)
「オーキー」とはオクラホマ出身の移動農場労働者である。1930年代に発生した砂漠化現象で土地を追われ難民となる。その数250万人。
スタインベック原作の「怒りの葡萄」は、オーキーを描いたものである。40年にジョン・フォードによって映画化された。ヘンリー・フォンダ主演。
ゴライトリー獣医は50歳を超えた男で数人の子供がいる。
ホリーの面倒を見て恋に落ち、二度目の結婚を申し込む。ホリーは妻になった。
けれども、回復してからのホリーは次第に外の世界を夢見るようになってゆく。
テキサスを飛び出してからのホリーは男たちの間を点々とする。ハリウッドで女優になりかけたこともある。NYにいるときはまだ20歳になったばかりであった。
野生の動物はいくらかわいがってやってもだめね。かわいがってやればやるほど、だんだん丈夫になり、そのあげく、どうにかひとり歩きができるようになると、森の中に逃げ込むとか、樹の枝へ飛んでいってしまおうとするのよ。(前掲:105頁)
映画主演当時32歳だったオードリー・ヘプバーンが、20歳の役をこなしていたのだと知るといささか不思議である。
夫をテキサスに送り返す、大陸横断の長距離バス、グレイハウンドの停留所でのシーンを私は微かに覚えている。
オードリーは確か黒っぽいコートを着てあたかも未亡人であるかのように涙をこぼした。
NYでどんなに派手な暮らしをしていても、根はテキサスの片田舎にあって、そこを弟とともに彷徨っていたというある種育ちの不幸さを、ヘプバーンは泣く寸前の口元にあらわすことを忘れなかった。
そして弟がこの戦争で戦死する。

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サンダーバード号で見た南部。
私はいつでも自分の住んだことのある場所-つまり、そういう家とか、その家の住所とかに心ひかれるのである。たとえば、東七十丁目にある褐色砂岩でつくった建物であるが、そこに私はこんどの戦争の初めの頃、ニューヨークにおける最初の私の部屋を持った。(「ティファニーで朝食を」新潮社文庫版:龍口直太郎訳:9頁)
■ すぐれた小説というのは、その書き出しで決まる。
というよりも、ほんの数行で独特の世界に引きずりこんでしまうものである。
覚えているのはいくつもあるが、例えばチャンドラーの「ヌーン街で拾ったもの」という中篇の出だしは確かこうだった。
「ヌーン街には黒人だけが住んでいるのではなかった。白人もまだ住んでいた」
微細なところで違うかも知れないが、ほぼそういうことにしておく。
例えばNYのハーレムが、1658年に作られた人口85万人の白人のための街、都市だったものが、次第に黒人やスパニッシュが集まって住むようになり、街の性質と外観が変わってゆくといったことを踏まえて読むと、成程そうしたことかと雰囲気が伝わる。
東京もそうだが、都市というのは動いているものだからだ。
■ 東七十丁目というと、イースト70。真ん中にセントラル・パークを挟んでのアップ・タウンである。近くにはホイットニーやフリック美術館がある。マディソン街を抜けてゆけば、ティファニーまではそう遠くもない。
原作でも、この辺りは高級アパートとして描かれている。現実にはそうでなくても、NYでは所番地がある意味を持つのだった。
ブロックを下ってゆくに従って、あるいは通りを一本左右に逸れただけで、歩いているひとたちの肌の色と服装が異なる。場合によっては言葉もそうだった。
映画の冒頭で、ヘプバーンはNYのタクシー、イエローキャブから降り立ってくる。
早朝だ。原作の小説にこのシーンはない。
当時のイエロー・キャブは確かチェッカーというメーカーの4気筒かV8だった。
ロバート・デ・ニーロの映画「タクシー・ドライバー」にも使われていた、やや背の高い弁当箱のようなそれである。チェッカーは82年頃生産中止になる。
最近はオデッセイも走っているが、多くはフォードで、OHVではあるがすこし抜けたリアサスペンションのまま、ブァンブァンとハドソン川沿いのミラー・ハイウェイなどを飛ばしていた。
低速から腰が持ってゆかれるような加速は、OHVだからなのかとも思う。
運転手は大抵訛があり、ダッシュボードにコーランが乗っていたことも何度もあった。
■ 原作でホリーの本棚には、「サンダーバード号で見た南部」、「ブラジルの脇道」、「ラテン・アメリカの政治精神」などの本が並んでいる。
字面を追ってゆくと、カポーティが元々詩的な散文を得意としていたことが伺われる。 つまり、いいセンスなのだ。
サンダーバード号というのは、フォード・サンダーバードである。
小説の舞台になっている1943年にその車があったかというと、実は存在しておらず、初代が登場したのが1955年。コルベット・スティングレイに対抗して出された2シーターの豪華な伊達車だった。エンジンは430までオプションにある。
小説が発表されたのが1958年。
この辺りは、作者カポーティの願望かジョークということになる。都会派の作家は時々こういうことをして遊ぶ。
7000CCを超す豪華なオープンのクーペでアメリカ南部を旅する、という設定なのだろう。
当時の南部がどういうところだったかというと、髪を伸ばしてオートバイで南部を旅していただけで地元住人に撃ち殺される、「イージー・ライダー」は68年の作品であった。ニックという弁護士を演じた、ジャック・ニコルソンにはまだ毛があった。
さらに、「ラテン・アメリカの政治精神」などになると、58年というのは冷戦真っ盛りキューバ危機の数年前であるから、酒の席でのジョークに近い。
作中ホリーが漠然とした不安をあらわすのに「あのいやな赤」という言葉を何度も使っていることも微妙である。
この小説のテーマのひとつに、「野生動物のような自由」というものがあるが、その対比としての全体主義の赤色とだけ捉えてしまうのは、果たしてどうか、やや陰影が足りないような気もしていた。

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2005年11月30日
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ホリー・ゴライトリー、トラベリング。
■「ティファニーで朝食を」の映画が封切られた1961年は、J・Fケネディが大統領に就任した年である。
映画にも小説にも直接関係はないが、どんな時代だったをすこし書いてみる。
61年4月、CIAが組織した亡命武装ゲリラ1400名がキューバのビックス湾に上陸。
首都ハバナから90マイルのところにある入江である。
そこからゲリラ戦を行いカストロ政権を転覆しようとするが、失敗。
三日で鎮圧される。
当時ケネディは、キューバに侵攻する計画をマスコミの協力の下、国民には知らせていなかった。
東西冷戦最大の危機、全面核戦争の手前までいった、いわゆる「キューバ危機」は翌62年10月。このビックス湾事件は、その前哨戦としての位置づけになる。
■ 話は飛ぶが、ヒッチコックの「北北西へ進路を取れ」も、冷戦構造を前提とした映画であった。ヒッチコックにはダブル・スパイのブロンド美人という設定が多い。
しかも敵方の情婦であるという、いささか屈折した役柄が与えられ、大人というのは一筋縄ではいかないと私などは思っていたが、後から考えるにこれは、ヒッチコック特有の資質、ないしは嗜虐であるともいえる。
今微妙に思い出すのは、個室付の寝台特急で、ケーリー・グラントがヒロイン、エバァ・マリー・セイントの鞄を点検する。
すると無駄毛の手入れ用の小さな剃刀が出てきて、グラントがふむふむと唸る。
場面が展開して、翌朝グラントがそれで髭を剃っているという按配。
駅の洗面台で、周りの男たちに白い目で見られるというところがあった。
ユーモアと言えばそうなのだが、どうも底意地の悪いところもある。
■ ところで、映画の中のオードリーは、ジヴァンシーがデザインした衣装を効果的に着こなす。
ブロードウェイ五番街にあるテイファニー本店の前で、クロワッサンを朝食にするシーンでは、長い手袋と大きめのサングラス。そして黒いイブニングドレスである。
髪はアップに上げている。
確か冒頭のシーンなのだが、この意表をついた洒脱さは、さすがに「ピンク・パンサー」で手馴れた感触であり、NYの朝の気配を微妙に映し出していた。
意外に思われるかも知れないが、NYというのは静かな街である。
ブロードウェイの喧騒はすさまじいものがあるけれども、そこからブロックをひとつ隔てると、誰もいない空間があったりする。そこに立っていると、ふっと背中を撫でられたような気がすることがあって、振り向いても誰もいない。
明け方のブロードウェイを歩いたことがあるが、これで薄い霧が出ていると、ほぼこの映画の通りであった。
- BREAKFAST AT TIFFANY'S -
トイレで50ドル。
■「ティファニーで朝食を」のヒロイン、ホリーは高級娼婦である。
マリリン・モンローのエージェントが当初その役を断ったのは、そのせいであるという話もある。
確か当時のモンローは、今までのセクシーな役柄から脱皮しようと暗中模索の段階だったと記憶している。正確な年数はすぐ出てこないが、アクターズ・スタジオで演技の勉強を始めたりしていた。
■ 数年前だったろうか。マリリンの始めの頃の夫が撮影したという写真の版権をどうにかしたいという話が私のところにきた。
浮世の付き合い、麻布界隈の事務所に出向き話を聞いた。
結局、エージェントのまたエージェント、その営業の打診という意味合いが強かったのだが、その後で広尾界隈を歩く。
マリリンには女性のファンが少ないよね。比べてヘプバーンは、どういう訳か女性に好かれる。
そんな話を、国際交流基金とキャリア組の官舎がある路地を歩きながらした覚えがある。
白金にできるだろう高層マンション、その工事中の壁面にも若い日のヘプバーンの写真が使われていて、「麗しのサブリナ」の頃のスチールだっただろうか。
眉毛の形が濃く、すこし太めにカットされているものだった。
■ アメリカのトイレはチップ制のところがあり、女の子がゆこうとすると同伴の紳士は小銭を渡す。
そのくらいのお金だったら、お化粧室に行けばできるからね。ちょっとシックな殿方だったら、50ドル札くらい出してくれるわ。それにわたしはいつもタクシー代も請求するのよ。それであとの50ドルができるし(前掲:40頁)。
ホリーはそういう。
映画の中でもそんな台詞があったが、ジヴァンシーの黒いドレスに紛れ、あるいは長いシガレットパイプの優雅さに惑わされ、意味するものを考える暇もなくお伽話に飲み込まれてゆく。
ヘプバーンのすこし頬骨の張った、どちらかといえばセクシーさとは無縁のストイックな体躯が、老人の世話をして対価を貰うなどということの具体性を忘れさせてしまう。
監督はブレーク・エドワーズ。
「ピンク・パンサー」のシリーズを手かけた、都会的な感性の職人である。
2005年11月29日
- BREAKFAST AT TIFFANY'S -
太陽に暖められた石。
■ カポーティの「ティファニーで朝食を」(新潮文庫版:龍口直太郎訳)を、ぱらぱらと読み返している。
確か17くらいの頃、サガンか何かと並んで一度読み、それ以来忘れていた。
大人ぶっていたとしても、思春期の少年にはまだ早かったのかも知れない。
映画を観たのは劇場ではなくて、深夜のテレビだった。
なすすべもなく週末を送る、20代後半の夜だったような覚えもある。
1943年10月のあの月曜日。鳥の軽々と舞うにも似た美しい日。皮切りに、私たちはジョー・ベルの店でマンハッタンを飲んだ。それからジョー・ベルは私の幸運を聞かされるとシャンパンをおごってくれた(前掲:78頁)。
■ こう書き写していても、リズムがあり分かりやすく、情景が浮かぶかのような文章である。つまり、いい訳だということなのだが、これは主人公の売れない作家の原稿が、始めて活字になった際、ホリーとお祝いのデートをする場面である。
映画は、ホリー・ゴライトリーに、オードリー・ヘップバーン。
小説の「私」こと作家の卵、ポール・バージャックに、ジョージ・ペパード。
1961年、オードリーが32歳の時の作品であった。
■ 実をいうと、ここで映画を軸に語るべきか原作の小説にすべきか、私は少し迷うところがある。というのは、カポーティの原作は結構ハードで、苦いものを含んでもいるからだった。
通常の仕事であると、ここで映画のビデオやDVDなどを入手し目を通すものであろう。
なぜだか分からないが、今回それをする気にはなれず、漠然とした記憶だけで書こうと思っている。
つまりそれは、この作品がある種の古典になっているからかも知れず、オードリーも既にこの世の人ではない。
原作の設定は第二次大戦の最中。
映画自体も、当初マリリン・モンローにホリーの役がきて、モンローのエージェントがそれを断ったという経緯があるくらいだから、指折るとほぼ半世紀近く前の、そしてNYが舞台なのである。
2005年09月13日
pride.
■「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」vol.28
は、ある意味で最も緑坂的な作品である。
読売新聞社 yominet に掲載した際、かなりの評判をとった。
評判とはつまり、この作品がいいという声が思わぬところから聞こえてきた、という意味である。
かつて、アゴスト「アート&デザイン」という質の高いデザイン誌があった。
その012号に「甘く苦い島」は特集されている。本作はその中でもやや大きく使われていた。
表紙が横尾忠則さん。その次が松永真さん。
その暫く後だったから、今考えるともっと喜んでいい話で、どうもその辺り私は鈍いところがあるようだった。
■ HDDの中から、かつて書いた青瓶の一部を転載してみる。
昨夜遅く、若いものから電話がかかってきた。
PDFを見たという。私はくたばって最後の一杯を嘗めるべきか逡巡していたところだった。
「どうしてこれが、pride なんですか」
「どうしてって言われても、そういうことなんだよ」
NYの、これはどこだったろうか。地名を忘れている。
向こうからひとりの熟年が歩いてきて、彼は帽子を被っていた。
私はほとんどノーファインダーでたった一枚だけを撮った。
この時はFD28ミリだったと思う。結果的に壁そのものにピントが合っている。
(青瓶 2213 99年)
■ 向こう側に若い男の顔がある。洋服のモデルだろうか。
手前を歩く老人は、ややうつむきながら歩いている。
彼を撮るとき、車道に飛びのいて撮ったことを覚えている。クラクションを鳴らされた。
私は、どんな風に年を取るのか。
アフター・ザ・ブラック・マンディ。
履歴書をグロスで書いた 4.
■ つまり金融恐慌である。
その後、アメリカがどのようにしたのかには異説あるが、いずれにしろ不祥事の責任者はほとんど処分されたという。
それが原動力だったのかどうか、99年当時、アメリカはIT関係の好景気で半ば得意の絶頂にあった。
■「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」vol.26
この画像は、NY、グランド・セントラル駅構内である。
MoMaの展示作のようなモダン・アートの壁面の前に、男が二人立ってぼそぼそと話している。画面を暗く焼いているが、一人は黒人である。アフリカ系アメリカ人、と呼ぶべきだという主張もある。
彼らは、仕立てのいいスーツを着ていた。
■ 私はエスカレーターを降りてくるところだった。
なにか呼ぶようなものがあり、手に持っているMFのカメラで一枚を押す。
露出もピントも実はマニュアルであって、下がってくる通路の上から反射的にシャッターを切った。