2015年09月07日
2005年12月16日
「緑色の坂の道」vol.3571

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■パーソナルアドカード 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
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2005年12月12日
「緑色の坂の道」vol.3560

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■パーソナルアドカード 「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
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「緑色の坂の道」vol.3559
- BREAKFAST AT TIFFANY'S -
「甘く苦い島 - Insula Dulcamara 」
■「ティファニーで朝食を」の設定が1943年。
そのときホリーは20歳になったばかりだった。
カポーティは作中で暗示するにとどまるが、ホリーは1930年代の不況に家族が離散した後取り残された白人小作農家の子供である。
訳者の龍口氏はそれを「捨て子」と表現しているが、そこに親の意思があったかどうかは定かではない。
弟は軍にゆくしかなく、その後戦死する。
そして姉はと考えてゆくと、なんのことはない。
例えば日本でも昭和初期、冷害のために身売りをせざるを得なかった東北の娘達と随分のところで重なっていることに気がつく。
■ ある晴れた朝、目を覚まし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね。(前掲:58頁)
これは、本作の中で最も有名な台詞だろう。
もちろん、ティファニーの中で食事をすることはできないが、例えば東京にある同名のそこから窓の外を眺めると、不当というべきか都会だからというべきか、オレンジ色の牛飯の看板が目に入ったりする。
私は何年か前、若いカップルでごったがえすそこで憮然としていた覚えがある。
ちょうどクリスマスが近かった。
NYの本店では、確か売り子の人たちはガラスケースをあける権利を持っていず、高額な商品を見せてもらうにはいちいちフロアの責任者が鍵をあけなければならない、という話を読んだ覚えがある。本当かどうか確かめてはいないが、何ティファニーに限ったことではない。
十何年。わしが望むのは、あの娘が金持になっていてくれればいいってことだけだよ。(前掲:16頁)
NYの街角のバーの親父、ジョー・ベルはそういう。
ホリーをアフリカで見かけたという噂を耳にして、二人の男は酒を飲む。
半ばロマンチックな設定なのだが、金持にというところが俄かに具体的だった。
―――――――――――――――――――――――――
■ 随分と長く、この作品に絡んで書いてきた。
当初、軽いお伽話かと思って読んでいたのだが、どうもそうでもなく、魅力的だがとても厄介な妙齢に知り合ったかのような気分もある。
それはNYやアメリカについても同じだった。
先の緑坂に記載した、農業安定局 FSA の記録がアメリカのサイトで公開されている。
私はあまり外部にリンクを貼らないのであるが、この場合は例外として紹介してみることにする。
・「アメリカン・メモリー」
・その中の「Documenting America」
・例えばドロシア・ラングの「MIGRANT MOTHER, NIPOMO,CALIFOLNIA,1936」
・同様に当時のNYを記録したものはこちらである。撮影ウォーカー・エバンス。
ここからまた、いくつもの物語も読めるのだが、別の機会に書くことにしたい。
「緑色の坂の道」vol.3558
- BREAKFAST AT TIFFANY'S -
摩天楼まで。
■ NYについて触れる時、結局は1920年代から30年代にかけての狂乱と、大恐慌を背景にしなければならないのだろうという感触を私は持っている。
例えばクライスラー・ビルの完成は1930年。
直後にエンパイヤ・ステート・ビルが完成するが、そのときは1929年の「暗黒の木曜日」以来の未曾有の株価低落は既に始まっている。
■ 第一次大戦後、アメリカは好景気の波に乗る。JAZZエイジと呼ばれるそれである。
失業者は減ったものの所得の格差は広がり、全体の42パーセントの年収は1000ドルにも満たなかった。ブルッキンズ研究所の報告によれば、トップにいる1パーセントの更に10分の1が、底辺を形成する42パーセントと同じ収入を得ていた。
当時のNYには貧民窟に暮らすひとびとが200万人いたとされている。
そして1929年の大恐慌がくる。
この恐慌については、別に何度も書かなければならないものだろう。
30代大統領、クーリッジは得意の名言を吐く。
「人々がどんどん職場から放り出されると失業が生じる」
「この国はうまくいっていない」
市場経済主義者というのは、外から物を言うのが得意であった。
■ 一方、1930年代にはオクラホマで大量に難民が発生していた。
小作農は土地を奪われ、25万、30万人とカリフォルニアに流れこんでゆく。スタインベックの「The Grapes of Wrath」にはこの間の事情が克明に描かれている。
小作農の中には、第一次大戦に従軍した兵士たちも多かった。
彼らは「オーキー」と呼ばれたが、当時の白人小作農たちの生活を、ニューディール政策の下、農業安定局(FSA。1937年に再移民局より改名)に雇われた写真家たちは膨大な記録に残している。
FSA、ストライカーの総括の下、ウォーカー・エバンス、ドロシア・ラングなど、5人の写真家が雇われた。後に画家となる、ベン・シャーンなどの名もある。
アメリカ南西部の農民達の窮状調査。
この活動はニューディール政策の宣伝の意味が強かったのだが、写真史の世界では「アメリカン・ドキュメント」と呼ばれ、20世紀初頭、ルイス・ハインなどによって始まった社会的ドキュメンタリーの延長線上にあった。
FSAの活動は、第二次大戦最中まで続けられたが、のべのネガ枚数は20~27万枚に及ぶという。
それはドキュメントというにとどまらず、ある種アメリカのイコンになっていた。
最も有名なそれは、ドロシア・ラングの「MIGRANT MOTHER, NIPOMO,CALIFOLNIA,1936」であるかも知れない。
が、これは誰が撮ったものだろう。
金網に手をかけるひとりの少女の写真があって、彼女は笑っていたりもする。
「緑色の坂の道」vol.3557
- BREAKFAST AT TIFFANY'S -
12月になって。
■ このところ会合が続き、薄い疲れが溜まっている。
先週までまだ青かったこちら側にある銀杏が急に色づき、もうじきばらばらと銀杏を落とす音が響くだろう。隣接したところにある教会で、今日も誰かが挙式をあげていた。
さてNYはといえば、随分寒くなっているに違いない。
■「ティファニーで朝食を」の中で、カポーティはヘミングウェイの名前を出していた。
いわゆる第一次大戦後の「ロスト・ジェネレーション」を意識し、ある面ではそれを継承しているともいえるが、元々映画のための作品でもあったから、半分はからかっているようなところもある。
文学史では有名な話だが「失われた世代」という呼び方は、ガートルード・スタインという女性が命名したことになっている。
彼女は広い意味でのパトロンヌで、パリに遊ぶ作家達のサロンの中心・女王的存在でもあった。
「You are all a lost generation.」
パリにいたヘミングウェイ達に向かって、「あなたたちはみんな、失われた世代なのよ」と言ったことになっているのだが、「陽はまた昇る」(1926)の序文にはそう記載されている。
この場合の lost という言葉には、「途方にくれた、どうしていいか分からない」という意味があり、今英語でそれを口にしてみると、案外すんなり入ってくるようなところもあって心地よい。が、半分はいい気なものだという気持もある。
■「失われた世代」について書くと長くなるので避けたいものだが、結局彼らは「自由」や「民主主義」「栄光」や「犠牲」といった抽象的な愛国心や概念、いわゆる人道主義というものが、第一次大戦という総力戦でずたずたに引き裂かれてしまったという挫折感をもとにしている。
例えば1916年、ドイツ軍がヴェルダン突破をくわだてた際には、セーヌ川沿いのフランス=イギリス連合国側は、数キロ前進のために死者60万人を出した。
60万の死者というのは、にわかに信じられない数だが、全くレマルクの書く通りの世界が広がる。いわゆる「シカゴの屠場さながら」(武器よさらば)だった。
当初アメリカでは、この戦争は不人気だった。
しかし「防諜法」などの成立を経て、国家的規模で戦争協力へのプロバガンダが繰り広げられてゆく。アメリカ防衛協会の設立。徴兵制の採択。
そのような中、ドス=パソスやカミングスら、若い作家・詩人志望者たちが競って従軍してゆく。当時、「野戦衛生隊」という組織があり、ハーバードやイェール、ブリンストン大学の卒業生の多くが「紳士志願兵」としてフランス軍に従軍した。
これは正式な徴兵制を逃れる手でもあったのだが、例えばヘミングウェイは1918年、アメリカ赤十字野戦病院の輸送車運転手としてイタリヤに渡る。
フィッツジェラルドも米軍の少尉任官試験を受けて三ヶ月の訓練を経るが、彼の場合は従軍を思いとどまっている。
戦争の後、ドルの価値は高まる。20年代、アメリカは空前の好景気を迎えた。
その金でパリに遊んでいたヘミングェイ達は、自分達が信じていたピューリタン的人道主義を疑うところから作家活動を始めてゆく。
「緑色の坂の道」vol.3556
- BREAKFAST AT TIFFANY'S -
月の河。
■ 美人は10年しかもたない。
ということを誰かが書いていた。
エリオットの詩集でもめくろうかという気にもなる。
■ オードリー・ヘプバーンは1993年1月20日午後7時、癌のために亡くなった。
晩年はユニセフの国際親善大使として、アフリカ奥地で精力的に活動し、その名声を第三世界の飢餓の救済、その広報活動に費やした。
とは言っても、いわゆる南北問題を社会・政治的な立場から語った訳ではない。
存命の頃の映画雑誌などを見ると、オードリーは貴族の血を引いていることが強調されている。「ローマの休日」で一躍世界にデビューした彼女には、そういう物語が必要だったのかも知れない。
が、オードリーの父は大戦中、黒シャツを着てナチズムに傾斜していた。投獄もされる。母親も親派だったという記録もあり、戦後そのことは永くタブーとされていた。
必ずしも精神的に恵まれた少女時代ではなかったというのが一般的な見方である。
第二次大戦から僅か8年。1953年に制作された同作は、監督のウィリアム・ワイラーをして「これからは胸のない女性の時代になる」と言わしめたが、スクリーンの上ではご存知の通り、一部でしかそれは実現しなかった。
「麗しのサブリナ」で共演した、ウィリアム・ホールデンとの恋。
初めての結婚は54年、俳優メル・ファーラーと。スイスでの挙式は有名である。
メル・ファーラーはある種の才人で、脚本も書けば演出もする。オードリーとは四回目の結婚だったが、その後もカトリーヌ・ドヌーブなどと浮名を流した。
流産と何度かの恋。出産と育児。
■ オードリーの子供時代の写真を眺めていると、理不尽なことだが私は、「アンネフランク」を思い出してしまった。
つまり、戦争の匂いが薄く漂うのである。
「ティファニーで朝食を」の主人公ホリーが、NYのアパートの階段で歌う。
演じるオードリー。
かつてバレーをやっていたというその脚は、今冷静に眺めるとやや膝が目立ち、ふりむいた時の首筋は、32歳という年齢しては筋がはっきりしている。
映画は原作に比べお伽話に翻訳されてもいたが、やはり何処かしら苦いものは残っている。
この小説は、誤解を恐れずに言えば一種の「花柳小説」ではなかろうか。
我が国では荷風や川端康成が描いたそれ。
あるいは「花影」などで大岡昇平さんがその系譜を継いだようなものに近い。
芸子は女給になり、そしてホステスと呼ばれるようになったが、NYではまた別のかたちを取っている。
2005年12月05日
「緑色の坂の道」vol.3543
- BREAKFAST AT TIFFANY'S -
ドライベルモット。
■ NYの街角にはいくつものバーがあって、そこには一癖もふた癖もある親父がいるという。
私は馴染んだことはないが、ヤンキーズの試合ならテレビで見た。
彼らは雇われている訳ではなく、結構勝手にやっているものだから、その歳まで独身だったりすることもある。パリ解放と等しく、離婚していたのかも知れないが。
1956年ジョー・ベルは67歳だった。
ホリーがアフリカ、東アングリアにいたのかも知れないという噂を聞き、ポールを呼び出して作った酒が「ホワイト・エンジェル」である。パーティパンチとは異なる。
ジンとウォッカだけでつくるのか、それでどうしろというんだ。
■ どうもしない。
ただ酔えばいいのだという気分の時、マティニに入っているオリーブが邪魔になることが時々ある。
ジャック・レモン主演の「アパートの鍵貸します」の中で、時間の経過をはかるのに、オリーブを刺してあった楊子を並べる場面があって、つまりはまあ、泥酔ですな。
今回「ティファニーで朝食を」を再読すると、ところどころに酒と煙草、多くは葉巻だが、が効果的に使われていることに気がついた。
マティニを三杯飲んで随分と千鳥足になっている場面。マンハッタン。軽くバーボンを注いでいるところ。お祝いにはシャンパンで。
仮にシャンパンが余ったら、葡萄酒のかわりに肉料理に使うといい。クリスマスにあける、安手のものでは味が出ない。消えてなくなりそうなものほど、無駄があってもいいのだろう。
映画の中で「私」こと売れない小説家ポールは、妙齢本格派の燕のような設定になっている。何で食べているのか、そのリアリティを出そうとしたからだろう。
ポールを演じたジョージ・ペパードは当時33歳。
「ローマの休日」のグレゴリー・ペック程の背丈と見た目の知的さには欠けるが、笑うといかにもハリウッド伝統の色男として、オードリーのエスコート役には相応しかった。
彼もアクターズ・スタジオで演技の勉強をしている。ロマンスからハードボイルドまで、演技の幅は広い。
服装の好みもよかった。
例えば原作で、ポールがブルックリン近くで地下鉄に乗っているという記述がある。
就職の面接に出向き、それがはかばかしくなく、また43年というのは第二次大戦の最中であるから、ふらふらしている男には徴兵の声もかかっていたのだ。
プレスの効いたヘリンボーンなど着れる訳はないのだが、そこは映画の世界であろうか。まずは絵にならなければ仕方がないのだ。
■ ここで緑坂妙齢読者のために薀蓄をすこし。
マティニとは、いわゆるカクテルの中の定番と言われるもので、「マルチニ」「マティーニ」「マテニ」など、いくつもの発音がある。
基本はジンとドライベルモット。
バーテンダーというのは、客の顔をみて作るものであるから、放っておくとジンはその店で何時も使っているものになる。ベルモットも同じだ。
貴女はそういうことはないと信じているものの、甘いそれが次第にまとわりつくように感じた場合、まずはベルモットの銘柄を変えてもらう。
どれ、と商品名を口にするのは品がないので、すこし甘くないものなどと言う。
それで、イタリアのものではない緑色の瓶が出てきたらその店はとりあえずである。
ジンは何にしますか、などと聴かれても、レディは答えてはいけない。
まして「ジンの濃縮くれ」などと言ってはいけないのである。
2005年12月04日
「緑色の坂の道」vol.3542

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「緑色の坂の道」vol.3541
- BREAKFAST AT TIFFANY'S -
融ける雪のように。
■ と、ここまで書いて、私はすこしうんざりしているようだった。
十二月だからからも知れない。
もっと軽く触れておけばよかった、という気もしないでもない。
東京は銀杏が色づいている。
神宮の辺りには、まだ、日のある時間に近寄ってはいなかった。
外苑西通りの外れ、プラチナ通りと呼ばれるその辺りを広尾方面に下った。趣味のいい名前ではない。午後の日差しは金色であり、銀杏の背が思ったよりも高いことに気がつく。ビルの影になっている樹だけが、まだ緑色のままだったりした。
一本違うだけなのにこうして差がつくのだ。と思いながら、車のガラスは汚れている。
■ こうなったのも、ただ悲しみが原因なんですよ。
と、ブラジル人の外交官、ホセは言う。ホリーは彼と同居しそのうちに妊娠する。
小説で「私」ことポールとホリーは、決して恋人同士にはならなかった。寝なかったのである。
一般に、今付き合っている男のことをいちいち報告してくる女性というのはいるものだ。過去の男の数をホリーのように正直に告げる。だがそれも、数え方次第である。
聞いている男友達は、大抵、彼女に一定の部分で振り回される。
それを半分は楽しんでいるようなところもあって、手のかかる猫の相手をしているような気分にもなる。
何故一歩を踏み出さないのかと自問しても、はっきりした答えは出てこない。
まだ自分が何者でもないとき、つまりはやや長い青春の終わりなどにそうした女友達は際立つ。
ホリーは自らの性格から事件に巻き込まれる。新聞沙汰になり取調べを受ける。
そして遊園地で落馬し、流産してしまう。
体面を気にするホセはブラジルに去っていった。実は本国に家族もあったのだ。
NYには雑多な人種が住んでいるが、アメリカ社会におけるブラジルなど中南米の人々の位置づけは微妙であり、場合によると黒人よりも屈折した立場にあるものだという指摘を、80年代にNYに住んでいた大学の教員が書いていた。
■ 女は口紅をさしてからでないと、こういう手紙は読まないことにしているのよ。
(前掲:139頁)
ホセからの手紙を預かってきたポールの前で、ホリーは強がりをいう。
それから拳を口の中に入れて泣くのをこらえる。
女性の会話の旨い作家というのがいて、その理不尽さ、感情の脈絡のなさ、可愛さ、愚かさなどを端的に書き留める。
ヘミングウェイやフィッツジェラルド、あるいはチャンドラーなどもそうだろうか。
今いくつか覚えている台詞を書き写そうとも思ったが、それも野暮なことだろう。
車はスパニッシュ・ハーレムの路傍にとまった(略)。歩道には果物の皮だの新聞紙の屑などがいっぱい散らかっていて、それが風に舞っていた。雨はやんだが、風はまだ強く、ところどころ雲の切れ目から青空がのぞいていた。
(前掲:152頁)
この場面の短い風景描写は美しい。
小説の終わり近く、ホリーが飼っていた猫を放そうとする。
映画ではこの後、ホリーとポールは雨の中でキスをするのだが、小説はよりリアルに何事も起こらない。彼女はひとりブラジルへ旅立つ。
それから10数年を経て、こんどはアフリカで彼女をみかけたという噂を耳にする。
