2005年12月12日

「緑色の坂の道」vol.3559

 
      - BREAKFAST AT TIFFANY'S -
       「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
 
 
 
■「ティファニーで朝食を」の設定が1943年。
 そのときホリーは20歳になったばかりだった。
 カポーティは作中で暗示するにとどまるが、ホリーは1930年代の不況に家族が離散した後取り残された白人小作農家の子供である。
 訳者の龍口氏はそれを「捨て子」と表現しているが、そこに親の意思があったかどうかは定かではない。
 弟は軍にゆくしかなく、その後戦死する。
 そして姉はと考えてゆくと、なんのことはない。
 例えば日本でも昭和初期、冷害のために身売りをせざるを得なかった東北の娘達と随分のところで重なっていることに気がつく。
 
 
 
■ ある晴れた朝、目を覚まし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね。(前掲:58頁)
 
 これは、本作の中で最も有名な台詞だろう。
 もちろん、ティファニーの中で食事をすることはできないが、例えば東京にある同名のそこから窓の外を眺めると、不当というべきか都会だからというべきか、オレンジ色の牛飯の看板が目に入ったりする。
 私は何年か前、若いカップルでごったがえすそこで憮然としていた覚えがある。
 ちょうどクリスマスが近かった。
 NYの本店では、確か売り子の人たちはガラスケースをあける権利を持っていず、高額な商品を見せてもらうにはいちいちフロアの責任者が鍵をあけなければならない、という話を読んだ覚えがある。本当かどうか確かめてはいないが、何ティファニーに限ったことではない。
 
 十何年。わしが望むのは、あの娘が金持になっていてくれればいいってことだけだよ。(前掲:16頁)
 
 NYの街角のバーの親父、ジョー・ベルはそういう。
 ホリーをアフリカで見かけたという噂を耳にして、二人の男は酒を飲む。
 半ばロマンチックな設定なのだが、金持にというところが俄かに具体的だった。
 
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■ 随分と長く、この作品に絡んで書いてきた。
 当初、軽いお伽話かと思って読んでいたのだが、どうもそうでもなく、魅力的だがとても厄介な妙齢に知り合ったかのような気分もある。
 それはNYやアメリカについても同じだった。
 先の緑坂に記載した、農業安定局 FSA の記録がアメリカのサイトで公開されている。
 私はあまり外部にリンクを貼らないのであるが、この場合は例外として紹介してみることにする。
 
「アメリカン・メモリー」
・その中の「Documenting America」
・例えばドロシア・ラングの「MIGRANT MOTHER, NIPOMO,CALIFOLNIA,1936」
同様に当時のNYを記録したものはこちらである。撮影ウォーカー・エバンス。
 
 ここからまた、いくつもの物語も読めるのだが、別の機会に書くことにしたい。