2005年12月12日

「緑色の坂の道」vol.3558

 
      - BREAKFAST AT TIFFANY'S -
       摩天楼まで。
 
 
 
■ NYについて触れる時、結局は1920年代から30年代にかけての狂乱と、大恐慌を背景にしなければならないのだろうという感触を私は持っている。
 例えばクライスラー・ビルの完成は1930年。
 直後にエンパイヤ・ステート・ビルが完成するが、そのときは1929年の「暗黒の木曜日」以来の未曾有の株価低落は既に始まっている。
 
 
 
■ 第一次大戦後、アメリカは好景気の波に乗る。JAZZエイジと呼ばれるそれである。
 失業者は減ったものの所得の格差は広がり、全体の42パーセントの年収は1000ドルにも満たなかった。ブルッキンズ研究所の報告によれば、トップにいる1パーセントの更に10分の1が、底辺を形成する42パーセントと同じ収入を得ていた。
 当時のNYには貧民窟に暮らすひとびとが200万人いたとされている。
 そして1929年の大恐慌がくる。
 この恐慌については、別に何度も書かなければならないものだろう。
 30代大統領、クーリッジは得意の名言を吐く。
「人々がどんどん職場から放り出されると失業が生じる」
「この国はうまくいっていない」
 市場経済主義者というのは、外から物を言うのが得意であった。
 
 
 
■ 一方、1930年代にはオクラホマで大量に難民が発生していた。
 小作農は土地を奪われ、25万、30万人とカリフォルニアに流れこんでゆく。スタインベックの「The Grapes of Wrath」にはこの間の事情が克明に描かれている。
 小作農の中には、第一次大戦に従軍した兵士たちも多かった。
 彼らは「オーキー」と呼ばれたが、当時の白人小作農たちの生活を、ニューディール政策の下、農業安定局(FSA。1937年に再移民局より改名)に雇われた写真家たちは膨大な記録に残している。
 FSA、ストライカーの総括の下、ウォーカー・エバンス、ドロシア・ラングなど、5人の写真家が雇われた。後に画家となる、ベン・シャーンなどの名もある。
 アメリカ南西部の農民達の窮状調査。
 この活動はニューディール政策の宣伝の意味が強かったのだが、写真史の世界では「アメリカン・ドキュメント」と呼ばれ、20世紀初頭、ルイス・ハインなどによって始まった社会的ドキュメンタリーの延長線上にあった。
 FSAの活動は、第二次大戦最中まで続けられたが、のべのネガ枚数は20~27万枚に及ぶという。
 それはドキュメントというにとどまらず、ある種アメリカのイコンになっていた。
 最も有名なそれは、ドロシア・ラングの「MIGRANT MOTHER, NIPOMO,CALIFOLNIA,1936」であるかも知れない。
 が、これは誰が撮ったものだろう。
 金網に手をかけるひとりの少女の写真があって、彼女は笑っていたりもする。